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【Another Page】マノン ―肩に置かれた手―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、ダリアの村の娘マノンのお話です。

ドラゴンの爪あとの洞窟から助けだされた次の日。本編33話の、川べりの野営地での出来事です。

幌馬車の中は、白粉の甘い匂いでいっぱいだった。


マノンは、刷毛を握ったまま、アヤ様の頬に粉をのせる手を止めた。


「もう少し、こっちにも」


リーナが、アヤ様の顎の線を指さした。マノンはうなずいて、刷毛の先に粉を含ませなおした。


隣では、コレットが紅入れの貝殻を三つも並べて、どれがいちばんアヤ様の肌に合うかを、ああでもない、こうでもないと言いつづけている。アヤ様は目を閉じたまま、くすぐったそうに口もとをむずむずさせていた。


刷毛を動かしていると、気持ちが落ちついた。

粉の量を量るのも、肌の上に薄くのばしていくのも、刺繍の針を運ぶのに少し似ていた。ひと針ひと針、ほんの少しずつ。そうしているあいだは、ほかのことを考えずにすんだ。


ほかのこと、というのは、ゆうべのことだった。


洞窟の穴倉から連れだされて、はじめて迎えた夜だった。アヤ様が用意してくださった天幕で、乾いた毛布にくるまって横になった。目を閉じても、少しも眠れなかった。遠くのほうから、男の呻く声が、とぎれとぎれに聞こえてきた。丸太の囲いに入れられた男たちの声だった。黒騎士たちは天幕を囲いからずっと離れた川べりに張ってくれていたのに、それでも、風の向きによっては、その声が届いた。


声が聞こえるたびに、マノンは毛布の中で身体を丸めた。


あの声の主は、柵の中にいる。縄で縛られて、黒騎士たちに見張られている。頭ではそう分かっていた。分かっていても、身体のほうが、勝手に穴倉の暗がりを思いだしてしまった。


濡れた岩の匂い。手首に食いこむ縄。ランタンの灯りが揺れて、その灯りの向こうから、足音が近づいてくる。


明け方になって声がやむまで、マノンは一度も、まともに眠れなかった。


「マノン?」


リーナの声に、マノンははっと顔を上げた。刷毛が、アヤ様の頬の上で止まったままになっていた。


「……ごめんなさい」


マノンは、あわてて刷毛を動かした。


アヤ様が、目を閉じたまま、ふっと笑った。


「ゆっくりで、かまいません。わたくし、こうしていただくのが、なんだか楽しくて」


その声に、コレットがまた何か言い、リーナが笑った。幌の中に、女たちの笑い声が満ちた。


マノンも、少しだけ笑った。笑いながら、刷毛を置いて、粉の器の蓋を閉めようとした。そのとき、幌の入り口の布が、風でふわりとめくれあがった。


外の草地が見えた。


ノアが、棒切れを振りまわしていた。


相手をしているのは、若い黒騎士だった。その黒騎士も同じような棒切れを手にしていて、ノアがどこから打ちこんでも、ちょうどその高さに棒を差しだして、かつん、かつんと受け止めている。


ノアが、ふいに棒切れを放りだした。そのまま、黒騎士の胸めがけて、身体ごと飛びかかった。


危ない、とマノンは思った。


あんな勢いで飛びかかられたら、大人の男でも後ろへ倒れる。倒れた拍子に、腕の中の子どもを、地面に叩きつけてしまうかもしれない。


黒騎士は、たしかに倒れた。草の上へ、仰向けに。


それなのに、ノアはどこも打っていなかった。黒騎士の胸の上に、すっぽりと抱えこまれて、けらけらと笑っていた。倒れる前から、どこに背中をつけるのか、どう抱えればいいのかを、ちゃんと分かっていたような倒れ方だった。自分の背中で地面を受けて、ノアの身体を、両腕の中で守りきっていた。


草の上で、黒騎士が笑っていた。


その笑い顔に、マノンは、少しだけ驚いた。


黒い外套を着ているのに、村の男の子たちと、少しも変わらない顔だった。


幌の布が、また風に揺れて、もとの位置に落ちた。草地は見えなくなった。


「マノン、蓋、蓋」


コレットに言われて、マノンは、自分が粉の器の蓋を宙に持ったままだったことに気づいた。



* * * * * *



アヤ様は、黒騎士の隊長と一緒に、領主の館へ向かった。


ほかにも何人かの黒騎士が馬に乗ってついていった。そのあとの野営地は、急に広くなったように見えた。


残った黒騎士たちは、それぞれの仕事に戻っていった。丸太の囲いの入り口には、副隊長と呼ばれている大柄な黒騎士が立った。川のほうでは、誰かが馬の脚を洗っている。崖のほうの見回りに出ていく者もいた。


リーナは、洗いものを抱えて、川へ下りていった。コレットは天幕の中で、アヤ様が置いていった着替えをたたんでいる。マノンは、朝の麦粥を炊いた大鍋の前にしゃがんで、鍋の底にこびりついた粥を、木べらでこそげ落としていた。


ひとりでいるほうが、気が楽だった。


野営地の黒騎士たちは、誰もが親切だった。女たちの天幕は、野営地のいちばん奥の、柳の木陰に張ってくれた。水汲みの道も、洗いものの場所も、丸太の囲いのそばを通らなくてすむように、囲いから遠いほうに決めてくれた。重いものを持とうとすれば、どこからか太い腕が伸びてきて、黙って持っていってしまう。


ありがたかった。ありがたいと分かっているのに、黒い外套の男がそばを通るたびに、マノンの指は、勝手に木べらの柄を握りしめた。


悪い人たちではない。それも、とうに分かっている。分かっていても、男の人の影が自分の上に落ちると、身体のほうが先にこわばった。


「エミールにいちゃん、もう一回! もう一回だけ!」


草地のほうから、ノアの声が飛んできた。


マノンは、木べらを止めて顔を上げた。


さっきの若い黒騎士が、ノアに外套の裾を引っぱられていた。


「もう一回だけだぞ。昼からは、肉の支度があるんだからな」


「やった!」


ノアが、草の上から棒切れを拾いあげた。若い黒騎士も、同じように棒切れを拾った。


エミール、という名前らしかった。


マノンは、口の中で、その名前をそっと転がした。エミール。エミールにいちゃん。ノアがそう呼ぶと、あの人は、どんなに引っぱられても、どんなにまとわりつかれても、少しも嫌な顔をしなかった。


ほかの黒騎士たちは、たいてい年上だった。親切にしてくれても、笑っていても、どこか遠かった。あの人だけが、ノアと同じ高さで笑っていた。


それが、なんとなく目に入る。それだけのことだった。


マノンは、鍋の底に目を戻した。


「とりゃあっ!」


かつん、と乾いた音が響いた。


「てやっ!」


かつん。


「今度こそ……とりゃああっ!」


ノアが、頭の上から、ありったけの力で棒切れを振りおろした。


エミールの棒が、それを受けた。受けた拍子に、ほんの少し、力が入りすぎたらしい。


ノアの手から、棒切れがすっぽ抜けた。


棒切れは、くるくると回りながら青い空に弧を描いて、草地の向こうへ飛んでいった。


マノンの木べらが、止まった。


棒切れの落ちた先に、丸太の柵があった。


囲いだった。


入り口のほうには、副隊長が立っている。棒切れが落ちたのは、その反対の、柵の裏手だった。編みこまれた枝の向こうに、捕らえられた男たちが、何人も、地面に座りこんでいるのが見えた。


「あーっ、おいらの剣!」


ノアが、もう走りだしていた。


「ノア、待て!」


エミールの声が飛んだ。


マノンは、木べらを鍋の中に放りだしていた。


考えるより先に、足が動いていた。あそこへ近づいてはいけない。黒騎士たちが、わざわざ遠ざけてくれた場所だ。あの柵の中には、あの男たちがいる。


それでも、ノアが走っていく。


リーナさんは、川にいる。ノアのかあちゃんは、今、ここにいない。


マノンは、スカートの裾をつかんで、草地を駆けた。


柵が、近づいてくる。編みこまれた枝の向こうで、男たちの顔が、ひとつ、またひとつと、こちらを向いた。足が重くなった。膝が、震えだしそうになった。


ノアは、柵の根もとに落ちた棒切れに、手を伸ばしかけていた。


マノンは、その細い腕をつかんで、ぐいと引き戻した。


「だめ。ここに来ちゃ、だめ」


自分の声が、ひどくかすれていた。


ノアが、きょとんとした顔でマノンを見上げた。


そのとき、柵の内側で、誰かが笑った。


「おや」


ねっとりと、耳にからみつくような声だった。


マノンの背中が、凍りついた。


「どこかで見た顔だと思ったら。穴倉の娘じゃねえか」


知っている声だった。


洞窟の穴倉で、ランタンの灯りの向こうから聞こえていた声だった。


編みこまれた枝の向こうに、男の顔があった。にやにやと笑う口もとから、黄色い歯がのぞいていた。


「ずいぶん、こぎれいにしてもらったもんだなあ。騎士さまがたに、よっぽどかわいがってもらってるらしい」


男の目が、マノンの顔から、ゆっくりと下へ降りていった。


首すじ。胸もと。腰。借りものの服の上を、濡れた指でなぞるように、目だけが這っていく。服を着ているのに、何も着ていないような気がした。


マノンは、とっさにノアの頭を胸に抱えこんだ。両方の手のひらで、ノアの耳をふさいだ。この子にだけは、聞かせたくなかった。腕の中で、ノアが、なにすんだよ、ともがいた。


男は、それを見て、いっそう楽しそうに目を細めた。


「覚えてるぜ。おまえの肌は、ほかの女とは違った。白くて、やわらかくてよ。触ると、指に吸いついてきやがる」


男は、縄につながれた両手を自分の顔の前まで持ちあげ、指先をうっとりと眺めてみせた。そこに、まだ何かが残っているとでもいうように。


「それに、あの声だ。泣くまいと唇をかんで、それでもこらえきれずに漏れてくる、あの細い声。……穴倉じゅうに響いてたなあ。いい声だった」


男は、舌の先で、乾いた唇をなめた。


「なあ。もう一度、聞かせてくれよ」


マノンの喉の奥で、何かがせりあがった。


覚えていた。


自分の声を。歯を食いしばっても、漏れていったあの声を。漏らすまいとすればするほど、男たちは喜んだ。冷たい岩の床。押さえつけられた肩。耳もとにかかる、酒くさい息。ランタンの灯りの中で、ざらついた掌が、肌の上を――。


マノンは、そこで考えるのをやめた。やめなければ、その場にくずおれてしまいそうだった。


膝から、力が抜けていく。ノアを抱える腕だけが、がくがくと震えながら、それでもほどけなかった。


逃げなければ、と思った。ノアを連れて、ここから離れなければ。頭はそう言っているのに、足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。息が、うまく吸えなかった。吸おうとするたびに、喉の奥で、ひゅう、と細い音が鳴った。


男は、つながれた両手を、編みこまれた枝のすき間へ無理やりねじこんだ。縄が枝に擦れ、柵が、ぎし、と鳴った。


伸びた指先が、マノンの手首をつかんだ。


ざらついた指の腹が、手首の内側の、いちばんやわらかいところを、ねっとりと撫であげた。


「ほら、やっぱりだ。変わってねえ」


穴倉の、あの手だった。


声も、出なかった。悲鳴をあげれば、それが、あのときの声になってしまう気がした。


次の瞬間、鋭い音が、空気を裂いた。


男の喉もとに、銀色の切っ先があった。


編みこまれた枝のすき間を抜けて、剣の先が、男の喉のほんの手前で、ぴたりと止まっていた。


マノンのすぐ横に、エミールが立っていた。


さっきまでノアと棒切れで遊んでいた顔は、どこにもなかった。黒い外套の裾が、駆けてきた勢いのまま、まだ揺れている。それなのに、剣を握る腕だけは、少しも揺れていなかった。


エミールは、マノンのほうを見なかった。柵の向こうの男だけを、まっすぐに見ていた。


「放せ」


男の指が、マノンの手首から離れた。


エミールの切っ先は、男の喉もとから動かなかった。


「二度と、この人に口をきくな」


それだけだった。


脅し文句を並べたりはしなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、その短い言葉には、まだ少年らしさの残る顔からは思いもよらない、まっすぐな怒りがこもっていた。


男は、何か言い返そうとして、口を開いた。


切っ先が、ほんのわずか、前へ出た。


男は、口をつぐんだ。枝の向こうから顔を引くと、仲間たちのあいだへ、這うようにして下がっていった。


エミールは、剣を鞘に収めた。


その手が、マノンの肩に置かれた。


マノンの身体が、びくりと跳ねかけた。


男の人の手だった。


それなのに。


肩に置かれた手は、つかむのでも、押さえつけるのでもなかった。マノンの肩をくるむように添えられて、柵から遠いほうへ、そっと向きを変えさせた。


「こっちだ。ノア、おまえも来い」


エミールは、マノンの肩に手を添えたまま、もう片方の手でノアの腕を引いて、柵に背を向けて歩きだした。


マノンの足が、動いた。


さっきまで地面に縫いつけられていた足が、エミールの歩みに合わせて、一歩、また一歩と、柵から離れていく。


背中に、男たちの目を感じた。振りかえらなかった。振りかえらずにすむように、肩の手が、マノンの向きを、ずっと柵の反対へ保ってくれていた。


囲いの入り口のほうから、副隊長が大股でこちらへ来ようとしているのが見えた。エミールは、そちらに向かって、大丈夫だというように一度うなずいてみせた。副隊長は足を止め、エミールが二人を柵から十分に離すまで見届けてから、入り口の前へ戻っていった。


肩の手は、温かかった。


穴倉で、男たちの手は、いつも冷たく湿っていた。触れられるたびに、身体の内側が縮こまった。助けだされてからも、男の人の手が近くに来るだけで、身体のほうが先にこわばった。


けれど、この手に触れられても、身体はこわばらなかった。


いつ以来だろう、とマノンは思った。男の人の手を、怖いと思わなかったのは。


柵がずいぶん遠くなったところで、エミールは足を止めた。


肩から、手が離れた。


手の置かれていたところに、川風が触れた。さっきまでそこにあったぬくもりの形が、急に、心もとなく思えた。


エミールは、ノアの前にしゃがみこんだ。


「ノア。囲いのほうには行くなって、言われてるだろ」


「だって、おいらの剣が……」


「飛ばしたのは俺だ。悪かった。でも、ああいうときは、追いかける前に、俺に言え。いいな」


ノアは、口をとがらせながらも、こくりとうなずいた。


エミールは立ちあがって、マノンのほうへ向きなおった。


そこで初めて、エミールの目が、マノンを見た。


マノンの顔ではなかった。


エミールの目は、マノンの手首を見ていた。男につかまれた、そのところを。


「……手、大丈夫か」


マノンは、自分の手首を見下ろした。男の指の跡が、うっすらと赤く残っていた。


マノンは、うなずいた。声は、まだ出なかった。


エミールは、少し困ったように頭をかいた。


赤みがかった栗色のくせ毛が、指のあいだでくしゃりと乱れた。さっき柵の前で剣を構えていた騎士と同じ人とは思えないほど、どこにでもいる男の子の仕草だった。


「次は、俺に言えばいい」


エミールは、柵のほうへ、ちらりと目をやった。


「ノアが何か飛ばしても、あっちに何か落ちても。俺が、かわりに取りに行くから」


マノンは、エミールを見つめた。


エミールは、言うだけ言ってしまうと、もうそれ以上何を言えばいいのか分からなくなったように、もう一度、くせ毛をかきまわした。


「……じゃあ、俺、ノアの剣、取ってくる」


そう言うなり、エミールは、今来た道を、柵のほうへ駆け戻っていった。


マノンは、その背中を、黙って見送っていた。


さっき、幌の中から見た背中だった。ノアに飛びつかれて、草の上へ倒れながら、ノアを両腕の中で守りきった背中。


その背中が、柵の裏手で身をかがめて、棒切れを拾いあげた。柵の奥のほうを一度だけ見て、そのまま何事もなかったように、こちらへ戻ってくる。


マノンは、自分の手首を、もう片方の手でそっと包んだ。



* * * * * *



手首の赤みは、昼を過ぎるころには、ほとんど消えていた。


マノンは、袖を手首の先まで下ろしておいた。川から戻ってきたリーナにも、天幕から出てきたコレットにも、柵のそばで何があったのかは話さなかった。ノアも、口止めされたわけでもないのに、何も言わなかった。言えば、自分が叱られると思ったのかもしれない。


昼からは、野菜の皮をむいた。


鍋のそばに座って、小刀を動かしながら、マノンの目は、ときどき草地の向こうへ流れた。


エミールは、地面に掘った浅い穴の前にしゃがみこんでいた。


穴の底では、湿らせた木くずが、炎を上げずにくすぶっていた。その上に、枝を組んで作った棚が渡してあって、鹿の肉が何切れも並べられている。エミールは、ときどき穴の上にかぶせた生木の葉をずらしては、煙の具合を確かめていた。


白い煙が、ゆっくりと肉のあいだを抜けていく。


その煙の中で、エミールは、ひどく真剣な顔をしていた。葉をずらしては、肉の色を見る。木くずを足しては、煙の量を見る。手の甲で額の汗をぬぐって、また葉をずらす。


柵の前で剣を構えていたときと、同じ顔だった。


マノンは、そのことに気づいて、小刀を握る指を止めた。


ノアと笑いあっているときの顔。剣を構えていたときの顔。肉の燻し具合を見ている顔。どれも、同じ人の顔だった。どれも、目の前のことに、まっすぐだった。


少し離れたところでは、エミールと同じくらいの年頃に見える黒髪の騎士が、ノアに草の見分け方を教えていた。

布の上に何種類もの草を並べて、ひとつずつ手に取らせている。ノアがすっぱい草をかじって顔をくしゃくしゃにすると、エミールが煙の向こうで吹きだした。


香ばしい匂いが、川風に乗って、野営地じゅうに広がっていった。


囲いの入り口に立っていた副隊長が、鼻をひくつかせて、エミールのほうへ声を飛ばした。


「エミール。そいつは、いつ食える」


「まだです、副隊長。日が落ちるころです」


副隊長が、残念そうに肩を落とした。その大きな身体には、まるで似合わない仕草だった。マノンの隣で、コレットが小さく笑った。


マノンも、少しだけ口もとをゆるめた。ゆるめたまま、また、煙の中の横顔のほうへ目をやった。


そのときだった。


街道のほうから、蹄の音が近づいてきた。


一頭ではない。何頭かの馬が、ひどく急いで駆けてくる。


マノンの手から、小刀が落ちた。


誰が来るのか、分からなかった。分からないものが、街道のほうから、まっすぐにこちらへ近づいてくる。


洞窟にいた男たちは、全員が囲いの中にいるわけではないのかもしれない。穴倉から女がいなくなったことに、どこかの誰かが、もう気づいているのかもしれない。それなら、取り返しに来たのかもしれない。


息が、浅くなった。


副隊長が、腰の大剣に手をかけたのが見えた。


木立のあいだから、馬の姿が見えた。先頭の馬は、黒かった。その背に乗っている男も、黒い服を着ていた。


副隊長の手が、剣から離れた。


黒騎士だった。今朝、アヤ様と一緒に館へ向かった人たちのうちの三人だった。


マノンは、膝の上で両手を握りあわせて、息を吐いた。


三人の黒騎士は、副隊長と短く言葉を交わしていた。何を話しているのかは、聞こえなかった。ただ、皆、ひどく急いでいるように見えた。ひとりは川で水袋を満たし、もうひとりは馬の蹄を持ちあげて確かめている。


エミールが、燻しかけの棚から肉を何切れか取り分けて、大きな葉でくるんでいた。


それを、先頭の馬から降りた黒騎士に差しだした。何か言っている。その黒騎士は、包みのにおいを嗅いで、エミールの肩をばしんと叩いた。


エミールは、叩かれた肩をさすりながら、うれしそうに笑っていた。


マノンは、その笑い顔から目を離せなかった。


あの肉は、エミールが朝から、ずっとつきっきりで見ていたものだった。まだ仕上がってもいない。日が落ちるまで待てば、いちばんおいしいところを、自分の口に入れられたはずだった。


それなのに、誰に言われたわけでもないのに、あの人は、急いで発っていく仲間のために、迷いもせずに棚の肉を分けていた。


ダリアでは、そうではなかった。


麦が足りなくなってから、村の男たちは、自分の分を隠すようになった。隣の家の子どもが腹をすかせて泣いていても、戸を閉めて、聞こえないふりをした。何かが人の手から離れるのは、取りあげられるときだけだった。そうして最後には、女たちまで、取りあげられるもののひとつになった。


何かを人に渡しながら、あんなふうにうれしそうに笑う男の人を、マノンは知らなかった。


――次は、俺に言えばいい。俺が、かわりに取りに行くから。


あれも、きっと同じなのだ、とマノンは思った。


あの人にとっては、誰かのために手を動かすことが、息をするのと同じくらい、当たり前のことなのだ。だから、あんなに簡単に言えたのだ。マノンのためだけに言ったわけではない。


そう思うと、胸の奥が、少しだけ痛んだ。


痛んだことに、マノンは驚いた。


もうひとつ、気づいたことがあった。マノンは、膝の上の手を握りなおした。


蹄の音が聞こえたとき、自分は、真っ先にどこを見ただろう。


剣に手をかけた副隊長ではなかった。囲いでもなかった。街道でさえなかった。


煙の穴の前にしゃがんでいた、あの人の背中だった。


三人は、すぐにまた馬に乗った。ノアが草を抱えたまま駆けよっていって、肉の包みを受け取った黒騎士に頭をくしゃくしゃにかきまわされていた。


傾きはじめた陽の中を、三頭の馬が、街道のほうへ駆けだしていった。


蹄の音が遠ざかっていくのを、マノンは、胸の前で手を握ったまま聞いていた。


エミールは、もう煙の穴の前に戻っていた。葉をずらして、肉の色を確かめている。仲間を見送ったあとの横顔は、さっきよりも少しだけ、何かを考えこんでいるように見えた。


何を考えているのだろう、とマノンは思った。


男の人が何を考えているのかを知りたいと思ったのは、生まれて初めてだった。村にいたころは、男の人の考えていることなど、知らないほうがいいと思っていた。知ったところで、女にはどうにもならないことばかりだったから。


あの人の考えていることなら、知りたかった。知ったところで、マノンにはどうにもならないことでも。


マノンは、地面に落ちた小刀を拾った。


刃についた土を、前掛けでぬぐった。ぬぐいながら、もう一度だけ、煙の向こうの横顔を見た。



* * * * * *



鹿の燻し肉は、日が沈むころに、ちょうどよく仕上がった。


皆が焚き火を囲んだ。館へ向かった黒騎士たちがいない分、焚き火のまわりは、ゆうべよりもずいぶん寂しかった。


マノンは、リーナとコレットと並んで、焚き火の端に座っていた。


燻し肉は、噛むと、煙の香りと一緒に、塩と酒の味がじんわりと口に広がった。マノンが今まで食べたどんな肉よりも、やわらかかった。隣では、ノアが、いちばん大きいのをもらったと言って、ずっとはしゃいでいる。


遠くの囲いのほうから、男たちの悪態が聞こえてきた。柵をつかんで揺すっている者もいるらしい。丸太のきしむ音が、ときどき、焚き火のはぜる音に混じった。


マノンの肩が、こわばった。


肉を持つ手が止まる。昼間の、あの男の声がよみがえりかけた。


なあ。もう一度、聞かせてくれよ。


マノンは、ぎゅっと目をつむった。


そのとき、焚き火の向こうで、誰かが立ちあがる気配がした。


目を開けると、エミールが、自分の分の肉を口にくわえたまま、囲いのほうへ目をやっていた。何をするでもない。ただ、囲いと焚き火のあいだに、自分の身体を置くようにして、少しだけ座る場所をずらしただけだった。


マノンの座っているところから見ると、囲いの篝火が、ちょうどエミールの背中に隠れていた。


偶然かもしれなかった。


たぶん、偶然だった。


それでも、マノンの肩から、少しずつ、こわばりがほどけていった。


ほどなくして、囲いのほうは、嘘のようにおとなしくなった。薬の木箱を抱えた黒騎士が、囲いの男たちに、ひとりずつ何かを飲ませてまわっていたから、そのせいだろう。男たちは、ひとり、またひとりと地面に身を横たえて、やがて悪態のひとつも聞こえなくなった。


焚き火の向こうで、大きな影が、エミールの隣に腰を下ろした。


副隊長だった。


副隊長は、エミールのほうを見ずに、肉をひと口かじった。


「昼間のこと、見ていたぞ」


エミールが、肉を持ったまま固まったのが、焚き火の向こうからでも分かった。


「囚われた者に剣を向けるのは、斬ると決めたときだけにしろ。脅すためだけに抜いた剣は、いつか、自分のほうへ返ってくる」


エミールは、手の中の肉に目を落とした。


「……はい」


副隊長は、もうひと口、肉をかじった。ゆっくりと噛んで、飲みこんだ。


「もっとも、今日のは、抜いて正しかった」


エミールが、顔を上げた。


副隊長は、それきり何も言わずに、焚き火のほうを向いて、肉の残りを平らげていた。


マノンは、膝の上の皿を見下ろした。


抜いて正しかった。


その言葉が、なぜか、自分がほめられたことのようにうれしかった。


エミールは、しばらく焚き火を見つめたまま、じっとしていた。やがて、思いだしたように肉にかぶりついた。かぶりついたところで、ノアに「にいちゃん、それ、おいらのだよ」と皿をのぞきこまれて、慌てて自分の皿と見比べていた。ノアの言ったのは、もちろん嘘だった。ノアのけらけら笑う声が、焚き火の上に響いた。


マノンの口もとが、ほんの少しだけ、ゆるんだ。


あの人は、マノンのほうを、一度も見なかった。昼間のことなど、もうすっかり忘れてしまったような顔で、ノアとふざけあっている。


きっと、あの人にとっては、特別なことではないのだ。騎士として、当たり前のことをしただけ。あそこにいたのがマノンでなくても、コレットでも、リーナさんでも、同じことをしたのだろう。


分かっていた。


それでも、ダリアでは。


ならず者たちが村へ来て、払うものがないなら女を連れていくと言ったとき、村の男たちは、誰も顔を上げなかった。地面を見つめたまま黙りこんで、女たちが連れていかれるのを、ただ見送った。まるで、払いきれない借りのかわりに、麦の袋を差しだすように。マノンが連れていかれた日も、そうだった。


誰も、マノンのために剣を抜いてはくれなかった。次は俺に言え、と言ってくれた人も、ひとりもいなかった。


あの人は、それを、当たり前のことのように言った。


黒騎士たちは、いつかダリアを去っていく。マノンには見当もつかない、遠い国の用事で、たまたまこの村に立ち寄っただけの人たちだ。あの人も、いくつかの夜が過ぎれば、どこか遠くへ行ってしまう。


それも、分かっていた。


分かっていても、肩に残ったぬくもりは、消えてくれなかった。



* * * * * *



その夜、女たちの天幕で、マノンはなかなか寝つけなかった。


隣では、コレットが寝息を立てている。その向こうで、リーナがノアを抱えこむようにして眠っていた。


天幕の布ごしに、焚き火の明かりが、ぼんやりと揺れている。


外から、笑い声が聞こえた。


エミールの声だった。誰かと話している。もうひとりは、さっき囲いの男たちに何かを飲ませてまわっていた、薬箱の黒騎士だった。洗濯がどうとか、石鹸がどうとか、そんな話をしているらしい。何がそんなにおかしいのか、二人して、肩を揺らして笑っている。


マノンは、毛布の中で、その笑い声を聞いていた。


ゆうべ、この時刻に聞こえていたのは、男たちの呻き声だった。


今夜は、笑い声だった。


マノンは、毛布の中で、自分の手首にそっと触れた。


男の指の跡は、もうどこにも残っていなかった。穴倉の、あの手の感触も、思いだそうとすると、少しずつ遠のいていくような気がした。


かわりに浮かんでくるのは、肩に置かれた手のことばかりだった。


つかむのでも、押さえつけるのでもない手。振りかえらなくていいように、マノンの向きを、ずっと柵の反対へ保ってくれていた手。


――次は、俺に言えばいい。


そのとき、外の笑い声が、ぷつりと途切れた。


蹄の音だった。


野営地の外の暗がりから、馬が一頭、土を蹴散らすような勢いで駆けこんでくる。


マノンは、毛布をはねのけていた。


昼間とは違う。今は夜だ。暗がりの向こうから駆けてくる蹄の音は、昼間よりもずっと恐ろしかった。天幕の入り口の布を、指先でほんの少しだけめくった。


焚き火の明かりの中に、エミールが立っていた。


さっきまで笑っていたはずの人が、もう立ちあがっていた。片手を剣の柄にかけて、蹄の音のするほうへ、まっすぐに身体を向けている。女たちの天幕と、暗がりとのあいだに立つようにして。


馬の背から、黒い服の男が飛び降りた。


黒騎士だった。


エミールの手が、剣の柄から離れた。


駆けこんできた黒騎士は、薬箱の黒騎士のところへまっすぐに歩いていって、何か短く告げた。薬箱の黒騎士は、すぐに木箱の蓋をはね上げて、中のものを鞍袋に押しこみはじめた。天幕の陰から、濡れた髪の副隊長が顔を出して、何か言った。


何があったのかは、マノンには分からなかった。


ただ、何かが起きて、すぐに動かなければならないらしい。それだけは分かった。


ほどなくして、馬の蹄の音が、また暗がりの中へ駆けだしていった。蹄の音が遠ざかって、野営地には、焚き火のはぜる音だけが残った。


エミールは、しばらく、馬の消えていった暗がりを見つめていた。やがて、焚き火のそばに戻って、黙って薪をくべた。


マノンは、入り口の布から指を離した。


毛布の中へ戻った。胸が、どきどきと鳴っていた。怖かったからなのか、そうではないのか、自分でもよく分からなかった。


暗がりの向こうで、リーナが、小さく寝返りを打った。


「……マノン。眠れないの?」


マノンは、毛布の中で身を固くした。


「……ううん。もう、眠る」


リーナは、それ以上は何も聞かなかった。かわりに、手を伸ばして、毛布の上からマノンの背中を、一度だけ、とんとんと叩いた。


マノンは、目を閉じた。


まぶたの裏に浮かんだのは、穴倉の暗がりではなかった。


青い空を、くるくると回りながら飛んでいくノアの棒切れ。柵の前で揺れていた、黒い外套の裾。くせ毛をかきまわしながら、赤くなった手首を見つめていた、困ったような目。焚き火の明かりの中で、暗がりのほうを向いて立っていた背中。


その夜、マノンは、助けだされてから初めて、洞窟の夢を見なかった。



* * * * * *



目を覚ますと、天幕の布が、うっすらと白んでいた。


隣の寝床は、もう空になっていた。ノアは、今朝も誰より早く起きだして、黒騎士たちを起こしてまわっているらしい。


その声が、外から聞こえてきた。


エミールの名前を呼んでいる。何度も、何度も。やがて、ノアのひときわ大きな声が上がって、それに重なるように、天幕の中から吹きだす声が聞こえた。


マノンは、毛布にくるまったまま、その声を聞いていた。


聞いているうちに、口もとが、ひとりでにほころんでいた。


ほころんでいることに気づいて、マノンは、慌てて毛布を頭までかぶった。


今日も、鍋の前に立とう。リーナさんに香草の使い方を教わって、コレットのおしゃべりを聞いて、ノアの麦粥をよそう。


そうして、ときどき、ほんの少しだけ、草地の向こうを見よう。


それくらいなら、きっと、許される。


マノンは、三つ編みを結いなおして、天幕の外へ出た。


川面には、まだ薄い靄がたゆたっていた。東の空が、ようやく白みはじめたところだった。

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