【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―柵の向こうの見物人―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが、若くして一般の騎士になったころのお話しです。
まだ「氷の騎士」と呼ばれる前。
母によく似た顔を持つ少年が、人の目にさらされることと、自分自身を見てもらうことの違いを、少しずつ知っていくお話です。
【一 噂】
春の宴から、ひと月ほどたったころだった。
兵舎の訓練場は、王宮の西にあった。
低い石の柵の向こうには、西門へ続く石畳の道。
朝から晩まで、荷車や使いの者、王宮へ品物を納める商人たちが行き交っていた。
その柵の前に、人が立ち止まるようになった。
最初は、二人か三人だった。
荷を背負った洗濯女が、柵越しに訓練場をのぞきこんで、隣の女に何かを囁いた。
通りがかった菓子屋の小僧が、首を伸ばした。
王宮の厨房へ野菜を運ぶ男が、荷車を止めて、しばらく中を眺めていた。
みんな、同じものを探していた。
「どれだい。例の坊ちゃんは」
「ほら、あそこ。厩の前で桶を運んでる、金の髪の」
「へえ。あれが」
噂の出どころは、春の宴だった。
ハイデン伯爵夫人が、あちこちの茶会で話して回ったのだった。
亡くなったハルセリン侯爵夫人、クララ・ハルセリンの生き写しの息子が、騎士団の兵舎で馬の世話をしている。
顔は母親そっくりなのに、ちっとも笑わない。
まるで、氷でできた人形のようだ、と。
貴婦人たちの茶会の話は、侍女の口から下働きへ。
下働きから、市場の女たちへ。
市場から、酒場へ。
ひと月もしないうちに、王都じゅうへ広まっていた。
* *
柵の前の人は、日ごとに増えていった。
五人。
十人。
二十人。
朝の訓練が始まるころに集まって、昼まで帰らない者もいた。
焼き栗の包みを持つ者。
林檎を齧る者。
まるで、祭りの見世物でも眺めに来たようだった。
「クララ様の、生き写しだってさ」
「あたしの母親が昔、侯爵様のお屋敷で洗濯をしてたんだよ。奥方様は、そりゃあきれいな方だったって」
「ちっとも笑わないね」
「お人形だもの」
声は、訓練場の中まで届いていた。
ジェフリーは、桶を運びながら、それを聞いていた。
顔は、動かさなかった。
母の名前が、見物の口上になっていた。
窓辺で刺繍をしていた母。
高熱で細くなった手で、それでもジェフリーの手を握り返した母。
凍った土の下で眠っている母。
その名前を、何も知らない人たちが、焼き栗を齧りながら口にしていた。
ジェフリーは、桶の水を、馬の水桶へあけた。
手が、ほんの少しだけ震えていた。
【 二 兵長の舌打ち】
「どうなってるんだ、あれは」
兵長のブルーノが、訓練場の真ん中で、柵の向こうの人だかりを睨みつけた。
「ここは騎士団の兵舎だぞ。見世物小屋じゃない」
ブルーノは、柵へ大股で歩いていった。
「散れ! 用のない者は、とっとと行け!」
人だかりは、いったん散った。
半刻もすると、また、集まっていた。
* *
騎士たちも、面白くなかった。
訓練の最中に、柵の向こうから声が飛んでくる。
「あの赤ら顔のおじさん、どいとくれよ。坊ちゃんが見えないじゃないか」
ブルーノの顔が、さらに赤くなった。
剣の稽古をしていた若い騎士たちが、吹きだした。
ブルーノは、振り返って、騎士たちを睨んだ。
それから、厩の前で桶を洗っていたジェフリーを睨んだ。
ジェフリーは、何もしていなかった。
それでも、睨まれる理由が自分にあることは、わかっていた。
* *
その日の食堂。
ジェフリーの隣を通りすぎながら、年かさの騎士が言った。
「よう、お人形。今日も、ご贔屓さんがたくさんだったな」
別の騎士が笑った。
「侯爵家の坊ちゃんは、剣じゃなくて、顔で騎士になったんだ。武闘会の相手も、あの顔に見とれて、剣を落としたのさ」
「軍団長殿も、手もとが狂ったんだろうよ」
食堂じゅうが、どっと沸いた。
ジェフリーは、黒パンを齧っていた手を止めた。
――顔で、騎士になった。
八つの冬から、毎朝、夜明け前に棒を振った。
ハインツに、何千回、木剣を叩き落とされたか、もう覚えていない。
手のひらのまめが破れて。
乾いて。
また破れた。
武闘会の日。
六十人のうち、最後のひとりまで残った。
軍団長の剣を受けて。
何度も膝をつきかけて。
それでも最後に、半歩だけ横へずれた。
全部、顔の話になった。
ジェフリーは、黒パンを皿へ戻した。
何も言わず、食堂を出た。
背中で、笑い声が聞こえた。
その中に、ヨアヒムの声はなかった。
ヨアヒムは、食堂の隅で、黙ってスープを飲んでいた。
笑ってはいなかった。
けれど、何かを言うこともなかった。
【三 若駒】
その日は、朝から風が強かった。
厩には、北の牧場から届いたばかりの若駒が三頭いた。
まだ人に慣れきっていない、気の立った馬たちだった。
厩番の老人、クルトが言った。
「坊ちゃん。今日は若駒を、柵ぎわの放牧場へ出すぞ」
クルトは、一頭の首筋を撫でた。
「こいつらは、音に驚く。手綱は短く持て。急ぐな。ゆっくり歩かせろ」
クルトは、もう六十を過ぎていた。
曲がった背中。
節の太い指。
騎士団の厩で、四十年、馬の世話をしてきた男だった。
ジェフリーが兵舎へ来た最初の日から、厩の仕事を教えてくれたのも、クルトだった。
蹄の溝の泥をかき出すこと。
ブラシをかける順番。
馬の耳の向きで、機嫌を読むこと。
――馬はな、坊ちゃん。嘘をつかねえ。耳を見てりゃ、何でもわかる。
ジェフリーは、一頭の手綱を取った。
クルトも、もう一頭を引いた。
二人で、放牧場へ向かった。
* *
放牧場は、訓練場の端の石の柵のすぐそばにあった。
その日も、柵の向こうには人が集まっていた。
ジェフリーが若駒を引いて出てくると、人だかりがざわめいた。
「出てきた、出てきた」
「ほら、馬を引いてるよ」
「こっち向いておくれ、坊ちゃん!」
誰かが、柵の上へ身を乗り出した。
そのとき。
強い風が吹いた。
見物人のひとりが手にしていた、大きな布の日傘があおられた。
ばさり、と。
白い布が、柵の上で大きく開いた。
若駒の耳が、ぴたりと後ろへ倒れた。
――耳を見てりゃ、何でもわかる。
「クルト!」
ジェフリーが叫んだ。
同時に、クルトの引いていた若駒が、後ろ脚で立ち上がった。
高くいななきながら、前脚で宙をかいた。
クルトは、手綱を離さなかった。
四十年、馬の世話をしてきた男だった。
手綱を離せば、馬は柵へ突っこむ。
その向こうには、人がいた。
若駒が、首を大きく振った。
クルトの体が、手綱ごと横へ振り飛ばされた。
地面に。
鈍い音がした。
* *
ジェフリーは、自分の若駒の手綱を、柵の杭に巻きつけた。
走った。
暴れている若駒の、真正面には立たなかった。
斜め前へ回りこむ。
蹄が、すぐ目の前の空を蹴った。
ジェフリーは、動かなかった。
目を見た。
耳を見た。
それから、低く、ゆっくりと声をかけた。
クルトが毎朝、馬へかけていた声だった。
「よしよし」
若駒の鼻が、大きく鳴った。
「大丈夫だ」
耳が、ほんの少しだけ前を向いた。
ジェフリーは、地面に垂れた手綱を拾った。
短く持つ。
若駒の首へ、手のひらを当てた。
汗で、ぐっしょり濡れていた。
その下で、心臓が早鐘のように打っている。
「大丈夫だ」
前脚が、地面に下りた。
若駒は、もう一度、鼻を鳴らした。
それから、首をジェフリーの肩へ押しつけた。
* *
柵の向こうは、静まりかえっていた。
白い日傘は、閉じられていた。
ジェフリーは、手綱を持ったまま、クルトのそばへ膝をついた。
クルトは、顔をしかめて右腕を押さえていた。
腕が、おかしな方向へ曲がっていた。
「……ちくしょう」
クルトが、歯の隙間から息を吐いた。
「年は、取りたくねえな」
ジェフリーは、柵の向こうを見た。
見物人たちが、こちらを見ていた。
さっきまで、あれほど声を上げていた人たちだった。
誰も、何も言わなかった。
やがて、ひとりが離れた。
また、ひとり。
日傘を持っていた女も、顔を伏せて、足早に歩き去った。
【四 医務室】
クルトの腕は、折れていた。
医務室で、ヘルマンが骨を継いだ。
ジェフリーは、クルトの肩を押さえていた。
骨が戻るとき。
クルトは、喉の奥が低く唸った。
ヘルマンは、添え木を当てて、包帯を巻いた。
「ひと月半は動かすな。厩の仕事は、その間、ほかの者にやらせろ」
クルトは、天井を見たまま、黙っていた。
* *
医務室を出ると、廊下にブルーノが立っていた。
腕を組んで、ジェフリーを見下ろしていた。
「坊主」
「はい」
「クルトは、四十年、一度も、馬に怪我をさせられたことがなかった」
ジェフリーは、黙っていた。
「お前のせいだとは言わん。お前は、何もしていない。日傘を開いたのは、柵の外の女だ」
ブルーノは、組んだ腕を解いた。
「だがな。あの見物人どもは、お前を見に来ている。お前がいなければ、あそこに人は集まらなかった。人が集まらなければ、日傘も開かなかった」
ブルーノの声は、怒鳴り声ではなかった。
それが、かえって重かった。
「わかるな」
「……はい」
ブルーノは、ため息をついた。
それから、少しだけ声の調子を変えた。
「若駒を抑えたのは、よくやった。あれを放っておいたら、柵を破って、見物人の中に突っこんでいた。死人が出ていたかもしれん」
ブルーノは、背を向けた。
「明日から、お前は、裏の厩の担当だ。訓練場からも、柵からも、見えない場所だ。クルトの代わりに、そこの馬を全部見ろ」
* *
廊下の先で、年かさの騎士たちが話しているのが聞こえた。
「聞いたか。お人形の見物人のせいで、クルトの爺さんが腕を折ったってよ」
「そら見ろ。顔のいいやつが来ると、ろくなことにならん」
ジェフリーは、その横を通りすぎた。
顔は、動かさなかった。
【 五 裏の厩】
裏の厩は、兵舎の北側にあった。
日がほとんど当たらない。
古い馬。
怪我をした馬。
気性の荒い馬。
そういう馬たちが、そこへ入れられていた。
石の壁には苔がつき、冬には水桶に氷が張るという。
訓練場の声も。
柵の向こうのざわめきも。
ここまでは届かなかった。
ジェフリーは、黙って働いた。
夜明け前に、ひとりで木剣を振る。
それから裏の厩へ行き、八頭の馬に水と飼い葉をやる。
寝藁を替える。
蹄を洗う。
ブラシをかける。
誰にも、見られなかった。
それが、楽だった。
楽だと思う自分が、少しだけ、嫌だった。
* *
数日後。
クルトが、添え木の腕を首から吊って、裏の厩へやってきた。
「おう、坊ちゃん。ちゃんとやってるか」
「クルト。寝ていないと」
「寝てたら、腐っちまう」
クルトは、入口の樽へ腰を下ろした。
ジェフリーが、灰色の老馬の蹄を洗うのを、黙って見ていた。
しばらくして。
「……すまなかったな、坊ちゃん」
ジェフリーは、手を止めた。
「どうして、クルトが謝るのですか」
「ブルーノのやつが、お前をここに追いやったって聞いた。俺がしくじったせいでな」
「しくじったのは、クルトではありません」
ジェフリーは、蹄の溝から泥をかき出した。
「人が集まったのは、私のせいです」
クルトの太い眉が寄った。
「坊ちゃんが、何をした」
「何も、していません」
ジェフリーは、老馬の脚を、そっと地面へ戻した。
「何もしていないのに、人が来ます」
声が、少しかすれた。
「母の名前を言いながら。私の顔を見に」
クルトは、何も言わなかった。
「顔で騎士になったと言われます」
ジェフリーは、自分の手を見た。
「武闘会の相手は、私の顔に見とれて、剣を落としたのだと」
少し、間があった。
「八つのときから、毎朝、棒を振ってきたことは、誰も知りません」
ジェフリーは、唇を閉じた。
「知ろうとも、しません」
* *
厩の中に、馬が飼い葉を噛む音だけが続いた。
クルトは、しばらく黙っていた。
それから、添え木のない手で、灰色の老馬の首を、ぽんぽんと叩いた。
「この婆さんはな、坊ちゃん」
老馬が、耳を動かした。
「十五年前まで、近衛の隊長の馬だった。戦場を三つ渡った」
クルトは、白く濁った馬の目を見た。
「今じゃ、歯も抜けた。目も、ろくに見えねえ」
老馬が、クルトの手へ鼻づらを押しつけた。
「こいつには、坊ちゃんの顔なんざ、ほとんど見えちゃいねえ」
クルトは、ジェフリーを見た。
「それでも、ここ数日で、お前にだけは脚を上げるようになった。ほかのやつがやると、まだ蹴る」
ジェフリーは、老馬を見た。
耳が、こちらへ向いていた。
「馬は、顔なんざ見ちゃいねえ」
クルトは言った。
「手を見てる」
ジェフリーの目が、自分の手へ落ちた。
「どう触るか。どう声をかけるか。どれだけ待つか」
クルトは、樽から立ち上がった。
「柵の外の連中に、坊ちゃんの手は見えねえ。見えねえやつらの言うことなんざ、気にするな」
* *
入口で、クルトが振り返った。
「それにな」
「はい」
「あの日、若駒を抑えたのは、坊ちゃんの手だ。顔じゃねえ」
クルトが去ったあと。
ジェフリーは、しばらく、灰色の老馬の首に手を当てていた。
温かかった。
【 六 柵の前】
それからも、柵の前に人が集まることはあった。
ジェフリーがいなくなったと知ると、見物人は少しずつ減っていった。
ひと月がたつころには、柵の前に立ち止まるのは、ときおり通りがかりの者がのぞきこむくらいになった。
「最近、見かけないね。例のお人形」
「もう、侯爵家に帰ったんじゃないのかい」
「やっぱり、顔だけの坊ちゃんだったのさ」
そんな声が、訓練場に届いた。
ジェフリーは、裏の厩でそれを聞かなかった。
* *
クルトの腕が治り、厩へ戻ってきた日。
ジェフリーは、ブルーノに呼ばれた。
「表の厩に戻れ。クルトが、お前を返せとうるさい」
「……はい」
ジェフリーは、頭を下げた。
それから、少しだけ迷った。
「兵長。ひとつ、お願いがあります」
「何だ」
「表の厩にいるあいだ、外套の頭巾をかぶっていてもよろしいでしょうか」
ブルーノは、眉を寄せた。
「夏だぞ」
「わかっています」
ブルーノは、ジェフリーの顔を、しばらく見ていた。
赤ら顔の上で、何かを言いかけて。
やめた。
「……好きにしろ」
* *
それから、夏のあいだじゅう、ジェフリーは、表の厩で頭巾をかぶって働いた。
汗が、頭巾の中で額を伝った。
髪が、首筋に張りついた。
それでも、外さなかった。
柵の向こうから、通りがかりの者が、ちらりとのぞきこむことがあった。
頭巾をかぶった騎士見習いを見ても。
誰も、足を止めなかった。
ジェフリーは、顔を伏せて馬にブラシをかけた。
誰にも見られずに。
母の名前を、誰にも言われずに。
それがいちばん、息がしやすかった。
* *
ある夕方。
厩の仕事を終えて、ジェフリーが頭巾を外して汗を拭っていると、厩の入口に、ヨアヒムが立っていた。
何か言いたそうな顔をしていた。
しばらく、黙ってジェフリーを見ていた。
やがて。
「……あの日の若駒」
ジェフリーは、顔を上げた。
「お前が抑えたんだってな。クルトの爺さんから聞いた」
ジェフリーは、手ぬぐいを持ったまま、ヨアヒムを見た。
ヨアヒムは、目をそらした。
「食堂の連中は、そこは話さなかった」
少し、間があった。
「俺も、話さなかった」
ヨアヒムは、厩の柱を拳で軽く叩いた。
それだけ言って、背を向けた。
ジェフリーは、呼び止めなかった。
夜明け前の訓練場に、ヨアヒムが初めて姿を見せたのは、それから三日後だった。
* * * * * *
ジェフリーは、頭巾をかぶった。
厩の入口から、西の空が茜色に染まっているのが見えた。
――馬は、顔なんざ見ちゃいねえ。
――手を見てる。
ジェフリーは、自分の手を見た。
まめの残る手。
爪のあいだに、まだ少し土の入った手。
それから、頭巾の端を指先で少しだけ引き下ろした。
人は、馬ほど素直には、手を見てくれない。
十四の夏。
ジェフリーは、そう覚えた。
顔ではなく。その手が何をしてきたのかを、見てくれる人がいることを。
このころのジェフリーは、まだ知らなかった。




