第六十四話 何が残ってる?
嗣御が突然俺に掴みかかった。
俺も腹が立って、胸倉をつかんだ。でも、嗣御は泣いていた。泣いて俺に縋っていた。
「くれよ。俺に。御影家を。俺には何もない。力があるのに、何もねぇんだよ」
泣くほど、泣いて縋るほど御影家が欲しいのか?こいつは。
「一緒にやるんじゃダメなのか?」
俺はそう聞いた。だってそうだろ。一緒にやればいい。二人でやれば。兄弟二人で。
「それじゃあ、俺のものにはならない。お前がいたら俺のものにはならない。お前がいたら俺はただ雇われているだけだ。それじゃあ今までと同じだろ。俺は、俺だけの御影家が欲しい。ずっと日陰にいたんだ。それくらい望んだって許されるだろ」
言いたいことはわかる。でも、あまりにも自分勝手じゃないか?御影家を欲しいって。
「そんなの認められるわけがねぇだろ。はい、あげますなんて言えるわけがねぇ。そんな簡単じゃねぇんだよ」
「簡単じゃない?それはどうだろうな」
さっきまで泣いていた嗣御が、ニヤリと笑う。
「は?何を企んでんだよ」
菅原がため息をつく。
「菅原、お前も何か知ってんのか!?」
「紫門さん、御影家は今、嗣御派に傾いています」
「……は?」
「お前がこの部屋でメソメソ泣いている間、俺はずっと駆け回っていた。御影家の親族、従業員、顧客。全員に俺が隠し子であることを明かし、お前の代わりに謝った。一人一人にだ。一人一人にだぞ。朝から晩まで」
嗣御が勝ち誇ったような顔でそう言った。
「それで私たち、途中で鉢合わせたんです。紫門さんのことを週刊誌に話した人間を私が血眼で探していた時に。だから、余計にみんな嗣御さんのことを信じてしまった。私が犯人探しをしたせいで、紫門さんが悪者になってしまったんです」
菅原が目を伏せる。
声が出ない。嗣御に何を言えばいいのかも、菅原に何と声をかけたらいいのかもわからなかった。
「つ、つまり、俺の居場所は、もう、御影家には、ない?」
絞り出すようにそう尋ねた。
「そうだ。もうお前の居場所はそこにはない。お前がこの部屋で泣いている間に、俺が全部奪った。でもな、俺はお前のことを嫌いなわけじゃない。結果的にすべてを奪うことになったけど、でもお前が嫌いだからじゃない。御影家が欲しい。ただそれだけだ」
「今言うことではないと思います。紫門さんのことを嫌いじゃないなんて。無理矢理奪ったんですよ。正当な手順ではない。もっといい手があったはずです」
菅原が嗣御を睨みつける。
「お前が言えたことか?お前の行動がなければ、俺はおそらく難航していた。お前の行動が俺を助けたんだぞ。脅しみたいに犯人を吐かせようとして。お前のやってることもえげつないからな。こいつのためにそこまでやるか?普通。マネージャーの域を超えている。菅原、お前こいつのこと好きなんだろ。無能のイケメンと、堅物有能マネージャー。ラブコメにするには丁度いいな」
そう言って、はははと笑う嗣御。
「好きとか嫌いとかそういう話じゃないんですよ」
菅原がそう答える。
そうだ。菅原が俺のことを好きなわけがない。そんなのは俺が一番知っている。
「じゃあ何だよ。どうしてそこまでする?」
「マネージャーだからです。私にはこの人を支える義務がある。マネージャーだから」
「マネージャーねぇ。正直に言えば楽になるんじゃないか?好きだって。俺にさっき言っただろ。欲望に素直になれだっけ?」
ブーメランだ。菅原が投げたブーメランが自分に返ってきた。
「欲求を認めろと言いました。欲望に素直になれとは言っていません。あなたには理解できないかもしれませんが、私たちには絆があるんです。私たちには築いてきた関係があるんです」
絆。菅原が絆と言った。そうだ。俺たちには絆がある。それは、恋とか愛じゃねぇ!そう心の中で叫ぶ。いや、恋とか愛とかじゃないなら何だ?あ、それが絆か。
「絆?青春ごっこか?甘酸っぱいやつ」
鼻で笑う嗣御。
「おい、バカにすんなよ。俺たちの絆を。俺たちはな、ずっと二人でやってきたんだ。二人で色んなことを乗り越えてきたんだよ。俺が祓うフリをして、菅原が祓う。そうやってやってきたんだよ」
「祓うフリ?フリなら何もしてねぇだろ」
「何もしてねぇわけがねぇだろ。陰陽師ってのはな、祓うことだけが仕事じゃねぇんだよ。そんなことも知らねぇのか?御影家が欲しいくせに」
「し、知らねぇわけねぇだろ」
「お前が相手にするのは、怨霊だけじゃねぇ。ストーカー男とか、仏壇の裏のおもちゃの時計とか、クソみたいな依頼者とか、子どもを捨てるどうしようもない母親とか、どうにもならない父親とか、自分勝手な弟とか。可愛くないマネージャーとか」
菅原が顔を上げる。
「俺たちは二人でやってきた。それを絆と呼んで何が悪い。恋でも愛でもない。恋でも愛でも……」
恋でも愛でもない。目の前で俺を見つめる菅原を、俺は恋でも愛でもなく、絆があるから抱きしめたい。絆があるから離したくない。
「それで、どうするつもりですか?」
菅原が口を開く。
「どうもこうもない。このまま俺が御影家を乗っ取る。その流れにもうなっている」
「そうなると、紫門さんも、紫門さんのお母様も路頭に迷うことになりますが、それを理解していますか?」
そうだ。そうだった。御影家はもうこいつに傾いている。俺の居場所はすでにないのかもしれない。俺が御影家から追い出されれば、母さんも御影家にいる理由がなくなる。終わった。母さんまで巻き込んでしまった。いや、菅原もだ。菅原も職を失うことになる。あぁ、終わった。何もかも終わった。
「理解?何のための遺産だよ。金は十分にある。御影家の株とこのマンションを売ればさらに増えるぞ」
「金の話ではありません。家を失うのです。生まれ育った家を」
「俺にはない。俺にはなかった。生まれ育った家なんて。俺には最初から与えられていない!」
嗣御が怒鳴る。
「母親と暮らした場所が、あなたの生まれ育った家なのでは?」
「何の名前もない家だろ。御影家という看板もない。その看板を俺は背負う。力のある俺が」
そう言い残し、嗣御は去っていった。
「どうしたものか」
菅原が呟く。
「終わったな、俺」
「終わりましたね」
“終わってませんよ”そう返ってくると思った。だから、菅原の“終わった”という言葉を聞いて、本当に終わったんだと思った。
「菅原、マジでごめん。俺のせいで仕事を失った。寺もまだ、買い戻せてないのに。本当にごめん。申し訳ない……」
合わせる顔もない。俺はただ、頭を下げた。
「あなたに謝られても。別に紫門さんのせいではないと思います。私がみんなに脅しみたいに犯人を聞き出したのも原因の一つなので。私もあなたに謝る必要がありますね。申し訳ありませんでした」
菅原が深々と頭を下げる。
「いや、謝らなくていい。謝るな。そもそも俺がちゃんとしていればこんなことにはならなかったんだ」
菅原の頭のてっぺんを見ながら俺はそう言った。
菅原が顔を上げる。
「お互い、過去には戻れませんからね。仕方がないです。こうすればよかった、あぁすればよかったと、過去の自分を責めることはいくらでもできます。でも、その時の精一杯の選択がそれだった。そうするしかなかった。そう思うと少しだけ楽になるかもしれませんね。まぁ、女遊びがその時の精一杯だったかどうかはわかりませんが」
「正直に言うと、精一杯だった。俺、自分が見えなかった。俺に寄ってくる女たちを鏡にしていた。あいつらに映る俺を見てようやく俺になれたんだ。でも、今は違う。俺はお前に映る俺を……」
「それじゃ前と同じじゃないですか。私に映る自分を見てるなら」
「……確かに。じゃあ俺は何を見てんだよ」
「自分を見ているんじゃないですか。御影家という看板を無理矢理引っ剥がされて。今、何が残っていますか?何が見えていますか?」
御影家の看板を引っ剥がされて、何が残っている?何が見えている?何も残っていない。何も、何も見えない。菅原しか見えない。
「菅原が見える」
「そりゃ目の前にいますからね」
呆れたように菅原がそう言った。




