ウルバン(4)
家に着くと、戸を開ける前から煮物の匂いがした。
ウルバンが身体で戸を押し開けると、ヒルダは炊事場の火の前に腰を屈め、鍋の中を木杓子で掻き回していた。入ってきた三人を見るなり、ウルバンが持っている壺に目を留め、それからカーヤを見た。
「ああ、持ってきてくれたのかい」
「うん、女将さんから。頼んでた酢」
ヒルダの目配せに従って、ウルバンは壺を卓の端に置いた。
「助かったよ。肉を煮るときに欲しくてね」
「うちじゃ余るくらい作ってるから、またなくなったら言ってよ」
「ああ、恩に着るね」
その横でミアが前掛けを差し出した。
「ヒルダさん。これも」
ヒルダは「ありがとう」と言いながらそれを受け取り、縫い直された端を指先で丁寧になぞった。目を細め、裏返し、また表へ戻す。
「こんなに綺麗に直してもらって、ありがたいね。私の目じゃ、もうこんなに綺麗には縫えないからね」
「母さん、新しい前掛けくらい僕が買ってあげるよ」
「あんたは黙って貯めておきなさい。自分の店とか、嫁さんを貰うとか、いろいろあるでしょ」
「……うん」
前掛け程度ならいくらでも買える、という言葉はついぞ出せなかった。そこでようやく、ヒルダは息子がいつもより早く帰ってきたことに気づいたようだった。
「あんた、今日はどうしたんだい」
「親方が腰を痛めたんだ」
今日何度目かになる説明をした。
「それで、早く閉めることになったよ」
「またかい。あの人も仕事を抱えすぎだからね」
「しばらくは僕に任せるかもって話になった」
その言葉に、カーヤとミアが少し驚いた顔でウルバンを見た。ヒルダも目を丸くして息子の顔をじっと見つめ、やがてほんの少しだけ笑みを浮かべながら鍋へ視線を戻した。
「そうかい。しっかりやりな」
「うん。ありがとう」
しばらく四人で他愛のない話をして、カーヤとミアは帰っていった。二人を戸口で見送ったウルバンは、城門へ通じる道の向こうへ姿が消えるまで、その後ろ姿を眺めていた。途中でミアが一度だけ振り返り、小さく手を振る。慌てて振り返したウルバンは、ミアは今夜何をするのだろうかと、ふと思った自分が恥ずかしくなった。
家に戻ると、ヒルダが意味ありげにウルバンを見ていた。「何」と聞いても答えてくれず、何でもないような顔をして鍋に酢を入れた。
夜番まではまだ間があり、特にやることもなかったため、ウルバンは家の裏へ回った。朝のうちにやっておくはずだった薪を何本か割り、水桶もいっぱいにしてから中に戻ると、ヒルダが鍋から木椀によそったものを卓に置いた。小麦に豚肉と玉葱、蕪などを一緒に煮込んだものだった。
「夜番の前に食べておきな」
「母さんは?」
「後で食べるよ」
「一緒に食べればいいのに」
「私にはまだ早いのよ」
それもそうかと思って、ウルバンは卓に座り、匙を取った。
腹が減っていたこともあって、あっという間に半分ほどを平らげた頃だった。
外で何か音がした。
犬が吠えている。
一匹ではない。近くで一頭が鳴いたと思えば、少し離れたところで別の犬が応じ、それが次々と重なっていく。
何だろうと思った次の瞬間、人の悲鳴が聞こえた。
ウルバンは匙を置いて戸の方を見た。ヒルダも不安そうに眉を寄せ、息子のそばまで来る。
「何だい?」
訝しげに尋ねる母に答えられるはずもなく、ウルバンが困惑していると、今度は通りを走りながら叫ぶ男の声がした。それを追うように、女の悲鳴や何人もの騒ぐ声が聞こえてくる。
「おい、兵士さん! 来てくれ、大変だ!」
そうだ。先ほど走っていった男は、確かにそう叫んでいた。
ウルバンは卓から立ち上がると戸を開け、外を覗いた。彼と同じように何軒もの家から人が顔を出し、何事かと不安そうに辺りを窺っている。向かいの女に何があったのかと聞いてみたが、彼女も分からないらしく、ただ青ざめた顔で首を横に振った。
間もなく、がちゃがちゃと鱗状の甲冑を鳴らしながら、門番のオットーが先ほどの男に連れられて目の前を駆け抜けていった。
城の兵士の中でも古参で、毎日のように門を行き来するウルバンとは顔馴染みだった。いつもなら少しくらいの揉め事には眉一つ動かさず、酔っ払いを追い払う時でさえ面倒臭そうな顔をしている男だ。そのオットーが、今は槍を握ったまま、見たこともないほど緊張した顔で走っている。
尋常ではないことが起こっている。
そう直感して、ウルバンは家の裏手へ走り、薪割りに使っていた斧を取ってきた。少し大袈裟な気もした。だが自警団で使う槍は詰所にある。今すぐ武器に使えそうなものは、これしかなかった。
「見てくる」
そう告げると、ヒルダは一瞬、何か言いたそうな複雑な顔をした。それでも止めようとはせず、すぐに「気をつけて」と言った。
ウルバンは頷いて家を飛び出した。
先ほどオットーが走っていった方向へ向かう。斧を握った大男が通りを駆けてくるのを見て目を見張る者もいたが、すぐに自警団の若者だと気づいてくれたらしい。そのうちの一人が、北東の風車の方だ、と指を差して教えてくれた。同時に、その方角から騒がしい声が幾重にも重なって聞こえていることに気づいた。
風車へ続く道には、すでに多くの人が集まり始めていた。何が起きたのかと走りながら聞いても、誰も正確なところは知らず、口にすることもばらばらだった。ただ、その中の一人が「人殺しだ」と言ったのを聞いて、ウルバンは斧の柄を握る手に力が入るのを感じた。
「おい! 下がれ!」
オットーの怒鳴り声がした。
風車が見えたのとほとんど同時に、ウルバンの目に信じ難い光景が飛び込んできた。
石壁の下で、一人の男がもたれかかるように座っていた。若い女がその傍らで膝をつき、血に濡れた布を男の肩へ必死に押し当てている。裂けた上衣の下から、何本もの赤い傷が覗いていた。
そこから少し離れた道端では、別の男が二人がかりで抱え起こされていた。腿から脇腹まで服が裂け、血が滴っている。ひどい傷だったが、男はまだ呻き声を上げていた。
そして、その向こうにもう一人いた。
動いていなかった。
仰向けに倒れた男の腹から胸にかけてが、何か荒々しいもので掻き切られたように裂けて、腹の中身が垂れ流しになっている。
何だ、これ。
そう思った時、再びオットーの怒号が響いた。
「止まれ! この野郎!」
道の真ん中にで、ある男がオットーと取っ組み合っている。
オットーの槍が、その男の胸の真ん中近くまで深く突き刺さっている。それでも男は倒れていなかった。槍の柄を両手で握ったオットーが、腰を落として全身で押し返しているが、それでも押されている。
男の服は泥と血で汚れ、あちこちが裂けていた。その裂け目から、肉とは違う何かが覗いている。
黒い、糸?
ぬらぬらと濡れた粘液に包まれた、筋とも蔓ともつかないものが、傷口の奥でゆっくりとうごめいていた。何本もの細い組織が、それぞれ勝手に縮み、絡み合い、裂けた身体の内側を這い回っている。
「なんだ……あれ……」
声が自分のものかも分からなかった。
「ウルバン!」
声に気づいたオットーが振り返り、ウルバンを見ると叫んだ。
その瞬間、男が槍を握った。胸を貫かれているのに。両手で柄を掴み、引く。
「ぐっ……!」
オットーの身体が前に持っていかれる。
「後ろ! 頭をやれ! 早く!」
「えっ——」
「早くしろ!」
何をどうすればいいのか分からなかった。
男はオットーへ噛みつこうとするように顔を突き出している。オットーが必死に槍を押し込み、その顔を近づけまいとしていた。
ウルバンは走った。背後へ回り、斧を持ち上げる。
その時やっと、男の顔を見た。
顔中が黒い粘液と血で覆われ、左目が潰れている上に口が裂けて顎が垂れている。しかし見覚えのある顔だった。エッカルトとしょっちゅう一緒にいた男だ。名前はなんて言ってたか、狩りをする男だったはずだ。
——この街の人間だ。
その頭に斧を振り下ろすのか。
「ウルバン!」
オットーが叫んだ。
男の口が開く。黒い粘液が唇の間から糸を引いて、それが今すぐにでもウルバンを目掛けて飛び出しそうな、そんな感覚がした。
ウルバンは目を閉じるようにして斧を振った。
刃が頭へ食い込んだ。嫌な感触が腕へ伝わる。
何かが弾ける感じがした。頭から黒いものが飛び散り、ウルバンの頬と手の甲へかかった。
「うわっ!」
思わず斧から手を離して後ずさった。
ぬるい。血よりもずっと粘ついている。
手の甲へ落ちた黒い滴が、糸を引きながらゆっくりと形を変えた。
動いた。
そう見えた。まるで小さな虫のように、皮膚の上を這おうとしている。
「ひっ……!」
ウルバンは悲鳴を呑み込み、無我夢中で腕を振った。黒いものが石畳に散り飛ぶ。
その間に男が倒れた。頭を割られたまま、石の上へ崩れ落ちる。
「ヨストのやつ。一体どうしたんだ」
槍を構えたまま一歩下がったオットーが、そう震える声で吐き出した。そうだ。そういう名前だったはずだ。狩人の、ヨスト。
だが、それで終わらなかった。
ヨストの身体の裂け目から黒いものが溢れ始めた。
肉も、皮膚も、その下にあるはずの骨までが、内側から溶かされるように形を失っていく。黒い粘液と組織が互いに絡まり、蠢きながら人間の輪郭を食い潰すと、地面に抜けるように消えていく。
ウルバンは呆然としてただ見ることしかできなかった。オットーも同じで、槍を前に突き出した姿勢でただ目を見開いている。
やがて、そこにいたはずの男は消えた。石畳の上に残ったのは、糸を引く黒い泥だけだったが、それもやがて跡形もなく消えた。
完全に消える直前にそれが何か悲鳴をあげたような気がした。




