【Another Page】セドリック・ノール ―繕われた手袋―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するセドリック・ノールが、まだ龍の涙を探す旅に出る前、黒騎士三番隊で過ごしていた、ある冬のお話です。
窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。
サルヴィアの王都の、川沿いの裏通り。夜更けを過ぎた「鷺の館」は、階下の笑い声もとうに途切れ、冷えた廊下の床板がときおり鳴るだけになっている。
寝台のきしみが、少しずつ間遠になっていった。
ロッテの指がセドリックの背中をすべり、肩甲骨の下の古い傷のあたりで止まる。爪は立てない。いつもそうだった。黒騎士の背中に跡が残れば、宿舎の水場で誰かの目に入る。彼女はそれを、何も聞かずに知っていた。
枕元のランタンは油が残り少なく、壁に映る二人の影を頼りなく揺らしている。重なっていた息が、ひとつ、またひとつとほどけていった。セドリックはロッテの肩に額を預けたまま、しばらく動かなかった。汗ばんだ首筋に、冬の部屋の冷えがじわりと戻ってくる。そのあいだも、彼女の指は傷の上から離れなかった。
「……重い」
耳もとで、笑いをこらえたような息がした。
「悪い」
身を起こしかけると、細い腕が首に回ってそれを引き留める。
「重いって言っただけ。どいてなんて言ってない」
セドリックは少しだけ体をずらし、彼女の頭の下に腕を差し入れた。ロッテはそこに収まるのが当たり前のように頬を寄せ、彼の胸に手のひらを置く。鼓動が落ち着いていくのを確かめるように、その手はしばらく同じ場所にあった。
「ねえ。たまには、何か言って」
「何を」
「なんでもいいの。会いたかった、とか」
セドリックは少し考えた。
「……外は寒かった」
「最低」
ロッテは、笑いながら彼の耳たぶを軽く噛んだ。痛くはなかった。
厚手の掛け布を肩まで引き上げてやろうとして、セドリックの手が止まった。
ランタンの灯りが、ロッテの左の二の腕を照らしていた。白い肌に、青黒い痣が浮いている。ひとつではなかった。四つ並んだ小さな痣と、その反対側にもうひとつ。強く握られた指の形だった。
「これは」
ロッテは掛け布を引き寄せて、腕を隠した。
「階段でぶつけたの」
「指の形の階段か」
自分の口から出た言葉に、セドリックはわずかに驚いた。
この部屋で、彼女のほかの客のことを聞いたことは一度もない。聞かないと決めていたわけではない。聞く筋合いがないと思っていた。
ロッテは少し黙って、彼の顎の下に額を押しつけた。
「聞かないで。あなたも、仕事のことは言わないでしょう」
セドリックは返事をしなかった。掛け布の上から、痣のあたりにそっと手を置いた。彼女の肩が、ほんのわずかにこわばって、ほどけた。
この館に通うようになって、一年と少しになる。
はじめに声をかけてきたのは、ロッテのほうだった。
その冬、セドリックは任務で、この裏通りに出入りするザイドルという男を見張っていた。表向きは川船の荷を扱う仲買人で、裏で何を動かしているのかを探るのが仕事だった。館の向かいの路地の暗がりに、三晩続けて立っていた。誰にも気づかれていないはずだった。
四日目の晩、館の二階の窓が開き、湯気の立つ杯を持った女が身を乗り出した。
「そこの黒い人。寒いでしょう。飲む?」
セドリックは返事をしなかった。
翌晩も、その次の晩も、女は窓から杯を差し出し、返事がないとわかると自分で飲み干して窓を閉めた。斥候として気配を消すことには、それなりに自信があった。それを娼館の窓辺にいる女にあっさり見抜かれたのが、どうにも腑に落ちなかった。
結局、そのときはザイドルの尻尾はつかめず、任務は打ち切りになった。
その翌日、市場の人混みで、同じ女に腕をつかまれた。
「あなたが誰を見ていたか、黙っててあげたのよ。お礼に、一晩買いにきて」
断る言葉を探しているうちに、女は「ロッテよ。忘れないで」と言い残して人混みに消えた。
行かなければ、また市場で腕をつかまれる。
それを面倒に思ったのが半分、もう半分は自分でもよくわからないまま、三日後、セドリックは館の扉を叩いた。代金だけ払って、部屋の椅子で朝まで眠るつもりでいた。ロッテはそれを見て、本気で怒った。
なぜ自分なのかと、一度だけ聞いたことがある。
「窓の外ばかり見てるとね、どの男もここを見上げて通るの。あなただけ、一度も見上げなかった」
答えになっているのかいないのか、セドリックにはわからなかった。
いつの間にか彼は、給金が出て故郷へ仕送りをしたあと、残った金のうちから一晩ぶんをよけておくようになった。
誰にも話していない。隊の者にも、故郷の母にも。話すようなことではないと思っていたし、話せば、この部屋の中にあるものが少しずつ外の言葉に変わってしまう気がした。
「明日から出るんでしょう」
ロッテが、胸に手を置いたまま言った。
「……どうしてわかった」
「任務の前の晩は、ここへ来るのが早いの。自分で気づいてないでしょう」
セドリックは黙った。気づいていなかった。
「十日ほどだ」
「そう。聞かない」
ロッテはあっさりと引いた。彼女は一度も、仕事のことを根掘り葉掘り聞かなかった。戻ってきたセドリックの手や顔に新しい傷がないかを、黙って確かめるだけだった。
自分は、それと同じことができていない。腕の痣のことが、まだ胸の奥に引っかかっていた。
「ねえ。妹さんは、元気?」
「手紙が来た。刺繍を習っているらしい。ハンカチを一枚送ってきた」
「上手だった?」
セドリックは少し考えた。
「花だと書いてあった」
ロッテが噴き出した。肩が震え、掛け布の下で、彼の腕にその揺れが伝わってくる。
「書いてなかったら、何に見えたの」
「……芋」
「ひどいお兄さん」
「大事に持っている」
そう言うと、ロッテの笑いがふっとやわらいだ。
「妹さんがお嫁に行ったら、騎士を辞めて村に帰るんだっけ」
「ああ」
「お母さんの面倒を見て、畑を手伝って」
「鍬の持ち方は、まだ覚えている」
「似合わない。……嘘。似合うと思う」
ロッテは天井を見上げた。ランタンの光が、梁の影を細長く伸ばしている。
「わたしの生まれた村ね、林檎の木がたくさんあったの。春になると白い花が丘一面に咲いて、蜂の羽音がうるさいくらい。秋は木の下に落ちた実が甘く熟れすぎて、その匂いが村じゅうにたちこめるの。父さんの借りがなかったら、今もあそこにいたと思う」
セドリックは黙って聞いていた。彼女が村の話をするのは、めずらしかった。
「畑のそばに、一本あるといいわ。林檎の木」
「実がなるまで、何年かかる」
「すぐ数えるのね」
「数えないと、植える気になれない」
「じゃあ、なおさら植えて。数えなくていいように」
ランタンの火が、じじ、と鳴った。
ロッテは掛け布から抜け出すと、毛織りのショールを肩に巻いた。素足のまま床に降りて、寒い、と肩をすくめる。椅子の上の黒い上着から、片方だけの革の手袋を拾い上げた。右手の親指のつけ根で、縫い目がほつれている。
「また、そこ」
「剣の柄が当たる」
「知ってる。先月も聞いた」
棚の小箱から針と黒い糸を取り出し、寝台の端に腰を下ろす。
「見られてると、刺すの」
言ったそばから、彼女は針で指先を突いた。息をのんで指を口にくわえ、恨めしそうにセドリックを振り返る。
「黒騎士様のせい」
「俺のせいか」
セドリックは口の端だけで笑った。笑ったつもりはなかったが、ロッテはそれを見て、満足したように手もとへ目を戻した。
灯りの中で、彼女の指は迷いなく動いた。ほつれた縫い目をほどき、糸を二重にして、親指のつけ根を細かく縫い直していく。表からは見えない、内側の縫い目だった。柄を握ったときに、指の腹がちょうど触れる場所。
「黒騎士様の手袋が女の縫い目だなんて知れたら、困るでしょう」
ロッテは糸を歯で切り、手袋を彼の胸の上にぽんと置いた。
「はい。十日ぶん。次に破れたら、自分で縫えるように教えてあげる」
寝台に戻ってきた彼女の左腕が、ショールの陰でまた少しのぞいた。セドリックはそれを見ないふりをして、冷えきった彼女の足が脚に押しつけられるのを、黙って受け止めた。
夜明け前、まだ窓の外が藍色のうちに、セドリックは身支度をした。
ロッテは寝たふりをしていた。いつもそうだった。起きて見送れば、それが二人の決まりごとになってしまう。そういうものを、彼女は嫌った。
卓の上に、館に払う代金とは別の硬貨を置く。いつも少しだけ多く置いていく。ロッテはそれを、受け取るとも返すとも、一度も言わなかった。
扉に手をかけたとき、背中に声がした。
「気をつけて。セドリック」
振り返ると、ロッテは掛け布にくるまって目を閉じたままだった。
裏口を出ると、夜のうちに積もった雪が足首まであった。セドリックは手袋をはめ、右手を一度握った。親指のつけ根に、細かい縫い目が触れた。
* * * * * *
国境に近い北の峠は、王都よりもひと足早く冬が深い。
セドリックは岩陰の雪をならし、そこに腹ばいになって谷を見下ろしていた。谷底の古い山小屋に、ここ半月、夜ごと荷を運び込む者たちがいる。何を運び、誰に渡しているのか。それを確かめるのが、今度の任務だった。
三番隊から出たのは五人。三人が峠の向こう側を回り、尾根に残ったのはセドリックと、隊長のジェフリー・ハルセリンだった。
六日目の夜、谷の小屋に、王都から来たらしい荷馬車が一台着いた。御者台から降りた男が、小屋の戸口の灯りの下で外套の頭巾を払った。
セドリックは、息を止めた。
一年あまり前、館の向かいの路地から、三晩見つづけた顔だった。
「知っている顔か」
隣で、ジェフリーが言った。セドリックの呼吸が変わったのを、聞き逃さなかったらしい。
「ザイドル。王都の川船の仲買人です。以前、見張りについたことがあります。あのときは何も出なかった」
「今度は出る」
ジェフリーはそれだけ言って、谷の灯りから目を離さなかった。
荷を受け取ったザイドルの馬車は、夜のうちに王都へ引き返していった。峠の向こうの三人が、小屋に残った運び手たちを押さえたのは、その翌朝のことだった。
王都へ戻る道のあいだ、セドリックは何度か右手を握った。縫い目が指の腹に触れるたびに、二の腕の痣が浮かんだ。四つ並んだ指の形。あの館に出入りする男。
考えすぎだと、自分に言い聞かせた。あの裏通りには、ほかにも客はいくらでもいる。
* * * * * *
王都に戻ったのは、出立から十一日目の昼だった。
隊長の報告は短かった。峠の運び手たちの口から、川下の古い倉の名前が出た。ザイドルの荷はそこに集められ、近いうちに川船で運び出される。逃げられる前に、今夜押さえる。
「日が暮れたら、詰め所に集まれ。それまでは休め」
隊の者たちが散っていくなか、セドリックは宿舎へは戻らず、裏通りへ向かった。
休めと言われて、休める気がしなかった。
鷺の館の裏口を叩くと、出てきたのは、館を取り仕切るマダムだった。恰幅のいい、目つきの鋭い女で、セドリックの顔を見ると、その目がわずかに揺れた。
「あの子なら、いないよ」
マダムは彼を戸口の内へ引き入れ、扉を閉めた。
「二日前の晩に、ザイドルの旦那が来てね。あの子の証文を買い取るって、金を卓に積んだんだ。うちの持ち主がよそでこしらえた借金を抱えてるのを、どこで聞きつけたんだか。持ち主は二つ返事さ。あたしには、止められなかった」
「ザイドル」
「前から、あの子にしつこかった男だよ。あの子は何度も断ってた。断るたびに、腕だの肩だのに痣をこしらえて戻ってきた。それでも断ってた。あんたが来る日の前の晩は、とくにね」
セドリックの手が、戸口の柱をつかんでいた。いつつかんだのか、自分でもわからなかった。
「旦那は、あの子を連れてくときに言ったんだ。黒い服の男はどこの誰だ、ってね。あんたが夜明けにここを出ていくのを、いつか見てたんだろうさ。あの子は、知らない、の一点張りだった。顔をはたかれても、知らないって」
マダムは言葉を切り、セドリックの顔を見た。
「……あんたの宿舎に、使いを出そうかって言ったんだよ。そしたらあの子、真っ青になって、それだけはやめてって。あんたの名前に、こんな館の話をくっつけたくないんだってさ」
柱をつかんだ指が白くなっていた。
「どこへ連れていった」
「川下の倉だって、旦那の手下が言ってた。……あんた、何をする気だい」
セドリックは答えなかった。扉を開けて、外へ出た。
背中で、マダムが何か言ったが耳には入らなかった。
* * * * * *
川下の倉は、石造りの古い建物だった。川に面した側に荷揚げ場があり、裏手は細い路地に面している。
日が落ちると、三番隊の黒騎士たちは倉を囲むように散った。表の荷揚げ場をジェフリーたちが、裏手の路地をセドリックがひとりで受け持つ。中の様子を探り、人の数と出入り口を確かめて、合図の笛を待つ。いつもの仕事だった。
セドリックは路地の暗がりから壁を登り、二階の明かり取りの窓に身を寄せた。煤けた硝子の向こうに、ランタンの灯りがあった。
積み上げられた木箱。見張りが二人。帳面を手にした男が一人。
その奥に、椅子に座らされた女がいた。
手首を縄で背に回され、うつむいている。乱れた髪のあいだからのぞく頬が、赤く腫れていた。左の目の下が、切れて黒ずんでいる。
ザイドルが帳面を置き、ロッテの前に立った。
「もう一度だけ聞く。あの黒い服の男は、どこの誰だ。おまえのところに通っていた男だ。……前に俺を嗅ぎ回っていたのも、あいつだろう」
ロッテは顔を上げなかった。
「知らない。わたしの客に、黒い服の人なんていない」
ザイドルの手が上がった。
乾いた音が、硝子越しに届いた。ロッテの頭が横に振られ、椅子が傾いた。彼女は倒れなかった。傾いた椅子の上で、肩を震わせながら、それでも口を閉じていた。
ザイドルが、もう一度手を上げた。
合図の笛は、まだ鳴っていなかった。
中の人数を確かめて、出口を押さえて、待つ。それが斥候の仕事だった。ジェフリーの下に来てから、一度も破ったことのない決まりだった。この先も破ることはないと思っていた。
明かり取りの窓の硝子を、セドリックは肘で砕いていた。
硝子の割れる音に、見張りの二人が振り返った。そのときには、セドリックはもう木箱の上に降りていた。一人目の顎を下から打ち上げ、崩れる体の陰から二人目の膝を蹴り折る。剣は抜かなかった。抜く間も惜しかった。
ザイドルが腰の短剣に手をかけた。その手首をつかみ、木箱に叩きつける。短剣が床を滑っていった。
ザイドルの顔が、間近にあった。路地の暗がりから三晩見続けた顔。痣をつけた手の持ち主。
気づいたときには、セドリックはザイドルを床に押さえつけ、拳を振り下ろしていた。一度、二度。三度目のあと、自分の短剣を抜いて、その喉もとに当てていた。
「どの手だ」
自分の声とは思えなかった。
「あいつに触ったのは、どの手だ」
ザイドルが何か言いかけた。口の端から血の泡がこぼれた。刃先が、喉の皮に浅く沈んだ。
「セドリック!」
背中で、名前を呼ばれた。
「やめて。お願い」
刃は、ザイドルの喉から離れなかった。自分がまだ力を込めていることに、セドリック自身が気づいていなかった。
「あなたは、村へ帰る人でしょう。お母さんと、妹さんのところへ」
ロッテの声が、震えていた。
「そんな手で、林檎の木を植えないで」
表のほうで、扉の破られる音がした。
足音がいくつも重なり、倉の中にランタンの光が流れ込んでくる。誰かが、短剣を握るセドリックの手首に、手袋をはめた手を重ねた。
「ノール」
ジェフリーだった。
「刃を引け」
力は込められていなかった。手首に添えられているだけの手だった。
「そいつは裁きにかける。おまえの手で終わらせる男じゃない」
セドリックは、しばらく動かなかった。荒い息が、自分の耳にうるさかった。やがて、指がひとつずつ柄から離れた。短剣が床に落ちて、乾いた音を立てた。
ジェフリーは何も言わずにそれを拾い、部下にザイドルを引き渡した。
セドリックは立ち上がり、椅子のロッテのもとへ行った。手首の縄をほどこうとして、指がうまく動かなかった。結び目に爪をかけ、何度もしくじって、ようやくほどいた。
縄の跡が赤く残った手首を、ロッテがさすった。
「……合図、待たなかったでしょう」
セドリックは答えなかった。答えられなかった。
「ばかね」
ロッテは腫れた顔で、少しだけ笑った。笑ったせいで切れた目の下が痛んだのか、顔をしかめて、それからセドリックの胸に額を押しつけた。
セドリックは、その背中に腕を回した。倉の中にいる三番隊の者たちが見ていることは、わかっていた。腕をほどく気には、なれなかった。
* * * * * *
夜が明けかけるころ、詰め所の裏の井戸端で、セドリックは拳の血を洗っていた。
指の節の皮がむけて、水がしみた。手袋は、外して井戸の縁に置いてある。内側の縫い目は、どこもほつれていなかった。
「ノール」
振り返ると、ジェフリーが立っていた。夜通し動いたはずなのに、その顔には疲れの色がほとんど見えない。
「合図を待たずに動いたな」
「はい」
「中に何人いたかも、出口がいくつあったかも、報告を受けていない」
「はい」
「ザイドルは、もう少しで裁きの場に立てなくなるところだった」
「……はい」
セドリックは言い訳をしなかった。するつもりもなかった。罰を受けるなら、それでいい。黒騎士の外套を返せと言われても、仕方がないと思っていた。
ジェフリーはしばらく黙って、井戸の縁の手袋に目をやった。
「報告書には、人質への暴行を確認し、その場の判断で先行して確保した、と書く。そこまでは事実だ」
セドリックは顔を上げた。
「合図を待たずに持ち場を離れたことは、別だ。それは俺が記録する。罰は受けてもらう」
「……はい」
「おまえがなぜ待てなかったのか、俺は聞かない」
若い隊長の青い目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「聞かないから、二度目はない。いいな」
「……はい」
ジェフリーはそれだけ言って、踵を返した。二、三歩行ったところで、思い出したように足を止める。
「押収した帳面を見るかぎり、証文を買い取った金は、峠の荷の代金から出ている。裁きの場では、証文の売り買いそのものが無効になるはずだ。あの人の借りは、館の持ち主に戻る」
それきり、今度は振り返らずに歩いていった。
* * * * * *
三日後、セドリックは鷺の館の裏口を叩いた。
手には、二つの革袋を持っていた。
ひとつは、ロッテの部屋の寝台の下から、マダムが出してきたものだった。この一年あまり、セドリックが代金とは別に卓の上に置いてきた硬貨。彼女はそれを、ひとつも使っていなかった。
「妹さんの花嫁支度にするんだって、あの子、言ってたよ」
マダムがそう言った袋だった。
もうひとつは、セドリック自身の袋だった。故郷へ送る金とは別に、黒騎士になってから少しずつよけてきた蓄え。辞めて村へ帰る日のためのものだった。
二つを合わせて、ロッテの残りの借りに、ようやく届いた。
ロッテは、館の奥の小さな部屋にいた。顔の腫れはだいぶ引いて、目の下の傷だけが、薄く残っている。
卓の上の二つの革袋と、マダムの差し出した証文を見て、彼女の顔から血の気が引いた。
「何をしたの」
「借りを払った」
「それ、妹さんのお金でしょう。わたしが、あなたの妹さんに……」
「妹の支度は、俺が稼ぐ」
ロッテが何か言い返そうとした。セドリックは、それより先に口を開いた。
「これは、おまえが貯めた金だ。おまえが痣をつくって、断って、それでも手をつけなかった金だ。おまえのために使って、何が悪い」
言ってから、自分がこんなに長く喋ったのはいつ以来だろうと思った。
ロッテはしばらく、何も言わなかった。目に溜まったものが、腫れの残る頬をつたって落ちた。
* * * * * *
王都の東門の外、まだ薄暗い馬車の溜まり場には、雪解けの泥の匂いがしていた。
北の山あいの村へ向かう乗合馬車が、御者の掛け声を待っている。ロッテは小さな鞄ひとつを足もとに置き、外套の頭巾を深くかぶっていた。
「村へ帰るのか」
「ええ。林檎の村。……ずっと、帰りたかったの。父さんはもういないけど、叔母さんがいる。林檎の木も、まだあると思う」
彼女はそう言って、セドリックを見上げた。
「それに、わたしが王都にいたら、あなたはまた、合図を待たないでしょう」
セドリックは答えなかった。答えは、彼女にもわかっているはずだった。
「黒騎士は、待てなきゃだめなのよ。……わたし、あなたの弱みになるのは嫌」
ロッテは外套の中から、小さな布の包みを取り出して、セドリックの手に押しつけた。中で、乾いた粒が触れ合う音がした。
「林檎の種。村を出る前の秋に拾ったのを、ずっと持ってたの。畑のそばに、一本だけね。数えないで植えて」
御者が、出るぞ、と声を上げた。
ロッテは鞄を持ち上げ、踏み台に足をかけた。そこで、振り返った。
「ねえ。最後に、何か言って」
頭巾の陰で、彼女は笑おうとしていた。
「なんでもいいの。いつかみたいに、外は寒かった、でもいいから」
セドリックは、包みを握りしめた。
この一年あまり、窓から杯を差し出したのも、市場で腕をつかんだのも、椅子で眠ろうとした男を寝台へ引っぱりこんだのも、全部彼女だった。自分からは、何ひとつ差し出さなかった。言われた言葉を、言われたまま返すことさえ。
「……会いたかった」
ロッテの目が、見開かれた。
「来るたびに、いつも。扉を叩く前から、会いたかった」
頭巾の陰の顔が、くしゃりと歪んだ。
「遅いのよ。……ばか」
ロッテは踏み台を降りて、セドリックの首に腕を回した。外套ごと、強く引き寄せられた。一年あまり前、市場の人混みで腕をつかまれたときと同じ力だった。
御者が、二度目の声を上げた。
ロッテは腕をほどき、今度は振り返らずに馬車に乗った。扉が閉まり、車輪が泥をはねて動き出す。小さな窓の向こうで、頭巾の影がこちらを向いたまま遠ざかっていった。
馬車が見えなくなっても、セドリックはしばらくその場に立っていた。
夜明けの光が、雪解けの道を白く照らしはじめていた。
右手の手袋に、目を落とす。親指のつけ根の内側には、細かく、等しい間隔で並んだ縫い目がある。次に破れたら、自分で縫えるように教えてあげる。彼女はそう言った。その約束は、果たされないまま残った。
セドリックは手袋をはめ、林檎の種の包みを外套の内側にしまった。右手を握ると、縫い目が指の腹に触れた。
宿舎へ向かって歩き出す。今日は非番ではなかった。




