37.怪物
「大神官さま、それはいけません!」
シルヴィアは叫ぶが、その声は届かない。
大神官は呪石を手に取ると、それを両手で天に掲げる。すると、呪石から赤い光が放たれ、周囲に広がっていく。
「おお……これこそ、最後に残された精霊の……」
大神官は恍惚とした表情を浮かべていた。しかし、その目は血走り、焦点が合っていないようにも見える。
そんな彼の姿を見たシルヴィアの脳裏に嫌な予感が浮かぶ。そして次の瞬間、その予感はすぐに現実となった。
大神官の身体が膨張し、みるみるうちに巨大化していく。その姿はまさに異形の怪物と化していた。
「そんな……!」
シルヴィアは呆然と立ち尽くしたまま、その光景を見つめていた。
そして周囲にいた人々が、バタバタと倒れていく。呪石に宿る力によって、生命力を奪われたのだろう。
シルヴィアはとっさに結界を張り、彼らを守ろうとする。しかし、呪石に宿る力は予想以上だった。
結界が押されて、今にも破られてしまいそうだ。
「騎士たちよ! 神殿の者たちを避難させるのです! 急ぎなさい!」
ベアトリクスが大声で指示を出す。
すると、隠れた場所に身を潜ませていた騎士たちが姿を現し、周囲にいた者たちを連れ出していく。
「そ、そんな奴らよりも、僕を先に……」
「あ……ああ……」
腰を抜かしたディルクとナイジェルが、騎士たちに引きずられて連れて行かれる。
その様子を横目で見ながら、シルヴィアは大神官だった怪物に目を向けた。
「これは……一体……」
シルヴィアは呆然と呟く。
大神官の肉体は、もはや人間の面影すら残していない。
体長は一般的な成人男性の倍ほどもあり、全身は赤黒く染まっている。
手足の先には鋭い爪が生えており、背中には大きな翼があった。その姿はまるで悪魔そのものだ。
大神官だった怪物はゆっくりと立ち上がると、シルヴィアを見下ろすように視線を向けた。
その目には理性の光はなく、代わりに狂気の光が灯っている。
「くっ……」
シルヴィアは唇を嚙みしめた。
このままでは、神殿の者たちだけでなく、街の人々にも被害が出るだろう。それだけは何としても避けなければならない。
しかし、どうやって倒せばいいのか分からなかった。
あの呪石から溢れる力をどうにかしなければ勝ち目はないだろう。
そんなことを考えているうちに、大神官だった怪物が腕を振り上げたかと思うと、シルヴィアに向かって振り下ろした。
「っ……!」
シルヴィアは咄嗟に結界を張り、攻撃を防ぐ。
しかし、呪石に宿る力は想像以上で、シルヴィアの結界は今にも破られてしまいそうだ。
「くっ……このままでは……」
シルヴィアは必死に打開策を考えるが、何も浮かばない。
その間にも、大神官だった怪物は攻撃を続けてくる。その度に結界が軋みを上げ始めた。
そのとき、大神官だった怪物に向けて魔法が放たれた。
「光よ、我が敵を撃て!」
ベアトリクスの放った閃光弾の光によって、大神官だった怪物の動きが止まる。
その隙に、シルヴィアは怪物から距離を取った。
「助かりましたわ、ベアトリクス」
「礼には及びません。それより、あの怪物をなんとかしなければ……」
ベアトリクスは険しい表情で呟く。
「ええ、そうですわね」
シルヴィアは頷きながら答える。そして再び怪物に向き直った。
大神官だった怪物は再び攻撃態勢に入っているようだ。シルヴィアとベアトリクスの姿を見て、憎悪に満ちた表情を浮かべているように見える。
目は赤く充血しており、口元からは牙のような鋭い歯が覗いていた。
そして胸元の皮膚に、大きな赤い石が埋まっているのが見えた。あれが呪石なのだろう。
「まずはあの呪石を破壊しましょう!」
シルヴィアの提案にベアトリクスも同意する。二人は同時に駆け出した。
しかし大神官だった怪物の動きの方が速い。
「させませんわ!」
シルヴィアは結界を展開し、怪物の攻撃を防ぐ。
その隙にベアトリクスが呪石に向けて魔法を放った。しかし、やはり効果はないようだ。
「……私の魔力では無理のようです」
ベアトリクスが悔しげに呟く。
以前、マテウスが呪石を破壊したときのことを、シルヴィアは思い出す。
あのときは、もっと小さい石だったにもかかわらず、簡単に壊すことはできなかったはずだ。
この呪石を破壊するには、もっと強力な力が必要だろう。
しかし、シルヴィアにはそれがない。神の加護を授かったとはいえ、それは主に守るための力であり、攻撃には向いていないのだ。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
「たとえ勝てなくても、負けるわけにはいきませんわ」
シルヴィアは自分に言い聞かせるように呟く。
「そうですね……私も、諦めるわけにはいきません」
ベアトリクスも決意に満ちた表情で頷いた。
しかし、状況は依然として不利だ。このままでは消耗戦になってしまうだろう。そうなれば、いずれは負けてしまう。
「時間を稼ぐことができれば……きっと騎士たちが応援を呼んできてくれるはずです」
ベアトリクスの言葉に、シルヴィアは頷く。
確かに彼女の言う通りだ。それまで持ち堪えれば、勝機はあるかもしれない。
ところが、そんな二人の期待を裏切るかのように、神殿の入り口から悲鳴が聞こえてきた。
「な、何事です!?」
シルヴィアが慌てて振り返ると、そこには異形の怪物の姿があった。
「そ、そんな……!」
その姿を見たベアトリクスが、絶望に満ちた表情を浮かべる。
大神官だった怪物以外にも、呪石によって生み出された怪物がいたようだ。しかも、二体も。
騎士たちは善戦しているようだったが、呪石によって生み出された怪物はあまりにも強く、劣勢を強いられているようだ。
「お、お前たち! 僕を守れ! 僕は王子だぞ!」
「た、助け……死にたくない……」
ディルクとナイジェルが騎士たちに守られながら叫んでいる。
しかし、騎士たちは彼らの声に耳を貸す余裕はないようだ。
「くっ……」
シルヴィアは唇を嚙む。このままでは全滅してしまうだろう。そうなれば、本当に打つ手がなくなってしまう。
しかし、諦めるわけにはいかない。シルヴィアは覚悟を決めた。
「ベアトリクス! あなたはお逃げなさい!」
その言葉に、ベアトリクスが目を見開く。
「何をおっしゃるのですか!? そんなことはできませんわ!」
「いいえ! わたくしがここで怪物を引きつけますから、その間に逃げてくださいまし!」
シルヴィアは叫ぶと、ベアトリクスに背を向けた。そして大神官だった怪物に向かって駆け出す。
「さあ! お相手はこのわたくしですわ!」
シルヴィアの言葉に反応したのか、大神官だった怪物がこちらに視線を向ける。
そして、シルヴィアに向かって走り出した。その姿はまるで暴走した獣のようだ。
「はあああっ!」
シルヴィアは気合いを入れて結界を張り、大神官だった怪物の攻撃を防いだ。
しかし、それでも怪物の攻撃は止まらない。何度も結界に攻撃を繰り返してくる。
その衝撃によって、シルヴィアの身体が大きく揺れた。このままでは結界が破られてしまうかもしれない。
「くっ……」
シルヴィアは小さく呻くと、さらに力を込めて結界を強化した。
すると今度は、大神官だった怪物の方がバランスを崩したようだ。
その隙に、シルヴィアは距離を取る。しかし、このままでは決定打を与えることはできないだろう。
シルヴィアが悩んでいる間に、大神官だった怪物は体勢を立て直すと、再び襲い掛かってきた。
「きゃああっ!」
避けられない。シルヴィアは悲鳴を上げて目を瞑った。
しかし、いつまで経っても衝撃は来ない。不思議に思っていると、どさりと音が鳴った。
シルヴィアがおそるおそる目を開けると、地面に鋭い爪の生えた大きな手が転がっており、その手の持ち主である大神官だった怪物が咆哮を上げていた。
「無事か!? シルヴィア!」
上から降ってきた声に目を向けると、そこには銀翼の白馬に跨ったマテウスの姿があった。
「マ、マテウスさま……!?」
シルヴィアは驚きに目を大きく見開く。
どうして、彼がここにいるのか。そして、どうやってこの場所に現れたのか。
突然のことに理解が追いつかなかった。
だが、彼が助けに来てくれたことだけはわかる。
それだけで、シルヴィアの心は歓喜と安堵、そして彼に対する深い愛情で満たされた。





