第四十七話 それだけで十分だった
菅原はその日、文字通り俺のそばを離れなかった。さすがに男子トイレにまで着いてこようとしたのは止めた。
どうしてそこまでするのか聞いたら、きっとこう言うんだろう。
――マネージャーなので。
通夜が終わり、控室は母さんと俺と菅原の三人だけになった。
「ひかりちゃん、ありがとう。助かったわ。二人とも疲れたでしょう。今夜は帰っていいわ。私はここに泊まるから」
「お母様もお疲れなのでは?」
「私はいいのよ」
「いえ、何かあったら大変です。私たちもここに泊まりましょう。お風呂もありますし」
菅原が指差す方向を見ると、確かに風呂があった。
「菅原の言う通りだ。母さん一人じゃ、何かあった時大変だろ」
「私は……私はいいの」
「いえ、泊まりましょう。店長が先ほど差し入れをたくさんくれたので。何か食べましょう」
菅原がそう言って、レジ袋をガサガサと漁る。
「店長……?」
「あ、お母様はご存じありませんよね。私のバイト先のコンビニのオーナー兼店長です。紫門さんとも仲良しで、一緒にご飯を食べたり、お家に遊びに行ったりしています」
「サンタクロースみたいだよな」
「そうですね。笑い方がフォッフォッフォッフォみたいな感じで」
菅原の店長の物真似に思わず笑う。
そんな俺を見て、母さんは疲れたような顔で微笑んだ。
「よかったわね。色んな出会いがあって」
「そうだな。まぁ、菅原経由だけど」
「ひかりちゃんはどうしてコンビニで?」
「あぁ。菅原が育った寺が売りに出されててさ。それを買い戻すために金を貯めてる。昼も夜も働いて……な?」
頷く菅原。
「そうだったのね……何も知らずにごめんなさいね」
「いえいえ、お父様にも隠していたので。年末調整までには言おうと思っていたのですが……」
「不快に感じてしまったらごめんなさいね。その、お金は貯まりそうなのかしら」
菅原は諦めたような顔で微笑み、首を振った。
居た堪れなくなり、思わず口を開く。
「でも今さ、漫画を描いてて。な? それがSNSで結構話題になってて。収益化の申請もして。もう少しで稼げるようになるんじゃないかと思ってる」
「紫門も一緒にやってるの?」
「あ、俺? うん、まぁ。今はこんな状況だから菅原に任せてるけど。俺も一応」
「紫門さんが見つけてくれたんです。私の才能を。それで、やってみようって言ってくれて」
「そうなのね。いいじゃない。なんだかワクワクするわね」
「早く寺を買い戻せたらいいんだけどな」
「お寺を買い戻したら、ひかりちゃんはお寺に戻ることになるのかしら?」
痛いところを突かれる。
俺は多分、祈るような顔で菅原を見ていたと思う。
「わかりません。まだちょっとわからない。向こうに行って何をするかも決まってないし。それに、それにというか、そもそも買い戻すのがいつになるかも本当にわからなくて。額が大きいですし」
その返答にホッとしている自分がいる。
「じゃあ、しばらくはここで働くつもりなのかしら」
「そうですね。紫門さんのマネージャーとして」
顔を上げると、母さんと目が合った。
何を考えているのかはわからなかった。
俺と同じく、菅原がどこにも行かないことに安心しているのか。
それとも。
「じゃあ、しばらくはこの子をお願いね」
「はい」
シャワーを浴びて風呂場を出ると、菅原が畳の上に布団を敷いていた。
きっちりしている。
旅館みたいだ。
「いや、三人で並んで寝るのかよ」
「ここしかスペースがないので」
「いいじゃない。川の字で。ふふ」
母さんがそう言って笑うのを見て、少し安心した。
親父が死んで悲しんでると思ったから。
「では、消灯いたします」
菅原がそう言って電気を消す。
「なんだよ。消灯いたしますって」
「おやすみなさい」
すぐに菅原の寝息が聞こえてくる。
当たり前だ。
朝から晩まで俺から離れず、絶えず動いていた。
「明日も早いんだっけ?」
「そうね。明日は告別式だから」
「あのさ、母さんは何かやりたいこととかあったわけ? その、親父と結婚しなかったら。普通の家に生まれてたら……」
「そうね、あったわ」
「え!? あったの? 知らなかった……」
「母さんね、珈琲が好きなのよ。でもほら、お父さんはこだわりが強かったでしょ。自分で淹れた珈琲しか飲まない。だから言うに言えなくて。私が淹れる珈琲、美味しいのよ。あの家に生まれなかったら、カフェで働きたかった。美味しい珈琲とケーキ。手作りのケーキよ。海の見える場所で。それが夢だった。許されない夢だった」
「そうだったんだ……俺、何も知らなかった」
「言ってないもの。知らなくて当たり前だわ」
「それ、親父に言ったことはあった?」
「ないわ。だって、きっとこう言うもの。『カフェ? 飲食業の廃業率は十年以内で九割だぞ。金の無駄だ』って。だからね、大事に隠してたのよ。それだけは、その夢だけは貶されたくなかった」
「言いそうだな。マジで言いそう。貶されたくなかった、か。それもわかる気がする。俺も許せなかった。菅原の寺を貶されて」
「ひかりちゃんがお寺を買い戻して向こうに戻ったら、紫門は陰陽師としてやっていけなくなる。それでも、あの子の夢を貶されて怒ったのね」
「自分でもわからない。わからないんだよなぁ」
「わかってないみたいね、本当に」
「わからない。全然」
「何かやりたいことがあるんじゃないの。ひかりちゃんと」
「いや、それはある。さっきも言ったけど、菅原の漫画をたくさんの人に読んでほしい。それはある。あいつ、楽しいって言ったんだ。描くことが。そんなの応援したいだろ。俺は一番のファンだしな」
「どんな漫画を描いてるの?」
「ホラー漫画。『ぼじそわか』って名前。変な名前だよな。般若心経から取ったらしい。意味わかんねぇ。あいつさ、何を描いてもホラーテイストになっちまうんだよ。マジ怖い。まぁ、実際に見えてるからな。めちゃくちゃリアルでさ。漫画になるとマジで面白い。毎度楽しみにしてる」
「そうなのね。楽しそうね、本当。見たことないくらい生き生きしてる」
「誰が? 菅原?」
「紫門が」
「あ、俺? まぁ、そうかもしれない。生まれて初めて俺ができることを見つけたような、そんな感覚はあるかもしれない。あいつは俺のマネージャーだけど、俺もあいつのマネージャーみたいな? 面白いよな、そんなの」
「面白いわね。羨ましいわ。やりたいことを見つけられて」
「母さんだってあるんだろ。カフェ。やりたいって。あ、そういえば店長もカフェっていうか喫茶店? あと珈琲も好きだからな。今度四人で喫茶店行くか」
「いいわね。もう少し落ち着いたら」
「だな。つーか、諦めなくてもいいんじゃね? 親父、もういないし……いや、そんなこと言ったら親不孝だけど。好きなことしてもいいんじゃないかって。母さんも。俺が御影家を背負うわけだし……」
自分でそう言ったくせに、一気に肩に御影家がのしかかる。
「紫門だって好きなことをしてもいいのよ」
「そうはいかない。千年続いた御影家を終わらせることはできない。そうだろ」
「そうね。そう。でも、母さんは紫門には生きたいように生きてほしいと思うのよ。思ってしまう。母親としてね。本当、酷い人間よね。父さんが生きている時はそんなこと言えなかったのに。あの人に従って、あなたに力がないことをひた隠しにして。留学までさせて。あなたにも、ひかりちゃんにも嘘をつかせて。悪いことをした。そう思う。母親である前に、妻であることを優先してしまった。逆らえなかった。あの人に。本当に悪いと思っているわ。今さらそんなことを言ったって、我が子の苦しみが消えることなんてないのに。ただの罪滅ぼしにしかならないのに」
初めて聞いた母さんの本音だった。
何を返したらいいのかもわからない。
ただ黙っていた。
「今日はもう寝なさい。疲れてるでしょ」
「わかった」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
シーンとした部屋の中、菅原の小さな寝息が聞こえた。
思わず手を菅原の布団の中に入れる。
指先に手が触れ、その手をギュッと握る。
菅原の指先が少し動いた。
握り返されることはない。
でも、それだけで十分だった。




