第六十九話 宝物なのに
「菅原の返事を聞きに行くか……」
そう呟き立ち上がる。でも何かが引っかかる。何かやることがあるような。そうだ、菅原の返事を聞く前に一つだけでもいい、俺にできることをしよう。現実逃避のような気もする。返事を聞くのが怖いから引き延ばしているだけかもしれない。いや、違う。何か一つでも自分でやってから、あいつの返事を聞こう。例えばなんだ。例えば。このマンションがいくらで売れるかとか。まだ次に住む場所も決まっていないのに。いや、やる。今やる。聞くだけでもいい。
パソコンを開き、物件の売買サイトにアドレスと電話番号を入力する。
「これでわかんのか?」
送信して数分、着信とメールの嵐。
「何だこれ!何なんだよ!詐欺か!?」
上手くいかない。これが今俺がやるべきことなのに、上手くいかない。
「無理だ。無理すぎる……嗣御も親父にもらった車と時計、売れなかったって言ってたな。正直、バカだろうと思った。でも今、わかった気がする。マンションを売る。言葉にすると簡単なのに、いざやろうとするとものすごく高い壁が目の前にある。親父は、こういう手続きを苦に感じなかったのか?感じないから、資産を増やせるのか?SNSを開けば、資産形成だ何だという情報で溢れている。やらないヤツはバカだと言うヤツもいる。でも、そこで一歩踏み出せるヤツは、そもそも俺みたいな人間とは違うのかもしれない」
「その一歩がバカでけぇんだよ」
そう呟き、また床に寝転がる。
「マンションだけじゃねぇ。株も売るんだぞ。それで何だ?御影家を嗣御に譲る手続きか?どうやんだよそれぇ。あげまーすでやれるわけじゃねぇだろうし。何にもわかんねぇよぉ」
これから俺がやらなきゃいけないことの壁があまりにも高い。面倒くさくなってきた。というか、俺はマジでレールの上を走っていただけだった。力がないとか何だとか言ってたけど、俺はただレールの上を走っているだけだった。先祖や親父が敷いて直したレールの上を。
「ヤベェじゃん。今さらそんなことに気づいてどうすんだよ。御影家のレールがない俺はどこを走ったらいい?」
何もわからない。御影家という看板を下ろしたら、マジで何もわからなくなってしまった。もしこれで菅原に拒絶されたら?俺はこの先どうやって生きていく?
「いや、待てよ。待て。俺は菅原が好きなんだよな?あいつに人生を背負わせたいわけじゃないって言ったのに、あいつを新しいレールにしようとしている。そんなのは、そんなのはダメだろ!」
そう叫んで立ち上がるが、また床に倒れ込む。
「だとしてもぉ、だとしても……」
どうしたらいい。俺はどうしたらいい?
「とりあえず!とりあえず、今日は寝よう。眠いから。睡眠は大事だし。とりあえず寝て、起きたらまた考えるか」
立ち上がり、ソファに寝転がる。コーデュロイのソファだ。
「確かにフカフカだ。確かに……」
俺はそのまま眠りについた。
♢ ♢ ♢
目が覚める。今が何時なのかもわからない。
スマホを開く。充電が切れている。
「クソ……電話とメールがひっきりなしに来てたから……」
声も枯れている。のっそりと立ち上がり、スマホに充電器を挿す。もしかしたら菅原から連絡が来ているかもしれない。慌てて着信履歴とメッセージを確認する。ない。菅原からの連絡はない。
「何だあいつ!何を考えてんだよ!」
あいつから逃げたくせに、何を怒ってんだよ俺は。でも、俺への返事なんてどうでもいいと言われてるみたいで悲しかった。
「さくらんぼっつっただろうがぁ」
クッションを抱きしめ、少し涙を流す。気持ち悪いのはわかっている。でも俺は今、寝起きでナーバスだ。
「とりあえずシャワーを浴びて、飯を食って。それで菅原のところに行こう」
シャワーを浴び、着替えて外に出る。ふと思う。
「自転車、自転車を買おう。自転車!」
そう思って、スマホで近くの自転車屋を調べる。
「ちょっと待てよ。こうやって衝動買いするのはよくないよな……そういえば、近くの公園にレンタルサイクルがあったような」
公園に行くとあった。ちゃんと電動の自転車だ。
「えーっと、アプリをダウンロードして。面倒くせぇ。いや、一旦これに乗って自転車が必要なことを確認しよう。俺が今やるべきことはこれだ」
何とか登録して、自転車をレンタルする。自転車を走らせ、いつもの喫茶店に向かう。
「悪くない。悪くねぇな」
風を切るのが気持ちいい。気分がいい。車も楽だけど、自転車は自分の足っぽい。自分で走ってるみたいな感覚がある。気づけば、鼻歌を歌っていた。菅原も自転車に乗りながら鼻歌とか歌うのか?聞きてぇな。音痴だったらウケるけど。でもあいつ、疲れてるから鼻歌なんて歌わねぇか。きっとクタクタでバイトから帰ってきて眠るんだろう。漫画家になったら、少しは楽になるんだろうか。いや、もっと苦しい生活が待っているかもしれない。そんなことを考えていたら喫茶店に到着した。
中に入り見渡すが、店長はいなかった。
「いらっしゃいませ」
店員がお冷を持ってくる。
「あら、今日は一人?珍しいわね」
「え?あぁ、そうっす」
「あ、そうだ。あのね、あの子が気に入ってる傘あるでしょう?あれね、少し模様が変わったのよ。あとで持ってきてあげる」
「傘?あぁ、パフェに刺さってる小さいやつ。へぇ、変わったんすね。菅原喜ぶかもな」
「そうそう。あとで持ってくるわね」
「ありがとうございます」
パフェに付いてる小さい傘。菅原が好きなやつ。つーか、俺と菅原ってセットだと思われてんのか?それはそれで嬉しい。さくらんぼだしな。俺たちは。
いつものサンドイッチが運ばれてくる。小さい傘も。
「傘の模様が変わったって言ってたけど、違いが全然わかんねぇな」
サンドイッチを食べながら、傘をマジマジと見つめる。菅原が好きなサンドイッチの端っこは最後に食べようと思って端に寄せた。
「菅原、菅原。ずっと菅原のこと考えてんじゃん。俺」
菅原の気持ちはマジでわからない。多分、俺のことを好きではないと思う。でも、嫌いでもないと思う。だってあいつ、嗣御に言ってた。
「私たちには絆があるんですよ。私たちには築いてきた関係があるんです」って。嫌いだったらそんなことは言わないと思う。アイスコーヒーのグラスに付いた水滴を指でなぞる。
「……嫌いじゃねぇならずっと可能性はあるじゃねぇか」
嫌いじゃないなら、マネージャーにはなれるかもしれない。マネージャーから始めて、それでまた告白すればいい。アタックし続ければ、きっと菅原も……。菅原も何だ。菅原も何だっていうんだ。俺は菅原に何を望んでいる?相思相愛?恋愛というのは、その中でも付き合うということは、相思相愛になるということだろ。相思相愛だから付き合う。
そもそも、俺はあいつと付き合って何がしたいんだ?カップルといえば。うーん、デート?それはもうしている。水族館に行った。プレゼントも渡した。手を繋ぐのも、抱きしめるのももうしている。あとは……?
「き、キス?及び、セックス?」
そう小さく呟き、サンドイッチの端っこを置く。童貞か、俺は。何を言っている。呪われた下半身と世間に言われた男が。小さい傘を指先で摘み、開いたり閉じたりを繰り返す。
「俺は何を望んでいる。何を……」
水滴が上から下にグラスをなぞるのを目で追う。
小さい傘をテーブルに置き、サンドイッチの端っこを掴む。菅原の好きなサンドイッチの端っこ。あいつにとっての宝物。あいつは多分、俺にとっての宝物。物じゃねぇけど。宝物なのに、キスもしたいし、多分セックスもしたい。終わってる。終わっているけど、でもそれが俺だった。




