第六十六話 もう多分、戻れない
「可愛くて仕方がねぇ……」
自分の言葉にただただ驚いた。そしてもう、この言葉は取り返すことはできない。菅原の頬の冷たさが、そんな現実を突きつけているような気がした。
「可愛くて仕方ない?」
菅原が俺の目をジッと見つめ、そう呟いた。俺も菅原の目をジッと見る。
「……そうだ」
「私にとって――」
菅原が少し息を吸い込んだ後、そう言った。
私にとって――。その言葉の先を聞くのが怖い。私にとって紫門さんは、そんなことを言われる気がしたからだ。菅原にとって、俺は。
「私にとって可愛いは褒め言葉じゃない」
「何だって?」
思わず聞き返す。
「私にとって可愛いは褒め言葉じゃありません」
「なるほど……」
こいつは、俺の可愛いを見た目の可愛さとして受け取っているのか?いや別に、こいつの見た目が悪いとかそういう話をしているわけじゃない。菅原は、菅原で。
「散々可愛くないって言ってたくせに、今度は可愛いって?」
そう言って俺の手を掴み、振り払う。
「違う。いや、言ったけど。言ってたけど違う」
「私、傷ついてました。ちゃんと。それなのに、今さら可愛いと言われましても。それに、可愛いと言われてもまったく嬉しくありませんから」
菅原は、ちゃんと傷ついていた。そして怒っている。
「どうして嬉しくない?可愛いって言われて」
女は可愛いと言われたら嬉しいもんだと勝手に思っていた。実際、俺が可愛いと言えば大体の女は嬉しそうな顔をした。俺はその嬉しそうな顔を見て満足していたような気もする。
「だってそんなの、そっち側の価値観じゃないですか。紫門さんは、ゴリラを可愛いと思いますか?」
「ゴリラ?動物園の?」
「そう。動物園の」
「どっちかというと、カッコいい?」
「私は怖いと思います。でも、可愛いと思う人もいる。紫門さんはカッコいいと思っている。つまり、そんなのは人それぞれの価値観なんですよ」
「なるほど……」
なるほどとは言ったが、何か違う気もする。
「じゃあ、何を言われたら嬉しいんだよ」
「わかりません」
「……菅原、あのさ。俺が言う可愛いは多分、お前の見た目に対してだけじゃねぇ。全部だ。全部っつーか……いや、全部だ。ここまで、色々なことがあっただろ。俺が祓うフリをして、お前が祓う。それだけじゃない。色んなことがあった。そういうの全部含めての可愛いなんだよ」
「そういうのを可視化してしまうと、具合が悪くなる」
「何を言ってんだお前は」
「紫門さんの可愛いには、私たちが築いてきた関係とか、ここまでの時間とか、陰陽師がどうとか、御影家がどうとか、漫画がどうとか、私がどうとか、全部あるってことですよね?そういうのが頭の中で可視化されてしまって。大きすぎて重すぎて具合が悪くなります」
「いや、そうなんだけど、具合が悪くなる意味がわからない」
本当に具合が悪そうな顔をしている。
「おい、大丈夫か?」
そう声をかけると、菅原はのっそりと立ち上がり、ソファに横になった。
「重い……重すぎる……」
そう呟き、片腕で顔を覆う菅原。
「いや、そんな、そんな重く捉えんなよ。……いや、重い。確かに重い。菅原、重いんだよ!俺の気持ちは!」
「うぅ……」
菅原が呻き声を上げる。
その瞬間、こいつがなぜ漫画を描けるか少しわかった気がした。こいつはこうやって言葉を可視化してしまうんだ。頭の中で。
「ある意味、可哀想だな」
気づけば、そんな言葉を口にしていた。
「何ですか?」
菅原が顔を覆ったまま、そう尋ねる。
「そういうお前の苦しみも含めて俺のものにしてぇんだよ」
俺のものにしたい?また自分の言葉に驚く。
「苦しみは他者に渡すことはできません」
「でも、さくらんぼって言っただろ。こないだ。俺たちは茎で繋がってるって」
「比喩です」
「比喩だとしてもだ。俺たちはさくらんぼなんだよ。あ、これも可視化されて気持ち悪くなるか?」
「なりませんよ。というか、私の苦しみって何ですか?」
「え?いや、ほら。俺が言った可愛いを頭の中で可視化して、バカデカいものに感じて具合が悪くなってんだろ?だから菅原は漫画を描けるのかなって。そうやって言葉を可視化するから。それってさ、才能かもしれないけど、苦しいだろ?」
「は?何を言っているんですか?私が漫画を描けるのは視えているからですよ。怨霊だとか何だとか。だから描けるんですよ。勝手に決めないでください」
「そうか……そうだよな。俺そういうことばっかりだな。どうしてこう、いちいち決めつけちまうんだ」
「人間というのはそういう生き物なのかもしれませんよ。わからないものをわからないままにするのは怖い。だから何か意味を探し、意味を付ける。まぁ、私のそれもある意味決めつけですが」
「じゃあ俺が言った、いや菅原も嗣御に言ってたけど、二人の築いてきた関係とか、絆とかもそれかもしれない?」
「それは事実でしょう。我々が築いてきたものは確かにあります。それを絆と呼んでいるだけで」
「ほぉん……」
事実だ。俺が勝手に決めつけ、意味付けしたものじゃない。菅原と俺が二人で築いてきたものが確かにここにある。
「だったらやっぱり俺たちはさくらんぼなんだよ」
「……」
俺たちはさくらんぼだから、俺はこいつの苦しみを俺のものにしたいんだ。あぁ、またこれも決めつけなのか。じゃあなぜ俺は、こいつのさくらんぼでありたい?どうしてこいつの苦しみまで俺のものにしたい?
「少し身体が楽になってきました」
菅原がそう呟き、顔を覆っていた腕を下ろし、天井を見つめる。
「でも、可視化してしまう苦しみってのも、半分くらいは当たっているかもしれませんね。一つの言葉から色々なことを考えてしまう。紫門さんの言う可愛くないも、色々考えましたよ。腹は立ちましたが、化粧を少し変えてみたり」
「ま、マジで?ごめん。そんなつもりじゃなかった。そういう可愛くないじゃない。そういうんじゃなくて、親しみとか、甘えとか、そういうのがあって」
「はい。今ようやくわかりました。具合が悪くなるほどの重い可愛いを受け取って」
「菅原は強いから俺は甘えてたんだと思う。傷つかないだろうって。これもまた決めつけじゃねぇか」
「はは」
「菅原、俺変わるから。ちゃんと。だから、マネージャーにしてくれ。俺を」
「変わる必要なんてありませんよ。というか、変わるって何を変えるつもりなんですか。別にそのままでいればいいじゃないですか。せっかくただの自分になれるんだから」
「ただの俺?」
「そうですよ。陰陽師も、御影家も取っ払って、ただの自分になるんですよ」
「俺はただの自分が怖くて菅原のマネージャーになりたいと思ってる?」
「そんなの知りませんよ。自分に聞いてください。というか、少し寝てもいいですか?眠くて」
「待ってくれ。マネージャーの件は?」
「そんなすぐに、はいとは言えませんよ。雇用ですよ?面接すらしてませんし」
しばらくすると、菅原の寝息が聞こえてくる。
「俺はただの自分が怖くて菅原のマネージャーになりたいのか?」
そう自分に尋ねるが、答えは出てこない。
菅原の寝顔を眺める。
ただただ愛おしいと思った。目の前で眠るこの女が。
「あぁ!?」
俺は絶叫し、立ち上がった。
菅原が飛び起きる。
「何ですか!?!?」
目が合った。
「な、何でもない」
「チッ」
かつてないほどデカい舌打ちだ。部屋に響き渡るほどの。
菅原はまたソファに横になり、眠り始めた。
心臓のあたりをギュッと掴み、床に座り込む。
もう一度、菅原の寝顔を見る。
もう多分、戻れない。
そんな言葉が頭に浮かんだ。




