【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―先に語られたこと―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』の4章で語られたジェフリー・ハルセリンにまつわるお話です。彼がなぜ氷の騎士といわれるようになったか――
サルヴィアの王都に、ようやく遅い雪解けが訪れたころ。
ジェフリー・ハルセリンは十六歳で、黒騎士の外套を授かった。
王城の大広間に、叙任を告げる声が響く。
片膝をついたジェフリーの肩に、白い外套が掛けられた。黒の礼装の上で、その白はひどく鮮やかに見えた。
居並ぶ貴族たちのあいだから、ざわめきが起こる。
――最年少だそうだ。
――あのハルセリン侯の息子か。
――十四で軍団長から一本取ったという、あの少年だろう。
――なるほど。あの顔なら、さぞ目立つでしょうね。
称賛と、それと同じくらいの棘を含んだ囁きだった。
ジェフリーは顔を上げず、ただ肩にかかった外套の重みを感じていた。
昔から、似たようなことは何度もあった。
剣の話をしていたはずなのに、最後には容姿の話になり、努力を褒められたと思えば、やがて父の名へ行き着く。
自分のことを話しているはずなのに、そこから自分だけが取り残されているような感覚にも、もう慣れていた。
肩に掛けられた外套を乱さぬよう、静かに立ち上がる。
その広間の片隅で、淡い薔薇色のドレスを纏った少女が、身じろぎもせずに彼を見つめていた。
ベルンハイム公爵家の令嬢、ロザリンド。十八歳。
今年、正式に社交界へ出たばかりの娘だった。
その少し後ろには、彼女の扇を預かる年上の娘が控えていた。
アーデン伯爵家の長女、セリーナ。二十歳。
ジェフリーが顔を上げた瞬間、ロザリンドが小さく息を呑んだ。
「……素敵」
声は、すぐそばにいるセリーナにしか届かなかった。
セリーナもまた、主の視線を追うように広間の中央を見た。
淡い金の髪。
まだ少年らしさをわずかに残しながら、すでに大人たちの中に一人で立っている姿。
ほんの一瞬だけ、その目が留まる。
それからセリーナは何も言わず、預かった扇を持ち直して視線を伏せた。
最初の手紙が届いたのは、叙任式の翌日だった。
黒騎士の詰所に戻ったジェフリーを待っていたのは、薔薇の香りがする一通の封書だった。
封蝋には、ベルンハイム公爵家の紋章が押されている。
同じ部屋の騎士たちが、たちまち色めき立った。
「おいおい、叙任の翌日に公爵家からお誘いか」
同じ部屋にいた騎士が、机の上の封書を覗き込みながら笑った。
「さすがは最年少様だ。剣の腕だけじゃないらしい」
またそれか、と思った。
顔には出さず、冷やかしの声を背に受けながら、ジェフリーは封を切った。
中には、叙任式での立ち姿を讃える言葉が丁寧な筆跡で綴られていた。若くして黒騎士になったことへの称賛が続き、最後には、近いうちに開く茶会へぜひ来てほしいと記されている。
ジェフリーは、その日のうちに返事を書いた。
祝いへの礼。お心遣いに感謝すること。任務のため、伺うことはできないこと。
書き終えてから二度読み返し、相手を傷つけるような言葉も、余計な期待を持たせるような言葉もないことを確かめて封をした。
それで終わるはずだった。
だが、手紙は数日おきに届き続けた。
いつも同じ香りがして、いつも同じ柔らかな筆跡だった。
茶会が難しければ庭園を歩くだけでも。音楽会ならどうか。家族も同席するので、気兼ねはいらない――
ジェフリーはそのたび、短い返事を書いた。
やがて手紙だけではなく、小さな包みまで添えられてきた。開けてみると、白い絹の手巾だった。隅に、金糸で小さく「G」と刺繍が施されている。
ジェフリーはしばらく、それを見下ろしていた。
それから手巾を元のように包み直し、短い手紙を添えて送り返した。
――このような品をいただく理由が、私にはございません。
書いてから、少し冷たすぎるだろうかと思った。
言葉を柔らかくすることはできる。
だが、その柔らかさを希望と受け取られれば、結局もっと相手を傷つけることになる。
ジェフリーは、そのまま封をした。
正しいことをしたつもりだった。
受け取れば、気持ちに応えたと思わせてしまう。それはかえって不誠実だと思った。
十六歳のジェフリーは、まだ知らなかった。
自分が正しくあろうとすることと、その正しさが相手にも同じ形で届くことは、まったく別の話なのだと。
*******
ほどなくして、訓練場の外に日傘が並ぶようになった。
剣と革と汗の匂いしかしなかった場所に、花の香水が混じる。
柵の向こうで、鮮やかなドレス姿の令嬢たちが楽しげに囁き合っている。
その中心にいるのは、いつもロザリンドだった。
少し後ろには、セリーナが控えている。
「公爵家の姫君までお出ましだ」
組み手の相手が、剣を合わせながら低く吐き捨てる。
「見せびらかすのは、よそでやってくれないか」
「俺が呼んだわけじゃない」
「じゃあ、追い返せよ」
「そんな権限も持っていない」
答えながら、次の剣を受ける。
柵のほうへは見なかった。
どう振る舞えば正解なのか、分からなかった。
笑えば期待させる。露骨に避ければ、今度は侮辱したと言われるかもしれない。
ならば、見ないことにした。
訓練中なのだから、訓練だけをしていればいい。
そうすれば、少なくとも自分から何かを間違えることはない。
日傘の陰で、ロザリンドの頬に赤みが差した。
そのすぐ後ろでセリーナが、訓練場のジェフリーを黙って見つめていた。
春の宴の夜だった。
王城の大広間には、長かった冬を越えた人々の浮き立つ声が満ちていた。
楽の音と酒の香りが庭園へ続くテラスにまで流れ出し、その境目に、ジェフリーは護衛として立っていた。
広間から流れてくる楽の音が、夜気の中で遠く聞こえる。
衣擦れの音がして振り返ると、ロザリンドが立っていた。
「ジェフリー様」
ロザリンドは胸の前で両手を握りしめていた。
少し離れた柱の陰には、取り巻きの令嬢たちが控えていた。その中にセリーナもいた。
「一曲だけ、踊ってくださらない?」
ジェフリーは一瞬、広間へ目をやった。
「申し訳ありません。任務中です」
「では、任務が終わったら」
逃げ道を塞がれたような気がした。
断れば、きっと傷つける。
だからといって受け入れれば、今まで以上の期待を持たせてしまう。
「……申し訳ありません」
ロザリンドの笑みが消えた。
「どうして? 手紙にも、ちゃんとしたお返事をくださらない。贈り物も返されてしまった。わたくし、何かあなたのお気に障ることをしたの?」
ジェフリーは、言葉を探した。
嘘をつくことはできなかった。曖昧に濁せば、また手紙が届き、また誰かが訓練場の柵に並ぶ。
「いいえ。何も」
できるかぎり静かに、ジェフリーは言った。
「ですが、私はあなたのことを、何も存じ上げません。存じ上げない方のお気持ちに、お応えすることはできません」
誠実に答えたつもりだった。
けれど、その言葉はテラスの夜気の中で、ひどく冷たく響いた。
ロザリンドの瞳に、みるみる涙が溜まった。
柱の陰で、令嬢の誰かが息をのむ音がした。
ロザリンドは何も言わずに踵を返し、ドレスの裾を翻して広間へ駆け戻っていった。取り巻きたちが、慌ててそのあとを追う。
最後に残ったのは、セリーナだった。
彼女は一瞬だけジェフリーを振り返った。
責める目ではなかった。何かを憐れむような、困ったような目だった。
それから、彼女も主のあとを追って去っていった。
数日後。
ジェフリーは、自分の知らない自分の話を聞いた。
――ハルセリンの息子が、ベルンハイム家の姫に何通も手紙を送り、その気にさせておきながら、飽きれば手のひらを返し、春の宴の夜に皆の前で冷たく捨てたそうだ。
――贈り物まで突き返したとか。
――姫は泣き崩れて、それからずっと部屋に閉じこもっておられるらしい。
断りの返事は「恋文」になった。
返した手巾は「突き返した贈り物」になった。
そして、ジェフリー・ハルセリンは、女を弄ぶ冷酷な男になった。
詰所の空気は、さらに冷えた。
「最年少の黒騎士様は、剣より女の扱いのほうがお上手らしい」
食堂でそう言った騎士がいて、周りから笑いが起こった。
ジェフリーは黙ってスープを口に運んだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、一般騎士の卓で、一人だけ笑わずにこちらを見ている男がいた。
アルベルト・ヴァレン。
そのときのジェフリーは、まだ顔と名前を知る程度だった。
ジェフリーは一度だけ、古参の騎士に事実を伝えようとした。
「ベルンハイム令嬢へ、私から手紙を送ったことはありません。手元に届いたものへ、お断りの返事を一度書いただけです。贈り物も、受け取る理由がなかったのでお返ししました」
「それで?」
思っていた返事とは違った。
ジェフリーは少し詰まる。
「……今、広まっている話は事実ではありません」
古参の騎士は眉を寄せた。
「公爵家の令嬢が、わざわざ嘘をつく理由がどこにある」
「……」
「事情など知らん。黒騎士の名を汚すな。言いたいのは、それだけだ」
それきり、彼は背を向けた。
去っていくその背中を、ジェフリーは見ていた。
まだ言葉は残っている。
説明したいこともあった。
けれど、それを受け取る側が最初から聞くつもりを持っていないのなら、どれだけ言葉を重ねても届かない。
そのことを、初めて知った。
********
ハルセリン家の長い食卓には、いつものように父と息子の二人しかいなかった。
銀の食器が触れ合う音だけが、広い食堂に響いている。
「ベルンハイムの件は聞いた」
ガレルは肉を切り分けながら、息子のほうを見ずに言った。
「事実ではありません」
「事実かどうかは問題ではない」
ナイフが、皿の上で正確に肉を切り離す。
「ベルンハイム公と事を構えて、得るものは何もない。放っておけ。噂など、いずれ消える」
「ですが、私が何も言わなければ――」
「ジェフリー」
父がようやく目を上げた。
「それで、お前の剣の腕が落ちるのか」
「……いいえ」
「黒騎士でなくなるのか」
「いいえ」
「ならば仕事で示せ」
ジェフリーは、手にしたフォークを静かに置いた。
父は、息子の言葉を疑ってはいなかった。
同時に、その信頼は、息子のために父が何かしてくれることとは別なのだと理解した。
息子一人の名誉のために、公爵家と争う価値を父は見いだしていない。それだけのことだった。
********
噂が広まってひと月ほど経った、雨の日のことだった。
王城の回廊を歩いていたジェフリーは、柱の陰に立つ人影に気づいて足を止めた。
セリーナ・アーデンだった。供も連れず、一人で雨の庭を眺めている。
関わらないほうがいい。
そう思い、そのまま通り過ぎようとした。
「ジェフリー様」
呼び止められ、ジェフリーの身体がわずかに強張った。
「ロザリンド様は、本当にあなたをお慕いしていたの」
セリーナは、庭へ目を向けたまま言った。
「だから、許せなかったのよ。自分の想いが届かなかったことが」
「……あなたも、そう思っているのですか。私が、彼女を弄んだと」
セリーナは、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。あの夜、わたしはすぐ後ろにいたもの。あなたが何を言ったのか、全部聞いていたわ」
迷いのない声だった。
「わたしが何を言っても、何も変わらない」
ジェフリーの胸の奥で、固くなっていた何かがわずかにほどけた。
「なら――」
「ごめんなさい」
続けようとした言葉を、彼女が遮った。
「わたしには何もできないの」
セリーナの指が、ショールの端を強く握る。
「アーデン家は、ベルンハイム家に逆らえるような家じゃないの。わたしがロザリンド様のお側にいられるのも、父がそう望んだからよ」
雨音が、回廊の石の床を打っていた。
「でも……せめて」
セリーナは一度だけ目を伏せた。
「あなたが何もしていないことを知っている人間が、一人はいると。それだけは、お伝えしたかったの」
セリーナは、小さくそう言った。
それから、雨に煙る庭を見つめたまま、ひとりごとのように続けた。
「でも、よく分かったわ。この宮廷では、本当のことより、先に口にされたことのほうが本当になるのね」
責めるような響きはなかった。
むしろ、その理不尽さをジェフリーと同じ側から眺めているように聞こえた。
それが、彼の妙に胸へ残った。
セリーナは一礼し、回廊の奥へ去っていった。
ジェフリーは、その後ろ姿が見えなくなるまで、その場を動けなかった。
宮廷じゅうで、ただ一人。
本当のことを知っていると、口にしてくれた人だった。
********
噂は、やがて人々の口にのぼらなくなった。
消えたというより、もっと新しく、もっと面白い話に押し流されていった。
ジェフリーも、以前と同じように剣を振った。
任務へ出て、必要なら人と話し、宴では礼を尽くした。
ただ、届く手紙へ律儀に返事を書くことはなくなった。
令嬢に話しかけられれば答えたが、その先へ自分から言葉を重ねることも減った。
それでも、まだすべてを閉ざしていたわけではない。
ときどき雨の日のことを思い出した。
――あなたが何もしていないことを知っている人間が、一人はいる。
その言葉だけは、心のどこかに残っていた。
人は皆同じではない。そう思うための、細い糸のように。
それから一年ほどが過ぎた。
ロザリンドは隣国の侯爵家へ嫁ぎ、宮廷から姿を消した。
アーデン伯爵家は、事業の失敗によって大きな借財を抱えたと噂された。セリーナがベルンハイム公爵家を離れたのも、その頃だった。
ジェフリーは十七歳になった。
その年の冬。
サルヴィア北部、アーデン伯爵家の狩猟館は、雪に沈んだ森の奥に建っていた。
冬の狩りに招かれた貴族たちを護衛するため、黒騎士から数名と、一般騎士たちが派遣された。
ジェフリーも、その中にいた。
館へ到着し、迎えの列にセリーナを見つけたとき、ほんの一瞬だけ足が止まった。
一年前より、少し痩せたように見えた。
深い緑のドレスは上等なものだったが、袖口の刺繍の一部がわずかにほつれている。
以前なら、気づかなかったかもしれない。
家が傾いているという噂を聞いたあとだからこそ、目についたのだろう。
「お久しぶりです、ジェフリー様」
セリーナは以前と変わらぬ笑みで一礼した。
「お久しぶりです」
それだけの挨拶だった。
それでも、雨の日の回廊を思い出した。
この人だけは知っている。自分が何もしていなかったことを。
その記憶があるだけで、他の令嬢と話すときよりも、ほんの少し呼吸が楽だった。
三日間の滞在中、セリーナは何かとジェフリーへ声をかけてきた。
狩りへ出る朝には、「ずいぶん早くからお立ちになるのね」と声をかけられた。
「護衛ですから」
「昔から、そうでしたものね」
ジェフリーが振り返る。
セリーナは少し笑った。
「訓練場でも、皆さまがお休みになってから一人で剣を振っていらしたでしょう」
「……よくご存知ですね」
「ええ」
答えてから、セリーナは一瞬だけ目を伏せた。
「いつも、見ていましたから」
ジェフリーが顔を上げる。
すると彼女は、いかにも何でもない話のように続けた。
「ロザリンド様のお供で、ですけれど」
それ以上、何も言わなかった。
別の日の食事では、ジェフリーの皿を見て、「昔から甘いものはあまり召し上がらないのね」と言った。
「そこまで覚えていらっしゃるのですか」
思わず尋ねると、セリーナは扇の陰で微笑んだ。
「案外、見ているものなのよ」
その意味を深く考えようとはしなかった。
考えたところで、自分には関係のないことだと思った。
狩りの三日目の夜。
大広間では宴が続いていた。
ジェフリーは壁際で客人たちを見守っていた。
「ジェフリー様は、お飲みにならないの?」
いつの間にかセリーナがそばに立っていた。
「任務中ですので」
「相変わらず、真面目なのね」
「まだ一年しか経っていません」
思わずそう返すと、セリーナが目を丸くした。
やがて、声を立てずに笑う。
「そうね」
その笑顔は、一年前の雨の日より柔らかかった。
「わたしには、ずいぶん長い一年だったものだから」
広間の向こうから彼女を呼ぶ声がした。
セリーナはそちらへ目を向け、一礼する。
去っていく背中を、ジェフリーは少しだけ見送った。
胸に残ったのは違和感ではなく、懐かしさに近いものだった。
夜番を終えて客間へ戻ったのは、真夜中を過ぎたころだった。
外套を脱ぎ、冷えた指から手袋を外していると、扉が叩かれた。
若い侍女が、湯気の立つ杯を盆へ載せている。
「セリーナ様からです。夜番でお身体が冷えたでしょう、と」
温めた葡萄酒だった。
蜂蜜と肉桂の甘い香りがする。
ジェフリーは一瞬だけためらった。
以前なら断っていたかもしれない。
それでも、すぐに雨の日の声を思い出した。
――あなたが何もしていないことを知っている人間が、一人はいる。
疑うことのほうが、失礼な気がした。
「……ありがたく頂戴します、とお伝えください」
侍女は頭を下げ、廊下の向こうへ消えた。
ジェフリーは窓際の椅子へ腰を下ろし、杯へ口をつけた。
甘い。
肉桂が少し強い。
けれど、冷えた身体には心地よかった。
その強い香りが別のものを隠していたことに気づいたのは、杯が空になってしばらく経ってからだった。
身体の奥から、妙な熱が上がってきた。
暖炉の火はすでに小さい。
それなのに額へ汗が滲む。
鼓動が速い。
立ち上がろうとすると、床が少し傾いた。
ジェフリーは机へ手をつく。
視界の端で、蝋燭の炎が滲んだ。
高熱病か。
一瞬そう思った。
何かがおかしい。
そう思ったとき、扉が開いた。
「ジェフリー様」
セリーナが立っていた。
夜着の上に毛織のショールを羽織り、手には燭台を持っている。
彼女が部屋へ入る。
背後で扉が閉まり、その直後、外側から小さな金属音がした。
鍵。
「……どうして」
ジェフリーはセリーナを見た。
「お加減が悪いと聞いて」
「誰からです」
答えはなかった。
セリーナは燭台を卓へ置き、ゆっくり近づいてくる。
指先が、ジェフリーの袖へ触れた。
「お顔が赤いわ」
その瞬間。
机の上に置かれた空の杯が目に入った。
ジェフリーの中で、ばらばらだったものが一つにつながった。
「……何を入れたのですか」
セリーナの指が止まった。
笑みは残っていた。
ただ、その口元はひどく頼りなかった。
「セリーナ」
初めて、名前だけを呼んだ。
彼女の睫毛が震える。
「アーデン家には、もう何も残っていないの」
声は小さかった。
「父の借財も、抵当に入った土地も。来年になれば、この館だって残っているかどうか……」
「だから、私を?」
セリーナは目を伏せた。
「ハルセリン家と縁が結べれば、家は助かるわ」
ジェフリーは机へ身体を預けたまま、彼女を見ていた。
「家を救うためだけに、こんなことをしているのですか」
セリーナの顔が上がる。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
暖炉の中で、薪が小さく崩れた。
やがてセリーナは、ほんの少し笑った。
「あなたは、本当に何もご存じないのね」
宴の席で浮かべるような、よく整えられた笑みだった。
「ロザリンド様が、あなたのお話をなさるたび」
ゆっくりと言葉が続く。
「わたしはいつも、すぐそばにいたわ」
ジェフリーは黙った。
「お手紙を書くときも。贈り物を選ぶときも。訓練場へ行きたいと仰ったときも」
セリーナの目が、遠いものを見るように細くなる。
「ロザリンド様は、何でもわたしに話してくださった。今日はあなたがどんな顔をしていたとか、目が合ったような気がするとか、今度こそ返事をいただけるかもしれないとか」
口元には笑みがある。
けれど、その笑みには少しも楽しさがなかった。
「それを聞いているうちに、わたしまであなたのことを覚えてしまった」
ジェフリーの胸の奥へ、冷たいものが落ちた。
「訓練場で、あなたが一度もこちらを見なかったことも」
一年前、回廊で別れ際に見せたセリーナの横顔が、ふいに脳裏をよぎった。
今になって、ようやく分かった。
あのころから彼女は、ロザリンドの後ろで自分を見ていたのだ。
「あの夜、ロザリンド様をお断りになったとき、わたしは、あの方がお気の毒だった」
一度、言葉が止まった。
セリーナの指先が、ショールの端を握る。
「同時に……少しだけ羨ましかった」
ジェフリーは何も言わなかった。
「少なくとも、あの方はあなたの前に立てたもの」
声は、令嬢らしい静けさを保っている。
その静けさの底に、長く押し込めてきたものだけが滲んでいた。
「わたしは、ずっと後ろにいるしかなかった」
「セリーナ」
「雨の日に、あなたへ声をかけたことも嘘ではなかったわ」
セリーナは、まっすぐジェフリーを見た。
「あなたが何もしていないことを知っていた。本当に、ひどいことだと思った」
少しだけ近づく。
「でも……それだけではなかったの」
ジェフリーは動かなかった。
「あなたに、わたしのことを覚えていてほしかった」
好きだとは言わなかった。
その言葉よりも、かえってはっきり伝わった。
ジェフリーは一度、目を伏せた。
「なら、なおさら」
セリーナの顔が揺れる。
「こんなことをしてはいけなかった」
「分かっているわ」
返事は早かった。
「分かっている人間がすることではありません」
ジェフリーの言葉に、セリーナは唇を結んだ。
しばらくして、セリーナは誰に言い聞かせるでもなく呟く。
「家が救われる」
「……」
「父も助かる」
そこで、また言葉が切れた。
ジェフリーを見る。
「それに、わたしもずっと見ていた人のそばにいられる」
ジェフリーの胸の内側が、ゆっくり冷えていった。
「それで、私があなたを選んだことになるのですか」
セリーナの口から出たのは、すがるような懇願だった。
「一晩でいいの。明日の朝、わたしがこの部屋にいるところを誰かが見れば、それでいい」
「何もなかったとしても?」
「何があったかなんて、誰にも分からないわ」
「誰が信じると――」
「信じるわ」
静かに遮られた。
その声にはもう、先ほどまでの揺れがなかった。
「あなたは一年前、何もしていないのに、女を弄ぶ男だと言われた」
ジェフリーの呼吸が止まる。
「そして、誰もあなたを信じなかった」
雨の日の回廊が脳裏に蘇った。
灰色の空。
石畳を打つ雨。
――あなたが何もしていないことを知っている人間が、一人はいる。
あのとき救われた言葉と、今の声が重なる。
「……今度も、誰も疑わないわ」
セリーナは言った。
「本当のことより、先に口にされたことのほうが本当になるの」
ジェフリーは、しばらく彼女を見ていた。
言葉が出なかった。
あの雨の日の彼女が嘘だったとは思えない。
謝ったことも。
自分が何もしていないと分かっていると言ったことも。
おそらく、本心だった。
だからこそ理解できなかった。
本当に自分を憐れんだ人間が、その一年後には同じ傷を使って自分を追い詰めている。
人は、こんなふうに変わるのか。
それとも、最初から自分が何も見ていなかったのか。
ジェフリーには分からなかった。
袖に置かれたセリーナの手を、静かに外した。
腕が鉛のように重い。
「お引き取りください」
「扉には、外から鍵がかかっているわ」
ジェフリーは答えなかった。
彼女に背を向け、窓へ向かう。
「何をするの?」
足元がふらつく。
壁へ手をつきながら、掛け金を外す。
窓を押し開けた瞬間、凍てついた夜気が一気に部屋へ流れ込んできた。
熱を持った顔を、雪まじりの風が打つ。
肺の奥まで冷たさを吸い込むと、ほんの一瞬だけ頭の霞が薄くなった。
窓の下には、軒から落ちた雪が深く積もっている。
「ここは二階よ」
背後からセリーナの声が追ってきた。
ジェフリーは窓枠へ手をかけた。
振り返らないまま言った。
「あなたも……こんなことを、望んではいなかったはずだ」
返事はなかった。
ジェフリーは、そのまま闇の中へ身を投げた。
雪は思っていたより深かった。
落ちた身体が腰近くまで沈み、息が詰まる。
雪を掻き分けてどうにか身体を起こすと、シャツも髪もすでに濡れていた。
風が背中へ容赦なく吹きつける。
冷たいはずなのに、身体の内側だけは焼けるように熱い。
足がもつれ、何度も雪へ膝をついた。
それでも、館から離れたかった。
考えられるのは、それだけだった。
厩舎の灯りが見えたとき、その前に一人の騎士が立っていた。
アルベルト・ヴァレンだった。
「ジェフリー? おい、何だその格好――」
駆け寄ってきたアルベルトは、顔を覗き込んだ途端に言葉を切った。
焦点の定まらない目。
雪の夜だというのに浮かぶ汗。
震える指。
普段の軽い表情が消える。
「……馬を」
ジェフリーはかすれた声で言った。
「ここを、離れる」
アルベルトは、何があったのかとは訊かなかった。
一度だけ館のほうを見た。
それから自分の外套を脱ぎ、ジェフリーの肩へ被せる。
そのまま厩舎へ入り、二頭の馬に鞍をつけはじめた。
「お前まで……持ち場を離れたことになる」
「あとで怒られりゃいい」
鞍帯を締めながら、アルベルトはこともなげに言った。
「お前を一人で雪の中に放り出すほうが、よっぽど寝覚めが悪い」
その夜、二騎は雪の森を抜けた。
ジェフリーの馬の手綱は、ずっとアルベルトが引いていた。
吹きつける雪の向こうで、前を行く背中だけが、かろうじて見えていた。
********
ジェフリーは三日間、熱にうなされた。
目を覚ましたころには、あの夜はすでに別の物語になっていた。
ハルセリン家の息子が、アーデン家の令嬢を夜半に自室へ招き入れ、一夜を過ごした。
責任を問われる前に、夜明けも待たず逃げ帰った――と。
アーデン家は、娘の名誉のために婚約を求めた。
ハルセリン家は、それを即座に退けた。
宮廷の人々には、それだけで十分だった。
――やはり、あの噂は本当だったのだ。
――一度なら噂でも、二度目となれば本性だろう。
一年前に沈みかけていた話が、再び浮かび上がった。今度は、以前よりも強い形で。
床を離れたその日、ジェフリーは父の書斎へ呼ばれた。
ガレルは執務机へ向かい、書類へ羽根ペンを走らせていた。
「アーデンの件は片づけた。縁談は断った」
「私は、何もしていません」
「知っている」
ペン先は止まらなかった。
「ならば――」
「弁明するな」
そこで初めて、ガレルが顔を上げた。
「二度目だ。お前が口を開けば、アーデンも口を開く。一年前のベルンハイムの件まで掘り返される」
「ですが」
「人は真実を知りたいから噂をするのではない」
青い瞳が、息子をまっすぐ見る。
「面白いからする」
ジェフリーは黙った。
「黙っていれば、いずれ人は飽きる」
「それでは、私は――」
「ジェフリー」
低い声が遮った。
「お前は剣だ」
窓の外では、雪が降っていた。
「剣は言い訳をしない」
それきり、ガレルは再び書類へ目を落とした。
一年前は、放っておけと言われた。
今度は、口を開くことさえ禁じられた。
父は最初から真実を知っている。
知ったうえで、それでも息子一人の名誉より、家の名を選んだ。
黒騎士の詰所へ戻った朝。
食堂の扉を開けた瞬間、それまで続いていた笑い声が途切れた。
ジェフリーは何も言わず、配膳の列に並んだ。
長卓の端へ腰を下ろすと、両隣にいた騎士たちが、示し合わせたように少しずつ席を詰めて離れていった。
左右に空いた長椅子が、妙に広く見えた。
「懲りないお方だ」
向こう側から声がした。
「公爵家の次は伯爵家か。女を泣かせても、親父殿がきれいに片づけてくださる」
低い笑いが起きた。
一年前にも聞いた笑いだった。
あのころは、どこかにまだ、説明すれば分かるという気持ちが残っていた。
今はもうなかった。
ジェフリーは黒パンを千切り、冷めかけたスープへ浸した。
口へ運んでも、何の味もしなかった。
剣の稽古でも同じだった。
組み手の相手を決める号令がかかると、騎士たちは自然に二人ずつ組んでいった。
ジェフリーだけが残った。
古参の騎士が、面倒そうに顎をしゃくる。
「相手のいない者は、杭でも打っていろ」
ジェフリーは黙って訓練場の隅へ向かった。
木の杭の前へ立ち、剣を構える。
振り下ろす。
乾いた音が、冬の空へ響いた。
向こうでは、組み手の掛け声が続いている。
以前なら、その中へ戻りたいと思ったかもしれない。
今は、何も思わなかった。
日が傾くころには、杭の表面が白くささくれていた。
その夜。
詰所の壁へ掛けていた白い外套が、床に落ちていた。
十六の春、王城でこの肩へ掛けられた外套だった。
裾には、泥のついた靴跡が残っている。
ジェフリーはそれを拾い上げた。
手で泥を払う。
一度では落ちなかった。
もう一度払う。
薄い染みだけが残った。
誰がやったのかを訊こうとは思わなかった。
訊けば、また同じことになる。
知らない。
見ていない。
証拠はあるのか。
誰も名乗り出ない。
そのやり取りまで、もう想像できた。
ジェフリーは何も言わず、外套を元の掛け釘へまっすぐ掛け直した。
数日後の夜。
ジェフリーは厩舎で、自分の馬の毛並みを梳いていた。
ここだけは静かだった。
「やっぱりここか」
藁を踏む音とともに、アルベルトが顔を出した。
片手には、布で包んだ黒パンと腸詰めをぶら下げている。
「持ち場放棄の罰で、一週間の厩舎番だとさ。おかげで毎晩、馬糞の始末だ」
「……すまない」
「謝るなって」
アルベルトは飼い葉桶の縁へ腰を下ろすと、包みを解いた。
腸詰めを半分に割り、その片方をジェフリーへ放る。
受け取ったまま、ジェフリーはしばらく動かなかった。
「なあ、ジェフリー」
アルベルトは自分の分へかぶりつきながら、馬の背のほうを見ていた。
「あの夜に何があったのか、俺は聞かない。お前が話したくなったら、そのときでいい」
少し間を置いて、続ける。
「でも、俺は、信じてる」
ジェフリーの手が、馬の首筋で止まった。
「去年もそうだった」
アルベルトは少し笑った。
「食堂でみんなが笑ってたとき、お前は言い返しもしないで、黙ってスープを飲んでた」
「……」
「女を弄ぶような男なら、もうちょっと上手く立ち回るだろうって、あのとき思ったんだ」
腸詰めの残りを口に放り込む。
「それに、雪の中でお前の目を見た。……それで十分だ」
厩舎の中は静かだった。
馬が鼻を鳴らし、藁の擦れる音がする。
ジェフリーは手の中の腸詰めを見た。
何かを言おうとして、やめた。
アルベルトは答えを求めなかった。
「それとな」
何でもないことのように言う。
「俺もいつか、黒騎士になる。お前が隊を預かるころには、お前の下につくから。覚えとけ」
俺の下で、いいのか?と言わんばかりに、ジェフリーが顔を上げた。
アルベルトは呆れたように眉を上げた。
「お前の下がいいんだよ。ほかの連中の下じゃ、息が詰まる」
ジェフリーの口から、かすかに息が漏れた。
笑ったのだと気づいたのは、アルベルトがにやりと口の端を上げたあとだった。
あの夜から、初めてのことだった。
それからのジェフリーは、宴の席で笑わなくなった。
差し出された杯には、二度と口をつけなくなった。
噂について問われても、否定も肯定もせず、ただ黙って背を向けた。
本当のことより、先に口にされたことのほうが本当になる。
ならば、もう何も語らなければいい。
誰にも心を許さなければ、その心を使われることもない。
かつて彼を取り巻いていた令嬢たちは、遠巻きに囁き合うようになった。
――冷たい目。
――まるで、氷みたい。
いつしかその呼び名は、宮廷じゅうに広まっていた。
氷の騎士、と。
ジェフリーは、それを正そうとはしなかった。
氷であれば、誰も近づいてこない。
近づいてこなければ、誰にも利用されることはない。
そのほうが、ずっと楽だった。




