ジークムント(4)
「何か、お悩みのようですな」
アンスヘルムに言われ、ジークムントは顎を撫でていた手を止めた。悩んでいたつもりはなかったが、彼からすれば、どこを見るともなく黙っている大男の姿はそう映っていたのだろう。
「悩んでいるというより、不可解だと思っている」
「と申しますと?」
「俺が男爵に呼ばれた理由は知っているか」
老人は表情を曇らせ、ゆっくり頷いた。
「この時期にあなたのような方がこの地を訪れる理由は一つしありますまい。北の森、グラーヴァルトのことですな」
「ああ」
ジークムントは頷いた。
「起きたことの話だけ聞くと、これは魔物の仕業だろうと思った。最初の狩人の件だけならともかく、騎士を含めた七人が一人も生還できなかったというのは、普通の獣によることだと考えにくい」
「では、やはりあの森に魔物が」
好奇心とも恐れともつかぬ顔をして、老人は唾を飲み込んだ。
「ただし、男爵からこの土地について聞いた限りでは、魔物が生まれる場所には思えなかった。貴方の話を聞いてもそれは変わらない。この地でラントヴァルクが仕事をした記録も、少なくとも貴方は知らない」
「そうですな。三百年前の者も、ここは通っただけです」
「なら訊きたい。時代は関係ない、グラーヴァルトを中心に、残酷な死が続いたことがあるか。あるいはあの森が呪われているという類の話でも良い。森に入ると死ぬか病になる、行方が分からなくなるといった類の話だ」
アンスヘルムは白い髭を掴んだまま考え込んだ。ときおり家を埋め尽くしている書物の山に目を向け、何度も呻き声を漏らしては、やがてゆっくりと首を横に振った。
「わたしの知る限りでは、ありません。あの森は昔からホルツドルフの者たちにとって生活の場です。狩りをし、木を伐り、薬草と野草を採る。森へ入ることを禁じるような話は聞いたことがありません」
予想した通りの答えに、ジークムントはただ頷いた。男爵との話で受けた印象とも一致する。
「グラーヴァルトやホルツドルフに限った話ではありません。この地方のどこを探せど同じです。もちろん、何百年と遡れば死人の多かった年はいくらでもあるでしょう。飢饉もあったし、疫病もあった。火事で村一つが消えたという話もあります。確かに悲しい出来事ではありますが、人が何百年と住んでいる土地なら、どこにでもありそうなことです」
つまり、土地そのものが人に恐れられるような歴史はないということだ。おそらく民話や伝承の類でもそのようなものはないだろう。やはり状況を整理すると、魔物ではないと思われる。
「しかし」ジークムントは男爵との会話を思い出しながら言った。「一つだけ、気になることがある」
「ふむ、何でしょうか」
「最初に消えた狩人のことだ。川から右腕だけが見つかった。その腕には、先祖の名を古語で刻んだ刺青があったそうだ」
「それはまた、珍妙なことをしましたな」
老人は理解ができないというふうに言った。
「そうでもない。名というのは、もっとも原初的な呪いであり、守りでもある。名を与えること、名を知ること、名を刻むことで、ある種の力を引き出すことを期待する。原始的な命のやり取りをする者たちは、往々にしてそのような古い術を身につけるものだ」
「なるほど、ではあの腕にそのような効果があったと」
「ただの偶然かもしれない。しかし古語の刺青だったということが気になる。古からの術を、古の言葉で刻んだ。先祖への敬意を込めたのだろう。そのようなものに反応し、侵すことができなかったとしたら、それは古い魔の力に起源する何かである可能性が高い」
すなわち、魔物だ。
推測の域を出ない。しかし他の手がかりがあまりにも少ない現状では、この些細な出来事でも、ただの偶然と片付けてしまうことができなかった。
「古い……はて」
アンスヘルムは小さく呟いた
そして突然、椅子から立ち上がった。
「そういえば」
老人は、すぐでにも霧散しようとする記憶を掴み取ろうとするような足取りで、書物の山に分け入った。しばらくあっちこっちの棚の一番下を漁ると、やがて一本の巻物を引っ張り出した。端が黒ずみ、虫に食われた小穴がいくつも空いてる。アンスヘルムはまるで両手で水を掬うような慎重な手付きで、その巻物を卓に運んできた。
「いやはや、お待たせしました。かなり古い物なので、あまり日が当たらないように隅へ押し込んでいたものですから」
言い訳するようにそう言いつつ、極めて用心深くゆっくりと巻物を広げる。
「正確な年代は分かりませんが、ざっと五百年は昔の物ではないかと、わたしは思っています。二十年ほど前に、ホルツドルフの村長の家に雷が落ちて、丸ごと燃えてしまったのです。一旦取り壊すことになり、そこで地下に古い貯蔵庫があることが見つかった。入り口が板床で塞がれていたので、村長も知らなかったらしいですね。この巻物は、その貯蔵庫から見つかった物です」
「誰が書いた?」
「虫食いが酷い上にインクの劣化でまともに読める文章があまりにも少ないため、正確なことは分かりません。ただわたしが思うに、あれは司祭が管理していたものです。村長の家は何代か前までは村の礼拝堂だったという話ですからね。これもおそらく、当時の司祭が書いた物ではないかと」
そう答えながら、アンスヘルムは巻物の上を繊細になぞっていた指を、ある一点で止めた。
「ここに、グラーヴァルトの奥について書かれています。先史のものと思われる、祭祀場……でしょうな。そうではないかと考えられる、石の遺構があると」
「祭祀場?何を祀ったものだ」
「さあ」
アンスヘルムは首を傾げた。
「この記録を書いた人も分からなかったらしいです。当時すでに崩れていて、石組みみたいなものが僅かに残っていただけだと。祭祀に使われた場所だというのも、書いた人の推測にすぎないようで」
「……この辺りでは、どういう神を信じている」
「ヴィルダルですな」
森と獣、人の境界を定め司るという、一角獣の姿をした古い神の名だ。
「森の多い土地だとまあ、さもありなんという感じでしょう。ここネーベルタール一帯で広く信仰されています」
「ではこの祭祀場もヴィルダルである可能性は?」
「ないとは言えませんが、わたしは違うと思ってます」
首を横に振りつつ、アンスヘルムは窓の外に目を向けた。ここでは見えないが、街の礼拝堂を探しているらしい。
「ヴィルダルは今も昔も、この地方で普通に信仰され続けてきた神です。もしこの記録の場所がヴィルダルを祀る祭祀場のようなものならば、ここまで綺麗に忘れ去られるでしょうか。あの森は村人たちが日常的に出入りしてきた場所なのです。祭りの名なり、昔話なり、何かは残るはず。しかしわたしが集めてきた話の中では、それらしきものは一つもありません」
「村人は、あの遺構の存在すら知らないのか」
「おそらく。確かめたわけではありませんが」
ジークムントは考えに耽った。ということは、やはりこの遺構も特別に恐れられるような場所ではない。魔物と関連づけるには足りなかった。
「その遺構が森のどこにあるか知っているか」
しかし他に手がかりがないことも事実だった。どのみち森には行くことになる。闇雲に森の中を歩くより、とりあえずの目的地とするには十分だった。
「残念ながら、森の奥としか」
アンスヘルムは遺構の記録があった箇所から少しだけ、指を移した。
「ただし、ここに滝のことが書かれています。祭祀場との位置関係を説明しているのか、それとも全く別の話をしているのかは分かりません。しかし関連しているのなら、滝の近くでしょう。滝の場所は村人なら知っていると思います」
ジークムントは頷いた。とりあえずはホルツドルフという村に行き、話を聞いてから、滝の所に向かうことに決めた。
「大いに助かった。感謝する」
「滅相もない。わたしも珍しい話ができて嬉しかったです」
互いに礼を言い合い、ジークムントはアンスヘルムの家を辞した。
扉の外に出ると、ちょうど時刻を知らせる鐘が鳴り始めていた。その音を背に受けながら、ジークムントは館の厩で馬を回収するために、来た道を戻った。




