【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―藁の馬―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが、十五歳だったころの物語です。
リーゼ川の氾濫から、ふた月ほどたった夏の終わり。
兵舎で暮らすジェフリーのもとへ、南の小さな村から、ひとつの包みが届きます。
中に入っていたのは、一本の青い糸をたてがみに結んだ、小さな藁の馬。
十五歳のジェフリーの手元に、長く残ることになる、小さな贈り物のお話です。
【 一 小さな包み】
十五歳の夏の終わり。
リーゼ川の氾濫から、ふた月ほどたったころだった。
その日、ジェフリーは厩で馬の寝藁を替えていた。
そこへ、兵舎の門番が顔を出した。
「坊主。お前に荷物だ」
ジェフリーは、藁を抱えたまま振り向いた。
「私に?」
「ああ。南から来た行商の荷車が預かってきたそうだ」
差し出されたのは、手のひらに載るほどの小さな包みだった。
粗い麻布でくるみ、細い麻紐を十字にかけてある。結び目は少し歪んでいて、慣れない手で何度も結び直したように見えた。
表には、炭で文字が書かれていた。
――金のかみの、わかい騎士さまへ。
ジェフリーは、しばらくその字を見ていた。
名前は、どこにも書かれていなかった。
* *
厩の裏へ回り、木箱の上に腰を下ろした。
麻紐をほどく。
中から出てきたのは、小さな馬だった。
麦藁を細く束ね、糸で縛って形を作ってある。四本の脚は少し長さが違い、首もわずかに傾いていた。
たてがみにだけ、一本の青い糸が結ばれている。
その下に、折りたたんだ紙が入っていた。
ジェフリーは、そっと広げた。
たどたどしい文字が、紙いっぱいに並んでいた。
――――――――――――
騎士さま。
わたしは、リーゼ川のほとりのホルン村のフリーダです。十二さいです。
あの雨の日、なやの屋根の上にいたのは、弟のペーターです。
騎士さまが、ペーターをたすけてくださいました。
母さんは、毎ばん、騎士さまのために、おいのりしています。
ペーターは、大きくなったら、騎士さまのような騎士になると言っています。
お礼に、馬をつくりました。うまくできなくて、ごめんなさい。
――――――――――――
最後まで読んでから、ジェフリーは、もう一度途中へ目を戻した。
――騎士さまが、ペーターをたすけてくださいました。
あの日、流れの中へ入ったのは、ヨアヒムだった。
腰へ縄を結び、泥水に足を取られながら納屋まで進み、屋根の上にいた子どもを抱えて戻ってきた。
ジェフリーは、土手の上にいた。
縄を握り、ほかの騎士たちと一緒に引いていた。
それだけではない。
土嚢を積んでいた者がいた。
縄を用意した者がいた。
流されかけたヨアヒムを引いた者も、子どもを受け取った者もいた。
あの場にいた大勢で、一人の子どもを助けた。
それでも、手紙の宛先は、
――金のかみの、わかい騎士さまへ。
だった。
雨と泥にまみれた騎士たちの中で、十二歳の少女が覚えていたのが、自分だったのだろう。
ジェフリーは、紙をたたんだ。
藁の馬を手に取る。
青い糸が、指先に触れた。
【 二 食堂】
その日の夕方。
ジェフリーは、手紙と藁の馬を持ってヨアヒムを探した。
ヨアヒムは食堂にいた。
夕食の時間には少し早く、長い卓には、仕事を終えた騎士たちが何人か座っていた。
ジェフリーが近づくと、ヨアヒムの隣にいた年かさの騎士が、手の中のものに気づいた。
「何だ、そりゃ」
「南の村から――」
答え終わる前に、その騎士が紙へ手を伸ばした。
「貸してみろ」
「待ってください」
ジェフリーが止めるより早く、手紙を抜き取られた。
騎士は立ち上がると、面白そうに紙を広げた。
「金のかみの、わかい騎士さまへ!」
わざと大きな声で読み上げる。
「わたしは、ホルン村のフリーダです。十二さいです!」
食堂のあちこちから笑い声が上がった。
「おいおい。お人形に恋文が来たぞ」
「十二歳の村娘か。坊ちゃんも隅に置けんな」
「お礼に馬をつくりました、だってよ」
また笑いが起きた。
ジェフリーは、騎士の手へ腕を伸ばした。
「返してください」
相手は身を引いた。
「そう怒るなよ」
笑いながら、近くにいた別の騎士へ紙を放る。
「ほら、読んでみろ」
手紙が、別の手へ渡った。
「返してください」
ジェフリーはもう一度言った。
声を荒らげたわけではなかった。
それでも、先ほどまでより低い声だった。
笑っていた何人かが、少しだけ黙った。
そのとき、椅子を引く音がした。
ヨアヒムが立ち上がっていた。
手紙を持っている騎士のところまで行き、その手首をつかむ。
「返してやれ」
「何だよ」
「いいから」
「ただの恋文だろ」
「恋文じゃない」
ヨアヒムは、相手の手から紙を取った。
一度、目を通す。
途中で、顔から笑いが消えた。
「……ホルン村」
小さく呟いた。
もう一度、最初から読む。
「ペーターって、あの納屋の屋根にいた子だ」
食堂の笑い声が、少しずつやんでいった。
ヨアヒムは、手紙をジェフリーへ返した。
「礼状だ。弟を助けてもらった礼を書いてきたんだよ」
最初に手紙を取った騎士が、鼻を鳴らした。
「礼状だろうが、お人形宛てなのは変わらんだろ」
ヨアヒムは、そちらを見なかった。
ジェフリーは、返された紙を両手で持った。
「ヨアヒム殿」
「何だ」
「あの子を助けたのは――」
「俺一人じゃない」
ジェフリーは、言葉を止めた。
ヨアヒムは、自分の席へ戻った。
「俺があの子を抱えて戻った。お前は縄を引いた。ほかの連中も引いた」
椀を手に取る。
「土嚢を積んだやつも、橋の代わりになる縄を張ったやつもいる。あの日は、あそこにいた全員で助けたんだ」
ジェフリーは、手紙を見下ろした。
ヨアヒムは、スープをひと口飲んだ。
「その子がお前を覚えてたなら、お前に礼を言ったっていいだろ」
ジェフリーは何も言わなかった。
手の中で、折り目のついた紙を静かにたたんだ。
【 三 噂の行き先】
食堂での出来事は、それだけでは終わらなかった。
数日後。
誰かが、酒場で話したらしい。
侯爵家の跡取りのところへ、川沿いの村から娘の手紙が届いた。
そこから先は、ジェフリーの知らないところで話が変わっていった。
娘が贈り物まで送った。
侯爵家の若者へ取り入ろうとしている。
まだ幼い娘なのに、ずいぶんませている。
誰が最初にそう言ったのかは、わからなかった。
三日もすると、行商人の口から南の村へ戻るほどの噂になっていた。
そのことをジェフリーへ知らせたのは、厩番のクルトだった。
夕方。
ジェフリーが馬の蹄を手入れしていると、隣でブラシを動かしていたクルトが言った。
「坊ちゃん。南の村の話、聞いてるか」
ジェフリーは、手を止めた。
「何の話ですか」
クルトは、すぐには答えなかった。
馬の背を二度ほど撫でてから、ブラシを木箱へ置いた。
「ホルン村だよ」
ジェフリーは、顔を上げた。
「今日来た行商人が言ってた。あの手紙を書いた娘、親父にえらく叱られたそうだ」
「……なぜですか」
「噂が村まで戻った」
クルトは、低い声で続けた。
「村の差配役が聞きつけてな。侯爵家の若様に妙な真似をして、もし侯爵様の機嫌を損ねたらどうするって、親父を呼びつけたらしい」
ジェフリーの手の中に、馬の蹄があった。
そのまま動かなかった。
「娘は?」
「しばらく市場へも出すなと言われたそうだ。親父は、北の丘の屋敷へ詫び状まで出したってよ」
「……詫び状」
「ああ」
クルトは、それ以上言わなかった。
ジェフリーは、ゆっくり馬の脚を地面へ戻した。
* *
その夜。
ジェフリーは、なかなか眠れなかった。
大部屋の明かりが消え、周りの寝台から寝息が聞こえはじめても、目を閉じられなかった。
枕もとには、藁の馬があった。
手に取る。
たてがみの青い糸が、暗い中でもかすかに見えた。
弟を助けてもらった礼に。
十二歳の少女が、自分で作った馬だった。
フリーダは、礼を書いただけだった。
贈ったのも、小さな藁の馬ひとつだった。
それが、兵舎で笑われ。
人の口を渡り、いつの間にか、本人が家から出られなくなるほどの話になっていた。
ジェフリーは、馬を掌に載せたまま、天井を見た。
自分は、包みを受け取っただけだった。
それでも、何も起きなかったことにはならない。
藁の馬を握りこみそうになり、指を止めた。
細い脚が折れないように、そっと力を抜いた。
【四 ホルン村】
次の休みの日。
ジェフリーはブルーノのところへ行き、兵舎を一日出る許可を求めた。
事情を聞き終えると、ブルーノは腕を組んだ。
「行ってどうする」
「誤解を解きます」
「お前が直接行けば、それをまた誰かが面白がるぞ」
ジェフリーは黙った。
その可能性を考えなかったわけではなかった。
「それでも、行きたいです」
ブルーノは、しばらくジェフリーを見ていた。
やがて、大きく息を吐いた。
「ヨアヒムを連れていけ」
「ヨアヒム殿を?」
「あの子を抱えて川を戻ったのは、あいつだ。お前一人で行ったら、また話が妙な方向へ転がるかもしれん」
ブルーノは机の上の帳面を閉じた。
「何があったのか、二人で話してこい」
「はい」
* *
ホルン村は、王都から南へ半日ほど馬を走らせた、リーゼ川沿いの小さな村だった。
氾濫からふた月たっても、その跡は残っていた。
土手には、新しく積み直された土嚢が並び、泥をかぶった畑では、男たちが固くなった土を鋤で掘り返している。
ジェフリーとヨアヒムが村へ入ると、畑にいた男たちが仕事の手を止めた。
騎士が二人。
そのうち一人は、金色の髪をしている。
誰かが、それに気づいたのだろう。
ひとりの男が、村の奥へ走っていった。
しばらくして。
泥のついた前掛け姿の男が、こちらへ駆けてきた。
日に焼けた、がっしりした男だった。
ジェフリーたちの前まで来る。
そして、何も言わず、土の上へ膝をついた。
「侯爵様の若様」
額が、地面についた。
「どうか、お許しください」
ジェフリーは、すぐに馬から下りた。
「お立ちください」
「娘には、よく言い聞かせました。二度と、あのようなことはいたしません」
「違います」
「わたしの躾が足りなかったんです。ですから、どうか、村には――」
「お立ちください。お願いです」
ジェフリーは、男のそばへ膝をついた。
男は、それでも顔を上げなかった。
肩が、小さく震えていた。
ジェフリーは、その姿を見て、何も言えなくなった。
ヨアヒムも馬から下りた。
二人のそばまで来ると、男と同じ高さまで腰を落とした。
「親父さん」
男が、わずかに顔を動かした。
「俺たちは、叱りに来たんじゃない。顔を上げてくれ」
ゆっくりと、男が顔を上げた。
ヨアヒムは、自分の胸を親指で示した。
「納屋の屋根から、ペーターを抱えて戻ったのは俺だ」
男は、ヨアヒムを見た。
「覚えてないだろ。あの日は、みんな泥だらけだったからな」
男の顔が、少しずつ変わった。
「あ……」
「こいつは土手の上で縄を引いてた」
ヨアヒムが、ジェフリーを示した。
「俺だけでも、こいつだけでもない。あそこにいた連中みんなで、あの子を助けたんだ」
ジェフリーも、うなずいた。
懐から、折りたたんだ手紙と藁の馬を取り出す。
「フリーダさんの手紙は、恋文ではありません」
男が、藁の馬を見た。
「弟さんを助けた騎士への、ただのお礼の手紙です」
ジェフリーは、一度言葉を止めた。
「兵舎で、ほかの騎士に読まれました。そこから、話が広がったのだと思います」
頭を下げた。
「申し訳ありません」
男が、驚いたようにジェフリーを見た。
「若様が、謝ることでは」
「私のところへ届いた手紙です。あんなふうに扱われる前に、取り返すべきでした」
「ですが――」
「フリーダさんは、何も悪いことをしていません」
それだけは、はっきり言った。
男は、しばらく黙っていた。
視線が、ジェフリーの手にある藁の馬へ落ちる。
やがて、ゆっくり立ち上がった。
前掛けについた土を、手で払った。
「……若様が悪いとは、わたしも思っちゃおりません」
声には、まだ緊張が残っていた。
「ただ」
男は、少し迷ってから続けた。
「わたしらには、誰が悪いのかより、噂になったことのほうが怖いんです」
ジェフリーは、黙って聞いた。
「侯爵家の若様に、うちの娘が近づいた。そういう話が立つ。それだけで、差配役は、侯爵様のお怒りを恐れます」
「父は、そのようなことで――」
「若様」
静かな声に止められた。
男は、困ったように笑った。
「侯爵様が本当に怒るかどうかじゃないんです」
ジェフリーは、口を閉じた。
「怒るかもしれない、と上の者が思えば、その下にいるわたしらが叱られます。差配役に目をつけられた家とは、村の連中も距離を置く。何年かして娘が嫁ぐころになっても、昔、侯爵家の若様に色目を使った娘だなんて話が残るかもしれない」
男は、そこで一度うつむいた。
「若様が何かしたからじゃないんです」
そして、顔を上げた。
「わたしらとは、立ってる場所が違う。それだけで、怖がる人間はいるんです」
ジェフリーは、何も答えられなかった。
* *
村の奥にある家の戸口に、人影があった。
十二歳くらいの娘が、小さな男の子の手を握っている。
フリーダだ、とすぐにわかった。
その隣にいるのが、ペーターなのだろう。
フリーダは、しばらくこちらを見ていた。
やがて、弟の手を離し、走ってきた。
最初に向かったのは、ヨアヒムの前だった。
深く頭を下げる。
「……騎士さま」
ヨアヒムは、少し驚いた顔で娘を見た。
「なんだ」
「ペーターを助けてくれて、ありがとうございました」
顔を上げる。
「わたし、あの日、泥だらけで、誰が誰だかわからなくて……金の髪の騎士さまだけ、覚えてて」
「気にするな」
ヨアヒムは笑った。
「俺だって、あの日の俺の顔なんか覚えてない」
フリーダも、少しだけ笑った。
それから、ジェフリーの前へ来た。
「騎士さま」
「はい」
「ごめんなさい」
ジェフリーは、すぐに首を振った。
「あなたが謝ることではありません」
「でも、騎士さまも、兵舎でからかわれたって」
ジェフリーは、答えなかった。
手に持っていた藁の馬へ目を落とす。
これを返したほうがいいのだろうか。
受け取ったままでいれば、また何か言われるのではないか。
迷っていると、フリーダが藁の馬を見た。
「……それは」
声が、小さくなった。
「……それは、騎士さまの、です。縄を握ってくださったのは、ほんとうだから」
ジェフリーは、手の中の藁の馬を見た。
青い糸が、風に少し揺れた。
やがて。
大切に懐へ戻した。
「ありがとう、フリーダさん」
フリーダが、今度は少しだけ笑った。
その後ろから、ペーターが歩いてきた。
男の子は、ヨアヒムの腰の剣を、目を輝かせて見上げていた。
【五 帰り道】
王都へ戻る道は、夕暮れだった。
二頭の馬が、川沿いの土手の道を、並んで歩いていた。
ヨアヒムが、ずっと黙っていたジェフリーに声をかけた。
「親父さんの言ったこと、気にしてるのか」
ジェフリーは、手綱を握ったまま前を見ていた。
「……私に何かを渡した人が、傷つきます」
「全部が全部、そうじゃないだろう」
「でも、今日はそうでした」
ジェフリーは、懐の上から藁の馬に触れた。
「フリーダさんは、礼を言っただけでした。私は、受け取っただけでした。それなのに、フリーダさんは家に閉じこめられて、お父上は土に額をこすりつけました」
声は、いつもと変わらなかった。
「私の顔と、家の名前が、そうさせました。私が何もしなくても」
ヨアヒムは、しばらく答えなかった。
土手の下を、リーゼ川が穏やかに流れていた。ふた月前の泥水が嘘のように、夕日を映して光っている。
「坊主。俺は、お前みたいな顔に生まれなかったし、侯爵家にも生まれなかった。だから、お前の気持ちは、わからん」
ヨアヒムは、手綱を片手に持ち替えた。
「ただな。あの子は最後に、『それは騎士さまのです』って言った。親父さんに叱られて、家に閉じこめられて、それでも、お前からあの馬を取り上げなかった」
ジェフリーは、ヨアヒムを見た。
「それは、お前の顔のせいでも、家の名前のせいでもないと思うぞ」
* *
それから、ジェフリーは、ひとつ決めごとをした。
誰かから、自分個人へ向けられた贈り物を受け取らないこと。
手紙も、花も、菓子も。
どんなに小さなものでも、善意から贈られたものでも、受け取ったあとに噂が生まれることがある。
そして、その噂で傷つくのは、自分ではないかもしれない。
だったら、受け取らない。
十五歳のジェフリーには、それがいちばん確かな方法に思えた。
藁の馬だけは、寝台の枕もとの、石壁のくぼみに置いた。
たてがみに結ばれた一本の青い糸が、窓から差す月の光の中で、かすかに見えていた。
* * * * * *
それから一年あまりが過ぎたころ。
黒騎士となったジェフリーのもとへ、ある公爵令嬢から、金糸で刺繍を施したハンカチが届けられた。
ジェフリーは、それを受け取らなかった。
理由を尋ねられても、何も答えなかった。
兵舎の寝台脇には、青い糸をたてがみに結んだ小さな藁の馬が、変わらず置かれていた。




