第五十四話 もう離せない
水族館を出て御影家に向かう。
車の中、助手席に座る菅原は俺があげた真珠のネックレスに指で触れながら、何かを考えているような顔をしていた。
御影家に着くと、昨日よりずっと顔色が良い母がいた。
「あ、紫門、ひかりちゃん。今珈琲淹れるわね」
「私も手伝います」
父の遺骨はまだそこにある。
そういえば母さん、指輪ぶん投げて失くしたって言ってたよな。引き出しの後ろをスマホで照らして覗いてみるが、それらしいものはなかった。
珈琲を持った菅原と母さんが戻ってくる。
「指輪、今見たけどなかった」
「指輪?」
珈琲をテーブルに並べる菅原がそう尋ねる。
「ぶん投げたらしい。結婚指輪。な?」
「そうそう。気持ちが昂っちゃって。野球選手みたいに投げたわ。肩をおかしくしちゃって。湿布貼ってるのよ」
「肩ですか?長引く前に整形外科に行った方がいいですよ」
「本当真面目だな、お前は」
「肩は大事ですよ。肩は」
そう言って菅原が自分の肩を叩く。ネックレスの真珠がキラキラと揺れる。
「そうね。あ、ひかりちゃんから聞いたわ。真珠のネックレス。可愛いわね」
「え!?菅原が自分から言ったわけ?ネックレスのこと」
「違う違う。入ってきた時にキラキラ光ってたから可愛いと思って。珈琲を淹れながらこっそり聞いたのよ。そしたら教えてくれて」
「へ、へぇ」
「こういうのはあまり付けないので、少々恥ずかしさを感じます」
「あら、似合ってるわよ。すごく。ね?紫門」
「は?あぁ。まぁ、俺が取り出した真珠だからな」
「育てたのはあの貝ですよ」
「うるせぇな」
「本当仲良しね」
「否定させてください」
胸の前で手をクロスさせてバツを作る菅原を見て、思わず吹き出す。
「丸だろ。仲良しだろ俺たち。ケンカするほど仲が良いって言うだろ」
「これはケンカではありませんよ」
「はははは」
母さんが腹を抱えて笑い出し、俺は驚いて菅原と顔を見合わせた。
「そんなに面白いか?」
「微笑ましいというのが正しいのかしら」
三人でテーブルを囲む。
「美味しい。お店みたい」
珈琲を飲んだ菅原がそう呟く。
「お前砂糖何個入れてんだよ」
「いいのよ、何個でも。味わい方なんて人それぞれなんだから」
「そうだけどさ。あ、そういえばケンちゃんに頼んで何か情報は得られたのか?」
「そうだった。その話だったわね。ある程度はわかったわ」
「そもそも調べないとわからないって、親父からほとんど情報を与えられてなかったってことか?」
「そうね。私が知りたくなかったってのはあるかもしれない。父さんもそれを察していたんじゃないかしら。紫門が生まれた時、あの子はすでにあの人のお腹にいたの」
「は!?そんなに歳近ぇの?」
「そう、同い年」
「母さんはいつ知ったわけ?その……別の家庭があるって」
「うーん、いつだったか。その子が生まれる日、父さんは珍しく仕事を休みにしていたの。朝からずっとソワソワしていて。何かおかしいと思ったの。そしたら電話が鳴って慌てて出て行った。それで朝方帰ってきて。その時ね、父さんから病院の匂いがしたの。わかるでしょ?病院の匂い。そこからしばらく帰ってきた父さんから病院の匂いがして。それで私聞いたの。『誰か入院してるの?』って。そしたら父さん、馬鹿正直に言ったわ。妾が出産したって。あまりにも堂々と言うもんだから、そうとしか言えなかった。紫門もまだ赤ちゃんで。ちょうどつかまり立ちする頃だったかしら。夜泣きもあって睡眠も足りてなくて疲れていたからか、怒りも湧かなくて。でもジワジワとね。あとからジワジワと来たわ」
「そ、それは……お母様、鼻が利くんですね」
「そこじゃねぇだろ」
「ふふ、そうそう。私鼻が利くのよ」
「それで?親父はそのあとその息子のことを話したのか?」
「話さない。話さなかったわ。認知してるとかそういう話も聞かなかったわ。聞かなきゃいけなかったのに、聞かなかった。というか、こういう家柄だからそういうことってよくあることなんじゃないかと思ったの。いや、そういうものだと自分に言い聞かせてた」
「人間の脳みそはそうやってできているんだと思います。ショックなことが起きた時、崩れてしまう自分を守るために自分以外の原因を探し、そのせいにする。お母様はそう思うことでご自身を守ったのではないでしょうか。無論、科学的根拠はありませんが」
「何を言ってんだお前は」
「そうかもしれない。そうやって言い聞かせて心の奥にしまって。じゃないとどうにかなってしまいそうだった」
「いやだからって、俺にだけは教えてくれてもよかっただろ」
「そうね。ごめんなさい。いつかいつかと思っていたらこんなに大きくなっちゃって」
そう言って俺の腕に触れる。
華奢な指、細い手首。
初めてまじまじと母さんの手を見た。
俺の知らない人生がこの人の後ろにあることを初めて理解する。その瞬間、菅原の、愛人の、愛人の息子の、その他の人間の後ろに、それぞれの人生が広がっていくようなそんな感覚が芽生えた。怖いと思った。そんなのは怖い。俺は俺の人生しか見てこなかった。俺が見て感じてきたものと同じくらい重くて苦しいものが他の人間にもあるのか。それがすごく恐ろしかった。
「紫門さん、大丈夫ですか?」
菅原の声が聞こえて自分の人生に戻る。
「……大丈夫だ。何かわかんねぇけど、他人にも人生があることを今知った」
「一瞬の連続ですからね。人間というのは」
菅原の一言がものすごく深い気がするが、いまいち意味がわからない。
「どういうことだ?」
「人間ってのは一瞬一瞬の連続なんですよ」
「は?」
「パラパラ漫画ですよ」
「あー、なるほど」
「パラパラ漫画で伝わるんだ」
菅原も何か気づきを得たみたいな顔をしている。
「二人は似てると思うわ」
母さんがポツリと呟いた。
「否定させてください」
菅原が即座に言い返す。
「どのへんが?」
「わからない。でも似てる気がするの。似てるというより補い合ってるって感じかしら」
「マネージャーなので補わざるを得ない。そうですよね?」
菅原が俺を見る。
「俺もお前を補ってる?」
「漫画とかはそうですね」
「俺、補えてんだ」
「はい、割と」
じゃあいいじゃん。俺たち補い合ってるなら、それでいいじゃん。
「お互いマネージャーみたいなもんだよな」
「何ですかそれ。私の方がずっとマネージャーです」
「はいはい、わかったわかった」
「本当仲良しね」
「否定させてください」
思わず吹き出す。本当頑固だ。
「つーか、忘れてたけど相続の話はどうする?」
「私、席を外します。お二人で……」
「いや、いてくれ。俺じゃどうにもなんねぇ」
「いや、流石に相続は……」
「頼む。母さん、いいよな?」
頷く母さんに、渋い顔をする菅原。
「結論から言うと、父さんは認知してるわ。遺言もない。だから父さんの遺産は私に二分の一、紫門とあの子で四分の一ずつ」
「御影家は株式会社ですよね?お二人は株をお持ちですか?」
「そう。私と紫門で十パーセントずつ持っているわ。父さんが八十パーセント持っていた」
「つまり、相続後にはお母様が五十パーセント、紫門さんが三十パーセント、愛人の子が二十パーセントになるということですね」
「そうね。私が筆頭株主になると」
「御影家自体は俺が引き継ぐわけだろ」
「そうなるわね」
「あいつには力はあるけど、俺には菅原がいる。やってけるだろ」
「……」
「何で黙るんだよ、菅原。一緒にやってくれよ」
「はいとは言えません。私にもやらなきゃいけないことは色々ある。死ぬまでマネージャーでいるという約束はできかねます」
「な、何だよ。何でそんなこと言うんだよ。じゃあ俺はどうしたらいいんだよ」
「今のところは辞めませんよ。まだお金も溜まってない。あの寺を買い戻すためにはまだまだ時間がかかる。それまではマネージャーとして……」
「お寺、どうしても買い戻したいのね」
母が菅原にそう尋ねる。
「はい。私の故郷なので。あそこで育ったから。私しかあそこを守れる人間はいない。だからやらなきゃいけないんです」
そう言って唇を噛み締める菅原。
買い戻せなければいいと思った。菅原があの寺を買い戻せなければいいと。最低だ。でも切実だ。こいつがいない人生なんて考えられない。俺が御影家を継ぐなら尚更だ。別に継ぎたいわけじゃない。でも俺にはこの家しかない。最低だ。
いや、この家の話でもない。継ぐ話でもない。こいつが俺の知らないところで別の人生を歩むことが考えられない。
もう離せない。菅原の手を離せるわけがなかった。




