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屍肉の森  作者: 有辻法信
序章
1/9

冬の訪問者(1)

 ——一三四七、冬。北方のある漁村で。




 冬のガダー海は、日のあるうちから灰色だった。北から吹き下ろす風が海面を撫でると、水平線に低く垂れている鉛色の雲に白く砕ける波が被さる。こういう日は魚も深いところへ引っ込む。村の漁師たちは昼過ぎには船を浜へ上げ、濡れた網を物干しに掛けた。あとは家に帰り女房の小言を聞くか酒場で安い蒸留酒を飲むかのどちらだろう。


 村外れに住む老人はそのどちらでもなかった。古い船板を繋ぎ合わせて作ったかのような小屋の戸口の脇には、薪よりも空瓶の方が多く無造作に積まれていて、老人はそこで一人ひっそりと暮らしている。


 老人は自分の名前をバーデンと言ったらしい。いつからか村に流れ着いて、住民が波に飲まれ空き家となったあばら小屋で勝手に住み始めた。歳は八十は越しているらしいが、これも正確なことを知る者はいない。背が高く、肩と胸にはかつて大男だった名残が残っているものの、肉は落ち、頬は深くこけ、顔を覆う白い髭の奥には酒焼けした赤い肌が垂れている。それでも村の若者が二人でやっと持てるほどの薪束を一人で運ぶことがあり、酔って喧嘩を売ろうとする者はいなかった。


 舟の荷揚げや、女しかいない家の力仕事を手伝うことで日銭を稼ぐとそれを貧相な飯と酒代に全部使う老人が、元はどこぞの兵士か傭兵だということを察するのは難しくない。両手には刃物か何かでできた傷が幾重にも走っているし、肌のあっちこっちにも槍や火による傷が無数にあった。老人も否定しなかった。

 

 まれに日銭を多く稼いだ日には酒場に顔を出し、酔うと昔の話を語ることがあった。どこで誰のもとで従軍したのかと聞くと、答えはその都度変わったため、まるっきり信じる村人はあまりいない。それでも娯楽の少ない寂れた漁村の酒場で肴にするには、ちょうど良い英雄譚だった。若い漁師は面白がって聞き、年寄りは聞き流した。

 

 バーデンの話に森が出ないことに気づいたのは、彼の話を最も多く聞いている酒場の主人だった。それで老人の不思議な行動が話題になったことがあった。老人が住む小屋の裏手には低い丘があり、その斜面には痩せた松の森がある。薪に使う小枝を拾うにはちょうど良いはずなのに、老人はわざわざ海沿いを歩きながら浜へ流れ着いた流木ばかり拾う。彼が森を嫌うことは明らかだった。しかし酒の席での話題にすることはあれど、わざわざ理由を訊く者もいなかった。辺境の村に流れ着く余所者には、往々にして()()()()()()()を持つ者が多い。それを無理に知ろうとしないことが、僻地に住む人々なりの知恵だといえよう。


 夜の帷が降り、徐々に風の音が荒々しくなるのを聞きながら、バーデンは暖炉の火に鉄鍋をかけていた。塩で乾燥させたかぶと玉ねぎ、鱈を刻んで入れただけの汁物で、鍋の底にこびり付いたものが焦げる臭いが先にした。老人は暖炉の前で妙に新しい椅子に腰を沈め、酒を瓶のまま飲みながら火を睨んだ。湿った薪が火の粉を弾く。老人は顔を歪めた。

 

 赤く焼けた金床がまず見えた。それから床に転がる槌、濡れた革の臭いに汗の臭いが混じる。火を見ていると、忘れていたものが徐々に見えて、聞こえて、匂ってくる。そのうち思い出しくないものまで感じられる。自分を呼ぶ声。バーデンではない、別の名前。


 名を捨てれば過去も捨てられると思った。しかし記憶の底で濁っているそれは、ふとした瞬間に浮かんでくる。名前がまず真っ先に聞こえてこようとする。すると老人は決まって、目を閉じて酒と共にそれを底へと底へと流して落とす。


 鍋が沸騰して吹きこぼれる音と、戸を叩く音が重なった。


 バーデンは最初、薪が弾ける音だと思ったが、しばらくしてまた戸板を叩く音がした。瓶を卓に置いて、戸を睨みながらゆっくりと立ち上がる。村の漁師の中で、こんな時間に村の外れをうろつく者なんていないし、この小屋を訪ねるとなるとなおさらいない。また戸板を叩く音がした時、老人は暖炉脇の棚から薪割り用の鉈を手に取った。


 「誰だ」と声を張り上げると返事らしきものが聞こえてきたが、激しい風の音に紛れた。バーデンは鉈を隠そうともせず戸までゆっくり近づき、閂を外した。戸を開くと剃刀のような北方の風が雪と共に雪崩れ込んでくる。背後で暖炉の炎が少し揺れる気配がした。外には一人の男が立っていた。


 「こんばんは」


 男は寒さなど微塵も感じていないという風に、穏やかに笑っていた。全身を覆う灰色の外套、裾が肩口まで垂れ下がる黒の頭巾、肩から提げている革の鞄。どれにも白い雪が薄く積もっている。髭を綺麗に整えている顔は若そうに見えたが、妙に歳を取っているようにも見えた。


 「お前は誰だ」

 「村の宿で泊まっている者でして、浜辺をうろうろしていたのですが、冬の北方は夜が早いですね。灯りが見えたので来ました」

 「宿はここから海沿いで西に行けばある」

 「しかし吹雪のせいで右も左も分からない状態でして」


 バーデンは男の肩越しに外を見た。吹雪は冬の夜を覆い尽くそうとする勢いで吹き荒んでいる。しかし方向が分からないと言うのは大げさだし、狭い村の中にある酒場兼宿まで辿り着けないはずもない。追い返そうかと思っていたバーデンの目は、男が肩に提げている鞄に向けられた。鞄の底が丸く沈んでいた。

 

 「酒はあるか」老人が訊くと、男は鞄を軽く叩いた。

 「武器はあるか」男は答えの代わりに外套を開いてみせた。

 「薪を割るための短刀くらいなら鞄の中にありますが」

 「入れ。凍死しない程度の暖なら取れるだろう」


 男は礼を言いながら雪を払い中に入った。外套と頭巾を脱いだ姿は旅の僧か学者という感じだった。明るいところで見ると、外套もその下の服も上等な生地だということが分かり、僧よりは学者だろうと思った。バーデンは寝台の横に置いてある古い椅子を持ってきて暖炉脇に寄せた。椅子に座った男はまるで決まった儀礼だというふうに両手を暖炉に向けたが、その視線は室内を眺めていた。それは物珍しさというより、知っていることを確かめているように見えた。


 「酒があると言ったな」自分の椅子に座りながらバーデンが聞くと、男は鞄から酒の瓶を出した。老人の口から呻きが漏れる。数十年は見たこともないまともで上等な酒だった。


 「どうぞ。私は酒を飲まないので」

 「ならなぜ持ち歩く」

 「こういう時のためにです」

 

 老人は鼻で笑い、渡された酒をそのまま一口呷った。芳醇な香りの後に喉が焼けるような強い刺激が来たが、上等な酒はそれすら上品な刺激のようだった。


 「それで、お前はなんだ」

 「テオフラストゥスと言います。テオとお呼びください。バイハルト大学で歴史と文学を講じています」

 

 それは北方山脈の南向こう、エーデルラント公国の首都にある大学の名だった。なるほど、高そうな身なりに相応しい身分だった。


 「公国随一と言われる大学で教鞭を取る学者が、こんな辺鄙な漁村になんの用がある」

 「すでにお察しでは、()()()()殿()


 老人は男——テオを睨みながら、静かに酒瓶を卓に置いた。

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