【Another Page】アルベルト・ヴァレン ―止まらない時計―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するアルベルト・ヴァレンにまつわるお話です。
時計屋の息子として育ち、誰とでも気さくに言葉を交わすアルベルト。
そんな彼が、なぜ時計屋ではなく騎士の道を選び、やがて黒騎士となったのか。
まだジェフリーと親しく言葉を交わすようになる前。
若き日のアルベルトの一幕です。
サルヴィアの古い街並みの一角、石畳の坂を少し上ったところに、小さな時計屋がある。
軒先に吊るされた看板は、真鍮の歯車をかたどったものだった。風が吹くたび、古びた鎖が揺れて、きいきいと小さな音を立てる。
扉を開ければ、店の中は音で満ちていた。
壁一面に掛けられた振り子時計。棚に並んだ置き時計。硝子の箱に収められた懐中時計。
それぞれが少しずつ違う音で、こち、こち、と時を刻んでいる。
アルベルト・ヴァレンは、その音の中で育った。
赤ん坊の頃は、それを子守唄にして眠っていたのだと、母はよく言った。
歩けるようになると、父の作業台の下へもぐり込み、床へ落ちた小さなねじを拾って遊んだ。五つのときには、壊れた懐中時計を勝手に分解して、元へ戻せなくなって泣いた。
七つのとき。
同じ懐中時計を、今度は誰にも教わらずに組み直した。
父は作業台の前で、しばらく黙ってその時計を耳に当てていた。
こち、こち、と規則正しい音が鳴っている。
それを確かめてから眼鏡を外し、アルベルトの頭を、大きな手で一度だけ撫でた。
「お前は、手がいいな」
父が褒めることは、滅多になかった。
その夜、アルベルトはなかなか眠れなかった。
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アルベルトには、三つ年上の兄がいた。
ルドルフという。
兄は口数が少なく、手先も、それほど器用ではなかった。
アルベルトなら一時間で直せる時計を、兄は半日かけて直した。歯車の噛み合わせを間違え、父から黙ってやり直しを命じられることも珍しくなかった。
それでも兄は、時計が好きだった。
店を閉めたあとも作業台に残り、売れ残った古い置き時計を手入れしていた。
油を差し、埃を払い、文字盤を柔らかな布で磨く。
ときどき、何かをぼそぼそと話しかけていることもあった。
夜中に水を飲みに下りてきたアルベルトが、灯りの落ちかけた店の奥で、兄が古い時計の音にじっと耳を澄ませている姿を見たことも、一度や二度ではなかった。
アルベルトは、そうではなかった。
時計を直すのは嫌いではない。
壊れたものの中を覗き込み、どこが噛み合っていないのかを見つけ、指先で正しい場所へ戻す。その瞬間は、好きだった。
ところが、一日じゅう作業台の前に座っていると、じきに尻がむずむずしてくる。
窓の外を誰かが通れば、そちらが気になる。坂の下から喧嘩の声が聞こえれば、覗きに行きたくなる。
客が来れば、時計の話をしていたはずなのに、いつの間にかその家の犬や、隣家の娘の縁談について聞いている。
「お前は、手はいいが、尻が落ち着かんな」
父はよくそうぼやいた。
それでも、店を継ぐのは自分なのだろうと、アルベルトはなんとなく思っていた。
父も、そのつもりなのだろう。
腕のいいほうに継がせる。
職人の家なら、珍しい話ではなかった。
十五になった冬の夜。
アルベルトは、父と兄が作業場で話している声を、階段の途中で聞いた。
「店はアルベルトに継がせる。お前は、あいつを支えてやってくれ」
しばらく、返事はなかった。
やがて兄が言った。
「……わかりました」
それだけだった。
兄はそのあとも、いつものように時計の手入れをしていた。
こち、こち、と。
作業場から聞こえる音を、アルベルトは階段に座ったまま聞いていた。
兄が、あの時計たちに何を話しているのかは知らない。
自分なら一時間で直せるものを、兄は半日かけて直す。
そのかわり兄は、自分なら一時間もすれば飽きてしまう音を、夜が更けるまで聞いていられる。
その夜、ベッドへ入ってからも、アルベルトはしばらく眠れなかった。
********
「親父。俺、店は継がないよ」
翌朝、朝食の席でそう言うと、父は匙を取り落とした。
母が目を丸くする。
兄だけが、黙ってアルベルトを見た。
「何を言っとる」
「だってさ。じっと座ってるの、性に合わないんだよ。一日じゅう時計とにらめっこしてたら、俺の尻に根っこが生えちまう」
「馬鹿を言うな」
「兄貴のほうが向いてるって。兄貴は時計と話ができるけど、俺は時計を見てると眠くなる」
アルベルトは笑った。
父は顔を真っ赤にして怒鳴り、母はおろおろと二人の間へ入った。
その朝の食卓は、ひどい騒ぎになった。
兄だけは、最後まで何も言わなかった。
その日の夕方。
店の裏で井戸の水を汲んでいると、兄がやってきた。
手に、小さな真鍮のねじ巻き鍵を持っていた。
父が若い頃に使っていたもので、柄のあたりが長年の手脂で飴色に光っている。
兄が大切にしていたものだった。
「……持っていけ」
「いいよ。兄貴のだろ」
「いいから」
兄はアルベルトの手を取り、鍵を押しつけた。
少しして、ぽつりと言った。
「お前、わざとだろう」
アルベルトは水桶を持ち上げた。
「何のことだか」
兄は、それ以上聞かなかった。
アルベルトも何も言わなかった。
手の中の真鍮は、少しだけ温かかった。
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時計屋を出ると決めたところで、アルベルトにほかの仕事の当てがあったわけではない。
最初に入ったのは、母の遠縁が営む織物商だった。
口がうまいのだから商売に向いているだろうと、皆が言った。
たしかに客とはすぐに打ち解けた。
気難しい婦人とも世間話ができたし、子どもを連れた客には、いつの間にか懐かれていた。
問題は、打ち解けすぎることだった。
子どもの冬の外套を仕立てたいと、布の前でいつまでも迷っている若い母親がいれば、つい値を下げた。
冬を越せるかどうかわからない、とこぼす老人がいれば、売れ残りの毛布を勝手につけた。
三月もすると、帳簿の数字がおかしなことになった。
主人は頭を抱え、アルベルトは丁重に見習いを解かれた。
次に、父の兄が営む郊外の畑を手伝った。
体を動かす仕事なら、今度こそ性に合うと思った。
たしかに、土を掘るのも荷を運ぶのも苦にはならなかった。
ただ、畑というのは思っていた以上に、待つ仕事だった。
種を蒔いて、待つ。
水をやって、待つ。
芽が出れば、それが育つのを待つ。
サルヴィアの短い夏のあいだ、作物が実るまで待つ。
アルベルトは三日に一度くらい、土を掘り返して種の様子を確かめたくなった。
二度目に伯父からこっぴどく叱られたところで、自分から鍬を置いた。
その次は、川沿いの織物工房だった。
大きな水車で機を動かし、朝から晩まで布を織る。
ここでは、器用な手が重宝された。
機の調子が悪くなれば、アルベルトが中を覗き、外れた部品を戻した。親方にもずいぶん気に入られた。
だが、毎日、同じ場所で、同じ音を聞きながら、同じ布を織り続ける。
ひと月が過ぎた頃、アルベルトは夜中に飛び起きた。
夢の中で、自分が機の一部になっていた。
ガタン、ガタン、と、朝から晩まで同じ動きを繰り返していた。
翌朝。
工房の窓の外を、騎士団の新兵を募る布告係が通っていった。
鐘を鳴らしながら、志願する者は城の西門へ、と声を張り上げている。
騎士団は、いつでも人手を欲しがっていた。
身分は問わない。丈夫な体があればいい。食事と寝床は出る。
アルベルトは、手にしていた糸巻きを置いた。
少なくとも、作業台に一日じゅう座ってはいないだろう。
作物が育つのを眺めながら待つこともなさそうだ。
どこへ行ってもしっくりこないのなら、一番縁のなさそうなところを試してみるのも悪くない。
その日のうちに、アルベルトは城の西門へ向かった。
歩くたび、ポケットの中で真鍮のねじ巻き鍵が、かちり、と鳴った。
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騎士団の一般兵の宿舎は、想像していたより騒がしく、想像していた以上に汚かった。
寝床は藁を詰めた袋。
ひと部屋に十人以上が押し込まれ、夜になれば、いびきと寝言と、ときには誰かの屁まで入り混じる。
朝になれば、誰かの靴が片方なくなっていた。
そこには、いろいろな男がいた。
食うに困って流れてきた者。
腕っぷしだけを頼りに生きてきた者。
故郷へ戻れない事情を抱えた者。
アルベルトは、その中にもすぐ馴染んだ。
サイコロの賭けに誘われれば、ほどほどに勝って、ほどほどに負けた。喧嘩が始まれば、横からくだらないことを言って、その場を冷ました。
壊れた留め具や、調子の悪いランタンを渡されることも増えた。
「ヴァレン、これも見てくれよ」
「おう。酒一杯な」
そんなやりとりが、毎晩のように続いた。
訓練は厳しかったが、体はついていった。
剣の筋も悪くない、と兵長には言われた。
気がつけば、アルベルトはたいていの輪の中へ自然に入り込めるようになっていた。
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半年ほど経った頃。
同じ部屋の男が、アルベルトに金を借りにきた。
ボルグという、熊のような体格の男だった。
故郷の母親が病で倒れたのだという。
男は、目を赤くしていた。
アルベルトは給料の半分を渡した。
ひと月後。
倉庫から、保存用の干し肉がいくつも消えた。
兵長が宿舎へ乗り込んできたとき、ボルグは真っ先にアルベルトを指さした。
「夜中に、あいつが倉庫のほうへ行くのを見ました」
アルベルトは、しばらくボルグを見た。
それから兵長へ向き直った。
「兵長。俺がやるなら、もう少しましに錠前をいじりますよ」
兵長が目を細めた。
「見ればわかるのか」
「これ、かなり雑ですから。親父が見たら泣きます」
倉庫の錠前には、工具を差し込んだ跡が残っていた。
アルベルトには、それが自分の手ではないことくらい、すぐにわかった。
調べれば、干し肉を酒場へ持ち込んでいたのがボルグだったことも明らかになった。
男は、その日のうちに隊から追い出された。
部屋の連中は、アルベルトの機転を褒めた。
アルベルトは笑い、酒を一杯おごらせた。
その夜。
藁の寝床に横になってからも、なかなか眠れなかった。
ポケットから出した真鍮の鍵を、指の中で転がした。
母親が病気なのだと言ったときの、ボルグの顔を思い出した。
あの顔を見て、給料の半分を渡した。
似たようなことは、そのあとにもあった。
調子のいいことを言って近づいてきた男が、結局は何かを欲しがっていたり。
酒を飲みながら話したことが、翌日には別の誰かの笑い話になっていたり。
仲間の手柄を横取りする者もいた。
隣で飯を食っていた男を、平然と上へ売る者もいた。
アルベルトは、それでも笑っていた。
冗談を言って、誰とでもうまくやった。
ただ、相手の言葉を、そのまま受け取ることは少なくなった。
時計なら、蓋を開ければ中が見える。
どの歯車が欠けているのか。
どこが噛み合っていないのか。
何が止まる原因になっているのか。
人間には、蓋がない。
だから、見えているものだけで全部わかったつもりになるのはやめた。
********
その噂を聞いたのは、騎士団へ入って二度目の冬だった。
黒騎士に、ハルセリン侯爵家の嫡男がいる。
十四で武闘会に出て軍団長から一本を取り、十六で黒騎士になった、とんでもない若造なのだという。
しかも、絵から抜け出してきたような顔をしているらしい。
「ところが、そいつが相当な奴でな」
宿舎の火のそばで、古株の兵が声を潜めた。
「顔がいいのをいいことに、令嬢を泣かせてばかりいるらしいぞ。公爵家の娘まで振ったって話だ」
「もったいねえ」
「それだけじゃない。目を合わせただけで凍りつきそうなくらい冷たい顔をしてるってよ。それでついたあだ名が――氷の騎士」
周りから笑い声が上がった。
羨ましそうに舌打ちする者もいる。
アルベルトも一緒に笑った。
顔のいい貴族の坊ちゃんで、剣まで強い。
まあ、そんなものだろうと思った。
その男を初めて見たのは、それから間もない雪の朝だった。
アルベルトは、城の北門で見張りに立っていた。
夜明け前から降り始めた雪が、石畳を薄く白く覆っていた。
凍えた指へ息を吹きかけていると、門の外へ一台の馬車が止まった。
降りてきたのは、毛皮の外套にくるまった若い娘だった。
侍女が慌てて傘を差しかける。
娘の胸には、リボンをかけた小さな包みが抱かれていた。
ちょうどそのとき、門の内側から、ひとりの黒騎士が歩いてきた。
黒い外套。
淡い金の髪。
雪の白さの中で、その髪だけが朝の光を拾っていた。
背が高く、歩く姿に妙な隙がない。
顔が見えるところまで近づいてきて、アルベルトは少しだけ目を細めた。
なるほど。
噂は、その部分だけは大げさではなかった。
たしかに、ずいぶん整った顔をしている。
そして、たしかに愛想はなさそうだった。
娘が黒騎士を見つけ、駆け寄った。
胸に抱いていた包みを差し出す。
頬が赤いのは、寒さだけではなさそうだった。
見張り小屋からでは、何を話しているのかまでは聞き取れない。
アルベルトは、何となくそちらを眺めていた。
噂どおりなら、あの包みを受け取って、適当にあしらうのだろうか。
黒騎士は、受け取らなかった。
代わりに、姿勢を正した。
それから娘へ、深く頭を下げた。
アルベルトは瞬きをした。
黒騎士は頭を上げると、何かを話し始めた。
一言、二言では終わらなかった。
娘が何かを言い、黒騎士が答える。
また娘が言う。
しばらくして、娘の目に涙が浮かんだ。
黒騎士は、ほんの少し困ったような顔をした。
それでも、話を切り上げなかった。
包みだけ受け取ることもしなければ、曖昧に笑って立ち去ることもしなかった。
やがて娘が小さく頷いた。
黒騎士は、もう一度頭を下げた。
最初と同じくらい、深く。
侍女が持つ傘が娘の肩からずれていることに気づくと、無言で柄を押し戻した。
そして、娘が馬車へ乗り込み、扉が閉まるまで、その場に立っていた。
馬車が雪の向こうへ消えていった。
黒騎士は、ひとつ息を吐いた。
白い息が、朝の空気へほどける。
それから門の内側へ戻ってきた。
見張り小屋の前を通り過ぎるとき、ほんの一瞬、アルベルトと目が合った。
黒騎士は、小さく会釈をした。
アルベルトは返すのを忘れた。
その背中を、しばらく見送った。
雪の上に、黒い靴の跡が続いていた。
「……なんだ、あれ」
口から漏れた。
女を弄んでは捨てる男が、あんなに丁寧に断るものだろうか。
泣かれて困っているくせに、逃げようともしない。
一般兵の見張りにまで、わざわざ頭を下げる。
アルベルトは、外套のポケットへ手を入れた。
指先に、真鍮のねじ巻き鍵が触れた。
不意に、店の奥で古い時計へ耳を澄ませていた兄の背中を思い出した。
兄は、時計を直すのが遅かった。
そのかわり、一度直した時計は、長く正しい時を刻んだ。
アルベルトは、雪の向こうへ消えた黒い背中をもう一度見た。
中を覗いたわけではない。
あの男が何を考えているのかなど、何も知らない。
ただ。
宿舎で聞いた話と、今見たものは、どうにも噛み合わなかった。
それが、妙に気になった。
「……面白いじゃないか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、アルベルトは凍えた指へ、もう一度息を吹きかけた。
交代の鐘が鳴るまで、北門の雪はやまなかった。
その後、アルベルトは訓練場や兵舎ですれ違うたび、ときどき黒い外套の背中を目で追うようになった。
やがて自分から、その男の下につきたいと言い出すことになる。
このときは、まだ、その理由をアルベルト自身もうまく説明できなかった。




