【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―茶会の羊―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが、十五歳だったころの物語です。
騎士団での暮らしにも少しずつ馴染みはじめた秋。
ひさしぶりに父の屋敷へ呼ばれたジェフリーは、自分のもとへ三十七通もの縁談が届いていたことを知ります。
まだ「氷の騎士」と呼ばれる前。
若き日のジェフリーが、ある茶会で見たもののお話です。
【書斎の書状】
十五の秋の終わり、ジェフリーは、ひさしぶりに北の丘の屋敷へ呼ばれた。
兵舎を出たころにはまだ高かった日は、屋敷に着くころにはもう西へ傾き、玄関広間の高い窓から差しこむ光を淡い金色に変えていた。
案内されたのは、父、ガレル・ハルセリンの書斎だった。
重い扉を開けると、乾いた紙とインクの匂いがした。壁一面を埋める書棚。窓際には地球儀が置かれ、暖炉の上には銀の燭台と小さな置時計が並んでいる。
その中央にある大きな机の上には、封蝋の押された書状が山のように積まれていた。
赤い蝋。青い蝋。深い緑の蝋。
どの封蝋にも、それぞれの家の紋章が押されている。
「座れ」
父は、書状から目を上げずに言った。
ジェフリーは、机の前の椅子に腰を下ろした。
兵舎からそのまま来たため、着ているのは支給された騎士の服だった。春には手の甲まで隠れていた袖も、少し背が伸びた今では、ようやくちょうどよくなっている。
父は手もとの書類に署名をすると、ようやく顔を上げた。
「春の宴のあとから届きはじめた。この半年で、三十七通だ」
ジェフリーは、机の上を見た。
「……何の書状ですか」
「縁組の申し入れだ」
もう一度、書状の山へ目をやる。
父は、そのいちばん上から一通を取った。
「クロイツァー公爵家。娘が十四。持参金として、南の葡萄畑を一つ」
書状を置き、次を取る。
「ディートリヒ伯爵家。娘が十三。こちらとの縁組が決まれば、王宮の財務にハルセリン家の者を一人推す、とある」
さらに、もう一通。
「ブラント伯爵家。娘が十五。王都の港にある倉庫の権利」
父は、それも机へ戻した。
「どの家も、書いてあることは似たようなものだ。ハルセリン家の跡取りとの縁組を、ぜひに、と。娘の年。家の格。持参金。土地。役職。それから――」
一通の書状を取り出し、ジェフリーの前へ滑らせた。
薄く香の焚きしめられた紙だった。几帳面な女の文字が、整然と並んでいる。
――春の宴で拝見いたしましたご子息のお顔立ち、奥方様の面影そのままで、まことにお美しく。
そこで、ジェフリーの指が止まった。
少し下へ目を移す。
――娘と並べば、さぞ見栄えのするお二人となりましょう。お生まれになるお子様も、きっと――
ジェフリーは、最後まで読まなかった。
書状を折りもせず、そのまま机へ戻した。
指先が、冷たくなっていた。
* *
「断れない一通がある」
父は、クロイツァー公爵家の書状をもう一度手に取った。
「公爵夫人が、来週、屋敷で茶会を開く。お前を名指しで招いている」
ジェフリーは、父を見た。
「公爵は王宮でも、わたしより上の立場にある。今後も仕事で顔を合わせる相手だ。縁組を断ることと、招待そのものを無視することは違う」
書状を机へ置き、父は続けた。
「一度だけ、顔を出せ。縁組を受けるかどうかは、別の話だ」
ジェフリーは、しばらく何も言わなかった。
机の上には、三十七通の書状がある。
そのどれにも、まだ会ったこともない娘の名前と、土地と、金と、家の都合と、それから自分の顔のことが書かれているのだろう。
膝の上で、そっと手を握った。
「……はい」
【 二 薔薇の間】
クロイツァー公爵家の屋敷は、王都の東の丘にあった。
白い石造りの大きな屋敷で、正門から玄関までの道の両側には、秋の終わりを迎えて赤く色づいた木々が並んでいた。
茶会が開かれたのは、屋敷の東にある「薔薇の間」と呼ばれる客間だった。
その名のとおり、淡い乳白色の壁には、蔓を伸ばして咲く薔薇が描かれている。窓辺には細い金の縁取りをした茶器が並び、その向こうには大きな温室が見えた。
秋も終わろうとしているのに、硝子越しには、まだいくつかの薔薇が咲いていた。
ジェフリーが部屋へ入った途端、それまで重なっていた話し声が、ぴたりとやんだ。
十人ほどの貴婦人と、その娘たちがいる。
一斉に、こちらを見た。
ほんの一瞬、足が止まった。
春の宴を思い出したのだ。
燭台の光の下で、自分の顔をのぞきこんできた女たち。
――お母様に、そっくりだわ。
ジェフリーは、何も表情に出さず、一礼した。
「ようこそ、ハルセリン様」
立ち上がった公爵夫人は、細身で背筋のまっすぐな婦人だった。銀に近い灰色の衣装をまとい、同じ色の瞳でジェフリーを頭から足もとまで静かに眺めた。
「騎士のお姿でいらしたのね」
「兵舎から参りましたので」
「まあ。勇ましいこと」
扇の陰で微笑み、公爵夫人は客間の中央に置かれた椅子を示した。
ジェフリーは、そこへ腰を下ろした。
座ってから気づいた。
自分の席を中心にするように、婦人たちの椅子が半円に並んでいる。
逃げ道がない、と一瞬だけ思った。
戦場ではない。ただの茶会だ。
そう自分に言い聞かせているあいだにも、四方から視線が集まってくる。
髪を見られ、目を見られ、顔立ちを見られ、まだ少年らしさの残る騎士服の体まで眺められた。
ジェフリーは、膝の上へ手を置いた。
誰も、その手には目を向けなかった。
* *
茶が注がれ、香辛料を使った焼き菓子の皿が回された。
初めのうちは、季節のことや王宮の噂など、当たり障りのない話が続いていた。
やがて、ひとりの婦人が隣に座る娘の肩へ手を置いた。
「ハルセリン様。娘のエリーゼでございます。刺繍が得意ですのよ。ほら、エリーゼ。ご挨拶なさい」
少女が、促されて立った。
淡い栗色の髪をきれいに結い上げている。うつむいたまま、顔は上がらなかった。
「エリーゼ・フォン・ライナーでございます」
小さな声で名乗り、膝を折る。
ジェフリーも礼を返した。
すると、待っていたように次の婦人が口を開いた。
「こちらは、うちのカタリナ。竪琴を弾きますの。今日もあとで、お聞かせしようと思っておりますのよ」
背中を押された娘が、ぎこちなく頭を下げる。
「マルガレーテは、ご覧のとおり、背丈もハルセリン様とちょうど釣り合いますでしょう?」
また、別の娘が立たされた。
髪の色や肌の白さ。刺繍、竪琴、歌、舞踏。
そこへ、持参金や領地、家の格まで加わっていく。
母親たちは、娘たちの前へ目に見えない札を置くように、ひとつひとつを口にした。
娘たちは、ほとんど何も言わなかった。
膝の上で指を組んでいる娘もいれば、茶碗の縁ばかり見ている娘もいた。名前を呼ばれるたびに、肩へわずかに力が入る娘もいる。
ジェフリーは、そのたびに礼を返した。
ひとり紹介されるごとに、父の机に積まれていた三十七通の書状が頭に浮かんだ。
* *
「ところで、ハルセリン様」
ブラント伯爵夫人が、扇を閉じた。
「騎士団には、いつまでいらっしゃるおつもり?」
ジェフリーは、伯爵夫人を見た。
「いつまで、とは」
「だって、侯爵家の跡取りでいらっしゃるでしょう? いずれは、お父様のように王宮へお入りになるのでしょうし。騎士団は、若いうちの、ちょっとした腕試しではなくて?」
周囲の婦人たちが、そうだと言うようにうなずいた。
「危ないお仕事ですものねえ」
「ご結婚なさったら、奥様も心配なさるわ」
「あのお顔に傷でもついたら、大変ですもの」
扇の陰で、小さな笑い声が重なった。
ジェフリーは、茶碗を受け皿へ戻した。
かちり、と、思ったよりも大きな音がした。
「私は、騎士団を辞めるつもりはありません」
笑い声が止まった。
「……あら」
ジェフリーは、まっすぐ伯爵夫人を見た。
「この夏、リーゼ川があふれました。夜のうちに堤が崩れかけ、騎士団は土手へ出ました。夜が明けるまで、土嚢を積みました。私も運びました」
あの夜の泥の匂いが、かすかによみがえった。
雨を吸って重くなった服。
泥へ沈む靴。
暗闇の中で聞こえつづけた、川の轟く音。
「川向こうの村では、子どもがひとり、納屋の屋根に取り残されていました。流された橋の代わりに綱を張り、騎士が川を渡りました」
目の前には、金の縁の茶碗と、焼き菓子と、皺ひとつない白い卓布がある。
「あの日、騎士団が行かなければ、死んでいた人がいました」
ジェフリーは言った。
「騎士の仕事は、ちょっとした腕試しではありません」
客間が、静まりかえった。
ブラント伯爵夫人は、しばらくジェフリーを見ていたが、やがて扇を開いて口もとを隠した。
「まあ。ずいぶん、お堅いこと」
どこかで、小さな笑いが起きた。
別の婦人が茶をひと口飲み、ほどなくして話題は別のものへ移っていった。
誰も、リーゼ川の村がいまどうなっているのかを尋ねなかった。
助けられた子どものことも。
【 三 温室】
茶会も半ばを過ぎたころ、竪琴の演奏が始まった。
カタリナという娘が、母親に促されて、部屋の隅に置かれた竪琴の前へ座った。
細い指が弦へ触れ、最初の音が響く。
ジェフリーは、公爵夫人に一礼して席を立った。
「少し、風に当たってまいります」
公爵夫人は一瞬ジェフリーを見たものの、止めはしなかった。
客間の奥にある扉を開けると、温室へ続いていた。
一歩入っただけで、空気が変わった。
硝子の天井から、薄い秋の日が差しこんでいる。湿った土と葉の青い匂いに、咲き残った薔薇の甘さが混じっていた。
薔薇の間に満ちていた香水より、ずっと息がしやすかった。
ジェフリーは、ゆっくりと奥へ歩いた。
温室の端にある石の腰かけまで来たところで、その陰に何かが動いた。
足を止める。
ひとりの娘が、床へ座りこんでいた。
年は、自分と同じくらいだろう。
茶会用の淡い青の衣装の裾を床に広げ、膝の上には分厚い本を開いている。
娘は、ジェフリーに気づいて顔を上げた。
目が合う。
慌てて本を閉じかけたものの、途中で思い直したらしい。開いたまま、ぱたりと膝へ戻した。
「……見つかっちゃった」
ため息まじりに言った。
* *
客間では、紹介されなかった娘だった。
「クロイツァーの末の娘。ユリアナよ」
ジェフリーが尋ねる前に、自分から名乗った。
「母の予定では、今ごろ、竪琴の次にわたしが歌うことになってるの」
温室の向こうから、竪琴の音が聞こえていた。
ユリアナは、その音を聞きながら少し顔をしかめた。
「歌は下手だし、そもそも歌いたくないから、ここに隠れてたの」
ジェフリーは、何と答えればいいのかわからなかった。
叱られているわけでもない。褒められているわけでもない。顔のことも言われない。
そういう相手と話すことに、まだ慣れていなかった。
ユリアナは、膝の上の本を少し持ち上げた。
「これを読んでたの」
頁には、細かな植物の絵が描かれていた。
葉の形。根の形。花の色。茎を切ったときの断面まで、ひとつひとつ細い線で描き分けられている。
その横には、小さな文字がびっしりと並んでいた。
「薬草の本?」
「そう」
それまで少し退屈そうだったユリアナの顔が、明るくなった。
「わたし、こういうのが好きなの。お茶会より、ずっと」
ジェフリーは、もう一度頁へ目を落とした。
兵舎の医務室で見かける、乾燥させた薬草の束を思い出す。
「……熱を下げるものも、載っていますか」
ユリアナが、ぱっと顔を上げた。
「あるわ。ええと……」
頁を何枚かめくり、ひとつの絵を指さす。
「これ。柳の皮。煎じて飲むの。高い熱が続くときにも使うのよ。とても苦いらしいけど」
ジェフリーは、その絵を見た。
八つの冬。
母の部屋には、薬を煮る苦い匂いが、何日も染みついていた。
母は薬をひと口飲むたびに、わずかに顔をしかめた。それでもジェフリーが見ていると、何でもないように笑った。
「……そうですか」
ジェフリーは、それだけ言った。
ユリアナも、それ以上は尋ねなかった。
* *
硝子の向こうで、竪琴の曲が続いていた。
ユリアナは、本を閉じた。
「ねえ。さっきの話、ここまで聞こえてたわ」
「さっきの?」
「騎士団を辞めるつもりはありません、って」
「……聞こえていましたか」
「ええ。みんな、びっくりしてた」
ユリアナは少し笑い、そのまま硝子越しの客間へ目を向けた。
竪琴を弾くカタリナのまわりには、母親たちが集まっている。
「わたしたち、市場の羊みたいね」
ジェフリーは、ユリアナを見た。
「羊?」
ユリアナは、膝の上に置いた本の表紙を指先でなぞった。
「毛並みがいいとか、肉づきがいいとか、どこの牧場の羊だとか。いくらなら釣り合うとか」
少し笑った。
楽しそうな笑いではなかった。
「母たちが並べて、値段をつけるの。わたしたちは、その前で黙って立ってるだけ」
本の上へ視線を落とす。
「わたしが薬草の本を読んでることなんて、誰も聞かないわ」
そして、ジェフリーを見た。
「あなたがリーゼ川で何をしたのかも、誰も聞かなかったでしょう」
ジェフリーは、答えなかった。
* *
兵舎で聞いた声を思い出していた。
夜になると、大部屋のあちこちで始まる話。
酒場の女。娼館の女。
髪がどうだった。体がどうだった。いくらだった。
男たちは笑っていた。
その話の中にいる女たちには、名前がなかった。
何が好きなのかも。
何を嫌うのかも。
どんな声で笑うのかも。
誰も話さなかった。
女の話をしているはずなのに、誰の話でもなかった。
そして今日。
薔薇の間で、ジェフリーは反対側に座っていた。
顔や家の格、土地、持参金を並べられ、比べられ、釣り合うかどうかを量られる。
ジェフリー・ハルセリンという人間が、何をして、何を考え、何を大事にしているのかを、誰も尋ねなかった。
それは、母親に背中を押されて、順番に立たされていた娘たちも同じだった。
ユリアナ・クロイツァーが、薬草の頁なら何時間でも眺めていられる娘だということを。
あの客間では、誰も知らなかった。
* *
「ユリアナ!」
温室の入口から、鋭い声が響いた。
ユリアナの肩が、びくりと揺れた。
公爵夫人が立っていた。
灰色の目が、床に広がった娘の衣装から、膝の上の本へ移る。
「何をしているの。皆さまがお待ちよ。それに、こんなところでハルセリン様と二人きりなど」
ユリアナは、本を抱えて立ち上がった。
ジェフリーも立ち、公爵夫人へ頭を下げた。
「私が、お尋ねしていました」
「あなたが?」
「はい。熱を下げる薬草のことを。兵舎の医務室で見かける薬草に、知らないものがありましたので」
公爵夫人の視線が、本へ落ちた。
「薬草?」
「ユリアナ様は、とてもよくご存じでした」
ジェフリーは、それだけ言った。
公爵夫人は、娘とジェフリーを見比べたあと、ゆっくり扇を開いた。
「……そう。それは、ようございましたわね」
少しも、そう思っている声ではなかった。
「でも、ユリアナ。殿方は、薬草の話ばかりする娘より、歌の上手な娘をお好みになるものよ。さあ、いらっしゃい」
ユリアナは本を胸に抱え、何も言い返さず母親のあとについていった。
温室の扉の前で、一度だけ振り返る。
ジェフリーと目が合った。
仕方ないでしょう、とでも言うように、小さく肩をすくめた。
【四 三十七通】
茶会が終わり、北の丘の屋敷へ戻ったころには、外はすっかり暗くなっていた。
父は、書斎にいた。
朝と同じ机に、朝と同じ書状の山がある。
違うのは、燭台に火が入り、窓の外に王都の灯が見えていることだけだった。
ジェフリーは、机の前に立った。
父が、書類から目を上げた。
「どうだった」
すぐには答えられなかった。
薔薇の間に満ちていた甘い香水の匂いが、まだ服に残っているような気がした。
「父上」
「何だ」
ジェフリーは、机の上の書状を見た。
「私は、品物ですか」
父の手が止まった。
「顔がいいから。侯爵家の跡取りだから。それで、値段がつく」
机の上には、三十七通。
「相手の娘の髪の色と、持参金と、土地と、家の格と。全部、並べて比べられる」
喉の奥が、少し詰まった。
「今日、薔薇の間で、私が騎士であることを、大事だと思っている人は誰もいませんでした」
リーゼ川の話をしても、誰も続きを尋ねなかった。
「ユリアナ様が薬草の本を読むことも、誰も知ろうとしていませんでした」
服の脇で、指がゆっくり握られた。
「兵舎では、男たちが女の人のことを、品物みたいに話すことがあります」
ジェフリーは、父を見た。
「私は、それが嫌でした」
一度、言葉を切った。
「でも、今日の薔薇の間は、あれと何がちがうのですか」
十五歳の少年の声が、ほんの少しだけ震えた。
* *
父は、長いあいだ何も言わなかった。
暖炉の中で、薪が崩れた。火の粉が小さく舞い、すぐに消えた。
やがて父は、机の上にある三十七通の書状を両手でまとめた。
赤も、青も、緑も。
ひとつの束にして、机の端へ置く。
「何も、ちがわん」
ジェフリーは、思わず父を見た。
貴族とはそういうものだ。
騎士たちのくだらない話と一緒にするな。
そう叱られると思っていた。
「貴族の婚姻とは、もともと、そういうものだ」
父の声は、いつもと変わらなかった。
「家と家が、互いに持っているものを並べる。家格。土地。金。役職。血筋。その上で、釣り合うかどうかを量る」
ジェフリーは、黙って聞いていた。
「わたしと、お前の母親の婚姻も、始まりは家同士の話だった」
「母上も?」
「そうだ」
短い返事だった。
そのまま話が終わるのかと思った。
少しの沈黙のあと、父は続けた。
「だが、わたしは、縁組の話が来るより前に、あれを知っていた」
ジェフリーは、息を止めた。
父が、母のことを話している。
母が死んでから七年。
父の口から、クララがどんな人だったのかを聞いたことは、ほとんどなかった。
ジェフリーは動かなかった。
少しでも何かを言えば、そこで話が終わってしまいそうな気がした。
「王宮の書庫だった」
父は、机ではないどこかを見ていた。
「あれは、財務の古い帳簿の写しを読んでいた」
「……母上が、帳簿を?」
父の口もとが、ほんのわずかにやわらいだように見えた。
「女が、そんなものを読むのは珍しい、と言った」
「母上は、何と」
父は、一度、目を伏せた。
「あれは、『珍しいのは、読む女ではありません。読ませない家のほうです』と言った」
ジェフリーは、何も言えなかった。
窓辺で刺繍をしていた母。
少しだけ首をかしげて笑っていた母。
自分が知っている姿とは少し違う。
それでも、その返し方が、なぜだかとても母らしいと思った。
「縁組の話が来たのは、そのあとだ」
父は、書状の束へ視線を戻した。
「わたしは、秤の上で、あれを選んだのではない」
* *
父は、書状から手を離した。
「この三十七通は、すべて断る」
ジェフリーは、顔を上げた。
「……公爵家も、ですか」
「公爵家もだ」
「でも――」
「角が立つなら、立てておけ」
父は、新しい紙を一枚取り出した。
「公爵家への説明は、わたしがする」
ペン先をインクへ浸し、返書を書きはじめる。
「ハルセリン家の跡取りの縁組は、本人が成人するまで、一切受けぬ。そう返す」
ジェフリーは、父の手もとを見ていた。
紙の上に、黒い文字が増えていく。
「成人したら、自分で決めろ」
父は、返書を書きながら言った。
「ただし、顔や家で決めるな」
ジェフリーは、父を見た。
ペン先が、紙の上を静かに進んでいく。
「その人間を見ろ」
それだけ言うと、父は再び返書へ目を落とした。
ジェフリーも、何も答えなかった。
ただ、その言葉だけは、いつまでも耳に残った。
【 五 兵舎へ】
その夜、ジェフリーは兵舎へ戻った。
大部屋の扉を開けると、薪の煙と革と汗、それに濡れた靴の匂いがした。
公爵家の薔薇の間とは、何もかも違っていた。
入口の壁にもたれていたヨアヒムが、ジェフリーを見るなり、にやりとした。
「よう、坊主。今日は公爵家の茶会だったんだってな。今度こそ、きれいなお嬢さん方に囲まれたか?」
ジェフリーは、少し考えた。
「羊の市でした」
ヨアヒムが、目をぱちくりさせた。
「……は?」
「私も、羊でした」
そのまま横を通りすぎ、大部屋の奥にある自分の寝台へ向かう。
背後で、ヨアヒムが首をかしげている気配がした。
* *
寝台へ腰を下ろし、家庭教師から送られてきた書物を開いた。
二行ほど読んだところで、目が止まった。
頁を戻して、もう一度読む。
やはり、頭に入ってこなかった。
ジェフリーは、書物を膝の上へ下ろした。
思い出したのは、薔薇の間だった。
自分へ集まっていた、いくつもの視線。
その向こうで、母親に名前を呼ばれるたびに立ち上がっていた娘たち。
エリーゼは、最後までほとんど顔を上げなかった。
カタリナは、竪琴を弾く前に、何度も指先を組み直していた。
マルガレーテは、母親が自分の背丈の話をしているあいだ、黙って茶碗を見ていた。
何を考えていたのかは、ジェフリーにはわからなかった。
ただ、あの部屋のことを思い返すと、もう一度同じ場所へ座りたいとは思えなかった。
ジェフリーは、しばらく閉じた書物の表紙を見ていた。
薔薇の間で聞いた言葉が、ふと頭に戻ってきた。
――わたしたち、市場の羊みたいね。
最初に聞いたときは、妙な言い方をすると思った。
今は、少しだけわかる気がした。
兵舎では、酒の入った騎士たちが、女の髪や体つきや値段の話をしていた。
今日の茶会では、娘たちの髪や肌や持参金が並べられ、自分もまた、顔と家柄を見られていた。
同じなのかもしれない、とジェフリーは思った。
それ以上のことは、うまく言葉にならなかった。
ただ、父に言われたことだけは覚えていた。
――顔や家だけで決めるな。
――その人間を見ろ。
ジェフリーは、膝の上の書物をもう一度開いた。
* *
翌朝。
夜明け前の訓練場には、薄い霜が降りていた。
吐く息が白くなる。
ジェフリーは、木剣を握った。
足を運び、振る。
型を戻し、また振る。
誰もいない訓練場に、木剣が空を切る音だけが続いていた。
その音を聞きながら、ジェフリーは心に決めた。
いつか、自分が誰かを見るときは、量らない。
顔でも、家でもなく。
その人が何を読んで、何に手を伸ばし、何のためにそこに立っているのかを、自分の目で見る。
木剣を振り切った先で、東の空が白みはじめていた。
* * * * * *
その冬。
クロイツァー公爵家の末娘が、王都の施療院へ通いはじめたという噂が、兵舎まで流れてきた。
修道女たちから、薬草の扱いや煎じ方を習っているらしい。
公爵夫人は、たいそう嘆いているという。
その話を聞いたとき、ジェフリーは厩にいた。
灰色の馬の前脚を持ち上げ、蹄の溝につまった泥を、小さな道具でかき出していた。
「へえ。公爵家のお嬢様が施療院だとよ」
少し離れたところで、騎士が話していた。
「変わった娘もいるもんだな」
ジェフリーは、何も言わなかった。
蹄を支えていた手から、ほんの少しだけ力が抜けた。
馬が、鼻を鳴らす。
ジェフリーは、その脚を静かに地面へ戻した。




