第二十五話 ゴミ出しカレンダー
仕事終わり、シャワーを浴びて、缶ビールを飲みながら、部屋でくつろいでいた。
空き缶を流しに置いた瞬間だった。
何かと、目が合った。
キッチンの水栓の上に、そいつはいた。
細い触角が、動いている。
俺が息を吞んだ瞬間、気配を感じたのか走り出す、黒いそいつ。
俺は虫が苦手だった。
ガキの頃、幼稚園の外遊びだったか。
「紫門、手出して」と友達に言われて、俺は素直に手を出した。
手のひらに、アリが一匹、ポトリと落ちた。
そのアリが、腕の方にどんどん上がって来る。何度振り払っても、アリは落ちない。そのうち、服の中に入ってしまって、先生に泣きついて取ってもらった。
「ゴ……ゴッ……」
その名前を口に出すのもおぞましい。気づいたら、菅原の部屋のドアを叩いていた。
「菅原! 菅原!」
ガチャっとドアが開く。
「なんすか」
そこには、怪訝な顔で俺を見上げる菅原がいた。
部屋に、ゴ……が出たショックよりも、なぜか菅原の部屋着にショックを受けた。
女の部屋着ってのは、ブランドのロゴが入ったあのやつとか、触り心地がいいモコモコしたあのやつとか、そういうのなんじゃ? なんだ、そのヨレヨレのダサいTシャツは。
「なんすか?」
菅原が苛立ったようにもう一度そう言った。
「ゴ……ゴ……く、黒い、あの、む、虫……俺、虫、無理で……」
「チッ」
特大の舌打ちをかました菅原が、ドアを閉める。
見捨てられた……見捨てやがった……俺のマネージャーなのに……。
玄関ドアの前、呆然と立ち尽くす。
しばらくすると、ガチャッとドアが開く。
殺虫剤と袋と割りばしを手にした菅原が立っていた。
「俺は、俺はどうしたらいい? 部屋には戻れない……あいつが、あいつがいなくなるまで、俺は部屋には、入れない……」
「チッ」
菅原の舌打ちが、廊下に響く。
「私の部屋で待っていてください」
「ありがとう、ありがとう菅原。この恩は、きっと……頼む、菅原……」
デカいため息をついて、俺の部屋に入っていく菅原。
俺も、その背中に無事を祈ったあと、菅原の部屋に入る。
「お、おじゃま、しま~す」
リビングに入る。何もない。何にもねぇ。テレビが小せぇ。
ソファもないので、仕方なくベッドに腰を下ろす。
部屋を見渡す。整理整頓されている。無駄なものがない。菅原っぽい。
でも、あいつ、こんなに何もない部屋で、何をして生きてんだ?
しばらく経っても、菅原は帰ってこない。
散らかった部屋で、黒いアイツはどっかに隠れて出てこないのかもしれない。
酔いも回って、だんだん眠くなってきた。ヤバい、眠い。
眠気に抗えず、ベッドに寝転がる。あぁ、菅原の匂いだ。
俺はそのまま眠ってしまった。
♢ ♢ ♢
寝返りを打って、うっすら目を開ける。
あー、もう朝じゃん。ジム行かねぇと。そう思って、また寝返りを打とうとした瞬間、床に転がる何かが見えた。目を凝らして、それを見る。
――菅原だ。菅原が床で寝ている。は……? なんで、菅原が床で……?
その瞬間、昨日のすべてを思い出す。
そうだ、ゴ……が出て、それで俺は菅原の部屋に来て、そのまま寝たんだ。
寝起きの頭で色々考えていたら、菅原のスマホのアラームが鳴り、心臓が止まりかける。
菅原がものすごい勢いで起き上がった。
思わず、寝たふりをする。
菅原は、俺の様子を見にくることもなく、スタスタと廊下を歩いていく。
遠くで、顔を洗っているのか水の音がした。
いや、見に来いよ。俺のことを。つーか、男女だぞ。なんか、こう、危ねぇだろ。いや、俺が悪いんだけど。
菅原が戻ってきたので、また寝たふりをする。
コンロに火を点ける音がして、しばらくすると、魚が焼ける匂いがしてきた。
菅原がこっちに近づいてくる気配がした。
「紫門さん、起きてください。ジムの時間では? あと、朝ごはん、食べていきますか?」
「あ? あー、悪い。まじで寝てた。朝ごはん? あぁ、食べる……」
今起きた風を装う俺。
「白米は食べますか? やめておきますか?」
「え? あー食べる……」
菅原がキッチンに戻り、カチャカチャと準備する音が聞こえる。
起き上がり、菅原の元に向かう。
「なんか手伝うこと、ある?」
「じゃあ、これでテーブルを拭いてください」
「おけ」
布巾を受け取り、テーブルを拭く。
「これ、運んでもらっていいですか? 魚、あと、ご飯とお味噌汁」
「おっけ」
菅原と並んで座る。
「いただきます」と手を合わせる菅原。少し遅れて俺も同じようにする。
「まじで悪かった。床で寝て、身体痛くなかったか?」
「いえ、どこでも眠れるタイプなので大丈夫です」
「なんで起こさなかった?」
「気持ちよさそうに眠っていたので」
「いや、危ねぇだろ。男だぞ、俺。起こして帰さねぇと……いや、俺が言えたことじゃねぇけど」
「男……? あぁ。はい、じゃあ、次からはそうします」
こいつ、俺のことを男として見ていない。それが少しショックだった。
でも、そんなことより、味噌汁が美味い。魚も美味い。白米も美味い。
「なんか、久々にちゃんとした朝飯食ったわ。毎日、こうやって作ってんのか?」
「はい。基本的には」
「へぇ、すげぇな」
「紫門さん、ゴミはちゃんと捨てましょう。二十四時間、ゴミ捨てできるんですから。燃えるゴミ、プラスチック、ペットボトル、ビン、カン。それぞれちゃんと分別するんですよ? わかってますか?」
「わかってる。わかってた。でも、めんどくさくてさぁ」
「じゃあ、しばらくは曜日を決めて一緒に出しにいきましょう。じゃないとまた、アイツが来ますよ」
「わかった、わかったよ。もうアイツは無理だ……」
菅原の部屋を出て、自分の部屋に戻る。なんか、片付いている。
ベッドにドサッと寝転がる。
「あーなんか、朝飯美味かったな。俺も自炊すっかなぁ。いや、めんどくせぇな」
てか、なんであいつ、一人暮らしなのに茶碗が二個あるんだ。箸も、味噌汁のお椀も、二個ずつあった。あいつ、やっぱり彼氏がいんのか? いや、あんな殺風景な部屋だ。彼氏なんかいねぇか。あー。つーか、なんか、めちゃくちゃ眠れたな。
ポケットから、菅原が書いてくれたゴミ出しカレンダーを引っぱり出し、広げる。
「はは、マネージャーって大変だな」
そんなことを、思った。




