【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ― 母の顔 ―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが、まだ十四歳だったころの物語です。
のちに「氷の騎士」と呼ばれることになる彼が、騎士になったばかりの頃、何を見て、何を感じ、少しずつ今の彼になっていったのか。
本編では描かれていない、若き日のジェフリーの一幕です。
【一 春の宴】
十四の春の終わり。
武闘会から、ひと月ほどたったころ。
兵舎に、一通の書状が届いた。
父からだった。
王宮で、春の終わりを祝う宴が開かれる。
ハルセリン家の跡取りとして、出席するように。
騎士の服で構わない。
それだけが、父の几帳面な字で書かれていた。
ブルーノは、書状を読むと、鼻を鳴らした。
「侯爵様のお呼びじゃ、断れんな。一晩だけだ。翌朝の厩は、誰かに代わらせておく」
* *
宴の夜。
ジェフリーは、兵舎で支給された騎士の服を着て、王宮の大広間の入口に立った。
袖は、まだ手の甲を覆っていた。
出がけに、ヨアヒムが袖口を内側へ折りこんで、針で留めてくれた。
「坊主。侯爵家の坊ちゃんが、袖の長い服で出たら、兵長の俺が笑われる」
大広間は、光であふれていた。
高い天井から下がった燭台に、何百もの蝋燭がともっている。
磨き上げられた床には、絹と宝石をまとった人々の姿が、揺れるように映っていた。
広間の奥では、楽師たちが弦を奏でている。
父は、広間の向こうで、財務官らしい男たちに囲まれていた。
ジェフリーに気づくと、ほんのわずかに顎を引いた。
こちらへ来い。
それだけで、わかった。
* *
父のもとへ歩いていく途中。
ひとりの貴婦人が、ジェフリーの前に立った。
四十ほどの、ふくよかな婦人だった。
深い紅の絹をまとい、首には、大粒の真珠を幾重にも巻いていた。
婦人は、ジェフリーの顔を見るなり、扇で口もとを覆った。
「まあ」
扇の上で、目が大きく見開かれた。
「まあ……あなた、ハルセリン家の」
「ジェフリー・ハルセリンです」
ジェフリーは、頭を下げた。
婦人は、扇をゆっくりと下ろした。
「なんてこと。お母様に、そっくりだわ」
ジェフリーは、顔を上げた。
「わたくし、お母様とは、娘時代に同じ家庭教師についていたのよ。本当に、その目もと。髪の色も。口もとも」
婦人は、しげしげとジェフリーの顔を見た。
「まるで、あの方が男の子の服を着て、ここに立っているみたい」
それから、近くにいた婦人たちを振り返った。
「皆さま。少し、いらして。ご覧になって」
* *
婦人たちが、集まってきた。
五人。
六人。
七人。
色とりどりの絹の裾が、ジェフリーを囲んだ。
花のような香水の匂いが、急に濃くなった。
「まあ。本当だわ」
「生き写しね」
「十五、六のころのあの方に、よく似ていらっしゃる」
「初めての夜会で、白いお衣装を着ていらしたでしょう。覚えているわ」
「もう六年になるのね。高熱病で……本当に、お気の毒だったわ」
「それでも、こうして面影が残っているのですもの。侯爵様も、お慰めでしょうね」
婦人たちは、ジェフリーの顔を見ながら口々に言った。
目を見て。
髪を見て。
頬を見て。
まるで、一枚の絵を眺めるように。
ジェフリーは、動けなかった。
言葉は、どれも優しかった。
母を懐かしむ言葉。
母を惜しむ言葉。
それなのに。
ひとつ聞くたびに、胸の奥の何かが、少しずつ冷たくなっていった。
* *
「ねえ。少し、こちらを向いてくださる?」
紅の絹の婦人が、ジェフリーの肩に手を置いた。
燭台の光が当たるほうへ、体を向けさせる。
「ほら。こうすると、もっと似ていらっしゃるわ」
婦人は、懐かしそうに目を細めた。
「少し、笑ってごらんなさい。あの方は、いつも、ほんの少し首をかしげて笑っていらしたの」
ジェフリーは、笑わなかった。
笑えなかった。
母は、たしかに、少しだけ首をかしげて笑う人だった。
窓辺の椅子で、刺繍の手を止めて。
ジェフリーが、昔の王の名前を覚えるのは嫌いだと言ったとき。
――お父様には、内緒にしておきましょうね。
そう言って、笑った。
あの笑顔は、母の部屋の、あの窓辺にあったものだった。
ジェフリーに向けられたものだった。
それを、この人たちは、燭台の下で、ジェフリーの顔に探している。
「あら。笑わないのね」
ひとりの婦人が、残念そうに言った。
「お顔はそっくりなのに。そこは、お父様似なのかしら」
扇の陰で、小さな笑い声が重なった。
* *
「そうだわ」
紅の絹の婦人が、手を打った。
「西の回廊に、あの方の肖像画が掛かっているでしょう。春の庭で描かれた、ハルセリン家から寄進された絵」
婦人の声が弾んだ。
「あの前に立っていただきましょうよ。並べて見たら、きっと驚くわ」
「まあ、素敵」
「ぜひ見てみたいわ」
婦人の手が、ジェフリーの腕を取った。
ジェフリーは、その手を、そっと外した。
「……失礼いたします」
一歩、退いた。
「あら、どちらへ?」
答えなかった。
もう一度、頭を下げた。
そして、婦人たちに背を向けた。
人波の向こう。
露台へ続く扉へ向かって、歩いた。
走らなかった。
走れば、何かがこぼれそうだった。
【二 露台】
露台には、誰もいなかった。
春の終わりの夜風が、まだ少し冷たかった。
広間の弦の音が、閉じた扉の向こうから、遠く聞こえている。
ジェフリーは、石の手すりに両手をついた。
手が、震えていた。
武闘会の日。
軍団長の剣を前にしても、震えなかった手だった。
眼下には、王都の灯が広がっていた。
北の丘の上に、ハルセリン侯爵家の屋敷も見えた。
二階の奥。
母の部屋の窓は、暗かった。
六年前から、ずっと。
――まるで、あの方が男の子の服を着て、ここに立っているみたい。
違う。
ジェフリーは、手すりを握った。
ここにいるのは、母ではない。
母は、もう死んだ。
凍った土の下にいる。
最後の土をかけたのは自分だった。
小さな両手で土をすくって。
棺の上へ落として。
冷えて固くなった土を、何度も手のひらで押した。
母は、もう、どこにもいない。
それなのに。
あの人たちは、ジェフリーの顔を見て、母を見ていた。
ジェフリーを、見ていなかった。
厩で馬の蹄を洗っていることも。
夜明け前の訓練場で、木剣を振っていることも。
武闘会で、何のために剣を握ったのかも。
誰も、聞かなかった。
ただ顔を見て。
母の話をして。
笑った。
* *
背後で、扉が開いた。
ジェフリーは、振り返らなかった。
靴音が、石の床を近づいてくる。
隣で止まった。
父だった。
ガレル・ハルセリンは、手すりの前に立ち、眼下の王都を見下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
ジェフリーも、何も言わなかった。
閉じた扉の向こうから、婦人たちの笑い声が聞こえた。
「……ハイデン伯爵夫人か」
父が、ぽつりと言った。
紅の絹の婦人の名だった。
「あの女は、昔から、ああだ」
父は、王都を見たまま続けた。
「お前の母親の初めての夜会では、衣装の値段を、広間じゅうに聞こえる声で言った」
ジェフリーは、父を見上げた。
父の表情は、いつもと変わらなかった。
「……父上も、言われるのですか」
「何をだ」
「母上に似ていると。私の顔が」
父は、黙った。
夜風が、二人のあいだを抜けていった。
「毎度だ」
やがて、父は言った。
「この六年、宴に出るたびに、誰かが言う」
父の声は、平らだった。
「奥方様の面影が、坊ちゃんに残っていて、お慰めでしょう、とな」
ジェフリーは、父の横顔を見た。
そのとき。
父の手が目に入った。
手すりの上で、強く握られていた。
指先が、白くなるほど。
ジェフリーは、その手を見た。
父も、慰められてなど、いなかった。
* *
「父上」
「何だ」
「私は、母上の顔をしていますか」
父が、ようやくジェフリーを見た。
広間の光が、扉の隙間から細く漏れ、ジェフリーの顔の半分を照らしていた。
父は、長いあいだ、その顔を見ていた。
「目は、母親だ」
父は言った。
「髪も、そうだ」
それから。
父の目が、下へ落ちた。
ジェフリーの手。
手すりを握る、まめだらけの手。
木剣を握り続けて、皮が厚くなった手。
「だが」
父は言った。
「その手は、お前のものだ」
ジェフリーは、自分の手を見た。
「顔は、生まれたときに、親から与えられる。お前が選んだものではない」
父は、王都の灯へ目を戻した。
「その手は違う」
短い沈黙。
「お前が、自分で作った」
ジェフリーの指が、ほんの少し動いた。
「雪の中で、棒を振って。土を掘って。馬の世話をして。剣を握って」
父の声は、変わらなかった。
「誰に何を言われても、それは誰にも取り上げられん」
* *
父は、手すりから手を離した。
「戻るぞ。陛下へのご挨拶が、まだだ」
「……はい」
父が、扉へ向かって歩きだした。
二、三歩。
そこで、止まった。
振り返らなかった。
「ハイデン夫人が、西の回廊の絵の前に、お前を立たせたいと言っていたそうだな」
ジェフリーは、顔を上げた。
「あの絵は、明日、屋敷へ戻す」
それだけ言った。
扉が開いた。
父は、広間の光の中へ戻っていった。
【三 顔のない顔】
ジェフリーも、広間へ戻った。
父の隣に立ち、国王へ挨拶をした。
財務官たちに、名前を名乗った。
遠くで。
さきほどの婦人たちが、扇の陰からジェフリーを見ていた。
ジェフリーは、そちらを見なかった。
ひとつだけ、決めたことがあった。
顔を、動かさない。
笑わない。
眉を寄せない。
目を見開かない。
何を言われても。
何を囁かれても。
顔の上に、何も浮かべない。
そうすれば。
誰も、ジェフリーの顔に、母の笑顔を探せない。
母の笑顔は。
母の部屋の窓辺の、あの温かい場所に。
そこにだけ。
残しておける。
* * * * * *
宴のあと。
兵舎へ戻ると、ヨアヒムが大部屋の入口で待っていた。
「どうだった、坊主。侯爵家の宴は。きれいなご婦人方に囲まれたか?」
ジェフリーは、ヨアヒムを見た。
顔を、動かさずに。
ヨアヒムのにやにやした顔から、笑いが消えた。
「……何かあったか」
「いいえ」
ジェフリーは、袖口の針を外した。
ヨアヒムへ差し出した。
「ありがとうございました。袖、助かりました」
ヨアヒムは、針を受け取った。
指先で、一度だけ、転がした。
それ以上は、聞かなかった。
* *
翌朝。
夜明け前の訓練場で、ジェフリーは、いつもより長く木剣を振った。
速く。
もっと、静かに。
顔には、何も浮かべずに。
ハインツに教わった型を、ひとつずつ。
母から与えられた顔ではなく。
自分で作った手で。
東の空が白みはじめるころ、ジェフリーは、ようやく木剣を下ろした。
額の汗を、袖で拭った。
袖はまだ、手の甲を覆っていた。
* *
その春から。
王宮の宴で、ハルセリン家の跡取りが話題に上ると、決まって、こんな言葉が添えられるようになった。
「お顔は、奥方様にそっくりなのに」
「ちっとも、お笑いにならないのよ」
「まるで、氷でできたお人形みたい」
ジェフリーは、その噂を知っていた。
知っていて、顔を動かさなかった。
それから四年後。
王都の人々が、ジェフリー・ハルセリンを「氷の騎士」と呼ぶようになったころ。
その名の、最初の小さな欠片が、十四の春の終わり、あの露台で生まれていたことを知る者は、ほとんどいなかった。
そして、ハルセリン侯爵家の、二階のいちばん奥。
かつて妻が使っていた部屋には、一枚の肖像画が掛けられていた。
春の庭で、まだ若いクララ・ハルセリンが微笑んでいる絵だった。
夜が深くなるころ。
その絵の前に、ときおり、ひとりの男が立っていた。
ガレル・ハルセリンだった。




