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【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―黒騎士になるまで―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンにまつわるお話です。

十六歳の春。

ジェフリーは、初めて遠征の隊に加わります。


まだ「氷の騎士」と呼ばれる前。

本編では描かれていない、若き日のジェフリーの一頁をお楽しみください。

【荷駄の見張り】


十五の冬が明け、雪解けの水が王都の石畳を細く流れはじめたころ。

ジェフリーは初めて、剣を腰に下げて兵舎の門を出た。

軍団長が、冬の夜、篝火のそばで告げたとおりだった。


春になれば、遠征の隊へつける。

ただし、戦闘の先頭には立たせない。


剣を持って外へ出ることを許されたのであって、戦場へ出ることを許されたわけではなかった。

行き先は、王都から北へ五日ほどの、ノルデンという山あいの土地だった。


冬のあいだに峠の向こうから賊の一団が入りこみ、村の倉を何度も荒らしているという。領主からの訴えを受け、一般騎士三十人ほどが派遣されることになった。


隊を率いるのは、ディルクという隊長だった。


三十代半ばほどの、背の高い男だった。髭をきれいに整え、装具にも乱れがない。男爵家の出で、騎士団の中でも出世の早い男だと聞いていた。


出発の朝。

ディルクは隊列の後ろにいたジェフリーを見つけると、足を止めた。


「軍団長殿が遠征への同行を許したという、ハルセリン家の坊ちゃんか」


「ジェフリー・ハルセリンです」


「話は聞いている」


ディルクは、ジェフリーの腰の剣へ一度だけ目をやった。


「剣を持つことは許されている。だが、お前を戦闘の前へ出すことは禁じられている。荷駄のそばを離れるな。賊が出ても、自分から剣を抜いて前へ行くな」


「はい」


「お前に何かあれば、軍団長殿だけでなく、陛下にも申し開きが立たん」


ジェフリーは、もう一度頭を下げた。

ディルクはそれ以上何も言わず、隊列の前へ戻っていった。

近くにいたヨアヒムが、馬を寄せてきた。


「荷駄の見張りでも、外は外だ。よく見とけよ、坊主」


「はい」


ジェフリーは、王都の門の向こうへ目を向けた。

兵舎の外へ、剣を持って出る。

ただそれだけのことなのに、腰に下げた剣が、いつもより重く感じられた。


* *


ノルデンへ向かう街道は、雪解けの泥でひどくぬかるんでいた。

荷車の車輪は何度も泥へ沈み、そのたびに騎士たちが馬を下りて押した。ジェフリーも肩を並べ、車輪の脇へ手をかけた。


夜になれば野営をした。

馬へ水と飼い葉をやり、荷駄の周囲を見回ったあと、焚き火のそばで家庭教師から送られてきた書物を読む。

それは、兵舎にいるときとあまり変わらなかった。


三日目の夜だった。

向かいの焚き火のそばにいたヨアヒムが、ふと思い出したように言った。


「坊主。お前、明日が誕生日じゃなかったか」


ジェフリーは、書物から顔を上げた。


「……よく、ご存じですね」


「兵舎の名簿に書いてあった。十六だろ」


ヨアヒムは懐を探り、小さな包みを放ってよこした。

ジェフリーは片手で受け止めた。

布を開くと、固く焼いた小さな菓子が入っていた。蜂蜜の甘い匂いがする。


ジェフリーの手が止まった。

贈り物は、受け取らない。

藁の馬を受け取った、あの夏からそう決めていた。


ヨアヒムは、その顔を見て鼻を鳴らした。


「俺からの贈り物じゃない。妹が焼いてよこした野営の食い物だ。俺の分を一個やるだけだよ」


「……」


「食わないなら返せ」


ジェフリーは、菓子をひと口かじった。

固い生地の奥から、蜂蜜の味がした。


「おいしいです」


「そうか。じゃあ妹に言っとく」


ヨアヒムはそれだけ言うと、自分の分の菓子を口へ放りこんだ。

ジェフリーも、残りを食べた。




【 二 水車小屋】


ノルデンの村に着いたのは、五日目の昼だった。


村は、ひどく静かだった。

街道に人影はなく、家々の戸も閉じている。畑には誰も出ておらず、昼だというのに、煙の上がっている家さえほとんどなかった。

村の入口で、白髪の老人が杖をついて待っていた。


村長だった。


ディルクの馬が近づくと、老人は、その前へ崩れるように膝をついた。


「騎士様。昨夜、賊が、また来ました」


声が震えていた。


「今度は倉ではなく、子どもを……七人、連れていきました」


ディルクの顔つきが変わった。


「どこへ」


「川上の、古い水車小屋です。食い物と銀を、明日の日暮れまでに持ってこいと。持ってこなければ、夜明けごとにひとりずつ……」


老人は、それ以上言えなかった。


* *


村長の家に地図が広げられた。


水車小屋は、川上の谷の奥にあった。

古い石造りの建物で、正面の入口はひとつ。周囲は開けた河原になっているため、大勢で近づけばすぐに見つかる。

賊は十五人ほど。


「三十人で囲めば、十五人などものの数ではない」


ディルクは、地図の水車小屋を指した。


「今夜のうちに周囲を押さえる。夜明けと同時に正面から入口を破り、一気に制圧する」


騎士たちがうなずいた。


ジェフリーは、部屋の後ろから地図を見ていた。

入口は、ひとつしかない。

そこを破るまでに、中にいる賊は、何をするのだろう。

ジェフリーは口を開きかけた。


すぐ後ろにいたヨアヒムが、袖をつかんだ。

ほんの少し、横へ引かれる。

荷駄の見張りとして連れてこられた自分が、隊長の作戦に口を挟める立場ではない。

ジェフリーにも、それはわかっていた。


何も言わず、口を閉じた。




【三 黒い馬】


その日の夕方。


村の南の街道から、蹄の音が近づいてきた。

現れたのは、五頭の黒い馬だった。

乗っている男たちも、黒い服に黒い外套をまとっている。

荷駄のそばにいたジェフリーは、その姿を見て息をのんだ。


八つの冬。

母の墓を掘っていたとき、雪の向こうから現れた騎士たちと同じ姿だった。


先頭の男が馬を下りた。

四十ほどだろうか。

痩せた顔に、黒い髪。こめかみには白いものが混じっている。灰色の目は静かで、どこか冷たく見えた。


「黒騎士、ルドルフ・シュタインだ。北の国境を巡察していた。軍団長殿から、この村へ寄って手を貸せと伝令を受けた」


ディルクの顔が、わずかに硬くなった。


「……これは、我々の隊に命じられた任務です」


「承知している。指揮を奪うつもりはない」


ルドルフは、村長の家に広げられた地図へ目を落とした。


「どう攻める」


ディルクが、夜明けの正面攻撃について説明した。

ルドルフは、口を挟まずに最後まで聞いた。


「子どもが、何人か死ぬな」


言い終えたとき、部屋の空気が変わった。

ディルクが、ルドルフを見た。


「では、どうしろと」


ルドルフは水車小屋の印に指を置いた。


「水車の水は、どこから入る」


ディルクは一瞬、答えなかった。


村長が地図へ身を乗り出した。


「上の堰から石の水路を通して、小屋へ落としております」


「その水路は、小屋の中へ通じているな」


「はい」


「堰を閉じれば、水は止まる」


ルドルフは言った。


「水路からひとり中へ入る。子どもを賊から離し、合図を出したら外から入口を破る」


ディルクは地図を見つめた。


「水路は、人が通るには狭いはずです」


「ああ。さっき見てきた」


ルドルフは、外にいる黒騎士たちへ目を向けた。

いずれも大柄で、肩幅のある男たちだった。


「我々には通れん」


* *


その夜。

ルドルフとディルクは、村長の家で遅くまで話していた。

ジェフリーは荷駄のそばで見張りをしていた。

閉じた窓の向こうから、ときどき声が漏れてくる。


村に、水路を通れそうな若い男はいないのか。

最初に賊が来た夜、倉を守ろうとした若者たちは何人も斬られた。

騎士の中に、細身の者はいないのか。

三十人すべて見たが、肩が通らない。


そんなやり取りが、途切れ途切れに聞こえた。

やがて、ディルクの声がした。


「夜明けまで、あと三刻です。これ以上待てば、最初の子どもが殺される。正面から行くしかありません」


しばらくして、ルドルフの低い声が返った。


「死人が出るぞ」


「七人とも死なせるよりは、ましです」


それきり、声が途絶えた。


ジェフリーは、自分の肩へ目を落とした。

まだ、大人の騎士たちほど広くない。

冬を越すたびに少しずつ背は伸びていたが、体つきには、まだ少年の細さが残っていた。


――我々には通れん。


ジェフリーは、荷駄を離れた。

村長の家へ向かった。




【 四 決まり】


扉を開けると、ディルクとルドルフが同時に振り返った。


「何だ。見張りはどうした」


ディルクの声に、ジェフリーは一礼した。


「水路を、私に見せてください」


「何?」


「私なら、通れるかもしれません」


部屋が静まった。

ディルクが椅子から立ち上がった。


「馬鹿なことを言うな」


「ですが」


「お前は、この任務で戦闘に出ることを許されていない。軍団長殿から剣の携行を許されたからといって、賊の中へひとりで入っていいという話ではない」


ジェフリーは黙った。


「お前を水車小屋へ送りこんだなどと陛下の耳に入ってみろ。わたしだけでは済まん」


「正面から入れば、子どもが死ぬかもしれません」


「それを背負うのは、お前ではない」


ディルクの声が強くなった。


ジェフリーは、それ以上言わなかった。

ルドルフだけが、黙ってこちらを見ていた。


ジェフリーの肩。

腰。

最後に、手へ目を落とす。


馬と仕事で硬くなった、十五歳の少年らしくない手だった。


「武闘会で軍団長から一本取った坊主か」


「はい」


「年は」


「明日で、十六になります」


ルドルフは、しばらく黙った。

やがて、ディルクへ向き直った。


「隊長。こいつを戦闘へ出せば、陛下の命に背くことになる」


「でしたら――」


「だから、責めを負うのはわたしだ」


ディルクが言葉を止めた。


「お前は、こいつを荷駄の見張りに残した。そこから先は、黒騎士のわたしが勝手に連れ出したことにする」


「シュタイン殿」


「子どもを見殺しにする理由に、坊主の年を使う気はない」


ルドルフは、それだけ言って、ジェフリーを見た。


「ただし、行くと決めるのはお前だ」


     *


ルドルフは、ジェフリーを連れて川上へ向かった。


谷の上には、月が出ていた。

堰の脇に、石を組んだ四角い穴がある。

水車小屋へ続く水路だった。

人ひとりが、どうにか這って通れるほどの幅しかない。


ルドルフは、その前にしゃがんだ。


「中は暗い。狭い。堰を閉じても水は残る。途中で体が詰まれば、向きを変えることもできん」


ジェフリーは、水路の奥を見た。

闇しか見えなかった。


「小屋の中へ出たら、賊が十五人いる。こちらが入口を破るまで、お前ひとりだ」


「はい」


ルドルフは、少し間を置いた。


「人を斬ったことは」


「ありません」


ルドルフは、それを聞いても顔を変えなかった。


「陛下が十八まで待たせているのは、お前の腕を疑っているからじゃない」


川の水音が、暗い谷に響いていた。


「人を斬るのは、剣の腕だけで済む話じゃない。一度やれば、斬る前の自分には戻れん」


ジェフリーは、何も言わなかった。


八つの冬。

十三の冬。

凍った土と、その前に並んだ棺を思い出していた。


「それでも行くか」


ルドルフが尋ねた。

ジェフリーは、水路を見た。


「行きます」


ルドルフは、それ以上止めなかった。


腰から短い剣を外す。

鞘も柄も黒かった。


「長剣は、この中では使えん。持っていけ」


ジェフリーは、両手で受け取った。

見た目よりも、ずっと重かった。


「中へ出たら、まず子どもの場所を確かめろ。お前の仕事は賊を倒すことじゃない。子どもへ手を届かせないことだ」


「はい」


「斬らずに済むなら、斬るな」


ルドルフの声は静かだった。


「斬らなければ止められないなら、迷うな」


ジェフリーは、黒い柄を握った。


ヘルマンの医務室で読んだ、人の体の図が頭をよぎった。


骨。筋。血の通る道。

人の体は、どこを傷つければ壊れるのか。

それを知るためだけに、あの本を読んだのではなかったはずだった。


「入口では、ヨアヒムという騎士が先頭に立つ」


ジェフリーが顔を上げた。


「ヨアヒム殿が?」


「さっき自分から来た。坊主が行くなら、扉を破るときは自分を一番前に置け、と」


ジェフリーは何も言わなかった。

短剣を握った手に、少しだけ力が入った。




【五 暗い水路】


堰が閉じられた。


水車の音が、ゆっくりと止まっていく。

谷には、川そのものの水音だけが残った。


ジェフリーは外套と革の上着を脱ぎ、河原の石の上へ置いた。


シャツ一枚になり、黒い短剣を腰へ差す。

水路へ入る前に、一度だけ後ろを見た。

月明かりの中に、ルドルフがいる。

その向こうの暗がりには、騎士たちが息を潜めていた。


一番前に、ヨアヒムが見えた。


何も言わず、自分の胸へ拳を一度だけ当てる。

ジェフリーは、小さくうなずいた。

そして、水路の中へ体を滑りこませた。


中は、思っていたよりも狭かった。

腹這いになり、肘を使って少しずつ前へ進む。


底に残った雪解けの水が、シャツを通して腹と胸へ沁みた。頭を少し上げれば石の天井へぶつかり、肩を広げれば両側の壁へ擦れる。


途中、一度、肩が動かなくなった。


ジェフリーは息を吐いた。


胸を縮め、片方の肩をわずかに前へずらす。

石に服を擦りながら、少しずつ抜けた。

後ろへ戻ることはできなかった。


前へ進むしかない。


やがて水路が緩く下りはじめた。

暗闇の向こうに、ごく小さな橙色の光が見えた。

水車小屋の灯りだった。




【六 七人の子ども】


水路の出口は、水車の羽根の裏へ通じていた。

止まった水車の隙間から、小屋の中が見えた。


石の床に、蝋燭が三本。

男たちが何人も寝転がっている。


酒の匂いが、こちらまで届いた。

起きているのは四人だった。


入口のそばに二人。

蝋燭の近くで賭け事をしている者が二人。


ジェフリーは、小屋の奥へ目を向けた。

積まれた粉袋の陰に、子どもたちがいた。


七人。


一本の縄でつながれている。

一番大きな子でも十歳ほどだった。小さな子は、四つか五つにしか見えない。

泣き声を漏らさないよう、大きな子が、小さな子の口を手で押さえていた。


ジェフリーは、水車の羽根の隙間から静かに体を抜いた。


濡れた足を石床へ下ろす。

粉袋の陰を伝い、子どもたちのそばまで近づいた。


一番大きな子が、ジェフリーに気づいた。

目を大きく見開く。


ジェフリーは唇の前へ指を立てた。


黒い短剣を抜き、七人をつないでいた縄を一本ずつ切る。

最後の縄が落ちると、一番大きな子の耳もとへ顔を寄せた。


「騎士だ。外に仲間がいる。みんなを、粉袋の奥へ」


子どもは、唇を震わせながらうなずいた。

小さな子の手を取り、ひとりずつ奥へ連れていく。


全員が隠れたのを見届けてから、ジェフリーはその前に立った。


* *


蝋燭のそばにいた男のひとりが、顔を上げた。

酒に赤くなった目が、粉袋のほうへ向く。

ジェフリーと目が合った。


一瞬。


男は何が起きているのかわからない顔をした。

すぐに叫んだ。


「誰だ!」


小屋の中の男たちが、一斉に起き上がった。

ジェフリーは息を吸った。


「ヨアヒム殿!」


声が、小屋の外まで響いた。


賊たちが武器をつかみ、こちらへ向かってくる。


ジェフリーは、子どもたちの前から動かなかった。


最初の男が、斧を振り下ろした。

半歩だけ横へずれる。

斧が石の床へ当たり、鋭い音を立てた。

ジェフリーは短剣を使わず、柄で相手の手首を打った。


斧が落ちた。


次の男が、刃物を突き出した。

腕を払う。

相手が体勢を崩した。


その向こうにいた三人目の男が、ジェフリーを見ずに動いた。


脇を抜ける。

その先にいるのは、粉袋の陰へ隠れた子どもたちだった。

男の手が伸びた。

小さな子の腕をつかもうとしていた。


――子どもへ手を届かせないことだ。


ジェフリーは動いた。

考える時間はなかった。

黒い短剣が、一度だけ走った。


男の体が止まった。

何が起きたのかわからないような顔をして、こちらを見る。

やがて、膝から力が抜けた。


石の床へ倒れる。

子どもには、届かなかった。


その直後。

正面の扉が、外から大きな音を立てて破られた。

割れた木片と一緒に、騎士たちがなだれこんでくる。

先頭にヨアヒム。

その後ろに、ルドルフと黒騎士たちがいた。


賊たちは前後から挟まれた。

戦いは、長く続かなかった。


ジェフリーは、最後まで粉袋の前を動かなかった。


* *


小屋の中が静かになった。


生き残った賊たちは縄で縛られ、壁際へ座らされていた。

ヨアヒムが、息を切らしながらジェフリーのところへ来た。


「坊主。怪我はないか」


返事がなかった。

ジェフリーは、足もとを見ていた。


さきほどの男が倒れている。

もう動かなかった。

手の中には、黒い短剣があった。


その刃を見て、自分の手を見る。

震えていた。


武闘会で軍団長の剣を受けたときにも。

リーゼ川で縄を握ったときにも。

こんなふうに震えたことはなかった。


ルドルフが、静かに近づいてきた。

ジェフリーの手から短剣を取る。


何も言わなかった。

しばらくして、粉袋の奥から、小さな泣き声がした。

ジェフリーは、そちらを見た。


一番小さな子どもが、粉だらけの顔でこちらを見ていた。


ジェフリーは膝をついた。

手を伸ばしかける。

途中で止まった。


自分の手を見た。


シャツの裾で、何度か拭った。

それから、もう一度手を伸ばした。

小さな頭へ、そっと触れる。


「もう、大丈夫だ」


子どもは、そのままジェフリーの濡れたシャツへしがみついた。

声を上げて泣いた。




【七 送る】


夜が明けるころ、七人の子どもたちは村へ帰った。


河原の向こうから、母親たちが走ってくる。

靴を履くことさえ忘れたのか、裸足の者もいた。

子どもの名を呼び、抱きしめる。

ジェフリーは、水車小屋の入口から、その光景を見ていた。


しばらくして、ひとりで小屋の中へ戻った。


石の床には、あの男がまだ横たわっていた。

捕らえた賊を連れ出すことに皆が追われていて、その遺体に目を向ける者はいなかった。


ジェフリーは、そのそばへ膝をついた。


近くで見ると、思っていたより若かった。

二十を少し過ぎたくらいだろう。

見開かれたままの目を、指で閉じる。

河原から取ってきた自分の外套を、男の体へかけた。


「何をしている」


背後から、ルドルフの声がした。

ジェフリーは振り向かなかった。


「この人を、送ります」


「賊だぞ」


「はい」


「子どもへ手を伸ばした男だ」


ジェフリーは、外套の端を整えた。


「私が斬りました」


ルドルフは、何も言わなかった。


「昔」


ジェフリーは続けた。


「母の墓を掘ってくださった黒騎士の方が、守れるものは守る。守れなかったものは送る。それも騎士の仕事だと、教えてくれました」


そこで初めて、ルドルフを見た。


「この人は、私が守れなかった人ではありません」


少し考えた。


「でも、私が終わらせた命です」


ルドルフは、長いあいだ黙っていた。

やがて、小屋の外へ目を向けた。


「日が高くなる前に掘れ」


それだけ言って、出ていった。


* *


その日の午後。

ジェフリーは、水車小屋の裏にある、川を見下ろす斜面へ穴を掘った。


春の土は、もう凍っていなかった。

つるはしを振り下ろすと、湿った土へ深く食いこんだ。


八つの冬。

十三の冬。

あのころとは違う。

土はやわらかかった。

それでも、今日は前より重く感じた。


穴が掘れると、外套に包んだ男を下ろした。

土を戻す。

最後に、両手で表面をならした。


少し離れた木のそばに、ルドルフが立っていた。

最後まで、一度も手を出さなかった。

何も言わなかった。




【八 謁見の間】


王都へ戻って十日後。

ジェフリーは、王宮の謁見の間へ呼ばれた。

玉座の前には、軍団長とルドルフ、それにディルクが並んでいた。

少し離れた場所には王宮の役人たちがいる。

その中に、父の姿もあった。


ジェフリーは、玉座の前へ進み、片膝をついた。

国王の手には、ノルデンでの一件を記した報告書があった。


「二年前」


国王の声が、広い謁見の間に響いた。


「わたしは、十八に満たぬジェフリー・ハルセリンを、戦場の先頭へ立たせることを禁じた」


「はい」


「その者が、賊の立てこもる水車小屋へひとりで入り、人をひとり斬った。間違いないか」


ルドルフが一歩前へ出た。


「間違いございません。連れ出したのは、わたしです」


ディルクが、ルドルフを見た。


「隊長は、ハルセリンを荷駄の見張りに残しておりました。水路へ入れると決めたのは、わたしです。責めは、わたしが負います」


ディルクが口を開いた。


「陛下。お待ちください」


ルドルフが振り返る。

ディルクは、玉座だけを見ていた。


「シュタイン殿だけの責めではございません。わたしは夜明けに正面から攻めるつもりでおりました」


声は固かった。


「子どもが何人か死ぬかもしれないと、わかっておりました。それでも、ほかの手を思いつけなかった」


一度、息を吸う。


「水路を通れたのは、ハルセリンだけでした。わたしも、それを知っておりました。止めきらなかったのは、わたしです」


謁見の間が静かになった。

国王は、しばらく何も言わなかった。


やがて。


「ジェフリー・ハルセリン」


「はい」


「そなたは、斬った男を、自ら葬ったそうだな」


ジェフリーは顔を上げた。


「はい」


「なぜだ」


二年前。

同じ国王から、なぜ十八まで待たなかった、と問われた日のことを思い出した。

あのときは、凍った土を掘るためです、と答えた。


「私が、斬った人だからです」


国王は黙って聞いていた。


「そのままにしておくことが、できませんでした」


それ以上、ジェフリーは言わなかった。

国王は、手の中の報告書へ目を落とした。


「十八まで待たせようとしたのは、子どもに、人の命を奪う重さを背負わせたくなかったからだ」


「はい」


「だが、そなたは、もう背負った」


ジェフリーは、何も答えなかった。

国王は、軍団長を見た。


「黒騎士の選抜は、そなたの裁量であったな」


「はい、陛下」


「この者を、どう見る」


軍団長は、ジェフリーへ目を向けた。

顔ではなく。

そのまま、しばらく見ていた。


「未熟でございます」


ジェフリーの指が、わずかに動いた。


「剣も、判断も、人を率いることも。学ぶべきことは、まだ山ほどございます」


国王は黙っている。

軍団長は続けた。


「ですが、黒騎士に必要なものを学ばせる価値はあると考えます」


「そうか」


国王は、もう一度ジェフリーを見た。


「わたしの命は変えぬ。十八になるまで、戦列の先頭へは立たせるな。単独で戦闘任務へ出すことも許さん」


「承知いたしました」


「その上で」


国王はルドルフへ視線を移した。


「シュタイン」


「はい」


「そなたのもとで学ばせよ」


ルドルフが、深く頭を下げた。

ジェフリーは、玉座の前で頭を下げた。


「……はい」




【九 白い外套】


黒騎士への叙任は、その春の終わりに決まった。

その年は雪解けが遅く、王都の屋根の北側には、まだ灰色になった雪が残っていた。


式の朝。

兵舎の大部屋で、ジェフリーは黒い礼装へ袖を通した。

黒地に、金糸の刺繍。

蔓の先に、冬薔薇の蕾がひとつ。


八つの冬。


墓地の門をくぐってきた黒騎士たちが身につけていたものと、同じ意匠だった。

袖は、少し長かった。


入口に立っていたヨアヒムが、上から下まで眺める。


「似合わんな」


「……そうでしょうか」


「袖が長い」


ヨアヒムは懐を探り、小さな留め針を取り出した。

袖口を内側へ折り、手早く留める。


十四歳の春。


王宮の宴へ出る前にも、同じことをしてもらった。


「黒騎士様に、俺がしてやれるのは、もうこのくらいだな」


ジェフリーは、留められた袖を見た。


「ヨアヒム殿」


「何だ」


「夜明けの訓練は」


「行くよ。お前がいなくてもな」


ヨアヒムは、ジェフリーの肩へ拳を軽く当てた。


「いつか一本取ったら、そのときは酒をおごれ」


ジェフリーは、ほんの少しだけ口もとをゆるめた。


「はい」


* *


兵舎を出ると、厩の前にクルトが立っていた。

何も言わなかった。

ただ、ジェフリーの手を見て、一度うなずいた。


医務室の窓には、ヘルマンがいた。

眼鏡越しに、こちらを見ている。

貸したままの解剖の書を返せとは、言わなかった。


* *


王城の大広間には、貴族たちが居並んでいた。

雪明かりの差す高い窓の下で、絹と毛皮と宝石が並んでいる。


十四歳の春。


母によく似た顔を見ようと、婦人たちに囲まれた場所だった。


ジェフリーは、その中央をまっすぐ歩いた。

玉座の前まで進み、片膝をつく。

叙任を告げる声が、広間に響いた。


「ジェフリー・ハルセリン。サルヴィア黒騎士に叙す」


肩へ、白い外套が掛けられた。

黒騎士が儀礼の場でのみまとう、白い外套だった。

布の重さが、両肩へかかった。

広間のあちこちで、小さな囁きが起こる。


「十六だそうよ」


「ハルセリン侯の、ご子息でしょう」


「十四で軍団長殿から一本取った、あの」


そして。


「まあ。なんて、きれいなお顔」


ジェフリーは、顔を上げなかった。

思い出していたのは、ノルデンの水車小屋の裏。

川を見下ろす斜面。

自分の外套に包んで、穴の底へ下ろした男だった。


今、肩へ掛けられた布は、あの日の外套とは何もかも違う。

それでも、ジェフリーには、軽いものには思えなかった。


* *


その夜。


ジェフリーは、兵舎の大部屋のいちばん奥にある寝台で、荷物をまとめていた。

翌朝には、黒騎士の宿舎へ移る。

持っていくものは、それほど多くなかった。


着替え。

家庭教師から送られてきた書物。

ヘルマンから借りたままの解剖の書。

そして、枕もとの石壁のくぼみに置いていた、小さな藁の馬。


ジェフリーは、それを手に取った。

たてがみに結ばれた、一本の青い糸。

もう、ずいぶん前のことのように感じた。


藁の馬を、着替えのあいだへそっと入れた。


* *


翌朝。

北の丘の屋敷から、使いの者が来た。

父からの手紙だった。

短かった。


――――――――

黒騎士の叙任、聞いた。

――――――――


それだけだった。


封筒の中に、もうひとつ、小さな布の包みが入っていた。

中を開くと、淡い青の糸で刺繍を施した、古いハンカチだった。

隅には、小さく一文字。


C。


ジェフリーは、その文字を指でなぞった。


クララ。


母が、窓辺で刺繍をしていたときに使っていた糸と、同じ色だった。


長いあいだ、そのハンカチを見ていた。


人から贈られるものは、受け取らない。

そう決めていた。

これは、自分のために新しく用意されたものではなかった。

母が使っていたものだった。


ジェフリーは、淡い青のハンカチを、黒い外套の胸の内側へしまった。


* *


同じ日の午後。

黒騎士の宿舎へ移ったジェフリーのもとへ、一通の手紙が届いた。

薔薇の香りを移した、厚い紙の手紙だった。

ジェフリーは最後まで読み、丁寧な断りの返事を書いた。


数日後。

また届いた。

その次も。


やがて、手紙には、金糸で「G」の文字を刺繍した白い絹のハンカチが添えられてきた。


ジェフリーは、それを受け取らなかった。


胸の内側には、淡い青の古いハンカチが入っていた。

そのことを知る者は、誰もいなかった。

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