【Another Page】アヤ・ソヴェール ―缶の中に残ったもの―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するアヤ・ソヴェールの、まだ賢いあひるになる前のお話。
十歳の春、アヤの席はいつも決まっていた。
王宮の庭に白い天幕が張られ、同じ年ごろの令嬢たちが招かれる茶会である。長いテーブルには、淡い色のドレスをまとった娘たちが並んでいる。その端、日当たりのいい側に、アヤの椅子だけが少し離して置かれた。
「アヤ様のお隣は、落ち着きますわ」
隣の席の令嬢が、扇の陰でくすりと笑った。
「だって、わたくしがとても華奢に見えますもの」
向かいの娘たちが、声を揃えて笑う。
アヤも笑った。口の端を持ち上げて、いつものように。
テーブルの下では、ナプキンを握る指に力が入っていた。けれど、それを見ている者はいない。
笑っていれば、お母様は安心する。
それだけは、もう知っていた。
「あひるの姫」という呼び名は、そのころには庭の隅々まで広がっていた。面と向かって言う者は少ない。扇の陰で、廊下の角で、アヤが通り過ぎたあとの空気の中で、その言葉は何度も繰り返された。
アヤはそのたびに、聞こえなかったふりをして微笑んだ。
その日の皿にも、母がアヤのために用意させた焼き菓子が、たくさん盛られていた。
アヤは、全部食べた。
おなかは、とうに苦しかった。
令嬢たちの馬車が門を出ていくのを見送っても、張りついた笑顔はなかなか顔から剥がれなかった。
(疲れた)
胸の中でそう呟いて、アヤは驚いた。
疲れている、と自分で思ったのは、初めてだった。
********
その翌週、家庭教師のマルタ先生が、アヤを城下へ連れ出した。
「たまには、書物から顔を上げましょう」
先生は、地味な灰色の外套を二枚用意していた。
「民がどう暮らしているかを知ることも、王女のつとめです。机の上で習うより、よほど身につきますよ」
城門を抜けると、音と匂いが一度に押し寄せてきた。
焼きたてのパンの湯気。魚を並べた露台の潮の匂い。洗濯物の下で駆け回る子どもたちの声。
アヤは、外套のフードを深くかぶったまま、石畳を歩いた。
通りすがりの人の視線が自分に向く前に、肩がこわばる。そういう癖がついていた。
けれど、誰も振り向かなかった。皆、自分の荷と、自分の用事で忙しかった。
噴水のある広場で、先生は書店の主人に呼び止められた。
「すぐに戻りますから、ここを動かないように」
一人になったアヤは、荷車をよけようとして、石畳の継ぎ目に足を取られた。
「あっ」
両手をついた掌が、ひりひりと熱くなる。
そのとき、横から腕を掴まれて、ぐい、と引き起こされた。
「派手に転んだね。立てる?」
そこにいたのは、アヤと同じくらいの背丈の子だった。耳の下でばっさりと切られた髪。袖と裾を折り返した、大きすぎる茶色の上着。膝には、継ぎが当たっている。
「ほら、手、見せて」
その子は、自分の袖でアヤの掌の砂を払った。
「うちの兄さんなんて、毎日これよ。膝なんか、かさぶただらけ」
アヤは、次に来る言葉を待った。
体を見て、顔をしかめて、あの名前を口にするのを。
けれど、その子が口にしたのは違う言葉だった。
「おなか、すいてない? 半分あげる」
差し出されたのは、固そうなパンの端だった。
アヤは、思わず受け取って、かじった。
空腹だったことに、そのとき初めて気がついた。母が用意するお菓子で、いつもおなかはいっぱいだったはずなのに。
「あんたさ」
その子が、アヤの顔をじっと見た。
「笑い方が変だよ。口だけ笑ってる。疲れてるときの兄さんの顔と、おんなじ」
アヤは、目を丸くした。
それから、ふいにおかしくなった。
声を出して笑ったのは、いつ以来だったか分からなかった。
「ティナ。あたしの名前」
「アヤ」
自分の名前を、ただの名前として呼ばれたのも、久しぶりだった。
「あたし、毎日、この噴水の裏にいるよ。水汲みの帰りに」
先生が戻ってくる足音が聞こえた。
アヤは、フードを深くかぶり直しながら、小さく頷いた。
********
それから数日、アヤはティナのことばかり考えていた。
彼女は毎日、噴水の裏にいる。
別れ際に聞いた言葉を思い出すたび、もう一度会いたいと思った。
けれど、王女が一人で城下へ出ることなど許されない。
そこでアヤは、王宮の中を少しだけ注意して見るようになった。
厨房の裏には、毎朝、食材を積んだ荷車が入ってくる。空になった荷車が帰るころには、代わりに洗い物や空箱が運び出される。門番たちは荷札を確かめ、御者と言葉を交わし、次の荷車へ目を移す。
アヤは何日か、その様子を眺めた。
そしてある日、飾りのない古い服に着替え、髪を簡単に束ねると、小さな籠を腕に掛けた。
胸は、ひどく鳴っていた。
何食わぬ顔で厨房の裏を抜け、荷を運ぶ者たちのあとについて歩く。
誰かに呼び止められるのではないかと思うたび、足が止まりそうになった。
それでも、そのまま通用門を抜けた。
振り返る。
王宮の壁が、自分の後ろにあった。
それから、噴水のある広場へ向かって走った。
噴水の縁に、見覚えのある短い髪の少女がいた。
「……ほんとに来た」
ティナは目を丸くして、それから、にっと笑った。
ティナは、水汲みや薪運びの合間に、アヤを路地や川辺へ連れ回した。
髪を短く切っているのは、洗うのも乾くのも早いからだという。
上着も、膝の継ぎ当たったズボンも、全部兄のお下がりだった。新しい服を買う余裕は、家にはなかった。
アヤは、ティナの前では「わたし」と言った。
「わたくし」と言うと、どこか遠くにいる誰かの声のように聞こえた。
ある日、アヤは籠の底に包みを忍ばせて、噴水の裏へ行った。
中に入っているのは、自分の衣装箱から選んだ、ふだん着の服が二着。それから、髪に結ぶための青いリボン。
「これ、よかったら」
ティナは、包みを受け取らなかった。
しばらく、じっとそれを見ていた。
「ありがとう。でも、もらえない」
「どうして。いらない服なの。ほんとうに」
「いらないとか、そういうんじゃなくて」
ティナは、言葉を探すように、短い髪をくしゃりとかいた。
「それをもらったら、あたしたち、あげる人ともらう人になっちゃう。そしたら、友達じゃなくなっちゃうよ」
アヤは、息を止めた。
「あたしはね、アヤが服やお菓子をくれるから、友達になったんじゃないよ」
ティナは、にっと笑った。
「お金はあんまり持ってないけどさ、友達っていう宝物は、ちゃんと持ってるんだ。アヤは、その一番新しいやつ」
アヤは、包みを手にしたまま、何も言えなかった。
胸の奥で、何かが、ことりと音を立てて収まった気がした。
ずっと探していたものが、ようやく、自分の手の中に落ちてきたような。
(この人は、わたしを、ほんとうの友達だと思ってくれている)
それ以上、包みのことを口にする必要はなかった。
********
ティナの誕生日は、夏の初めだった。
路地の奥の、二階の小さな部屋。窓の外には、洗濯物が風に揺れている。
テーブルを囲むのは、ティナと、港で荷運びをしている兄と、アヤだけだった。
「今日は、特別だよ」
ティナが、布巾を外した。
皿の上に載っているのは、小ぶりなスコーンが四つ。
宮廷のスコーンは、焼きたてを割って、とろけるクリームを山のように載せて食べるものだった。
このスコーンには、クリームがない。割ると、ぱさりと崩れて、粉がテーブルに散った。
「兄さんがね、お金を少しずつ貯めて、粉を買ってくれたの」
兄は、照れくさそうに目をそらした。
アヤは、一口かじった。
固かった。噛みしめるたびに、麦の香りがじんわり広がる。ゆっくり噛んでいると、ほんのり甘くなってくる。
その間、アヤは誰の顔色も窺わなかった。
母の顔も、令嬢たちの顔も、思い浮かべなかった。
ただ、食べたいから食べていた。
「ねえ」
ティナが、頬杖をついて言った。
「いつかさ、これに蜂蜜をたっぷりつけて、おなかいっぱい食べるのが夢なんだ」
「蜂蜜」
「うん。高いから、お祭りの日にちょっと舐められるくらいなんだけど」
その夜、ティナは、スコーンの残りを丸い缶に詰めた。
角の塗りがはげた、古いお茶の缶だった。兄が港で拾ってきたものだという。
次の日、二人は缶を持って川辺へ行った。
草の上に腰を下ろし、足先を水に浸して、残りのスコーンを分け合った。
「来年もさ」
ティナは、何か言いかけ、そのまま缶の蓋を閉めた。
アヤは、そのとき、それを気に留めなかった。
********
城へ戻ったアヤは、蜂蜜のことばかり考えるようになった。
城の厨房の棚には、壺いっぱいの蜂蜜がある。持ち出すのは簡単だった。
けれど、ティナは、きっと受け取らない。
それは、あの日、噴水の裏で聞いた言葉が教えてくれていた。
(それなら、自分で、手に入れる方法を見つければいい)
アヤは、王宮図書館にこもった。
蜂は、どこに巣を作るのか。
どの季節に、どの花の蜜を集めるのか。
どうすれば、蜂を傷つけずに、巣から蜜をわけてもらえるのか。
本を一冊読むと、分からないことが十個増えた。
花の種類のこと。煙を使って蜂を静める方法。巣箱の作り方。
気づけば、夜更けまで灯りを消さない日が、増えていた。
誰かに強いられたわけではなかった。
ただ、知りたかった。
一つ分からないことがあれば、もう一冊。そこにも答えがなければ、さらに次の一冊へ。
こんなふうに、一つの答えを求めて次から次へと本を開いたことは、それまでなかった。
季節が一巡りするころには、蜂について書かれた本だけでは足りなくなっていた。
どの本にも、蜜を採るには経験が必要だと書かれている。
巣の場所も、季節も、蜂の扱いも、文字だけでは分からないことがある。
アヤは図書館を出て、今度は庭師や料理人たちに尋ねて回った。
そうして、城の北の丘で蜂を扱っている者がいることを知った。
アヤは何度かそこへ通った。
蜂に近づくときのこと。煙を使う理由。蜜を採ってよい時期と、巣に残しておかなければならない量。
本で読んだだけでは分からなかったことを、一つずつ教えてもらった。
ある日、帰り際に言われた。
「今度は、お友達も連れておいで」
アヤは、大きく頷いた。
ティナと一緒なら、きっと楽しい。
今度こそ、二人で蜂蜜を味わえる。
アヤは、胸を弾ませて路地の奥へ駆けた。
********
ティナの家の前には、荷馬車が止まっていた。
戸口で、兄が、うなだれて立っている。
ティナは、見慣れない灰色の服を着ていた。肩に、小さな荷物がひとつ。
「アヤ」
ティナは、いつもの顔で笑った。
「来てくれたんだ。よかった。最後に、会えて」
「最後……?」
「うちの借金ね、ひいおじいちゃんの代からなんだって」
ティナは、さらりと言った。
「兄さんだけじゃ、返せないの。あたしも十二になったら働くって、前から決まってたんだって。アジールのお屋敷で」
アヤの足が、その場で止まった。
――お父様にお願いしたら。
一瞬、そう思った。
同時に、噴水の裏で聞いた声が、耳の奥で響いていた。
ティナは、絶対に受け取らない。
それに、どう頼めばティナをここに残せるのかも分からなかった。
借金がどういう決まりで受け継がれるのか。アジールへ働きに出る約束を、誰が、いつ交わしたのか。
まだ幼いアヤには、何ひとつ分からなかった。
「ごめんね。言えなかった」
ティナは、肩に提げた袋から、あの缶を取り出した。
角の塗りがはげた、丸い缶。
「あの日、一緒に食べたスコーンがさ、あたしの励みなんだ」
ティナは、缶を両手で握りしめた。
「あたしの、宝物の思い出。向こうでどんなにつらいことがあっても、この缶を見るたびに、思い出す。アヤと食べたスコーンのこと。そしたら、きっと、がんばれる」
アヤは、何か言おうとした。
けれど、喉がつかえて、声にならなかった。
「泣かないでよ」
ティナが、困ったように笑った。
その目も、赤くなっていた。
荷馬車が、ゆっくりと動き出した。
荷台から、ティナは、何度も手を振った。
その手が、角を曲がって見えなくなるまで、アヤは、動けなかった。
アヤの頬を、涙がぽろぽろと転がり落ちていった。
そのときのアヤには、ただ立って泣くことしかできなかった。
涙の向こうで、荷馬車は小さくなっていった。
知らないことが、こんなにも悔しいと思ったのは、初めてだった。




