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【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―握れなかった手と、握った剣―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが剣を握るようになったお話です。高熱病が毎年やってくる北の国サルヴィア。冬に母を亡くした少年は、あることをきっかけに、剣を握ると決めました。

【一 侯爵家の子】


ハルセリン侯爵家の屋敷は、大きくて、寒かった。


サルヴィアの王都の、北の丘の上。石造りの三階建てで、長い廊下には歴代の当主の肖像画が並んでいた。どの肖像画の中の男も鋭い青い目で、廊下を歩く者を見下ろしていた。


ジェフリーは、その廊下があまり好きではなかった。


六つになったばかりのジェフリーにとって、屋敷の中で温かい場所はひとつだけだった。


二階の奥の、母の部屋だった。


母のクララ・ハルセリンは、淡い金の髪をした静かな人だった。


体があまり丈夫ではなく、冬のあいだは部屋から一歩も出なかった。窓辺の椅子に座って、刺繍をしたり、本を読んだりしていた。


サルヴィアの冬には、毎年、高熱病がやってくる。


雪が深くなるころ、王都の外れのどこかで最初の熱が出て、春の雪解けまで病は街を渡り歩く。家々の戸口に黒い布が結ばれない冬は、一度もなかった。


母が冬のあいだ部屋にこもるのは、体が弱いからだけではなかった。病を、屋敷に入れないためだった。


ジェフリーは、毎日、家庭教師の授業が終わると母の部屋へ行った。


扉の前で、侍女に手を洗わされてから中に入った。


母の膝のそばに座って、母が読んでくれる本を聞いた。


「ジェフリー。今日は、何を習ったの」


「算術です。それから、歴史」


「歴史は、好き?」


「……昔の王様の名前を覚えるのは、好きではありません」


母は、くすりと笑った。


「お父様には、内緒にしておきましょうね」


* *


母の窓辺の小さな卓には、冬になると、いつも本が積まれていた。


背表紙に、王宮の書庫の印が押された本だった。古い地誌。薬草の図録。遠い国の旅行記。それから、ジェフリーには何が面白いのかわからない、昔の財務の帳簿の写し。


「お父様がね、冬になると、王宮から借りてきてくださるの。わたしが、外へ出られないから」


本のあいだには、ときどき、細長い紙が挟まっていた。


父の、几帳面な字だった。


――三十頁からが面白い。


――この図は誤り。正しくは巻末に。


――この年の麦の値は、写し違い。


母は、その紙を一枚も捨てずに、刺繍箱の底にしまっていた。


「あの人は、こういうことしか書けない人なのよ」


母は、そう言って、少しだけ笑った。


* * 


父は、ほとんど屋敷にいなかった。


ガレル・ハルセリンは、王宮で、財務の仕事をしていた。朝早くに出かけて、夜遅くに帰ってきた。帰ってきても、書斎にこもって書類を読んでいた。


冬になると、屋敷に帰らない夜が増えた。


薬草。薪。麦。毛布。病が広がる冬のあいだ、それを王都のどこから集め、どこへ配るのか。父は、毎年、その帳簿を抱えて、王宮に泊まりこんでいた。


* *


ある春の日、母の部屋の窓から、王都の大通りが見えた。


騎士団の行進だった。


雪が解けて、その年の高熱病が去ったことを告げる春の祭りの日に、騎士団が王宮から大通りを行進するのは、王都の毎年の習わしだった。


ジェフリーは、窓辺に身を乗り出して、それを見ていた。


銀の鎧の近衛騎士たち。槍を掲げた一般の騎士たち。それから、列のいちばん後ろに、黒い服に白い儀礼用のマントをまとった、ひと握りの騎士たち。


「母上。あの黒い騎士は、何ですか」


母は、刺繍の手を止めて、窓の外を見た。


「黒騎士よ」


「黒騎士?」


「この国でいちばん強い騎士たち。いちばん危ないところへ行って、いちばん大変な仕事をする人たち」


母は、黒い騎士たちの列をじっと見ていた。


「冬のあいだも、あの人たちは、病の出た地区へ入っていくのよ。誰も近づきたがらないところへ」


「父上は、お好きですか」


「あまりお好きではないみたい。血の匂いがする、とおっしゃっていたわ」


母は、少しだけ笑った。


「でもね、ジェフリー。わたしは、あの人たちのこと、嫌いではないの」


ジェフリーは、母を見上げた。


母は、窓の外を見たまま、静かに言った。


「誰かがやらなければいけない仕事を、黙ってやる人たちだから」


それから、少しだけ声を落とした。


「……あなたのお父様も、本当は、そういう人なのよ。ただ、黙りすぎるの」


ジェフリーは、もう一度、窓の外を見た。


黒い騎士たちの列は、もう、大通りの角を曲がって、見えなくなりかけていた。


ジェフリーは、列が見えなくなっても、しばらく窓辺から離れなかった。



【二 三十頁】


その年の冬、ジェフリーは七つになっていた。


ジェフリーが父と話すのは、月に一度、書斎に呼ばれるときだけだった。


父は、家庭教師からの報告書を読みながら、ジェフリーに、いくつか質問をした。算術の問題。歴史の年号。サルヴィアの領地の名前。


その月、父は、報告書の一か所で目を止めた。


「先々代の王の名を、言ってみろ」


ジェフリーは、口を開いた。


名前が、出てこなかった。家庭教師に、何度も書き取らされたはずの名前だった。


父は、何も言わずに報告書に目を戻した。


それが、叱られるよりも、ずっと怖かった。


父の指が、報告書の一行を、ゆっくりとなぞっていた。


――歴史、殊に歴代国王の名の暗誦に、意欲の乏しさが見受けられる。


ジェフリーの立っているところからは、その字は、読めなかった。


「お前は、いずれ、ハルセリン家を継ぐ。王宮に出仕して、国を支える。そのために、学べ。ひとつも、怠るな」


ジェフリーは、頭を下げて書斎を出た。


* *


それから十日ほどたった冬の夕方、ジェフリーの寝台の枕もとに、一冊の本が置かれていた。

分厚い、革表紙の本だった。王宮の書庫の印が押してあった。


『サルヴィア歴代国王年代記』。


頁のあいだから、細長い紙が一枚、のぞいていた。


――三十頁からが面白い。


ジェフリーは、本を抱えて、母の部屋へ走った。


「母上。父上に、言ったのですか。私が、昔の王様の名前を覚えるのが嫌いだと」


母は、本の表紙を見た。

それから、紙を見た。


刺繍の手を止めて、口もとに指を当てた。笑いをこらえているのが、ジェフリーにもわかった。


「言っていないわ。内緒にするって、約束したでしょう」


「では、どうして」


「あの人が、面白いと思った本なのよ。だから、あなたにも読ませたかったの」


母は、細長い紙を指先でつまんで、窓の光にかざした。


「三十頁からが面白い。……ほら。わたしのときと、同じ書き方」


母は、紙を本のあいだに戻して、ジェフリーの腕に返した。


「いつも、こうなのよ。あの人には、こういうことしかできないの。大事にしてあげてね」


ジェフリーは、本を見下ろした。


贈り物には、見えなかった。


宿題にしか、見えなかった。


* *


翌月、書斎で、父は最後にひとつだけ、ちがう質問をした。


「年代記は、読んだか」


ジェフリーは、背筋を伸ばした。


「……三十頁まで、読みました。王様の名前が、ずっと続いていて」


父の手が、報告書の上で止まった。


「三十頁から、と書いておいたはずだ」


叱られた、とジェフリーは思った。


「申し訳ありません。最初から、きちんと読むべきだと思って」


父は、何か言いかけた。

それから、報告書に目を戻した。


「……そうか」


それだけだった。


* *


その夜、ジェフリーは寝台の上で年代記を開いた。

三十頁から、と言われたのだから、読まなければならない。そう思った。


三十頁には、王様の名前は、ひとつもなかった。

頁いっぱいに、古い挿絵が刷られていた。


春の祭りの、騎士団の行進だった。銀の鎧の近衛騎士たち。槍を掲げた騎士たち。それから、列のいちばん後ろに、白い儀礼用のマントをまとった黒騎士たち。


ひとりひとりの外套の襟に、細い線で、蔓(つる)の刺繍まで描きこまれていた。


ジェフリーは、頁から顔を上げた。


春の祭りの日、母の部屋の窓から、黒い騎士たちの列を見ていたことを、父は知らないはずだった。父は、あの日も王宮にいた。


ジェフリーは、隣の母の部屋へ行って、そのことを尋ねた。


母は、刺繍の手を止めて、少しだけ笑った。


「話したわ。あなたが、窓から身を乗り出して、ずっと見ていたって」


「父上は、黒騎士がお好きではないのでしょう」


「ええ。お好きではないわね」


母は、ジェフリーの膝の上の年代記を見た。


「それでも、王宮の書庫で、黒騎士の絵が載っている本を、ひと晩かけて探してくださったのよ」


ジェフリーは、挿絵の黒い騎士たちを見下ろした。


それから、書斎の報告書をめくる父の手を思い出した。


あの手と、この本を探した手が、同じ人のものだとは、どうしても思えなかった。



【三 冬の熱】


ジェフリーが八つになった冬も、高熱病は王都にやってきた。


毎年のことだった。


いつもなら、病は、王都の外れの、貧しい家の多い地区にとどまっていた。そこから商人の住む地区へ少し広がって、春が来れば去っていく。


その冬は、ちがった。


雪が、何日も降り続いていた。病は、王都の外れから、商人の住む地区へ。それから、毎年は届かなかった、貴族の屋敷の並ぶ北の丘へ。


通りから、人の姿が消えていった。家々の戸口に、黒い布がひとつ、またひとつと結ばれていった。北の丘の屋敷の門にも。


年が明けてすぐ、母が、熱を出した。


医者が、毎日、屋敷に来た。苦い薬を煎じて、母の口に運んだ。額に冷たい布を当てた。それでも、母の熱は下がらなかった。


父は、王宮に泊まりこんでいた。毎年の冬よりも、病は広く、薬も、薪も、食料も、まるで足りなかった。


父は、帰ってこなかった。


代わりに、毎日、王宮から使いの者が来た。


柳の皮の包み。熱冷ましの薬草。上等の薪。蜂蜜の壺。父が私費で各地の商人に探させたものが、毎日、侯爵家の門に届いた。


使いの者は、いつも同じことを言った。


「侯爵様より。奥様のご容態を、書きつけて持ち帰るように、と」


執事のヘルツが、医者の言葉を書きつけて、使いの者に渡した。

ジェフリーは、門の前でそれを見ていた。


荷は来るのに、父は来ない。


父にとって、母は帳簿の一行なのだろうか。


ジェフリーは、そう思った。


* *


ジェフリーは、母の寝台のそばの椅子に座って、母の手を握っていた。


侍女たちは、部屋に入るなと言ったが、ジェフリーは聞かなかった。


母の手は、熱かった。火のように。


「ジェフリー」


母が、目を開けた。


「ずっと、そこにいたの」


「はい、母上」


「眠らないと、だめよ」


「眠くありません」


母は、ジェフリーの手を弱い力で握り返した。


「ジェフリー。ひとつ、約束して」


「はい」


「あなたは、きっと、強い子になるわ。お父様に似て、何でもできる子に」


母の目が、ジェフリーの顔を、ゆっくりと見つめた。


「でもね。強い手は、誰かを押しのけるためだけにあるのではないの。誰かの手を、握るためにも、あるのよ。……今、あなたが、わたしの手を握ってくれているみたいに」


母は、目を閉じた。


「お父様のことも、許してあげてね。あの人は、手の握り方を、知らないだけなの」


ジェフリーは、答えなかった。


母の手を、ぎゅっと握った。


「忘れないで」


「……はい、母上」


その夜、母は、もう一度だけ目を開けて、ジェフリーの名前を呼んだ。


何度も、何度も。


それから、ひとつだけ、ちがう名前を呼んだ。


「……ガレル」


答える者は、いなかった。


明け方、母の手から、熱が引いていった。


ジェフリーは、ずっと、その手を握っていた。


冷たくなっても。


* *


夜が明けきったころ、屋敷の門の前に、馬が一頭、飛びこんできた。

泡を吹いた馬だった。


降りてきたのは、父だった。


外套は雪にまみれ、髪は乱れ、両腕に、麻袋を抱えていた。

北方の倉から、その朝ようやく届いた柳(やなぎ)の皮だった。


父は、玄関の広間でヘルツの顔を見た。


それから、二階を見上げた。


麻袋が、父の腕から床に落ちた。

柳の皮が、磨かれた石の床に、ばらばらと散らばった。


ジェフリーは、階段の上から、それを見ていた。


父は、床に散らばった柳の皮を一枚も拾わなかった。

拾わずに、まっすぐ、階段を上がってきた。


ジェフリーの横を、通り過ぎた。

ジェフリーを、見なかった。


母の部屋の扉が、閉まった。


扉の向こうからは、何の音も聞こえなかった。


玄関の広間では、ヘルツが膝をついて、床に散らばった柳の皮を一枚ずつ拾い集めていた。




【四 凍った土】


母を葬ることが、できなかった。


土が、凍っていた。


王都の墓地では、毎年、秋のうちに、墓掘りの男たちが冬の分の穴を掘っておく。土が凍ってからでは、鍬が立たないからだった。


その冬は、年が明ける前に、穴が尽きた。


雪の下で、墓地の土は石のように固く凍りついていた。墓掘りの男たちが鍬を振り下ろしても、刃がはね返されるだけだった。墓地の隅に、まだ葬られていない棺が、何十も雪をかぶって並んでいた。


侯爵家の使用人たちが、墓地の管理人に頼みこんだ。金を積んだ。管理人は、首を振るばかりだった。


「侯爵様の奥様でも、順番は、順番でして」


父は、墓地に来なかった。


母の部屋から出てきた日のうちに、王宮へ戻っていった。病は、まだ、王都から去っていなかった。


ジェフリーは、墓地の入り口に立って並んだ棺のひとつを見ていた。


蓋(ふた)の上に、真鍮(しんちゅう)の小さな札が打ちつけてあった。


クララ・ハルセリン。


母が、そこにいた。


そのとき、墓地の門のほうから、蹄の音が近づいてきた。


黒い馬が、十頭ほど。

黒い服に、黒いマントの男たち。


春の祭りの日に、母の部屋の窓から見た、あの騎士たちだった。年代記の三十頁に描かれていた、あの騎士たちだった。


先頭の馬から、ひとりの男が下りてきた。


大柄で、髭を短く刈りこんでいた。顔の左側に、こめかみから頬にかけて、古い刀傷が走っていた。


男は、墓地の管理人に何かを短く言うと、振り返って、ほかの黒騎士たちに手を上げた。

黒騎士たちは、馬の鞍から鉄のつるはしと鋤(すき)を取り出して、墓地の隅の雪の上に散らばった。


つるはしを、振り下ろした。


がつん、と、凍った土に、鉄が食いこむ音がした。


墓掘りの男たちの鍬がはね返されるだけだった土に、黒騎士たちのつるはしは、確かに食いこんでいた。


ジェフリーは、使用人の手を振りほどいて、墓地の中へ駆けこんでいった。


母の棺の隣で、刀傷の男が、つるはしを振り下ろしていた。


男は、ジェフリーに気づいて、手を止めた。


「坊主。危ないぞ。下がっていろ」


「……母上の、お墓ですか」


男は、隣の棺の上の、真鍮の札と、ハルセリン家の猛禽の紋章を見た。


「クララ・ハルセリン殿。そうだ」


男は、母の名前を、ゆっくりと、きちんと読んだ。

墓地の管理人が「侯爵様の奥様」としか呼ばなかった名前を。


「僕も、掘ります」


男は、眉を上げた。


しばらく、ジェフリーを見下ろしていた。


それから、腰の後ろから、手のひらほどの小さな鉄の鏝(こて)を取り出して、ジェフリーに差し出した。


「俺が砕いた土を、これで、穴の外にかき出せ」


ジェフリーは、鏝を受け取った。


冷たかった。


男が、つるはしを振り下ろす。凍った土が砕ける。ジェフリーが、それを鏝でかき出す。

小さな手が、凍えて、真っ赤になった。それでも、ジェフリーは、手を止めなかった。


日が西に傾くころ、穴が掘れた。


ジェフリーの手は、ひび割れて、血がにじんでいた。


黒騎士たちが、母の棺を縄で吊るして穴の底に下ろした。司祭が、祈りの言葉を唱えた。クララ・ハルセリンの魂に、安らぎを、と。それから、黒騎士たちは鋤で土を戻していった。


穴が、ほとんど埋まったとき、刀傷の男が手を止めた。


「坊主。最後の土は、お前がかけろ」


ジェフリーは、穴のふちに膝をついた。


鏝で、凍った土をすくって、母の上に、そっとかけた。


それから、両手で、土の表面をならした。


母の髪を、なでるように。


ジェフリーは、そのとき初めて泣いた。


* *


日が沈むと、黒騎士たちは篝火を焚いて、ほかの棺の墓を掘りはじめた。


刀傷の男が、母の墓の前に座りこんでいたジェフリーの隣に、どさりと腰を下ろした。湯気の立つ木の椀を、ジェフリーに差し出した。


温めた山羊の乳だった。ひび割れた手のひらに、椀の温かさが沁みた。


「……騎士は、お墓も掘るのですか」


ジェフリーが尋ねると、男は、篝火(かがりび)を見たまま答えた。


「必要ならな。病で人手が足りなくなれば、俺たちにも回ってくる。今年は、穴が尽きるのが早すぎた」


「剣で戦うのが、騎士の仕事だと思っていました」


「それも、仕事だ」


男は、つるはしの柄で皮の破れた、自分の大きな手を見下ろした。


「騎士の剣はな、坊主。人を斬るためだけにあるんじゃない。守るためにある。守れるものは、守る。守れなかったものは、きちんと送る。それも、騎士の仕事だ」


――誰かがやらなければいけない仕事を、黙ってやる人たちだから。


母の声が、耳の奥で聞こえた。


「……父は、来ませんでした」


ジェフリーは、篝火を見たまま、言った。


男は、しばらく黙っていた。


「お前の親父殿は、財務の侯爵だな」


「はい」


「今朝、騎士団の詰所に、王宮から書状が来た。北の丘の墓地の凍土を、黒騎士に掘らせよ。人手の手当ては、財務から出す、とな」


ジェフリーは、男を見上げた。


「署名は、ガレル・ハルセリン。ひどい字だった。いつもは、物差しで引いたような字を書く男なんだがな」


男は、篝火に薪を一本くべた。


「俺たちがここに来たのは、その書状のせいだ」


ジェフリーは、何も言えなかった。


篝火の向こうの、母の墓を見た。


父は、来なかった。


その代わりに、この人たちを、よこした。

それが、どういうことなのか、八つのジェフリーには、まだうまくわからなかった。


「僕も、騎士になれますか」


男は、ジェフリーの、ひび割れた手を見た。


「その手が、もう少し大きくなったらな」


男は立ち上がって、ジェフリーの頭に、大きな手をぽんと置いた。


それから、また、篝火のほうへ歩いていった。


ジェフリーは、その背中を、ずっと見ていた。



【五 棒切れ】


その夜遅く、ジェフリーは屋敷に戻った。


夜更けに寝台を抜け出すと、母の部屋の扉が、細く開いていた。


中で、王宮から戻った父が、母の寝台のそばの椅子に座っていた。


膝の上に、母の刺繍箱が開いていた。


底から、細長い紙が、何十枚も出てきていた。父の字の紙だった。何年分もの冬の、三十頁からが面白い、この図は誤り、写し違い。


父は、その一枚一枚を、黙って見ていた。


それから、紙を箱に戻して、蓋を閉めた。母が羽織っていた淡い青の肩掛けを、両手で握りしめた。


顔は、少しも動いていなかった。ただ、肩掛けを握る手だけが、震えていた。


ジェフリーは、扉を開けずに、自分の部屋に戻った。


最後の夜、母が父の名前を呼んだことは、言えなかった。


言えば、父がどんな顔をするのか、わからなかった。


* *


翌朝、ジェフリーは、父の書斎の扉を叩いた。


父は、王宮へ戻る支度をしていた。


「何だ」


「父上。剣を、習わせてください」


父は、書類から顔を上げた。

ジェフリーの、包帯を巻いた手を見た。


「その手は、どうした」


「母上のお墓を、掘りました。黒騎士の方々が、凍った土を砕いてくださって」


父の目が、包帯の上で、止まった。


長いあいだ、止まっていた。


「……剣は、遊びではない」


「わかっています」


「お前は、ハルセリン家の跡取りだ。王宮に出仕して、国を支える。剣など、騎士にまかせておけばいい」


「騎士になりたいのです」


父の目が、鋭くなった。


「話は終わりだ」


父は、書類に目を戻した。


ジェフリーは、それ以上、何も言わなかった。頭を下げて、書斎を出た。


扉が閉まる前に、父の声がした。


「ヘルツ。あれの手に、医者を」


ジェフリーには、命令にしか聞こえなかった。


* *


次の朝から、ジェフリーは、夜明け前に起きるようになった。


屋敷の裏庭の、薪小屋の陰で、拾ってきた木の棒を振った。


剣の振り方など、知らなかった。春の祭りの日に窓から見た、騎士たちの姿を思い出しながら。墓地で、つるはしを振り下ろしていた、黒騎士たちの背中を思い出しながら。


ただ、振った。


雪の朝も。風の強い朝も。


包帯の下の手の傷が、何度も開いた。


不思議なことに、毎晩、寝台の枕もとに、新しい包帯と、軟膏の小さな壺が置かれていた。


侍女に尋ねても、首を振るばかりだった。


ジェフリーは、医者に言われて、ヘルツが置いているのだろうと思った。


* *


ひと月が過ぎたころ、ヘルツが、書斎で、そのことを報告した。


「坊ちゃまは、今朝も、夜明け前から裏庭に」


ガレルは、書類から顔を上げなかった。


「知っている」


ヘルツは、少しだけ黙った。


書斎の窓からは、裏庭の薪小屋が、まっすぐに見下ろせた。


この冬、旦那様が王宮へ出かける時刻が、毎朝、少しずつ遅くなっていることを、ヘルツは知っていた。夜明け前の暗い窓辺に、旦那様が明かりもつけずに立っていることも。


「軟膏は、今夜も置いておけ。いちばん効くものを」


「かしこまりました。……旦那様から、と、お伝えいたしましょうか」


「言うな」


ガレルは、ペンを置いた。


「言えば、あれは、意地になって使わん」


ヘルツは、深く頭を下げて、書斎を出た。


扉の外で、小さく息をついた。


旦那様と坊ちゃまは、意地の張り方が、よく似ていらっしゃる。


それは、口には出さなかった。


* *


その翌朝は、ひどい雪だった。


ジェフリーは、いつものように、薪小屋の陰で棒を振っていた。


雪が、膝まで積もっていた。手の包帯が、血でにじんでいた。息が、白く、荒くなっていた。


背後で、雪を踏む音がした。

ジェフリーは、振り返った。


父が、立っていた。


外套の肩に、雪が積もっていた。王宮へ出かける前の、身支度を整えた姿のまま。


父は、ジェフリーの手の中の棒を見た。それから、血のにじんだ包帯を見た。それから、雪の上に、無数に踏み固められた、小さな足跡を見た。


ひと月分の、足跡だった。


「……棒切れで、何ができる」


父の声は、冷たかった。


ジェフリーは、棒を握りしめた。


「何も、できません。だから、振っています」


父は、黙った。


「母上は、熱で死にました。私には、何もできませんでした。お医者様にも、父上にも、何もできなかった」


ジェフリーの声が震えたとき、父の目が、わずかに動いた。


「でも、黒騎士の方々は、凍った土を掘ってくださいました。誰にもできなかったことを、黙ってやってくださいました。母上を、クララ・ハルセリンとして、きちんと送ってくださいました」


ジェフリーは、父をまっすぐに見上げた。


「冬は、また来ます。来年も、その次の年も。私も、そういう手になりたいのです」


雪が、二人のあいだに、静かに降り続いていた。


父は、長いあいだ、ジェフリーを見ていた。


口を開きかけて、閉じた。

もう一度、開きかけて、また閉じた。


やがて、雪の積もった金の髪を、手で撫で上げた。


「……剣の師を、探しておく」


ジェフリーは、目を見開いた。


「ただし、学問は、ひとつも怠るな。家庭教師の報告で、一度でも怠けたとわかれば、剣はやめさせる」


「はい」


父は、雪の中を、屋敷のほうへ歩きだした。


二、三歩進んで、足を止めた。

振り返らずに言った。


「やるなら、誰よりも強くなれ。中途半端な剣など、ハルセリン家にはいらん」


父の背中は、しばらく、その場から動かなかった。


それから、屋敷の中へ消えた。



【六 老騎士ハインツ】


父が探してきた剣の師は、ハインツという老騎士だった。


かつて近衛騎士団にいて、膝を悪くして退いた男だった。白い眉の下の目は細く、口数は少なく、木剣で打つときだけは、容赦がなかった。


最初の日、ハインツは、八つのジェフリーに木剣を持たせて言った。


「坊ちゃん。剣を習う理由を、言ってみなされ」


「守れるものを、守れるように。守れなかったものを、きちんと送れるように」


ハインツは、白い眉を少しだけ上げた。


それから、何も言わずに、ジェフリーの木剣を自分の木剣で叩き落とした。


「まずは、拾うところからですな」


* *


それから、毎朝、夜明け前に、裏庭で木剣を振った。


午前は、家庭教師について学んだ。父の言いつけどおりに、ひとつも怠らなかった。

午後は、また、木剣を振った。


ハインツは、褒めなかった。型をひとつ覚えると、次の型を見せた。できるようになると、もっと速く、と言った。速くなると、もっと静かに、と言った。


何年かたって、稽古のあとに、ハインツがぽつりと言ったことがあった。


「わしは、一度は、お断りしたんですがな。膝の悪い年寄りに、侯爵家の跡取りの師など務まらんと」


「父が、無理を言ったのですか」


「無理は、おっしゃいませんでした」


ハインツは、木剣の手入れをしながら、白い眉の下で目を細めた。


「お断りするたびに、侯爵様は、ご自分で、わしのあばら家の戸を叩きに来られた。供もつけずに、雪の中を。七度目に、根負けしました」


ジェフリーは、手を止めた。


「七度、ですか」


「七度です。それで、毎度おっしゃることが、たったひと言でしてな」


ハインツは、喉の奥で笑った。


「王都でいちばん、腕の確かな者に頼みたい。それだけを、七度。あれでは、頼まれているのか、命じられているのか、わかりませんでしたぞ」


ジェフリーは、何と言えばいいのか、わからなかった。


父が、雪の中を、七度。


ハルセリン家の跡取りに、半端な師はつけられない。そういうことなのだろう、と、ジェフリーは思った。


ハインツは、それ以上、何も言わなかった。


* *


冬が来るたびに、高熱病も来た。


九つの冬も。十の冬も。十一の冬も。


そのたびに、王都のどこかの戸口に黒い布が結ばれ、墓地の秋の穴が埋まっていった。雪の深い夜には、北の丘の屋敷の窓から、黒い馬が街の外れへ駆けていくのが見えた。


ジェフリーは、窓辺でそれを見送ってから、裏庭へ出て、木剣を振った。


父は、冬になると、相変わらず王宮に泊まりこんだ。


月に一度の書斎の時間は、変わらなかった。父は、算術と歴史と領地のことを尋ね、ジェフリーは答えた。剣のことは、一度も尋ねられなかった。


ジェフリーも、話さなかった。


父と息子のあいだには、いつも、書斎の机ひとつ分の距離があった。


年代記は、寝台の枕もとの棚にずっと置かれたままだった。三十頁の挿絵だけは、何度も開いた跡が、頁の端に残っていた。


十の年に、ジェフリーは初めて、ハインツの木剣を受け止めた。

十一の年に、初めて、ハインツの膝を地につけさせた。


ハインツは、地面に膝をついたまま、ジェフリーを見上げた。


「……坊ちゃん。わしは、悪い膝を言い訳にはしませんぞ。今のは、坊ちゃんの剣が、わしより速かった」


ハインツは、杖をついて立ち上がると、初めて、ジェフリーの頭に手を置いた。


* *


年に一度、父はハインツを書斎に呼んだ。


ジェフリーは、扉の外で、二人の話を聞いたことがあった。


「あれの剣は、どうだ」


「坊ちゃんは、もう、王都の若い騎士の大半より強うございます」


「大半か」


「……すべて、とは申しませんが」


「誰よりも強くなれと、言ってある。半端な刃は、いずれ折れる」


ジェフリーは、扉の前から、そっと離れた。


父にとって、自分は、研がれている途中の剣なのだと思った。


だから、その先を聞かなかった。


* *


「……折れれば、あれが、痛い思いをする」


ガレルがそう続けたとき、扉の外には、もう誰もいなかった。


ハインツは、白い眉を上げて、侯爵の顔を見た。


「侯爵様。そのお言葉を、坊ちゃんに直接おっしゃったことは」


ガレルは、書類をめくった。


「ない」


「なぜでございます」


ガレルは、しばらく黙っていた。


「……言い方を、知らん」



【七 十三の冬】


十三の冬も、高熱病は、王都にやってきた。


八つの冬ほどではなかった。病は、例年どおり、王都の外れの地区にとどまっていた。


それでも、その地区では、子どもと老人が、次々と倒れていった。毎年、そうだった。北の丘の屋敷の者たちが「例年どおり」と言うとき、その言葉の下で、誰かが死んでいた。


ジェフリーは、ハインツについて、その地区の施療院を手伝いに行った。ハインツの古い知り合いの修道女が、人手が足りないと手紙をよこしたのだった。


水を運んだ。薪を割った。死んだ者を、施療院の裏へ運んだ。


施療院の薬棚は、ほとんど空だった。


「王宮の財務の方々が、毎年、手を尽くしてくださっているのは、知っているのです」


修道女が言った。


「この地区の施療院には、財務から、名指しで薬が届くのですよ。どの年も、真っ先に。それでも、サルヴィアじゅうの薬を集めても、冬ひとつ越すのに、足りないのです」


ジェフリーは、空の薬棚を見た。財務から、名指しで。


それが、父の帳簿のどこに書かれた一行なのか、ジェフリーにはわからなかった。


施療院の裏には、棺が並んでいた。

秋に掘っておいた穴は、もう、年明けを待たずに埋まっていた。


土が、凍っていた。


ジェフリーは、門の外を見た。黒い馬が来るのを、待っていた。

毎年の冬に、北の丘の窓から見送ってきた、あの馬を。


来なかった。


「騎士団は、今年は北の国境に兵を出しているそうです」


修道女が、疲れきった顔で言った。


「黒騎士の方々も。王都に残っている騎士では、とても手が回らないと」


棺の列の中に、小さな棺が、いくつもあった。


真鍮の札など、どの棺にも打たれていなかった。白墨で、名前がひとつ書かれているだけだった。名前さえ書かれていない棺もあった。


その夜、ジェフリーは、ハインツが借りてきてくれた古いつるはしで、施療院の裏の土を掘った。

十三のジェフリーには、まだ重かった。刃は、何度もはね返された。手のひらの皮が破れた。


夜明け前に、ようやく、ひとつの小さな穴が掘れた。


ジェフリーは、いちばん小さな棺を、ひとりで抱えて穴の底に下ろした。


蓋の白墨の名前を、声に出して、一度だけ読んだ。

刀傷の男が、母の名前をそうしてくれたように。


それから、土をかけた。最後の土を、両手でならした。

自分の手を見下ろした。

五年前と、同じ手だった。


あの冬から、毎日、剣を振ってきた。ハインツの膝を地につけさせるほど、強くなった。


それでも、まだ、間に合わない。


騎士団に入れるのは、成人してからだった。この国の成人は、十八。


あと、五年。

五回の冬。


ジェフリーは、棺の列を見た。


冬は、待ってくれない。来年も、再来年も、必ず来る。


五回の冬のあいだに、あといくつ、この列ができるのだろう。



【八 古い掟】


春になって、その年の病がおさまったころ、ジェフリーはハインツに尋ねた。


「先生。十八にならずに、騎士団に入る方法は、ありますか」


裏庭の切り株に座って、木剣の手入れをしていたハインツは、手を止めた。


「ありませんな。十八に満たぬ者は、見習いにすらなれん。小姓や馬番として兵舎に出入りすることはあっても、剣を持って騎士として戦うことは許されません」


ジェフリーは、黙った。


しばらくして、ハインツが、ぽつりと言った。


「……ひとつだけ、古い掟が、残ってはおりますがな」


ジェフリーは、顔を上げた。


「王家に捧ぐ武闘会。毎年、春の終わりに王宮の中庭で開かれる大会です。腕に覚えのある者なら、身分を問わずに出られる。勝ち残った者は、最後に、騎士団の軍団長と、一本を競う栄誉を与えられる」


ハインツは、木剣を膝の上に置いた。


「軍団長から一本を取った者は、軍団長の裁量で、騎士団に迎え入れることができる。身分も、年も、問わずに。二百年前、戦の多かった時代に、埋もれた腕の立つ者を拾い上げるために、王家が定めた掟です」


「年は関係ない?」


「ただ、この百年、軍団長から一本を取った者は、ひとりもおりません。それに、十八に満たぬ者を騎士にした例は、二百年のあいだ、一度もない。掟は、残っているだけです」


ハインツは、ジェフリーを見た。


「それに、十八に満たぬ者が武闘会に出るには、親か後見人の印章を押した、推挙の書状が要る。……侯爵様が、お許しになりますかな」


* *


その夜、ジェフリーは、父の書斎の扉を叩いた。


施療院の裏の凍った土のこと。秋の穴が年明けを待たずに埋まったこと。空の薬棚のこと。並んだ棺のこと。名前さえ書かれていない棺があったこと。黒い馬が来なかったこと。それから、武闘会の古い掟のこと。


父は、黙って聞いていた。


机の上には、その冬の帳簿が、まだ積まれていた。薬草の量。薪の量。毛布の数。それから、地区ごとの、死んだ者の数。


話し終えると、父は椅子の背にもたれた。


「施療院の数字は、ここにある」


父は、帳簿の一冊に、指を置いた。


「毎年、この帳簿を閉じるたびに、来年はもっと薬を集めると決める。毎年、足りん」


ジェフリーは、父を見た。


父が、自分の仕事の話をするのを、初めて聞いた。


「熱を止めるのは、剣ではない。薬だ。今のサルヴィアには、それが足りん。お前が騎士になったところで、病はひとつも止まらん」


「わかっています」


ジェフリーは、帳簿を見た。


「でも、土は掘れます。父上が薬を集めてくださるあいだに、間に合わなかった人を、名前のないまま凍った土の上に置いておかないことはできます」


父は、しばらく黙っていた。


「軍団長から、一本を取る。この百年、騎士団のどんな猛者にもできなかったことだ」


「承知しています」


「お前は、十三だ」


「武闘会の日には、十四になっています」


「十四の子どもが、大の男たちの剣を受ける。骨を折るかもしれん。顔に、傷が残るかもしれん」


父は、そこで言葉を切った。

帳簿の上の指が、止まっていた。


「……ハルセリンの名に、泥を塗るつもりか」


父の声は、冷たかった。


ジェフリーは、父の目を、まっすぐに見返した。


「負けません」


書斎が、静まりかえった。


やがて、父は、机の引き出しから、猛禽の紋章を刻んだ印章を取り出した。


引き出しの奥で、淡い青の布の端と、古い刺繍箱の角が、ちらりと見えた。父は、すぐに引き出しを閉めた。


「条件がある。一度でも負けたら、二度と剣を持つな。ハインツには暇を出す。お前は、侯爵家の跡取りとして、王宮に出仕する。剣の話は、二度とするな」


「はい」


父は、推挙の書状に、黙って印章を押した。


真紅の蝋が、猛禽の形に固まった。


「行け」


扉に手をかけたとき、背後で父の声がした。


「……誰よりも強くなれと、言ったはずだ」


* *


武闘会の三日前、屋敷に仕立て屋が来た。


ジェフリーの寸法にぴたりと合わせた、革の胴着と、籠手だった。


胸と脇腹と、手首の内側に、薄い鋼の板が縫いこまれていた。動きを妨げないように、板は細かく分けて、一枚ずつ革のあいだに沈めてあった。


「侯爵様のご注文で。寸法は、ハインツ殿からうかがいました」


仕立て屋は、胴着をジェフリーの肩に合わせながら言った。


「ずいぶん細かいご注文でしてね。板を何枚に分けるか、どこを薄くするか、侯爵様ご自身で、図をお描きになって。帳簿みたいな図でしたよ。寸法が、指一本の幅まで書いてありました」


胴着の内側の隠しに、細長い紙が一枚、差しこまれていた。

物差しで引いたような、几帳面な字だった。


――外すな。


それだけだった。


ジェフリーは、紙を見下ろした。


――ハルセリンの名に、泥を塗るつもりか。


書斎で聞いた、冷たい声を思い出した。


ジェフリーは、紙を、胴着の隠しに戻した。


これは、家の名を守るための鋼なのだと思った。



【九 十四の春】


武闘会の日、王宮の中庭は、人であふれていた。


その年の病が去ったことを祝う春の祭りの、最後の日だった。


回廊に貴族たちが並び、露台には国王と王族が座っていた。中庭の端には、騎士団の騎士たちが、腕を組んで立っていた。


出場者は、六十人を超えていた。騎士団の若い騎士。地方の領主の私兵。傭兵。鍛冶屋の息子。木こり。


その中に、十四の少年がひとり。


ジェフリーが中庭に足を踏み入れると、回廊がざわめいた。


「子どもじゃないか」


「ハルセリン侯の息子だ。侯爵は、正気か」


騎士たちの中から、笑い声が上がった。


「おい、坊ちゃん。乳母はどこだ」


ジェフリーは、何も言い返さなかった。


中庭の隅で、木剣を握って、目を閉じた。


――速く。もっと、静かに。


* *


最初の相手は、地方の領主の私兵だった。ジェフリーの倍ほどもある腕で、剣を振り回していた。


角笛が鳴った。


男が剣を振り上げた。振り下ろす前に、男の手首に、ジェフリーの剣の腹が当たっていた。男の剣が石畳に転がり、ジェフリーの切っ先が、男の喉もとで止まっていた。


中庭が、静まりかえった。


二人目も、三人目も、同じだった。


四人目は、乳母はどこだと笑った若い騎士だった。男は、もう笑っていなかった。それでも、十も数えないうちに、男の剣は宙を舞っていた。


ジェフリーは、剣を下ろして、男に頭を下げた。


回廊の笑い声が消えて、ささやき声になり、やがて、誰も声を出さなくなった。


* *


日が傾くころ、中庭に立っているのは、ジェフリーひとりだった。


角笛が、三度鳴った。


中庭の向こうから、軍団長が歩いてきた。


大柄な男だった。髭には、白いものが混じっていた。


顔の左側に、こめかみから頬にかけて、古い刀傷が走っていた。


ジェフリーは、剣を構えたまま、動けなくなった。


軍団長は、ジェフリーの前で足を止めた。ジェフリーの顔を見て、それから、剣を握る手を見た。


六年前よりも、ずっと大きくなった手。手のひらに、固いまめのできた手。


軍団長の目が、ほんのわずかに見開かれた。


「……あの冬の、坊主か。クララ・ハルセリン殿の」


ジェフリーは、黙ってうなずいた。


毎年の冬に、数えきれないほどの墓を掘ってきたはずの人だった。それでも、六年たって、母の名前を覚えていた。


軍団長は、自分の剣を、ゆっくりと抜いた。


「手が、大きくなったな」


* *


その一本は、長かった。


中庭じゅうが、息をのんで見ていた。剣と剣の打ち合う音だけが、春の空に響いた。


軍団長の剣は、重く、速く、迷いがなかった。凍った土を砕いた、あのつるはしのように。


ジェフリーは、何度も押しこまれた。何度も、膝をつきかけた。


一度、軍団長の切っ先が、ジェフリーの脇腹をかすめた。


鈍い音がして、刃が、革の下の鋼に止められた。


――外すな。


ジェフリーは、息を吐いて、剣を構え直した。


剣を、下ろさなかった。


最後の一合だった。


軍団長の剣が、上から振り下ろされた。


ジェフリーは、それを受けずに、半歩、横へずれた。


軍団長の剣が、空を切った。


その一瞬に、ジェフリーの切っ先が、軍団長の胸もとで、ぴたりと止まった。


中庭が、静まりかえった。


軍団長は、自分の胸もとの切っ先を見下ろした。


それから、剣を下ろして、声を上げて笑った。中庭じゅうに響く、大きな笑い声だった。


「一本だ」



【十 史上最年少】


軍団長は、剣を鞘に収めると、王族の座る露台を振り仰いだ。


「陛下。王家に捧ぐ武闘会の古き掟により、軍団長の裁量をもって、この者を騎士団に迎え入れたく存じます」


回廊が、どよめいた。


騎士団の古参の騎士たちが、口々に声を上げた。


「十四の子どもを、騎士に!?」


「成人は十八だ。前例がない!」


「侯爵家の息子だからといって、掟を曲げるのか」


軍団長は、振り返らなかった。

露台を見上げたまま、言った。


「掟は、曲げておりません。年も身分も問わぬと、二百年前の王家が定めました。この百年、誰ひとり、それを使う者がいなかっただけのこと」


露台の上で、国王が、しばらく黙っていた。


それから、隣に控えていた大臣に、何かを尋ねた。大臣が、古い掟の書を開いて、指でなぞった。


国王は、中庭を見下ろした。


中庭の真ん中に立つ、十四の少年を。


「ジェフリー・ハルセリン」


国王の声が、中庭に響いた。


ジェフリーは、片膝をついた。


「なぜ、十八を待たなかった」


ジェフリーは、顔を上げた。


「凍った土を、掘るためです」


回廊が、しんと静まった。


「……冬は、毎年、来ますから」


国王は、しばらくジェフリーを見ていた。


それから、軍団長を見た。


軍団長は、顔の刀傷の上で、わずかに目を細めた。


国王は、ゆっくりとうなずいた。


「掟に従い、許す。ただし、十八に満たぬ者を、すぐに戦場へ出すことはならん。一般の騎士として兵舎に入り、軍団長のもとで、騎士の務めを学ばせよ」


軍団長が、深く頭を下げた。


それから、ジェフリーの前に立って、大きな手を、ジェフリーの頭にぽんと置いた。

六年前と、同じように。


「騎士団に来い、坊主」


ジェフリーは、片膝をついたまま、軍団長を見上げた。


「……はい」


声が、少しだけ、震えていた。


サルヴィア騎士団の二百年の歴史の中で、成人前に騎士となった者は、ひとりもいなかった。


ジェフリー・ハルセリン、十四歳。


史上最年少の、騎士だった。


* *


中庭を見下ろす回廊の柱の陰で、ガレル・ハルセリンが、それを見ていた。


表情は、少しも動いていなかった。


ただ、回廊の手すりを握る手が、白くなるほど強く握りしめられていた。


軍団長の切っ先が脇腹をかすめたとき、その手が、一度だけ、手すりから浮いたことを隣のハインツだけが見ていた。


「侯爵様。坊ちゃんは、一度も、負けませんでしたな」


ガレルは、中庭を見下ろしたまま答えた。


「剣は、ようやく形になった。これからは、騎士団が研ぐ」


冷ややかな声だった。


ハインツは、白い眉の下で、侯爵の横顔を見た。


「下りていって、坊ちゃんに、ひと言おっしゃってはいかがです」


「何をだ」


「よくやった、と」


ガレルは、しばらく黙っていた。


「……あれは、私にそう言われたいとは、思っておらん」


ハインツは、何も言わなかった。


坊ちゃんも、同じことを思っておいでですぞ、とは、言わなかった。


言っても、この親子には、届かない気がした。


しばらくして、ガレルの唇が、もう一度、動いた。


「……クララに、見せてやりたかった」


ハインツにしか聞こえないほどの声だった。


六年のあいだ、侯爵がその名前を口にするのを、ハインツは一度も聞いたことがなかった。


ガレルは、手すりから手を離すと、回廊を歩きだした。


一度も、振り返らなかった。


* *


その夜、ハルセリン侯爵家の書斎の机の引き出しから、淡い青の肩掛けと古い刺繍箱が取り出された。


蝋燭の光の中で、ガレルは、刺繍箱の底から、細長い紙を一枚抜き出した。


六年前の冬、クララの窓辺に置くはずだった本に、挟むつもりでいた一枚だった。

クララの目が文字を読む前に、刺繍箱に仕舞われた一枚だった。


――春になったら、書庫へ一緒に行こう。


その本は、とうとう、屋敷に届かなかった。


ガレルは、その紙を、長いあいだ見ていた。


それから、紙を箱に戻し、肩掛けを膝の上に広げた。


机の端には、その冬の帳簿が積まれていた。薬草の量。死んだ者の数。


サルヴィアじゅうの薬を集めても、冬ひとつ越すのに足りない。


いつか、それを足りるようにする。


どんな手を使っても。


* *


ガレルは、それから、新しい便箋を引き寄せた。


兵舎へ移る息子に、手紙を書くつもりだった。


ペンをインクに浸して、宛名を書いた。


――ジェフリー


そこで、ペンが止まった。


蝋燭が、ゆっくりと短くなっていった。


ガレルは、その便箋を脇へ寄せて、新しい一枚を引き寄せた。


宛名を書いた。

また、止まった。


夜が更けたころ、ようやく、二行だけの手紙が封をされた。


* *


翌朝、兵舎のジェフリーのもとに、父から一通の手紙が届いた。


物差しで引いたような、几帳面な字だった。


――学問を怠るな。胴着は、外すな。


それだけだった。


ジェフリーは、手紙を読んで小さく息を吐いた。


騎士になった朝に届いた、父の言葉が、それだった。


手紙をたたんで、荷物のいちばん底にしまった。


同じ朝、北の丘の屋敷の書斎で、ヘルツは、机の端に重ねられた便箋を片づけた。


七枚あった。


どれにも、宛名がひとつ書かれているだけだった。


* *


二年後、ジェフリーは、十六で黒騎士に叙される。


それもまた、史上最年少の記録になるのだが、それは、また別の話だった。

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