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【Another Page】セドリック・ノール ―名を残さない斥候―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するセドリック・ノールがなぜ斥候になったのか、そして、ジェフリー・ハルセリンを「自分の隊長」として選ぶまでのお話です。

本編より少し前、まだセドリックが黒騎士になったばかりの頃へ遡ります。

セドリック・ノールの故郷は、サルヴィアの東の外れ、ルーデンという小さな村だった。


痩せた畑と、十数頭の羊と、冬になると雪に半分埋もれる石の家。

父は、セドリックが十二の年に雪崩で死んだ。

残されたのは、母と、まだ乳飲み子だった妹のミナと、借りたままの畑の地代だった。


十六で騎士団に志願したのは、剣が好きだったからではない。

騎士の給金は、村で畑を耕すよりも、ずっといい。

それだけだった。

月に一度、セドリックは給金の半分を王都の商会を通して故郷へ送った。


母からの返事はいつも短かった。字が得意ではないのだ。

代わりに、ミナが書き添える。


――兄さん、元気?

母さんは今年も腰が痛いって言いながら、羊の毛を刈ってます。

わたしは村の織物屋で働きはじめました。

春になったら、兄さんの分も新しい肌着を織ってあげる。


セドリックはその手紙を、読み終えると必ずたたんで、背嚢の底の油紙の包みにしまった。


ミナがいつか嫁に行ったら、騎士団をやめて村に帰る。

母の腰をさすりながら、畑を手伝う。

それまでは、できるだけ多く送る。

それが、セドリックの決めたことだった。


誰に話したこともなかった。


* *


二十四の秋、セドリックは一般騎士の第四隊にいた。

隊長はレオポルド・クラウスという、伯爵家の三男坊だった。

金の飾り紐のついた外套を好み、馬は白しか乗らず、軍議では必ず最初に口を開いた。


その秋、サルヴィアの東の峡谷に、傭兵崩れの盗賊団が根を張った。


数は百とも二百とも言われ、峡谷を通る商隊を次々に襲っていた。

騎士団は二つの隊で討伐に当たることになり、レオポルドの第四隊がその先陣を任された。

問題は、盗賊団の本拠がどこにあるのか、誰にもわからないことだった。


「斥候を出す。誰か行ける者はいるか」


レオポルドが言ったとき、手を挙げたのはセドリックだけだった。


峡谷は、ルーデン村からそう遠くない。

子どもの頃、迷子になった羊を探して、何度も分け入った土地だった。


セドリックは、ひとりで峡谷に入った。

三日、戻らなかった。


四日目の夜明け。


泥と枯れ葉にまみれて陣営に戻ったセドリックは、レオポルドの天幕で、一枚の紙を広げた。


峡谷の地図だった。

自分で描いた。


盗賊団の本拠は、峡谷の奥にある崩れた古い砦。

数は百四十。そのうち馬に乗れる者が三十。

見張りは昼に四人、夜に六人で、交代は日の出と日の入り。

食料は北の尾根を越える細い獣道から運びこまれている。

砦の西側の壁は、去年の大雨で半分崩れていて、そこから中へ入れる。


セドリックは、それをすべて、盗賊団の誰にも気づかれずに調べ上げていた。


「……これを、ひとりで?」


天幕の中にいた副隊長が、地図を覗きこんで呟いた。

レオポルドは、黙って地図を見つめていた。

それから、ゆっくりと顔を上げた。


「ご苦労だった、ノール。下がって休め」


それだけだった。


七日後、第四隊はセドリックの地図をもとに、北の獣道を塞ぎ、西の崩れた壁から砦へ攻めこんだ。

盗賊団は総崩れになり、ほとんど抵抗らしい抵抗もできずに降伏した。

第四隊の死者は、ひとりもいなかった。

騎士団の中で、ここ十年でもっとも鮮やかな勝ち方だと言われた。


都に戻ったひと月後。

騎士団の大広間で、論功行賞が行われた。


国王の前に呼ばれ、銀の勲章を胸に受けたのは、レオポルド・クラウスだった。


――隊長自ら峡谷に分け入り、敵の本拠を突き止め、一兵も損なうことなく賊を平らげた。


読み上げられた功績の中に、セドリックの名前はなかった。


大広間の後ろ。

一般騎士たちが並ぶ列の端で、セドリックはそれを聞いていた。

隣にいた同期の騎士が、小声で言った。


「おい、あれ、お前が――」


「黙ってろ」


セドリックは、まっすぐ前を見たまま言った。


怒りは、なかった。

正確に言えば、怒っても仕方がないと、どこかでわかっていた。

伯爵家の三男と、東の外れの羊飼いの息子。

どちらの名前が勲章の下に刻まれるかなど、最初から決まっていたようなものだ。


ただ、ほんの少しだけ、母とミナの顔が浮かんだ。

勲章には、褒賞金がついていた。


* *


セドリックに転属の命令が下ったのは、その冬の初めだった。

行き先は、黒騎士――三番隊。


「栄転だぞ、ノール」


命令書を渡しながら、レオポルドは微笑んだ。

金の飾り紐の外套の胸に、銀の勲章が光っていた。


「黒騎士の給金は、一般騎士よりずっといい。故郷に仕送りをしているのだろう? 母上も喜ばれる」


セドリックは、命令書を受け取った。


レオポルドがなぜ自分の仕送りのことを知っているのか、とは聞かなかった。

聞かなくてもわかった。

この男は、そういうことを調べる男だ。


そして、なぜ自分を手放すのかも、わかっていた。


一般兵の第四隊にこのままいれば、いつか誰かが、峡谷の地図を描いたのが誰だったのかを口にする。

この男は、それを望まない。


黒騎士なら、ちょうどいい。

黒騎士の仕事は、表には出ない。

どれほど働いても、名前が残ることはない。


「……ありがとうございます」


セドリックは、頭を下げた。

顔を上げたとき、レオポルドはもう、次の書類に目を落としていた。



********



黒騎士の三番隊について、セドリックが知っていることは多くなかった。

隊長のジェフリー・ハルセリンは、二十一。


二年前、北のハーゼル村の山賊討伐で、倒れた前の隊長に代わって指揮をとり、その功で隊を預かったという。


隊長になるには若すぎる。

侯爵家の口添えだろう、と当時は散々言われたらしい。

それよりもよく耳にしたのは、別の噂だった。


――女を弄ぶ、冷酷な男。


――顔色ひとつ変えずに人を斬る。血が通っていない。


――氷の騎士。


セドリックは、噂というものを、あまり信用していなかった。

峡谷の勲章のことがあってからは、なおさらだった。

それでも、新しい隊長がどういう男なのか、まったく気にならないと言えば嘘になる。


着任の日。


詰所でセドリックを迎えたのは、隊長ではなかった。

銀灰色の短髪の大男が、帳面を片手に出てきた。


「マティアス・ローデンだ。副隊長をしている。……ノールだな。第四隊から」


「はい」


「隊長は今、任務で出ている。明後日には戻る。それまでは、俺についてこい」


マティアスは、それ以上何も聞かなかった。

峡谷のことも、勲章のことも、転属の理由も。

セドリックは、それがありがたいのかどうか、よくわからなかった。


* *


黒騎士の仕事は、セドリックが想像していたよりも、ずっと地味で、ずっと汚かった。


一般騎士の隊が討伐に出る前の晩、黒騎士は先に敵地に入る。

見張りの数を減らし、橋の綱に切れ目を入れ、井戸に眠り薬を落とす。

敵の伝令を道の途中で消し、偽の伝令とすり替える。

夜明けに一般騎士が鬨の声を上げて攻めこむときには、黒騎士はもう、森の奥へ引き上げている。


勝ちは、一般騎士のものになった。

黒騎士の名前は、どこにも出なかった。


腰に下げるのは、一般騎士のような長剣ではない。

短い刃と、細い針と、袖に仕込む薄い刃。

毒を塗った矢。

音の出ない縄。


着任して最初のひと月で、セドリックは、そういう道具の使い方を一通り覚えた。


「ノール。お前、物覚えが早いな」


夜の任務の帰り道。


同じ組になったアルベルト・ヴァレンが、感心したように言った。

口数の多い男だった。


「前の隊でも、こういうことをしていたのか」


「いや」


「じゃあ、才能だな。……あんまり、嬉しい才能じゃないけど」


アルベルトは、自分の袖の刃を指で弾いて、少し笑った。

セドリックは何も答えなかった。


給金は、確かに上がった。


月末になると、セドリックはいつものように、故郷へ仕送りをした。

今までよりも、少しだけ多く。

ミナから返事が来た。


――兄さん、送ってくれるお金が増えたけど、無理してない?

母さんが心配してる。

危ないお仕事になったんじゃないかって。


セドリックは、その手紙をしばらく見つめていた。


それから、返事を書いた。


――無理はしていない。

隊が変わって、給金が少し上がっただけだ。

心配いらない。


嘘ではなかった。


全部が本当でもなかった。


* * 


隊長のジェフリー・ハルセリンは、噂どおりの男にも見えたし、そうでないようにも見えた。


口数は少なかった。

部下に向ける顔は、ほとんど変わらなかった。

任務の指示は短く、正確で、余計なことは言わない。

敵を前にしたときの手際は、噂よりもさらに速く、迷いがなかった。


確かに、氷のようだった。

着任してふた月が経つうちに、セドリックはいくつかのことに気づいた。


三番隊では、任務で誰かが傷を負うと、その者は次の任務では危険の少ない役目へ回された。

代わりに、いちばん危ない役目は、いつも隊長自身が引き受けていた。


任務の報告書は、必ず隊長が自分で書いた。

その報告書には、組んだ者の名前が、ひとり残らず記されていた。


誰がどこで何をしたのか。

細かく、正確に。


詰所の前で、どこかの令嬢が手紙を差し出してきたとき、隊長は受け取らなかった。

だが、冷たく突っぱねたわけでもなかった。


「受け取れません。申し訳ない」


ただ、そう言って頭を下げた。

令嬢が泣き出すと、困ったように立ち尽くし、結局、マティアスが間に入るまで、そこを動かなかった。


女を弄ぶ男のすることには、見えなかった。

それでも、セドリックはまだ、決めかねていた。

レオポルドも、最初は話のわかる隊長に見えたのだ。


* * 


年が明けて間もない頃、三番隊に任務が下った。


サルヴィアの北東。

凍った湖の向こうに、隣国から流れてきた武装した一団が野営しているという。


数も目的もわからない。


春になれば、一般騎士の第二隊と第五隊がこれを追い払う。

その前に、相手の正体と数と配置を、すべて調べ上げてこい。

気づかれてはならない。

こちらが動いていることを、相手に知られてはならない。


「二人で行く」


詰所の卓に地図を広げて、ジェフリーが言った。


「人数が多いと、足跡が残る。俺と――」


ジェフリーは、卓を囲む部下たちの顔を見回した。

その目が、セドリックの上で止まった。


「ノール。お前が来い」


卓のまわりが、少しざわついた。


セドリックは、隊に来てまだ三月だった。


「……俺で、いいんですか」


「東の峡谷の討伐で、斥候に出たのはお前だったと聞いた」


セドリックは、顔を上げた。

ジェフリーは、地図を見下ろしたまま言った。


「峡谷の地図の筆跡と、お前が先月出した任務の覚え書きの筆跡が、同じだった」


卓が、しんと静まった。


マティアスが、ちらりとセドリックを見た。

アルベルトが、何か言いたそうに口を開きかけて、閉じた。

セドリックは、何も言えなかった。


峡谷の地図は、レオポルドの名前で騎士団の文庫に納められているはずだった。

わざわざそれを取り寄せて、自分の覚え書きと見比べた者がいる。

何のために、とは聞けなかった。


「明日の夜明けに出る。支度をしておけ」


ジェフリーはそれだけ言って、地図を巻いた。


* *


凍った湖までは、馬で二日。

そこから先は、徒歩で行った。

雪は膝まで積もっていた。

二人は、雪山での隠密で使う白い外套を頭からかぶり、木々の陰を縫うように進んだ。


ジェフリーは、ほとんど口をきかなかった。

セドリックも、口をきかなかった。

けれど、それは気詰まりな沈黙ではなかった。

互いに、相手が今何を見て、何を聞いているのかが、なんとなくわかった。


一日目の夕方。


湖の東岸の丘の上から、野営地が見えた。


 湖の対岸。


針葉樹の森を背にして、天幕がいくつも並んでいる。

焚火の煙が、何本も立ちのぼっていた。


「……煙が、十二本」


ジェフリーが、低く言った。


「一つの焚火に十人として、百二十。天幕の数からしても、そのくらいか」


セドリックは、すぐには答えなかった。


丘の上に腹這いになって、長いあいだ野営地を見ていた。

日が傾き、影が伸び、湖の氷が青く翳っていくまで。


それから、言った。


「七十、です」


ジェフリーが、セドリックを見た。


「煙のうち、五本は、薪の燃え方が違います。白くて、細くて、揺れない。湿った生木を、わざと燻らせている。人がいない焚火です」


「……」


「それに、天幕の数のわりに、馬が少ない。森の端に繋いであるのは、二十頭ほど。百二十人の一団なら、荷を運ぶ馬だけでももっと要る」


セドリックは、湖の対岸の森の端を指さした。


「あと、厠(かわや)です。野営地の風下に穴を掘ってある。雪が踏み固められている跡の広さからすると、七十人が十日ほど。それより多くはない」


ジェフリーは、黙ってセドリックの指の先を見ていた。

それから、もう一度、野営地全体を見渡した。


しばらくして、小さく息を吐いた。


「……数を、多く見せている」


「はい。たぶん、こちらが様子を見に来ることを、わかっています。多く見せておけば、春の討伐を遅らせられると思っている」


ジェフリーは、外套の下から小さな帳面を取り出し、何かを書きつけた。

覗きこむつもりはなかった。

ふと、セドリックの目に、その文字が入った。


――煙十二のうち五は偽装。

実数七十前後。

根拠:薪の燃え方、馬の数、厠の踏み跡。

ノール。


最後の名前の書き方が、ひどく丁寧だったように思えた。


二日目の夜。

二人はさらに野営地へ近づいた。


新月だった。


雪明かりだけが頼りだった。

湖の氷の上を、腹這いで渡る。


ジェフリーが前。

セドリックが後ろ。


対岸まであと五十歩のところで、セドリックがジェフリーの足首を掴んだ。


ジェフリーが、ぴたりと止まった。

セドリックは何も言わずに、前方の雪の上を指さした。


暗くて、ほとんど見えない。

それでも目を凝らすと、雪の表面に、細い糸のようなものが一本、低く張られていた。

その先に、小さな鈴がいくつか。


鳴子だった。


ジェフリーは、しばらくそれを見ていた。

それから、ゆっくりと振り返って、セドリックを見た。


暗がりの中で、表情はわからなかった。

ジェフリーは、右へ、と手で示した。

セドリックは、首を横に振った。


左、と指で示す。


右手の雪は、平らで、渡りやすそうに見えた。

左手は、岸辺の葦(あし)が氷から突き出していて、這い進むのに骨が折れる。

その右手の雪の上に、セドリックはほんの微かな窪みを見つけていた。


誰かが一度歩き、その上へ新しい雪を撒いて均した跡。


鳴子は一本ではない。

右手には、もう一本ある。

ジェフリーは、セドリックの目を、数呼吸のあいだ見つめていた。


それから、黙って左へ向きを変えた。


セドリックは、少しだけ驚いた。

理由を、聞かれなかった。


二人は葦(あし)のあいだを抜けて、対岸にたどり着いた。

森の中から、野営地の天幕の裏手を、一つずつ見て回った。


武器を置く天幕。

食料の天幕。

首領らしき男の天幕。

見張りの交代の時刻。

焚火の番をしている者の顔ぶれ。


ひとつの天幕の裏で、セドリックは足を止めた。


中から、話し声が聞こえた。


隣国の言葉だった。

セドリックには、半分ほどしかわからなかった。


ジェフリーが、すぐ隣で息を殺して聞いていた。


しばらくして、ジェフリーはセドリックの肩を軽く叩き、森の奥へ戻れと合図した。


夜明け前。


湖の東岸の丘まで引き上げたところで、ようやくジェフリーが口を開いた。


「……あいつらは、ただの流れ者じゃない」


声は、いつもどおり平らだった。


「隣国の、どこかの領主に雇われている。春になって、こちらが七十人の野営地を百二十人だと思いこんで、大軍を出してくるのを待っている。こちらの騎士団を湖の北に引きつけておいて、そのあいだに、別の一団が南の街道を抜ける」


「……南の、街道」


「交易の荷が通る道だ。こちらの目を北に向けさせて、南で荷を奪うつもりだろう」


セドリックは、湖の向こうの、白い煙の偽の焚火を見た。


あの煙の本数を、そのまま信じていたら。

百二十人の敵がいると報告していたら。


騎士団は大軍を北へ向け、南の街道は手薄になっていただろう。


「お前が、煙を数え直さなかったら」


ジェフリーは、湖を見たまま言った。


「俺は、百二十と書いていた」


それ以上は、何も言わなかった。

礼も、褒め言葉も、なかった。

セドリックも、何も答えなかった。

ただ、丘の上の冷たい風の中で、少しのあいだ、二人並んで白い煙を見ていた。


* *


春の討伐は、うまくいった。


一般騎士の第二隊が湖の北の野営地を攻め、第五隊がひそかに南の街道で待ち伏せた。

隣国の一団は、北でも南でも、思うように動けなかった。

論功行賞では、第二隊と第五隊の隊長が、国王の前に呼ばれた。


黒騎士の名前は、どこにも出なかった。

いつものことだった。


ただ、論功行賞の数日後。

セドリックは、騎士団の軍団長に呼び出された。

軍団長の部屋は、本営のいちばん奥にあった。

重い樫の机の上に、一冊の報告書が置かれていた。


「ノール。お前の名前を、この半年で三度見た」


軍団長は、白髪交じりの顎ひげを撫でながら言った。


「北東の湖の件。南の街道の件。それから、去年の秋の、東の峡谷の件だ」


セドリックは、息を止めた。


「ハルセリンが、峡谷の地図の写しと、お前の覚え書きを並べて持ってきた。どちらも同じ者の手だと。……クラウスの勲章を取り上げることはできん。もう国王陛下の御前で授けたものだからな。だが、記録は直しておく。騎士団の文庫に残る峡谷の地図には、今日から、お前の名前が入る」


軍団長は、報告書を閉じた。


「下がってよい」


セドリックは、軍団長の部屋を出た。


廊下を歩きながら、自分の手を見た。

指先が、少し震えていた。


勲章が欲しかったわけではない。

名前を残したかったわけでもない。

ただ、あの地図を描いたのは自分だった。

それを、誰かが見ていた。


それだけのことだった。



********



その話をジェフリーから持ち出されたのは、さらにひと月が過ぎた、雪解けの頃だった。


夜の詰所に、ほかの者はもう残っていなかった。

ジェフリーは自分の机で報告書を書いていて、セドリックは、自分の装備の手入れをしていた。

ジェフリーが、ペンを置いた。


「ノール」


「はい」


「一番隊が、副隊長を探している」


セドリックは、手を止めた。

黒騎士の中でも歴史の古い隊だった。

隊長は、もう四十を過ぎた古参だ。


「前の副隊長が、春に退いた。後任を、ほかの隊からも推してほしいと言われている」


ジェフリーは、机の上の書類を一枚、セドリックのほうへ押しやった。


「お前を推そうと思っている」


セドリックは、書類を見た。


推薦状の下書きだった。


几帳面な字で、峡谷のこと、湖のこと、南の街道のことが、短く正確に書かれていた。


「副隊長になれば、給金は今の倍近くになる」


ジェフリーは、セドリックを見ずに言った。


「……故郷に、仕送りをしているだろう」


セドリックは、顔を上げた。


「誰から」


「誰からも聞いていない。月末になると、お前は必ず、商会の送金窓口に寄ってから詰所に来る。それだけだ」


ジェフリーは、ペン先についたインクを布で拭った。


「あの隊の隊長は、古い男だが、部下の手柄を取るような男じゃない。お前なら、あそこでもっと上に行ける。名前も、ちゃんと残る」


詰所の暖炉で、薪が崩れる音がした。

セドリックは、推薦状の下書きを、しばらく見つめていた。


倍近い給金。

母の腰の薬代も、ミナの嫁入りの支度も、今よりずっと楽になる。


村に帰る日も、早くなるかもしれない。

断る理由は、どこにもなかった。


セドリックは、着任した日のことを思い出していた。


女を弄ぶ、冷酷な男。

顔色ひとつ変えずに人を斬る男。


氷の騎士。


噂のうち、本当だったのは、最後のほうだけだった。

確かにこの男は、顔色ひとつ変えずに人を斬る。

それは、セドリックも何度も見た。

それ以外は、任務の報告書に、部下の名前をひとり残らず書く男だった。


騎士団の文庫から、とうに忘れられた峡谷の地図を探し出して、筆跡を見比べる男だった。

新入りの斥候が「左だ」と首を振ったとき、理由も聞かずに、それに従う男だった。

月末に部下がどこへ寄っているのかを見ていて、それを、半年も黙っていた男だった。


「隊長」


「何だ」


「その推薦状、出さないでください」


ジェフリーが、ようやくセドリックを見た。

青い目に、わずかな驚きが浮かんでいた。

この男がこういう顔をするのを、セドリックは初めて見た。


「……理由は?」


「別の隊に行けば、給金は上がります。名前も残るかもしれません」


セドリックは、推薦状の下書きを、ジェフリーの机の上に押し戻した。


「でも、俺の名前を最初に書いたのは、隊長でした」


それだけ言った。

それ以上の言葉は、見つからなかったし、見つける必要もない気がした。

ジェフリーは、しばらく黙ってセドリックを見ていた。

それから、推薦状の下書きを手に取り、たたんで、机の引き出しにしまった。


「……そうか」


それだけだった。


ジェフリーは、またペンを取り、報告書の続きを書きはじめた。


セドリックも、装備の手入れに戻った。


袖に仕込む薄い刃に、油を引いていく。

詰所には、ペンの走る音と、暖炉の薪の音だけが残った。


しばらくして、ジェフリーが、書類から顔を上げずに言った。


「来月の北の峠の任務。斥候の組み分けは、お前が決めろ」


「……はい」


セドリックは、刃を鞘に収めた。



********



その月の終わり。


セドリックは、いつものように商会の送金窓口に寄った。

用意した額は、先月と同じだった。

村に送る手紙に、短く書いた。


――隊を移らないかと言われたが、断った。

今の隊長の下で、もう少し働く。

送る額は変わらない。

心配いらない。


書き終えてから、少し考えて、一行だけ書き足した。


――母さんに伝えてくれ。

今の隊長は、噂ほど冷たい人じゃない。


ひと月後、ミナから返事が来た。


――兄さんが誰かのことをそんなふうに書くの、初めて見た。

母さん、笑ってたよ。


セドリックはその手紙をたたんで、背嚢の底の油紙の包みにしまった。


春の終わりの風が、詰所の窓から吹きこんで、机の上の帳面を一枚、めくっていった。

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