ウルバン(3)
詰所を出ると間もなく、城門の方で鐘が鳴った。夏の間だけ、日が西へ傾き始める頃に鳴る休憩の知らせで、少し間延びした打ち方をするのが特徴だ。一度目が鳴ってから百ほど数えた頃にもう一度、それからまた同じくらい経って最後の一打が響く。その間、畑では鍬を置いて水を飲み、市場の商人は腰を伸ばす。ウルバンも普段なら炉から離れ、煤と汗で濡れた顔を拭って、水桶へ手を伸ばしていただろう。
この鐘を聞くと、まだ日は高くとも、そろそろ一日の仕事を片づけることを考え始める。
三度目の鐘が鳴った時、ウルバンはちょうど礼拝堂の前を通り過ぎていた。開け放たれた扉の向こうを、見るともなしに覗くと、今日も中は人で一杯だった。蝋燭の明かりが祭壇の奥で細かく揺れ、その手前には祈る人々の背中がいくつも並んでいる。領主様の奥方様も、今日また祈りに来ているのだろう。もともと信仰心の深い方ではあったが、エッカルトが城を出てからというもの、毎日欠かさず礼拝堂へ足を運んでいると、母のヒルダから聞いたことを思い出した。
家に帰りながら、ウルバンは先ほどマッツから聞いたエッカルトの話を考えた。どうやらクーノを連れて、どこかへ行ってしまったらしい。何をしているのだろう。奥方様があれほど心配しているというのに、本人は今も変わらず、あちらこちらをふらふら歩き回っているようだ。
「まあ、僕が気にしても仕様がないか」
ため息と一緒にそう呟いて、ウルバンは空を見上げた。朝から薄い雲がかかったままで、太陽は見えていても、その輪郭は白くぼやけている。風も弱かった。暑いわけではないのに、空気が妙に身体にまとわりつくような気がした。
それに、詰所で聞いたエッカルトや北の森の話もある。考え始めれば、せっかく早く帰れるというのに気が重くなりそうだった。ウルバンは意識して背筋を伸ばし、胸いっぱいに息を吸った。それから少し大袈裟なくらい腕を振って歩いた。身体を動かしていれば、余計なことを考えなくて済む。
そうやって前だけを見て歩いているうちに、城門が見えてきた。
見覚えのある二人の後ろ姿が、ちょうど城門を通ろうとしている。ベンノの娘で、普段は酒場で働いているカーヤと、古着商の娘のミアだった。カーヤは陶器の壺を両腕に抱えていて、ミアは畳んだ布を腕に載せている。
ウルバンは思わず足を緩め、大きな手で上衣の胸や肩を何度か払った。それから頬と髪にも手をやる。仕事を終えて一度は洗ったものの、まだどこかに煤が残っているような気がした。カーヤなら何を言われても気にならないのに、ミアの前では妙に恥ずかしい。
「あら、ウルバン」
衣服を叩く音で気づいたのか、こちらから声をかけるより先にカーヤが振り返った。同時にミアもこちらを向き、ウルバンを見つけると柔らかな笑みを浮かべた。
「家に帰るの? 早くない?」
近づいてきたウルバンをぐっと見上げながら、カーヤが聞いた。
街の男たちの中でも背が高く、鍛冶仕事で肩や腕にも厚みのあるウルバンの前に立つと、小柄なカーヤはいつもこんな姿勢になる。以前など「話すだけで首が痛くなる」と、まるでウルバンに責任があるような文句を言われたことさえあった。
「うん。親方が腰を痛めてね。今日はもう閉めるって」
「また?」
ミアが心配そうに眉を下げた。
「大丈夫そう?」
「どうだろう。この前みたいに、一週間くらいはかかりそうだけど」
「ハイコおじさんも、もう潮時ね」
カーヤが、先ほどベンノから聞いたのとよく似たことを言った。
「どうせ子供もいないんだし、ウルバンに譲って隠居すればいいのよ」
それはさすがに言い過ぎだと思ったが、ウルバンは反論しないことにした。ハイコ親方はベンノ団長とは古い友人で、カーヤにとっては親戚のおじさんのような存在でもある。ウルバンとも子供の頃から兄妹のように育ってきたカーヤが、この手の話になると少しきついことを言うのは昨日今日のことではなかった。
それに、面と向かって反論したところで勝てる気もしない。
そんな自分が少し情けなくなったところで、ふとミアと目が合った。こちらの内心を見抜いたのか、彼女は声を立てずに笑っている。ウルバンも困ったように笑い返した。
「ちょうど良かったわ。これ持って」
両腕に抱えていた壺を突き出しながら、カーヤが言った。
「なに、これ?」
「葡萄酒から作った酢。うちの店で料理に使ってるやつよ。昨日、少し分けてくれって、ヒルダさんが女将さんに頼んでたみたい」
そういえば母が、酢を使い切ってしまったとか何とか言っていたような気がする。壺を受け取り、ウルバンは「ありがとう」と言った。
「じゃあ、僕の家に行く途中だったのか」
「そう。ミアもね」
隣を見ると、ミアは腕に載せていた布を少し持ち上げた。生成りの前掛けだった。端の擦り切れたところが、新しい糸で丁寧に縫い直されている。どこかで見たことのある染みや擦れ方だと思った。
「ヒルダさんの。頼まれてたところを直したの」
「ああ、そうか。ありがとう」
それも受け取ろうとウルバンが手を伸ばすと、ミアは小さく首を横に振った。
「ううん。自分で渡すから」
「そうだね。じゃあ、立ち話はやめて行こうよ」
カーヤが先に立って歩き出し、ミアがすぐ隣へ追いついた。
壺は自分が持っているのだから、カーヤはもうわざわざ家まで来る必要はないのではないか、とウルバンは思ったが、口には出さなかった。言えばたぶん、「あんたの家に用があるんじゃなくて、ヒルダさんに用があるの」と返される。それくらいは分かっていた。
三人でしばらく歩いていると、カーヤが何気なく振り返った。
「仕事が早く終わって体力余ってるなら、夕方に店へ寄ってくれる? 頼みたい力仕事があるんだよね。晩御飯出してあげるから」
「いや、今日は夜番だから難しいかも。でも余裕がありそうだったら行ってみるよ」
「夜番って、昨日もやってなかった?」
「昨日は夕方の見回りだけ。今日はマルコと代わったんだ」
カーヤの足が止まった。
「……マルコと?」
「う、うん。用事があるって言うから」
低い声で聞くカーヤに、ウルバンは唾を飲み込みながら答えた。
「今日の夜番、あいつだったの?」
声が一段低くなる。
隣でミアが困ったようにウルバンを見る。それでウルバンは自分が何を言うべきかを決めることができた。
「でも、僕は今日は早く上がれたし、本当に平気だから」
「そういう問題じゃないのよ」
カーヤは眉を寄せたまま前を向いた。肩まである栗色の髪が、勢いよく顔の横で揺れる。怒っているのは間違いないが、頬が僅かに赤くなっているのは、それだけが理由でもないらしい。
「……今日、店を閉めてから会う約束してたの。今日が番だなんて、そんなこと一言も言ってなかった」
「ああ……」
なるほど、と口に出しかけて、ウルバンは飲み込んだ。
ベンノがマルコをあまり良い目では見ていないため、カーヤとマルコが人目を忍んで会っていることを、ウルバンとミアだけは知っている。だからマルコが無理にでも番を変えて欲しいと頼む理由を、ここにいる三人はちゃんと理解していた。
「悪気はないと思うよ。ほら、自警団も今は人手不足で、マルコも最近夜番が多くて、忙しそうにしてたから」
「分かってるわよ。だから腹が立つの」
ウルバンには、その理屈が少し難しかった。
何か言った方がいいのかと思ったが、さらにマルコを庇えばカーヤの機嫌を悪くするだけのような気もする。迷った末に、隣へ視線を逃がした。
ミアが声を殺して笑っていた。
「何?」
「ううん。ウルバンらしいなって」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
ミアがこちらを見上げる。カーヤよりやや明るい茶色の髪が頬にかかり、その向こうで柔らかな目元に笑みが残っていた。
何が自分らしいのかは結局分からなかったが、ミアが楽しそうなら、それ以上尋ねなくてもいいような気がした。
そう思った途端、自分がそんなことを考えたのが妙に恥ずかしくなって、ウルバンは抱えた壺へ目を落とした。
「……夜番、眠らないようにね」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「たぶん」
今度はミアが声を上げて笑った。ミアにつられて、ウルバンも笑った。
カーヤはそんな二人を横目で見たものの、何も言わなかった。ただ、さっきまでの怒った顔が少しだけ別のものに変わり、何か言いたそうに口元を綻ばせている。
ウルバンはそれには気づかなかったことにした。
三人で並んで家への道を歩く。
ミアの笑い声を聞いているうちに、さっきまで頭の隅に引っかかっていたエッカルトのことも、北の森の話も、ほんの少しだけ遠くなった。




