ジークムント(3)
馬を館の厩に預けたまま、ジークムントは徒歩で男爵家の家令に教えられた家に向かっていた。その家は来た道とは反対回りに、領主の館から城壁沿いに西へ下ったところにあった。西門へ続く通りから一本奥へ入ると、木組みの家が肩を寄せ合うように並んでいる。その中でも奥まった場所にある、ひときわ小さな家がそれだった。家令に聞いた通り、扉には翼を広げた燕が彫られている。壁は白く塗られ、窓枠も古いながら丁寧に手入れされている。入り口脇の小さな鉢には、晩夏の日差しを浴びた香草が青々と葉を茂らせていた。
扉を叩いて名乗ると、中ですぐに人の動く気配がした。続いて色んなものが倒れる音と慌ただしい足音が聞こえ、しばらく待つと扉が開いた。
現れた老人は白髪を耳の下まで伸ばし、薄手の麻の上着を着ていた。七十には届いてそうだったが、眼だけは歳に似合わず忙しなく動いている。ジークムントの腰あたりまでしかない小柄な老人は、ほとんど仰け反るようにして訪問者の顔を見上げた。それから視線を黒髪へ、赤い瞳へ、最後に背中から覗く大剣の柄へ移し、困惑で染まっていた皺だらけの顔に笑顔が徐々に広がった。
「おお、おお、これは……あなたが領主様がお呼びしたラントヴァルクですか」
「ジークムントだ。俺のことを聞いていたか」
「わたしはアンスヘルムです。城門であなたに名前を聞いた若い兵士がおったでしょう。あれがわたしの甥なのです。ところで、この老いぼれに何かご用ですかな?」
「この地について、訊きたい事がある。貴方が詳しいと男爵の家令から聞いた」
すると老人は、顔中の皺をさらに深くして子供のように笑った。
「そうですか、そうですか。それはよくぞいらっしゃった。いや、とりあえず中へお入りください。どうぞ、どうぞ」
招かれるまま扉を潜ろうとして、ジークムントは額を鴨居にぶつけそうになった。頭を下げて中へ入ったが、一歩進んだところで立ち止まった。
家の外見から受けた印象と、中身はまるで違っていた。
おそらく居間のはずで、汚れているというわけではない。むしろ埃っぽさは感じられない、清潔な空気感がある。ただし物という物が、あるべき場所を離れ好き勝手に置かれている。窓を除く全ての壁が棚で埋められ、そこに羊皮紙を束ねたものや、綴じ紐がほつれた冊子、革表紙の書物が何重にも重なり押し込まれている。入りきらない物は床に積み上げられ、その下にも上にも物が転がるように置かれている。居間の真ん中には卓と長椅子が置かれているが、そのほとんどが何かを書き写した紙片や石板などに占領されていた。
アンスヘルムは慌てて長椅子の上にも積み上げられていた本を抱え上げた。
「こちらへ。いや、待ってください。これは駄目だ」
本を別の本の山の上に危なげに置いてから、老人は長椅子を見て、ジークムントを見て、また長椅子を見た。
「壊れますかな」
「同感だ」
結局、ジークムントは卓を挟んで座ることを早々に諦めた。代わりに書物がぎっしり入っているという木箱を二つ重ね、その上に腰を下ろした。ひどく居心地の悪い格好だったが、老人はしきりにぎっしりと書物の入った木箱を片手で軽く移動させたジークムントの怪力に感心していた。
「なるほど、伝承で知ってはいたのですが」
長く伸びた白い髭を弄りながら、アンスヘルムはまじまじとジークムントを見た。その視線は黒い髪と赤い瞳を何度も往復している。
「オストリンゲをこの目で見る日が来るとは。長生きはしてみるもんですな。ああ、そうだ、少しお待ちください」
そう言い残すと、老人は歳を感じさせない軽い足取りで奥へ消えた。ほどなくして小さな木杯を二つ手に戻り、その一つをジークムントに渡す。厨房に行ってたらしい。
「わたしは酒が飲めないのでこれぐらいしかありませんが。搾りたてのヴィジュを水と蜂蜜で薄めたものです」
「いや、感謝する」
渡された木杯からは未熟な葡萄に似た青い香りがしていた。一口含むと、ちょうど良い酸味が口の中に広がり、ジークムントは満足そうに頷いた。その姿を嬉しそうに見ながら、後ろの棚から何かの巻き物を一本取り出した老人は、それを卓に広げた。
「これは三百年ほど前、この地方を訪れていた遊行僧が残した記録です。ここに、あなたのようなオストリンゲに関する記録があります」
「以前にもこの地に来た者がいるのか」ジークムントは少し興味を抱いた。
「わたしが知る限りでは、あなたで三番目です。しかし、もう一人はこの記録よりもさらに昔の人物らしいですね。残念ながらその者を記した当時の資料は見つかりません」
「これには何と?」
「オストリンゲの身体的特徴、そうあなたのように黒髪と赤目、常人を超える体格。それに見合う身体能力と生命力。この僧が会ったオストリンゲは、見た目は僧自身とそう変わらないのに、百年以上生きたと書かれています。もしやあなたも?」
ジークムントが頷くと、アンスヘルムは彼の顔を一度見て、何度も頷いた。とはいえ、ジークムントは自分が何歳なのか正確には分からない。生きてきた歳月の数など、気にしなくなって久しかった。
「そのオストリンゲは、なぜこの地を訪れた」
「その者もまたあなたのようにラントヴァルクだったようです。正確にはここではなくもっと北に用があったみたいですね、南から来て、山脈を越える準備をするためにここに泊まったらしい。山の向こうに、魔女がいるという噂を聞き、そちらに向かったとか」
ここから北の山脈を超えた森にいる魔女の話なら、ジークムントも知っている。悲惨な過去を抱えていたその魔女は、今はその森を離れどこかに消えた。
「その魔女の名前は書かれているか」
「書かれてはいませんが、時期的に見るとおそらくバインヴィガという魔女でしょう。この地方でも有名な魔女の話です。三十年前の北方争乱でここに移住してきた人が多い。その者たちが話を持ってきたのでしょう。今の領主様の奥方も、もとは北方の御出身です」
ジークムントが知っている魔女と、どうやら同一人物で間違いないようだった。
飲み干した空の木杯を返すと、それを受け取ったアンスヘルムの顔にいきなり当惑が広がった。
「おっと、これは失礼しました。長々とこちらの話ばかり。わたしに聞きたいことがあると仰いましたな」
「いや、興味深い話が聞けた。感謝する。もっと聞いても良いが、先に用を済ませたい」
「ごもっとも。では、何をお知りになりたいので?」
ジークムントは少し気になっていたことを先に確かめてみることにした。
「この地にラントヴァルクが来たのは、その一件だけか」
「少なくとも、わたしが確かめた限りでは」
無精髭の生えた顎を撫でながら、ジークムントは考えを巡らせた。
魔物は基本的に、完全に消すことができない。顕現しているものを倒しても、数十年、数百年の時間が経てば、形は違えど同じ本質を共有する魔物が現れる。この地にラントヴァルクが来たのは三百年前に一度。しかしその者の目的地はここではなく、北の山向こうだった。すると、この地に魔物が棲み着いたことはやはりなかったということになる。
男爵家で話したことと同じだ。
しかしそれだと、グラーヴァルトでは何が起こっているのか。何があそこにあるのか。




