【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―兵舎の坊主―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが、十四歳で騎士団に入り、騎士として最初の一年を過ごしたころのお話です。
まだ、剣を持って外へ出ることさえ許されなかった少年が、馬の世話をし、薪を運び、人を助け、傷を手当てしながら、少しずつ「騎士であること」の意味を知っていくまで。
のちに「氷の騎士」と呼ばれる彼の、まだ誰からも「坊主」と呼ばれていたころの一幕です。
【 一 いちばん奥の寝台】
騎士団の兵舎は、王宮の西に建つ、古い石造りの建物だった。
昼でも廊下の奥は薄暗く、長い年月を吸いこんだ石壁には、革と油と薪の煙の匂いが染みついている。
ジェフリーに与えられたのは、二十人ほどが寝起きする大部屋の、いちばん奥にある二段寝台の下だった。
窓からは遠かった。
夜になると、石壁の冷たさが、薄い敷布と毛布を通して背中へ伝わってきた。
支給された騎士の服は、いちばん小さな寸法でも、まだ少し大きかった。袖口から指先を出すには、手をまっすぐ伸ばさなければならない。
十四歳のジェフリーは、周囲の騎士たちに混じれば、まだひと回り小さく見えた。
兵舎へ入った最初の朝。
大部屋を預かる兵長のブルーノが、ジェフリーの前に立った。
赤ら顔で、腹の出た、四十をとうに過ぎた男だった。
「お前が、武闘会の坊ちゃんか」
「ジェフリー・ハルセリンです」
「名前は聞いている」
ブルーノは腕を組んだ。
「陛下のお言葉もな。軍団長殿のお考えも、わかっている」
そこで一度、ジェフリーを頭から足もとまで眺めた。
「だが、ここは兵舎だ。侯爵家の屋敷じゃない」
「はい」
「十八にもならんやつを、剣を持たせて外へ出すわけにはいかん。お前の仕事は厩だ。馬の世話。武具磨き。薪運び。それが終わったら、訓練場を掃け」
「はい」
ジェフリーは、そのまま頭を下げた。
ブルーノが、少し妙な顔をした。
もっと何か言うと思っていたのかもしれない。
侯爵家の跡取りなのに、とか。
武闘会で勝ったのに、とか。
自分は騎士になったのだから剣を持たせろ、とか。
ジェフリーは何も言わなかった。
言われた仕事を覚えればいいのだと思った。
* *
兵舎の騎士たちは、ジェフリーを歓迎しなかった。
武闘会では、騎士団に所属する若い騎士が四人、十四歳の少年に剣を落とされていた。
最後には、軍団長にまで一太刀届かせた。
それが、よりによって侯爵家の息子だった。
面白く思わない者は、いくらでもいた。
「家の金で、よほどいい師匠を雇ったんだろう」
「陛下の御前だからな。軍団長殿も、子ども相手に本気を出せなかったんじゃないか」
「二、三年したら飽きて侯爵家へ帰るさ。そのうち王宮で、俺たちを見下ろす側になる」
聞こえるように言う者もいた。
聞こえないふりをして言う者もいた。
ある夜、寝台へ戻ると、毛布が水を吸って重くなっていた。
別の日には、長靴の中に砂がいっぱいに詰められていた。
食堂で、自分の椀にだけスープが入っていないこともあった。
ジェフリーは、何も言わなかった。
濡れた毛布は、厩の乾いた藁の上へ広げた。
長靴の砂は、戸口でひっくり返して捨てた。
スープのない日は、黒パンを水で流しこんだ。
ブルーノにも。
軍団長にも。
父にも。
言わなかった。
* *
いちばんしつこかったのは、ヨアヒムという十九歳の騎士だった。
武闘会で、ジェフリーが四人目に剣を落とした男だった。
――おい、坊ちゃん。乳母はどこだ。
そう言って笑っていた、あの男だった。
ヨアヒムは、廊下ですれ違えば、わざと肩をぶつけてきた。
ジェフリーが訓練場を掃き終えたあとには、泥のついた長靴で、わざわざ同じところを歩いた。
ある日の午後。
ジェフリーが厩で馬の蹄を手入れしていると、入口の柱にヨアヒムが寄りかかった。
「侯爵家の坊ちゃんが、馬糞まみれか」
笑いながら、腕を組む。
「屋敷の連中が見たら、泣くだろうな」
ジェフリーは、顔を上げなかった。
馬の後ろ脚を膝に載せ、蹄の裏につまった泥を、小さな鉄具で取り除いていく。
途中で、手が止まった。
「ヨアヒム殿」
「何だ」
「この馬、左の後ろ脚の蹄に、小さなひびがあります」
「……何?」
ジェフリーは、指先でその場所を示した。
細いひびが、蹄の端から上へ伸びている。
「このまま長い道を走らせると、広がると思います。深く割れれば、脚を痛めます」
ようやく顔を上げた。
「蹄鉄師に見せたほうがいいと思います」
ヨアヒムは、黙った。
「ヨアヒム殿の馬ですよね」
しばらく、馬の蹄を見ていた。
それから。
「……そうだよ」
舌打ちをひとつ残して、厩を出ていった。
翌日。
その馬は、朝から蹄鉄師のところへ連れていかれていた。
【 二 夜明けの訓練場】
剣を持って外へ出ることは、許されていなかった。
だからといって、剣を振ることまで禁じられたわけではない。
ジェフリーは、毎朝、誰よりも早く起きた。
まだ夜の色が残る訓練場へ出て、ひとりで木剣を振った。
ハインツに教わった型を、最初から。
足を運ぶ。
振り下ろす。
止める。
戻す。
初めは速く。
次は、同じ動きを、音を立てないほど静かに。
何度も繰り返した。
空が白みはじめるころ、木剣を片づけて厩へ向かった。
馬へ水と飼い葉をやり、汚れた寝藁を替え、背から脚までブラシをかける。
昼には、騎士たちの鎧の留め金を磨いた。
剣の小さな刃こぼれを砥石に当て、午後は薪を割り、兵舎の竈まで何往復もして運んだ。
夕方になると、訓練場の石畳を掃いた。
一日が終われば、いちばん奥の寝台へ戻る。
そこからが、もうひとつの仕事だった。
寝台の壁際に小さな灯りを置き、家庭教師から送られてきた書物を開く。
歴史。
法。
算術。
外国語。
父との約束だった。
騎士になることを許す代わりに、学問をひとつも捨てない。
ジェフリーも、その約束を破るつもりはなかった。
* *
ある朝。
いつものように訓練場へ出ると、柱のそばに人影があった。
ヨアヒムだった。
寝間着の上から外套を羽織り、眠そうな顔で腕を組んでいる。
ジェフリーは、木剣を構えたまま止まった。
「……毎朝、やってるのか」
「はい」
「何時から」
「鐘が鳴る前からです」
ヨアヒムは、まだ暗い空を見上げた。
「誰も見てないのにか」
ジェフリーは、木剣を下ろした。
「見せるために、振っているのではありませんから」
ヨアヒムは、何も言わなかった。
柱から背を離し、壁に立てかけてあった木剣を一本取る。
「一本、相手しろ」
二人は、訓練場の中央で向かい合った。
十を数える必要もなかった。
乾いた音がして、ヨアヒムの木剣が石畳の上を転がった。
武闘会の日と、同じだった。
ヨアヒムは、自分の空になった手を見た。
落ちた木剣を拾う。
「もう一本」
二本目。
落ちた。
三本目。
また落ちた。
その朝、ヨアヒムは十七回、木剣を落とした。
十八回目。
初めて、ジェフリーの振り下ろした木剣を正面から受け止めた。
二本の木剣が、鈍い音を立てた。
ヨアヒムは、肩で大きく息をした。
額から汗が落ちた。
それでも、笑った。
武闘会の日に見せた、人を馬鹿にする笑い方ではなかった。
「……明日も来るぞ」
「はい」
* *
それから、夜明けの訓練場は二人になった。
ひと月ほどたつと、三人になった。
さらにしばらくすると、五人になった。
ヨアヒムが、同じ年頃の若い騎士たちを連れてくるようになったのだ。
「坊主に、一本でも当ててみろ」
木剣を肩へ担ぎ、ヨアヒムは笑った。
「当てたやつには、俺が酒を一杯おごる」
誰も、その一杯にはありつけなかった。
それでも、翌朝になると、また誰かがやってきた。
いつの間にか、ジェフリーの毛布が濡らされることも。
長靴の中に砂を入れられることもなくなっていた。
【 三 川があふれた日】
十五歳になった春。
雨が続いた。
一日。
二日。
三日。
厚い雲が王都の空から動かず、屋根を叩く雨音が、夜になってもやまなかった。
王都の南を流れるリーゼ川があふれたのは、その雨が何日も続いたあとのことだった。
川沿いの低い村へ泥水が流れこみ、土手も何か所か崩れはじめているという報せが入った。
騎士団へ、出動命令が下った。
戦ではなかった。
土手へ土嚢を積み、村人を高い土地へ逃がす。
それが今回の仕事だった。
兵舎の前に騎士たちが並んだ。
外套を着こみ、鋤や縄を馬へ積んでいく。
ブルーノは、その列を端から確認していた。
ジェフリーの前で、足が止まった。
「坊主」
「はい」
「お前は残れ」
ほんの一瞬、ジェフリーの指が動いた。
「……はい」
頭を下げた、そのとき。
列の中から声がした。
「兵長」
ヨアヒムだった。
「剣を持たせて外へ出すなとは聞きましたが、鋤を持たせて外へ出すなとは聞いてませんよ」
あちこちから笑い声が起きた。
ヨアヒムは、気にせず続けた。
「あいつの薪割りの速さ、兵長もご存じでしょう。土嚢を運ばせたら、俺たち三人分は働きます」
ブルーノは、ヨアヒムを睨んだ。
ヨアヒムは知らん顔をしていた
次に、ジェフリーへ目を向ける。
長い息を、鼻から吐いた。
「……剣は置いていけ」
ジェフリーが顔を上げた。
「鋤だけだ。それから」
太い指が、ジェフリーへ向いた。
「川には、一歩も入るな」
「はい」
* *
リーゼ川の土手は、雨の中で、どこも同じ泥の色をしていた。
騎士たちは、村の男たちと並んで、麻袋へ土を詰めた。
口を縛る。
担ぐ。
崩れかけた土手へ積む。
また戻る。
ジェフリーも、それを繰り返した。
何度も。
何度も。
雨は、外套を通り抜け、服の内側まで濡らした。
足もとは泥に沈んだ。
土を詰めた麻袋は、持ち上げるたびに肩へ食いこんだ。
手のひらのまめが、一つ破れた。
次の袋を持った。
もう一つ、破れた。
それでも、手を止めなかった。
日が傾きはじめたころ、土手の下手から、悲鳴が聞こえた。
「坊やが!」
女の声だった。
「坊やが、まだいるんです!」
騎士たちが振り向いた。
崩れた土手の切れ目から、泥水が村へ流れこんでいた。
その先。
半分ほど水に浸かった納屋の屋根へ、小さな子どもがしがみついている。
母親らしい女が、土手の上で泣き叫んでいた。
騎士たちが、縄を持って走った。
水の流れは速かった。
納屋までは二十歩ほど。
深いところでは、大人の腰近くまで水がある。
ヨアヒムが、縄の端を自分の体へ結んだ。
「俺が行く」
水へ踏み入れようとした瞬間、足もとの土が崩れた。
「ヨアヒム!」
体が、泥水の中へ投げ出された。
縄が、一気に張った。
土手の上の騎士たちが引く。
濡れた泥で、靴が滑る。
ジェフリーは、持っていた鋤を放り出した。
縄へ飛びついた。
――川には、一歩も入るな。
ブルーノの声が、頭をよぎった。
入らなかった。
土手の上で両脚を開き、泥へ踵を押しこんだ。
縄を腕へ巻く。
引いた。
夜明け前から、何千回も木剣を振ってきた腕だった。
薪を割った、水桶を運んだ、馬を引いた、その腕で縄を引いた。
「戻せ!」
誰かが叫んだ。
騎士たちが、一斉に体を後ろへ倒す。
縄の先で、ヨアヒムが体勢を立て直した。
今度は、自分の足で流れを踏んだ。
一歩。
もう一歩。
やがて、納屋へたどり着いた。
屋根の上の子どもを、片腕で抱える。
「引けえっ!」
叫び声が飛んだ。
土手の上の全員が、縄を引いた。
少しずつ。
少しずつ。
泥まみれのヨアヒムと子どもが、こちらへ近づいてくる。
最後は数人が水際まで身を乗り出し、二人を土手へ引き上げた。
母親が駆け寄った。
子どもを胸へ抱きしめ、その場に膝をついて泣き崩れた。
ヨアヒムは、泥の上に仰向けになったまま、大きく息を吐いた。
しばらく空を見ていた。
それから、首だけを横へ向けた。
ジェフリーは、その隣に座りこんでいた。
まだ縄を握っている。
「……坊主」
「はい」
「お前」
ヨアヒムは、息を整えながら言った。
「川に入らなかったな」
ジェフリーは、濡れた前髪を額へ張りつかせたまま答えた。
「兵長の、ご命令ですから」
一拍。
ヨアヒムが声を上げて笑った。
泥だらけの手を伸ばし、ジェフリーの頭を、ぐしゃぐしゃとかき回した。
【四 軍医ヘルマン】
土手から兵舎へ戻ったころには、夜になっていた。
濡れた服を脱いだあと、ジェフリーの腕には、縄を巻いた跡が、赤黒く残っていた。
「お前、それ医務室へ行け」
ヨアヒムに言われた。
「大丈夫です」
「大丈夫な腕は、そんな色にならん」
半ば引きずられるようにして、医務室へ連れていかれた。
そこにいたのが、軍医のヘルマンだった。
白髪の混じった、痩せた男だった。
鼻の上に細い眼鏡をかけていて、その奥の目は、いつも眠そうに見えた。
ヘルマンは、ジェフリーの腕を取った。
指先で、腫れている場所を一か所ずつ押していく。
「ここは」
「少し痛みます」
「ここ」
「そこは、かなり」
「縄を巻いたな」
「はい」
ヘルマンは鼻を鳴らした。
「馬鹿なことをした。もう少し強く締まっていたら、骨にひびが入っていたぞ」
軟膏の壺を開けた。
薄く塗り、包帯を巻く。
手つきは速かった。
それなのに、不思議なくらい痛くなかった。
ジェフリーは、その手を見ていた。
やがて。
医務室の奥にある棚へ目を向けた。
分厚い本が何冊も並んでいる。
そのうちの一冊だけが、机の上に開かれていた。
人の体の絵だった。
皮膚の下。
筋肉。
骨。
血の通る道。
細い線で、ひとつひとつ描かれている。
「……それは、何の本ですか」
ヘルマンは、包帯の端を結びながら、ジェフリーを見た。
「解剖の書だ」
「解剖」
「人間の体が、どうできているか書いてある」
ジェフリーは、開かれた頁を見た。
「見せていただけますか」
ヘルマンの手が止まった。
眼鏡越しに、じっと見る。
「十五の子どもが喜んで読む本じゃないぞ」
「読みたいです」
「なぜだ」
ジェフリーは、少し考えた。
「騎士は、人を斬ります」
「そうだな」
「斬ったら、どこが壊れるのかを知りたいです」
ヘルマンの目が、少し細くなった。
ジェフリーは、包帯を巻かれた自分の腕を見た。
「それから」
指先で、白い布の端に触れた。
「壊れたところを、どうすれば痛くないように手当てできるのかも」
ヘルマンは、何も言わなかった。
ジェフリーは続けた。
「今日の先生の手は、痛くありませんでした」
しばらくして、ヘルマンは机へ手を伸ばした。
開いていた本を閉じる。
そのまま、ジェフリーの膝へ置いた。
ずしりと重かった。
「人の体の壊し方を知る者は、いたわり方も知らなければならん」
眠たげだった目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「それがわかっているなら、貸してやる」
ジェフリーは、本を両手で抱えた。
「ありがとうございます」
「汚すなよ」
* *
それから。
夜の読書に、解剖の書が加わった。
最初は、知らない言葉ばかりだった。
骨の名前。
筋肉の名前。
血の流れる方向。
わからないところへ細い紙を挟み、翌日、医務室へ持っていった。
「先生。これは」
「昨日も来たな、お前は」
そう言いながら、ヘルマンは答えた。
数日たつと、棚から骨の模型を出してくるようになった。
さらにしばらくすると、怪我をした騎士が運びこまれたとき、ジェフリーの名を呼ぶようになった。
「そこに立っているなら手伝え」
傷口を洗う。
布を当てる。
血が止まるまで押さえる。
傷を縫うあいだ、痛みで体を動かさないように肩を支える。
ある日。
顔を青くした若い騎士の傷を洗っていると、ヘルマンが言った。
「顔を強張らせるな」
ジェフリーが、顔を上げる。
「患者は、手当てする者の顔を見ている。お前が慌てれば、こいつも怖くなる」
「はい」
「それから」
ヘルマンは、傷口へ視線を戻した。
「触る前に聞け」
「何をですか」
「どこが痛む。どう痛む。いつからだ。何をしたら痛む」
ヘルマンは言った。
「見て。聞いて。それから触れ」
ジェフリーは、その言葉を覚えた。
「体は、口より正直なことがある」
【五 食堂の夜」
秋の、ある夜だった。
兵舎の食堂では、仕事を終えた騎士たちが、葡萄酒の壺を回していた。
声が大きくなる。
笑いが増える。
そのうち、話題が王都の酒場の女たちへ移った。
どこの店の女がどうだった。
誰を連れて帰った。
髪がどうだった。
体つきがどうだった。
金はいくらだった。
騎士たちは、げらげらと笑っていた。
ジェフリーは、少し離れた席で、黒パンを食べていた。
そのうちのひとりが気づいた。
「おい、坊主」
ジェフリーが顔を上げる。
男は、酒の入った顔で笑った。
「お前も、そろそろ興味が出てくる年だろう」
周りの騎士が、にやにやしながら振り向いた。
「侯爵家の坊ちゃんには、どんな女がいいか教えてやろうか」
食堂に、どっと笑いが起きた。
ジェフリーは、手にしていた黒パンを皿へ置いた。
何と答えればいいのか、わからなかった。
胸の奥だけが、ひやりと冷えていた。
男たちの口から出てくる女たちの話が、どうしても人の話には聞こえなかった。
名前がない。
声もない。
何が好きなのかもない。
何を考えているのかもない。
母の部屋の窓辺で、静かに刺繍をしていた母とは違った。
施療院で、疲れた顔のまま棺の数を確かめていた修道女とも。
リーゼ川の土手で、泥だらけの子どもを抱きしめて泣いていた母親とも。
まるで、同じ女の人の話をしているようには思えなかった。
ジェフリーは、黙って立った。
椀と皿を片づける。
そのまま食堂を出た。
背中へ、笑い声が飛んできた。
「なんだよ。つまらんやつだな」
* *
兵舎の裏にある井戸まで行った。
桶を落とし、水を汲む。
手のひらへ受けた冷たい水で、顔を洗った。
火照っていたわけでもないのに。
冷たい水に触れたかった。
背後で、足音がした。
振り向く。
ヨアヒムだった。
何も言わず、井戸の縁へ腰を下ろす。
しばらくして。
「……ああいう話、嫌いか」
ジェフリーは、水の滴る指先を見た。
「よく、わかりません」
「わからん?」
「はい」
正直な答えだった。
「ただ」
ジェフリーは、少し考えてから言った。
「あの方たちの話には、誰も出てこなかったので」
ヨアヒムが眉を寄せた。
「女の話ばっかりだったぞ」
「女の人の話でした」
ジェフリーは、井戸の暗い水面を見た。
「でも、誰の話でもありませんでした」
ヨアヒムは、黙った。
水面には、細い月が映っていた。
風が吹くたびに、それが少し揺れた。
「俺には」
ぽつりと、ヨアヒムが言った。
「妹がいる」
ジェフリーは、隣を見た。
「十三だ。王都の外れの粉屋で働いてる」
「そうなのですか」
「ああ」
ヨアヒムは、片手で後ろ髪をかいた。
「あいつらの話を聞いてると、たまに腹が立つ」
少し笑った。
「妹も、そのうち、どっかの男にああいうふうに言われるのかと思うとな」
笑いは、すぐに消えた。
「まあ」
ヨアヒムは、自分の膝へ手を置いた。
「俺も前は、一緒になって笑ってたからな。偉そうなことは言えん」
ジェフリーの肩を、軽く叩く。
「お前は、そのままでいろ、坊主」
ジェフリーは、ヨアヒムを見上げた。
「つまらんやつで、いい」
それだけ言って、ヨアヒムは兵舎へ戻っていった。
【六 十五の冬】
冬が来た。
一年前。
施療院の裏で、凍った土をひとりで掘った季節だった。
あの冬のような高熱病は、来なかった。
代わりに、北の街道で、大きな雪崩が起きた。
峠を越えていた商人の荷馬車が三台、雪の下へ埋まった。
騎士団から、十人が救助へ向かうことになった。
兵舎の前で、ブルーノが名を読み上げる。
ジェフリーの名もあった。
今度は、残れと言われなかった。
「坊主」
「はい」
「鋤を持っていけ」
ブルーノは、荷を確認しながら言った。
「それから、ヘルマン殿のところへ行け。手当ての道具を預かってこい」
「はい」
ジェフリーは、すぐに医務室へ走った。
* *
峠の雪は深かった。
膝まで沈む場所もあった。
息を吐けば、白くなる。
指先は手袋の中でも冷えた。
騎士たちは、雪崩の跡へ並んだ。
鋤を入れる。
雪をどける。
また鋤を入れる。
ジェフリーも掘った。
日が暮れるまでに、六人が見つかった。
四人は、生きていた。
ひとりは、唇まで青くなっていた。
ジェフリーは、ヘルマンに言われたことを思い出した。
急に火へ近づけない。
濡れたものを外す。
毛布で包む。
少しずつ温める。
「聞こえますか」
商人の目が、かすかに動いた。
「指は痛みますか」
返事を待った。
手を取る。
凍傷になりかけた指へ、布を巻いていく。
怖がらせないように。
慌てないように。
見て。
聞いて。
それから触れる。
しばらくすると、商人の手が動いた。
ジェフリーの袖を、弱くつかんだ。
「……あんた」
掠れた声だった。
「はい」
「騎士様か」
「はい」
商人は、ぼんやりとジェフリーを見た。
「ずいぶん、若いな」
ジェフリーは、何も言わなかった。
商人の指が、少し強く袖を握った。
「ありがとう」
息を吸う。
「……ありがとう」
ジェフリーは、その冷たい手を、そっと握り返した。
そのとき。
昔の声を、思い出した。
――強い手は、誰かを押しのけるためだけにあるのではないの。
母の声だった。
――誰かの手を、握るためにもあるのよ。
* *
見つかった六人のうち、二人は、もう息をしていなかった。
峠の上には、墓を作れる場所がほとんどなかった。
それでも、そのまま雪の上へ置いていくわけにはいかなかった。
騎士たちは、風の当たりにくい場所を探した。
雪をどける。
その下から。
凍りついた土が出てきた。
つるはしを振り下ろした。
硬い音が、峠に響いた。
もう一度。
また、振る。
ジェフリーも、つるはしを握った。
一年前。
施療院の裏で、同じように凍った土を掘った。
あのときは、つるはしが重かった。
刃を落としても、土の表面ではね返された。
両手が痺れた。
何度振っても、なかなか穴が深くならなかった。
ジェフリーは、つるはしを持ち上げた。
振り下ろす。
刃が、凍った土へ食いこんだ。
もう一度。
土が割れた。
夜更けも。ようやく二つの墓ができた。
遺体を横たえる。
土を戻す、最後の土を。
ジェフリーは、両手で静かにならした。
立ち上がり、土のついた手を見た。
十四の春から、馬の手綱を握った。
鎧の留め金を磨いた。
薪を割った。
リーゼ川で、縄を握った。
怪我人へ、包帯を巻いた。
そして今日、つるはしを振った。
剣を握って、戦場へ立ったことはまだ一度もない。
それでも。
一年前より、ずっと、凍った土を掘れる手になっていた。
【七 篝火のそば】
峠から王都へ戻った夜。
兵舎の中庭では、大きな篝火が焚かれていた。
濡れた外套や毛布を乾かすためだった。
ジェフリーは、まず厩へ向かった。
雪道を歩いてきた馬の脚を洗い、蹄を確かめ、乾いた藁を足した。
すべて終えて、厩を出る。
夜気の中に、薪の匂いがした。
篝火のそばに、大きな男がひとり座っていた。
顔の左側。
こめかみから頬へ、古い刀傷が走っている。
軍団長だった。
ジェフリーは、足を止めた。
背筋を伸ばす。
「閣下」
頭を下げた。
「座れ、坊主」
軍団長は、隣に置かれた丸太を顎で示した。
ジェフリーが腰を下ろす。
すると、湯気の立つ木の椀を差し出された。
受け取った。
温めた山羊の乳だった。
ジェフリーの手が、ほんの少し止まった。
七年前。
母の墓の前でも、この人から同じものを渡された。
ジェフリーは、椀を両手で包んだ。
「峠の話は聞いた」
軍団長は、篝火を見たまま言った。
「ブルーノからも。ヨアヒムからも」
少し間があった。
「ヘルマンからもな」
ジェフリーが顔を上げる。
「ヘルマンが人を褒めるのを、俺は初めて聞いた」
「……そうなのですか」
「ああ。珍しいものを聞いた」
軍団長の口もとが、少しだけ上がった。
薪が、ぱちんと爆ぜた。
火の粉が夜の中へ舞った。
軍団長が言った。
「この一年、剣を持たせてもらえなくて、腹が立ったか」
ジェフリーは、手の中の椀を見た。
乳の表面に、篝火の明かりが揺れていた。
「最初は、少しだけ」
「今はどうだ」
軍団長に尋ねられて、ジェフリーは、しばらく考えた。
「……今は、よかったと思っています」
軍団長が、こちらを見る。
「なぜだ」
「剣を持たずに外へ出たから、知ったことがあります」
ジェフリーは、ひとつずつ思い出した。
「土嚢の積み方」
雨の中のリーゼ川。
「縄の握り方」
泥水へ流されたヨアヒム。
「傷の手当て」
ヘルマンの手。
「凍えた人の、温め方」
峠で袖を握った商人。
少し迷ってから。
「……ヨアヒム殿に、妹さんがいることも」
軍団長の眉が、少し上がった。
ジェフリーは、椀へ目を戻し、静かに言った。
「以前、閣下は……騎士の剣は、人を斬るためだけにあるのではないと、おっしゃいました」
「ああ」
「守るためにある、と」
「言ったな」
薪の向こうで、赤い火が揺れていた。
ジェフリーは、篝火を見た。
「この一年、剣を持たずに、それを少しだけ覚えた気がします」
軍団長は、しばらく何も言わなかった。
篝火の中で、薪が一本、音を立てて崩れた。
「そうか」
低い声がした。
「なら、春からは、次を覚えろ」
ジェフリーが顔を上げた。
「ブルーノには、俺から話しておく。お前も、もうすぐ十六だ」
軍団長は、篝火へ薪を一本くべた。
「遠征の隊につける」
ジェフリーの手が、椀の上で止まった。
「……私が、遠征に出るのですか」
「そうだ」
軍団長は、ジェフリーを見た。
「まだ戦場の先頭には立たせん。だが、今度は剣を持って外へ出ろ」
ジェフリーは、黙って聞いていた。
「この一年、お前は、剣を持たずに騎士の仕事を覚えた」
リーゼ川の泥。
医務室の白い包帯。
雪に埋もれた峠。
ひとつずつ、頭に浮かんだ。
「次は、剣を持った自分に何ができるのか、自分の目で見てこい」
ジェフリーは、しばらく軍団長を見ていた。
やがて、椀を脇へ置き、背筋を伸ばした。
「……はい」
軍団長が立ち上がった。
そのまま去るのかと思った。
大きな手が、ジェフリーの頭へ、ぽん、と載った。
「凍った土を掘る手に、なってきたな」
ジェフリーは、顔を上げた。
軍団長は、もう背を向けていた。
篝火から離れ、兵舎のほうへ歩いていく。
ジェフリーは、その背中が見えなくなるまで、座ったまま見ていた。
七年前と同じように。
* *
翌朝、夜明け前の訓練場には、九人の騎士が集まっていた。
ヨアヒムは、いつものように木剣を肩に担いで待っていた。ジェフリーが訓練場へ入ってくるのを見ると、にやりと笑った。
「聞いたぞ、坊主」
「何をですか」
「春から、遠征の隊について外へ出るんだってな」
ジェフリーは、少し驚いてヨアヒムを見た。
「もう聞いたのですか」
「兵舎で隠しごとができると思うなよ」
ヨアヒムは笑いながら、肩に担いでいた木剣を下ろした。
「だったら、その前に一度くらい、お前から一本取っておかないとな」
「どうぞ」
ジェフリーも木剣を構えた。
周りにいた騎士たちが、慣れた様子で場所を空けた。
その朝、ヨアヒムは二十三度、ジェフリーに木剣を落とされた。
二十四度目。
ジェフリーの剣が肩へ向かって振り下ろされたとき、ヨアヒムは、ぎりぎりのところで自分の木剣を差しこんだ。
乾いた音が響いた。
今までなら、そのまま押し負けていた。
ヨアヒムは歯を食いしばり、両腕に力をこめた。
ジェフリーの木剣が、わずかに外へ押し返された。
剣先がヨアヒムの肩を逸れ、空を切る。
一瞬、二人とも動かなかった。
ヨアヒムは、自分の肩を見た。
木剣は、当たっていなかった。
それから、ゆっくりジェフリーを見る。
ジェフリーも、少しだけ目を見開いていた。
「……今の、見たか」
誰にともなくヨアヒムが言った。
すぐに、周りから笑い声が上がった。
「まだ一本じゃないぞ!」
「惜しかったな、ヨアヒム!」
「うるさい!」
ヨアヒムも笑った。
「次だ、坊主。もう一本!」
ジェフリーは、木剣を構え直した。
「はい」
そのころには、東の空が少しずつ白みはじめていた。
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十四の春に兵舎へやってきたジェフリー・ハルセリンは、もう十五歳になっていた。
まだ、戦場で剣を振ったことは一度もない。
この一年、彼の手が覚えたのは、剣の重さだけではなかった。
馬の手綱を握り、薪割りの斧を振り、泥に濡れた土嚢を運んだ。濁流の中へ伸びる縄を引き、怪我人の腕に包帯を巻いた。雪を鋤で掘り、凍った土へつるはしを振り下ろした。
十四歳で兵舎へ入ったときより、その手は大きくなっていた。
硬くなった掌には、いくつものまめの跡が残っている。
春になれば。
今度は、その手で剣を持って、兵舎の外へ出る。
守るための剣とは、何なのか。
それを、自分の目で確かめるために。
騎士として過ごした最初の一年は、そうして静かに終わろうとしていた。




