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【Another Page】アヤ・ソヴェール ―あひるの羽根―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するアヤ・ソヴェールにまつわるお話です。

まだ十八歳になる前。

王宮ではすでに「あひるの姫」と呼ばれていたアヤにも、幼い頃から何度も顔を合わせてきた人たちがいました。


これは、そんなひとりの少年と、アヤの間にあった小さな出来事のお話です。

フェリクス・ドレイトンが初めて「あひるの姫」と口にしたのは、十二の夏だった。


王宮の庭園で、貴族の子どもたちを集めた茶会が開かれた日のことだ。


噴水のまわりでは、令嬢たちが白いドレスの裾をつまんで笑いさざめき、少年たちは芝生の上で木剣を振り回して、大人たちに叱られていた。


その輪から少し離れた木陰に、第一王女がいた。


アヤ・ソヴェールは、ひとりで本を読んでいた。


茶会のために誂えたらしい淡い黄色のドレスは、まわりの令嬢たちのものよりひと回り大きかった。艶のある黒髪を背に流し、膝の上に分厚い本を広げて、頁をめくる指だけが静かに動いている。


王女のくせに、とフェリクスは思った。


王女のくせに、あんな隅にいる。

王女のくせに、誰とも話さない。

王女のくせに、ちっとも綺麗じゃない。


フェリクスは友人たちを引き連れたまま木陰へ近づき、わざと大きな声で言った。


「見ろよ。黄色いドレスで池の端にうずくまって。まるで、あひるみたいだ」


友人たちがどっと笑った。

誰かが、ガア、ガア、と鳴き真似をした。


アヤは本から顔を上げた。


黒い瞳が、まっすぐフェリクスを見る。

怒るか、泣くか。

どちらでもよかった。王女を泣かせたとなれば、それはそれで面白い話になる。


アヤは、ふわりと首を傾げた。


「まあ。あひるは、水の上でも陸の上でも暮らせて、少しなら空も飛べる鳥ですのよ」


それから、ほんの少し微笑んだ。


「わたくし、そんなに器用に見えまして? 光栄ですわ」


そう言って、また本へ目を落とした。


フェリクスは、口を開けたまま立っていた。

友人たちの笑い声も、いつの間にか消えていた。


それが、始まりだった。



********



それからフェリクスは、アヤを見かけるたびに「あひるの姫」と呼んだ。

春の園遊会でも、秋の収穫祭の宴でも、王宮図書館へ続く回廊ですれ違ったときでも。

取り巻きの少年たちも面白がって、しばらくは一緒にはやし立てた。


「あひるの姫、今日もよく太ってるな」


「ええ。おかげさまで、冬も寒くありませんの。あなたこそ、そんなに薄着で風邪を召されませんように」


「あひるの姫、また本か。そんなものを読んでいたって、誰も嫁にもらってくれないぞ」


「本は、嫁ぎ先がなくても逃げませんもの。とても誠実な友人ですのよ」


「あひるの姫、ガアって鳴いてみろよ」


「あら。わたくしより、あなたのほうがお上手でしたわ。去年の夏から、ずいぶん練習なさったのね」


何を言っても、アヤは怒らなかった。


声を荒らげることもなければ、顔を赤くして逃げることもない。

少し首を傾げて、投げられた言葉を、いつも別の形にして返してきた。


取り巻きたちは、やがて飽きた。

からかっても面白くない、と別の遊びを探し始めた。

フェリクスだけが、やめなかった。


十三の春。


園遊会で、アヤの髪にこっそり羽根を挿した。


白く、先の丸まった小さな羽根だった。

誰かが気づいて笑い出すのを、柱の陰で待った。


先に気づいたのは、アヤ自身だった。


髪から羽根を抜き取り、しげしげと眺める。

それから周囲を見回して、柱の陰にいるフェリクスを見つけた。

何も言わなかった。


ひと月ほど経った頃。

図書館の回廊ですれ違ったアヤが、フェリクスへ小さく会釈した。


「先日は、ありがとうございました」


「……何が」


アヤが手にしていたものを持ち上げる。

白い羽根の根元がきれいに削られた、羽根ペンだった。


「良い羽根でしたわ。とても書きやすいペンになりました」


フェリクスは、何も言えなかった。


十四のときには、アヤが図書館から借りていた本を隠した。

翌日には、同じ内容を記した古い写本を別の棚から見つけて読んでいた。


十五の晩餐会では、アヤの皿の前で、わざと葡萄酒をこぼした。

アヤは自分のドレスより先に、真っ青になった給仕の少年の袖を確かめた。


十六のときには、令嬢たちの集まりで、聞こえるように「あひるの姫」の悪口を並べた。

アヤは隣に座っていた老婦人の膝掛けが落ちたことに気づいて、静かに拾い上げていた。


何をしても、思いどおりの顔をしなかった。


いつからだったのか。

フェリクスは、からかうためでなくてもアヤを探すようになっていた。


広間へ入れば、黒い髪を探す。

庭へ出れば、木陰を見る。

図書館の前を通れば、窓際の席に誰か座っていないかを確かめる。


そしてアヤがいても、彼女はたいてい本を見ている。


それが、なぜだか腹立たしかった。



********



アヤ・ソヴェールが十八になり、デビュタントの夜会を迎えたのは、エステリアの初夏だった。


王宮の大広間には、白い薔薇があふれるほど飾られていた。

天井から吊るされた燭台の光が、磨き上げられた床に映って揺れている。

楽団が奏でる柔らかな旋律の中、その年に社交界へ出る令嬢たちが、ひとりずつ名を呼ばれて広間へ進み出た。


アヤの名が呼ばれたとき、小さなざわめきが起きた。


純白のドレスをまとった第一王女は、ほかの令嬢たちより、やはりふくよかだった。

ひそひそと交わされる声の中に、「あひるの姫」という言葉が混じっている。


アヤは、背筋を伸ばして歩いていた。

黒髪を高く結い上げ、白い首筋がすっと伸びている。燭台の光を受けて、肌が淡く光って見えた。

うつむくことも、足を速めることもない。

ひとつひとつの段を確かめるように下り、国王と王妃の前で深く礼をする。

顔を上げたとき、その横顔はひどく静かで、大人びて見えた。


フェリクスは壁際で杯を持ったまま、それを見ていた。


今夜から、アヤは男性と踊れる。

そんな当たり前のことに気づいたのは、最初のワルツが始まってからだった。


足が動かなかった。


十二の頃から散々「あひるの姫」と呼んできた男が、いったいどんな顔で手を差し出せばいいのか。


考えているうちに、一曲目が終わった。

二曲目も。


アヤの前へ手を差し出す男は、いなかった。

アヤは広間の端で、年老いた伯爵夫人と話していた。


その夜会から半月も経たないうちに、ひとつの噂が広がった。


あひるの姫に、縁談が来た。


相手はディートリヒ・ブラントン。

北部に広い領地を持つ侯爵家の当主で、三十を少し越えた男だった。

若くして父を亡くして家督を継ぎ、領地を大きく富ませたやり手として知られている。


社交界では、あひるの姫にも物好きがいたものだ、と笑う者がいた。

第一王女なのだから、相手くらい見つかるだろう、と言う者もいた。


フェリクスは、笑えなかった。

胸のあたりが妙にざわついた。

腹が立っているのとも違う。

焦っているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。



********



アヤを見つけたのは、王宮図書館の閲覧室だった。


高い窓から午後の光が斜めに差し込み、長い机の上に積まれた本の背を、金色に縁取っている。

紙と古い革の匂いがした。

アヤは、いつもの窓際の席にいた。


目の前には分厚い本。

傍らには、白い羽根ペンが置かれていた。


五年前のあの羽根と同じものなのか、フェリクスにはわからなかった。

わからないふりをした。


フェリクスは向かいの椅子を引いて、乱暴に腰を下ろした。


「あひるの姫にも、ようやく貰い手が見つかったらしいな」


アヤが顔を上げた。

少し驚いたように瞬きをして、それから穏やかに微笑んだ。


「ええ。ありがたいことですわ」


「ブラントン侯爵だって? 歳もずいぶん離れてるじゃないか。あんな男のどこがいいんだ」


「わたくしは、一度しかお目にかかっておりませんもの。どこがいいかなど、まだわかりません」


「なら、断るのか」


アヤの指が、羽根ペンの先に触れた。


「お父様とお母様がよいとお思いになるなら、それが一番よいのだと思います」


フェリクスは黙った。


「第一王女の縁談は、わたくし一人のことではございませんから。それに――」


アヤは少しだけ目を伏せた。


「わたくしを望んでくださる方がいらっしゃるだけで、十分すぎるほどですわ」


静かな声だった。

嬉しそうでもなければ、悲しそうでもなかった。

まるで、窓の外の天気の話でもしているようだった。


フェリクスは、目の前にいるアヤを見た。


十二の夏から、ずっと見ていた。

木陰で本を読む横顔も。

からかうたびに首を傾げ、こちらの言葉をくるりと返してきたことも。

羽根をペンにして見せたときの、少しいたずらっぽい目も。

葡萄酒をこぼしたとき、自分のドレスより先に給仕の少年へ手を伸ばしたことも。

悪口を言われているすぐ隣で、老婦人の膝掛けを拾っていたことも。


広間に入れば、探していた。

庭へ出れば、どこにいるのか気になった。

図書館の前を通れば、窓際を見ていた。


それなのに。


一度も、何を読んでいるのか訊かなかった。

胸の中にあったものが、ようやく名前を持った。


好きだったのだ。


子どもの頃からずっと、この人を見ていた。

気づいたときには、笑いたくなるほど遅かった。


六年も「あひるの姫」と呼び続けてきた。

羽根を挿した。

本を隠した。

葡萄酒をこぼした。

人前で悪口まで言った。


今さら、好きだなどと言えるはずがなかった。

この人が、そんな男を好きになるとも思えなかった。


フェリクスは膝の上で、拳を握った。

長い沈黙のあと、椅子から立ち上がる。


アヤが、不思議そうに見上げた。

その黒い瞳が、今は本ではなく、自分を見ていた。


六年も見てほしいと思っていた目が、ようやく自分だけを見ている。

それなのに、もう何も言えなかった。


「……あひるの姫も」


声が少しかすれた。


「たまには、自分で自分の未来を選んだらどうだ」


アヤが瞬きをする。


「誰かが決めたとおりに、ガアガア頷いてるだけじゃなくてさ」


アヤは、何も言わなかった。


フェリクスはそれ以上そこにいられず、背を向けた。

長い閲覧室を横切り、そのまま回廊へ出る。

一度も振り返らなかった。

最後まで、格好の悪い言い方しかできなかった。



********



フェリクスのもとへ縁談が来たのは、それからひと月ほど経った頃だった。

相手は、東の領地に住む伯爵家の令嬢だった。

社交界へほとんど顔を出さない家で、フェリクスも名前を聞いたことがある程度だった。


一度も会ったことはない。


「悪い話ではないと思うのだが」


父がそう言って書状を差し出したとき、フェリクスは中身をろくに読みもしなかった。


「お受けします」


父は拍子抜けしたような顔をした。

息子がもっと渋るものと思っていたのだろう。


早く、忘れたかった。


王宮へ行けば、どこかでアヤとすれ違うかもしれない。

人の多い広間へ入れば、無意識に黒い髪を探してしまう。

庭園を歩けば、木陰に座っている姿を探す。

図書館の前を通れば、あの窓際の席にアヤがいるのではないかと、つい中を覗いてしまう。


見つければ、嬉しい。

見つからなければ、がっかりする。

そんなことを、もう何年も繰り返していた。

これから先は、そのたびに思い出すことになる。


アヤは、やがて北の侯爵家へ嫁いでいく。


婚礼の日取りが決まった。

花嫁衣装が仕立てられた。

北へ運ぶ荷が王宮から送り出された。

王都を発つ日が決まった。


きっと、そんな話を何度も耳にする。


そのたびに、あの閲覧室を思い出すのだろう。


午後の光。

机の上の分厚い本。

白い羽根ペン。

そして、本から顔を上げて、自分を見た黒い瞳。


六年も追いかけていたくせに。

好きだと気づいたときには、もう遅かった。


そのうち、王宮からアヤはいなくなる。

図書館の窓際を覗いても、もう座っていない。

庭の木陰にもいない。

夜会へ出ても、黒い髪を探す必要さえなくなる。

そのほうがいいのかもしれない、とフェリクスは思った。


会えなければ、いつか忘れる。


知らない土地から来る、知らない令嬢と結婚すれば、少なくとも今までとは違う毎日が始まる。

その人と会い、言葉を交わし、婚礼の準備をし、やがて夫として暮らしていかなければならない。

新しい家族のことを考えなければならなくなる。

そうすれば、少しはアヤのことを考えずに済むかもしれない。


忘れられるとは、思わなかった。

それでも、ほかにどうすればいいのか、フェリクスにはわからなかった。



********



その噂を聞いたのは、婚約の書状を交わした数日後だった。

夜会の片隅で、令嬢たちが扇の陰に口元を隠していた。


「お聞きになって? あひるの姫の縁談、破談になったのですって」


「まあ。ブラントン侯爵から?」


「それが、あひるの姫が、とんでもない条件を出したそうよ」


「どんな?」


「結婚したら、毎晩、寝る前には必ず二人で本を読むことですって。歴史書でも法典でも薬草の本でも。そんなことに付き合えないなら結婚できません、と」


「毎晩?」


「そうなの。侯爵も、そんなことに付き合っていられるかと、すっかり呆れてしまったそうよ」


甲高い笑い声が上がった。


「やっぱり変わり者ね」


「せっかくの貰い手を、本のせいで逃すなんて」


フェリクスは、杯を持ったまま動かなかった。


ディートリヒ・ブラントンについては、別のところでも名前を聞いた。

領地を富ませた手腕の裏で、小さな家をいくつも取り潰してきたこと。

王宮の評議に関わる者と、近頃しきりに接触していたこと。

第一王女を妻にすれば、国王の娘婿になる。

その先で、何を望んでいたのかまではわからない。


わからないが、アヤには、わかったのだろう。


あの聡明な人が、気づかないはずがない。

一度しか会っていないと言いながら、その一度で、相手が自分ではなく、自分の後ろにある玉座を見ていることに。


だから、あんな条件を出したのだ。


角を立てずに、相手のほうから手を引かせるために。

第一王女の縁談を自分から断るのは難しい。

それでも、相手が自分から逃げていくのなら、誰も傷つかない。

笑われるのは、変わり者のあひるの姫ひとりで済む。


毎晩、寝る前に、分厚い本を一冊。玉座を見ている男に、そんなことができるはずがない。


そして、もしも。


もしも本当に、それに付き合ってくれる人がいたなら。毎晩、同じ灯りの下で、同じ頁をめくってくれる人がいたなら。そのときは、アヤはきっと、その人の手を取ったのだろう。


あれは、断るための条件であり、同時に、アヤが初めて口にした、自分の望みだった。


――たまには、自分で自分の未来を選んだらどうだ。


自分の言葉が、耳の奥でよみがえった。


フェリクスは、杯の葡萄酒を一息にあおった。喉の奥が焼けるように熱かった。


笑えばいいのか、泣けばいいのか、わからなかった。広間の向こうで、令嬢たちはまだあひるの姫を笑っていた。

誰も、本当のことを知らない。

少なくとも、広間で笑っている彼女たちよりは、自分のほうが少しだけ、アヤという人を知っているような気がした。


選んだのだ、あの人は。

自分の言葉が、ほんの少しでも、その背中を押したのかもしれない。そう思うのは、思い上がりだろうか。


婚約の書状は、もう交わされていた。

会ったこともない東の令嬢は、来月には王都へやってくる。今さら何を言っても、もう遅い。


それでいい、とフェリクスは思った。


あの人の隣で毎晩本を読む男には、自分はなれない。きっと、なれなかった。六年もあの人を見ていながら、一度も、あの人が読んでいる本の題名を尋ねたことがなかったのだから。



********



同じ頃。


王宮図書館の窓際で、アヤは一冊の本を閉じた。

北部諸侯の歴史を記した、分厚い本だった。

机の上には、ほかにも何冊か積まれている。


領地の記録。

古い評議録。

過去の訴訟について記した写本。


ブラントン侯爵家の名がある頁には、小さな紙片が何枚も挟まっていた。

一度会ったときに覚えた小さな違和感を確かめるのに、ひと月かかった。

破談の知らせを受けた父は、何も訊かなかった。

ただアヤの顔をしばらく見て、それから一度だけ頷いた。


アヤは、机の上の羽根ペンを手に取った。

白い羽根を、指先でそっと撫でる。


これまで、望まれるとおりに生きてきた。望まれる場所に座り、望まれる言葉を返し、望まれないときは陰に下がった。それが、第一王女として、姉として、一番いい形なのだと思っていた。


今回は、初めて、そうしなかった。


誰かに合わせるのではなく、自分の意思で、自分の将来を選ぶために動いた。

怖くなかったと言えば嘘になる。父や母を困らせたかもしれないし、社交界ではまた、ひとつ笑いの種が増えた。


それでも、閉じた本の重みは、不思議と心地よかった。


窓の外では、初夏の日差しが中庭の木々を明るく照らしていた。アヤはしばらく、それを眺めていた。

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