【Another Page】ディーター・ブラント ―名をもらった日―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、黒騎士ディーター・ブラントのお話です。
盗賊の一味として「目」と呼ばれていた子どもが、ひとつの名前をもらい、黒い外套をまとうまでの一頁です。
街道の脇の草むらに、子どもがひとり、腹ばいになっていた。
サルヴィアの南、国境の川へ下っていく街道だった。両側には楢と樅の森が深く続き、昼でも木の下は薄暗い。秋の終わりの冷たい土が、薄い上着ごしに、子どもの腹から体の熱を吸いとっていく。
子どもは、身じろぎひとつしなかった。
誰にも切ってもらえずに伸びた黒い髪が、ばさりと額に落ちて、目もとまでかかっている。その前髪のすきまから、鳶色の目だけが、街道の土を見ていた。
荷馬車が一台、通りすぎていったばかりだった。
轍の深さ。左右の車輪の沈みかたの違い。馬の蹄の跡の、間のあきかた。子どもは、それをひとつずつ目でなぞっていった。
馬は二頭。片方の左の後ろ脚の蹄鉄が、すり減っている。轍は深く、右の車輪のほうが沈んでいる。重いものは、右の奥に積まれている。
子どもは、草の中を音もなく這いもどった。
森の奥の、崩れた炭焼き小屋の陰に、男たちがたむろしていた。焚き火のまわりで、昼間から酒の匂いをさせている。
「目か。どうだった」
片方の耳がちぎれた大男が、顎をしゃくった。賊の頭だった。
子どもは、見たとおりのことを、短く告げた。馬が二頭。重い荷は右の奥。左の後ろの馬は、蹄鉄がすり減っていて、坂で脚が遅くなる。
頭は、にやりと笑った。
「よし。峠の下で待ち伏せる」
男たちが、剣と縄を手に立ちあがっていった。
腰を上げかけた男のひとりが、ふと思いだしたように言った。
「頭。近ごろ、黒い外套の連中が、このあたりの村をうろついてるって話ですぜ」
頭の顔から、笑みが消えた。
「黒騎士か」
その名前を口にしたとたん、焚き火のまわりの空気が、ひやりと冷えたのが分かった。酒で赤らんでいた男たちの顔から、色が引いていく。
「いいか。黒い外套を見たら、荷も仲間も放りだして逃げろ。あいつらに捕まったら、それで終わりだ」
黒騎士。
子どもは、その言葉を、黙って覚えた。荒くれ者ぞろいの男たちが、名前を聞いただけで顔色を変える相手。黒い外套。それが、この森でいちばん恐ろしいものの姿なのだと、覚えておいた。
子どもは、焚き火のそばに残された鍋をのぞいた。底に、焦げついた豆が、ほんのひとすくいこびりついているだけだった。子どもは、木の匙で、その焦げを黙ってこそげとった。
賊たちは、子どもを名前で呼ばなかった。
目、と呼んだ。蹄の跡を読む目。人の気配を嗅ぎつける目。暗い家の中で、どこに金があるかを見つける目。役に立つのは目だけで、ほかには何の値打ちもない、とでもいうように。
子どもは、それで構わなかった。
目が役に立つあいだは、殴られる数が少なくてすむ。鍋の底の焦げを、こそげさせてもらえる。
自分の本当の名前を、子どもは、もう覚えていなかった。
ただ、ずっと昔、どこかの、煙の匂いのする家で、誰かが自分を呼んでいた声だけが、耳の奥にかすかに残っていた。
ディー、と。
* * * * * *
夜明け前に、森が燃えた。
炭焼き小屋のまわりを、いつのまにか、たくさんの灯りが取り囲んでいた。鎧をつけた兵たちと、その先頭に、黒い外套の男たち。
黒騎士だ。
頭が、あれほど恐れていた黒い外套だった。誰かが叫び、誰かが剣を抜き、焚き火の残り火が蹴散らされて、乾いた落ち葉に燃え移った。
子どもは、真っ先に逃げた。
逃げるのは得意だった。足音を立てずに、木の根を踏まずに、煙の流れていく向きと逆へ。賊たちの怒号と、剣のぶつかる音を背中に聞きながら、斜面を転がるように駆けおりた。
森を抜けたところで、街道に出た。
そこに、兵がいた。
鎧をつけた、若い一般兵だった。煤で真っ黒な顔の中で、目だけが、血走って光っていた。
子どもは、きびすを返そうとした。
襟首をつかまれた。地面に叩きつけられる。背中を膝で押さえつけられて、息ができなくなった。
「こいつも、仲間か」
兵の声が、震えていた。
子どもの顔の前の土に、兵の剣先が突き立てられた。刃に、黒く乾いた血がこびりついていた。
「ラースを、殺しやがった」
兵は、子どもに向かってではなく、誰か別の者に向かって吐き捨てるように言った。
「先週、この街道で、荷を守ってたラースを、こいつらが。……あいつ、まだ十九だったんだぞ」
剣が、土から引き抜かれた。
振りあげられた刃が、夜明けの薄明かりを受けて、白く光った。
「盗賊の子は、盗賊だ」
子どもは、目を閉じなかった。
閉じたところで、何も変わらないことを知っていた。最後まで、刃の行方を見ていた。それだけが、自分にできることだった。
刃が、振りおろされた。
鉄と鉄のぶつかる音が、耳を裂いた。
子どもの頭の上で、刃が止まっていた。横から差しこまれた、もう一本の剣が、兵の剣を受けとめていた。
子どもは、首をねじって見上げた。
黒い馬の上に、黒い外套の男がいた。
四十を過ぎたくらいの男だった。日に焼けた顔に、細かな皺が刻まれている。男は、片手で手綱を握ったまま、もう片方の手の剣で、兵の刃を軽々と押さえこんでいた。
「取り押さえた者を斬るのは、騎士の仕事ではない」
男の声は、怒鳴り声ではなかった。それなのに、兵の腕から、すうっと力が抜けていくのが分かった。
「……縄なんか、かけてません」
「なら、かければいい」
男は、剣をおさめると、馬から降りた。腰の革袋から縄を出し、兵の手に押しつける。
兵は、しばらく縄を握りしめたまま立ちつくしていた。やがて、歯を食いしばったまま、子どもの手首に縄をかけた。結び目は、痛いほどきつかった。
兵の名は、フーゴといった。あとで、そう聞いた。
縄をかけ終えたフーゴの目は、まだ子どもを離れなかった。その目にあったのは、子どもに向けたものだけではない、もっと大きな、行き場のない何かだった。
* * * * * *
日が昇るころには、森の火は消しとめられていた。
捕らえられた賊たちが、街道の脇に、縄でつながれて座らされていた。その列の端に、子どもも座らされていた。
賊の頭の姿は、なかった。
黒い外套の男たちが、街道の上で、何かを話しあっていた。逃げた賊がいる。頭と、その取り巻きが何人か。森のどこへ消えたのか、跡がつかめない。
子どもは、地面を見ていた。
街道の土の上に、まだ新しい蹄の跡が、いくつも重なっていた。黒騎士たちの馬の跡と、兵たちの足跡が、その上を踏み荒らしている。それでも、子どもの目には、その下に埋もれた跡が、はっきりと見えた。
「……四頭」
子どもの口から、勝手に言葉がこぼれていた。
黒い外套の男たちが、振りかえった。
あの男が、子どもの前まで歩いてきて、しゃがみこんだ。
「今、何と言った」
子どもは、ためらった。
喋れば、仲間を売ることになる。喋らなければ、ここで殺されるかもしれない。仲間といっても、鍋の底の焦げしかくれなかった男たちだった。
子どもは、顎で地面を示した。
「四頭。いちばん後ろの一頭は、銀を積んでて、重い。……蹄の跡が、ほかのより深い」
男の目が、地面に落ちた。
「どっちへ行った」
「沢のほう。水の中を歩いて、跡を消すつもりだ。……沢を下った先の、岩の割れ目に、隠れ場所がある」
男は、しばらく子どもの顔を見ていた。
日に焼けた顔の中で、灰色の目が、子どもの目の奥まで見通すように細められた。
男は立ちあがると、部下の黒騎士たちに短く命じた。何人かが、沢のほうへ馬を走らせていった。
昼を過ぎたころ、黒騎士たちが戻ってきた。縄でつながれた男が四人。その先頭に、耳のちぎれた賊の頭がいた。
頭は、街道の端に座らされた子どもの姿を見つけると、血走った目で唾を吐いた。
子どもは、目をそらさなかった。
日が傾くころには、捕らえた賊たちの取り調べが済んでいた。子どもは、荷を襲うときにも、人を手にかけるときにも、その場にいなかった。見張りと下働きだけをさせられていたことが、賊たち自身の口から分かった。
身寄りのない子どもを、どこへ送るか。兵たちが話しあいはじめたとき、あの男が、子どもの前に、ふたたびしゃがみこんだ。
「お前の目は、本物だな」
男はそう言うと、立ちあがった。部下たちのほうへ向きなおる。
「この子は、俺が預かる」
黒騎士たちが、顔を見あわせた。
兵たちの列の中から、フーゴが一歩、前へ出た。
「お待ちください。そいつは、賊の一味です。ラースを殺した連中の――」
「この子が、殺したのか」
ハインリヒの問いに、フーゴは答えられなかった。
口を開きかけて、閉じた。この子どもが剣を握っていたところを、誰も見ていない。見たのは、街道の草むらから荷を見張っていた細い背中と、逃げていく小さな足だけだった。
フーゴは、うつむいた。脇に下ろした両手が、拳の形に固まったまま、小刻みに震えていた。
仲間を殺した賊の一味が、裁きも受けずに、黒騎士の隊長に引き取られていく。その理不尽をぶつける先が、どこにもない。子どもに剣を振りあげて止められた自分が、何を言っても、ただの八つ当たりにしかならないことも、分かっているのだろう。
子どもは、その震える拳を見ていた。
あの兵が憎んでいるのは、自分ひとりではない。それだけは、子どもにも分かった。
* * * * * *
男の名は、ハインリヒ・ブラントといった。黒騎士一番隊の隊長だった。
王都の騎士団の宿舎に連れてこられた子どもは、厩のわきの、藁を敷いた小部屋をあてがわれた。
その夜、ハインリヒが、パンとスープを持って小部屋へやってきた。
子どもは、パンをひったくるように取ると、壁ぎわに背中をつけて、両腕で抱えこむようにして食べた。誰かに取りあげられる前に、口に詰めこまなければならない。そうやって、生きてきた。
ハインリヒは、何も言わずに、子どもが食べ終わるのを待っていた。
「名前は」
子どもは、口の中のパンを飲みこんだ。
「……目」
「それは、名前ではない」
ハインリヒは、藁の上にあぐらをかいた。
「誰かに、名前で呼ばれたことはないか。どんなに小さいころでもいい」
子どもは、黙っていた。
長いあいだ、黙っていた。
やがて、耳の奥に残っていた、あの声を思いだした。煙の匂いのする家で、誰かが自分を呼んでいた声。
「……ディー」
ハインリヒは、その音を、口の中で転がすように繰りかえした。
「ディー、か。なら、ディーターだ。どうだ」
子どもは、答えなかった。答えかたが、分からなかった。
「名字は、ないのだろう」
ハインリヒは、しばらく考えるように、小部屋の天井を見上げた。
「ブラントでいい。俺の名だ。貸してやる」
子どもは、目をまるくした。
「返すときは、利子をつけて返せ。今のお前では、とても払えんだろうがな」
ハインリヒは、目尻の皺を深くして笑った。
その夜、子どもは、藁の上で、自分の新しい名前を、声に出さずに何度も繰りかえした。
ディーター・ブラント。
自分のものではない名前を、借りものの外套のように、そっと胸の上にかけて眠った。
* * * * * *
ディーターは、厩の手伝いとして暮らしはじめた。
馬の世話は、すぐに覚えた。蹄の裏の石をかきだし、蹄鉄の減りかたを見て、どの馬がどの脚をかばって歩いているのかを言いあてた。年寄りの厩番が、驚いて口をあけた。
宿舎に来て十日ほどたったころ、ディーターは、厨房の籠から、パンをひとつ盗んだ。
腹が減っていたわけではなかった。毎日、決まった時刻に、決まった量の食事が出る。なのに、手が勝手に動いた。誰も見ていない籠があれば、盗る。そうしなければ、明日食べるものがない。体が、まだそう覚えていた。
パンを抱えて小部屋へ戻ると、入り口に、ハインリヒが立っていた。
ディーターは、立ちすくんだ。
殴られる、と思った。賊の頭なら、まず拳が飛んでくる。
ハインリヒは、殴らなかった。
ディーターの手からパンを取りあげることも、怒鳴ることもしなかった。ただ、「来い」とだけ言って、歩きだした。
連れていかれたのは、厨房だった。
ハインリヒは、厨房をあずかる太った料理番の前に、ディーターを立たせた。
「この子が、籠のパンをひとつ持っていった。……ディーター」
ディーターは、うつむいたまま、パンを差しだした。
喉の奥に、言葉がつかえて出てこなかった。誰かに頭を下げたことなど、一度もなかった。
ハインリヒは、何も言わずに待っていた。
「……盗りました」
ようやく、それだけが出た。
料理番は、ディーターとハインリヒの顔を見比べて、太い腕を組んだ。
「裏の薪を、明日の朝までに割っておきな。それで、このパンの分だ」
その夜、ディーターは、月明かりの下で薪を割った。斧は重く、手のひらの皮がむけた。ハインリヒは、厩の柵にもたれて、最後まで黙って見ていた。
薪を割り終えたとき、空は白みかけていた。
料理番が、裏口から顔を出した。焼きたてのパンを、ひとつ、ディーターの手に押しつけた。
「割った分だよ。盗んだ分じゃない」
ディーターは、そのパンを、壁ぎわにうずくまらずに食べた。
* * * * * *
ハインリヒは、ときどき、ディーターを馬に乗せて、王都の外へ連れだした。
街道に下り、土の上の跡を、一緒に読んだ。
「この跡は、何頭だ」
「三頭。真ん中の一頭は、年寄りの馬だ。脚をひきずってる」
「その馬の乗り手は、どうしている」
ディーターは、首をかしげた。乗り手のことなど、考えたことがなかった。
ハインリヒは、跡の横にしゃがみこんだ。
「年寄りの馬を、急がせずに歩かせている。ほかの二頭も、それに合わせて足を緩めている。……仲間を置いていかない連中だ」
ディーターは、跡を見なおした。
同じ跡だった。それなのに、さっきとは、まるで違うものが見えた。
「お前の目は、よく見える」
ハインリヒは、立ちあがって、膝の土を払った。
「賊のところでは、その目で、奪う相手を探していた。同じ目で、守る相手を探すこともできる。何を探すかは、目ではなく、お前が決めることだ」
別の日、ハインリヒは、腰の革袋から、指ほどの長さの小さなナイフを取りだして見せた。
「しるし、と呼んでいる」
刃に塗られた毒が、人の肌を、ひと月は消えない色に変えるのだという。
「逃がした相手に、これで印をつけておく。どこへ逃げても、あとで必ず見つけだせるように」
ハインリヒは、ナイフの刃を、陽にかざした。
「見つけだせなかった者は、また、どこかで誰かから奪う。だから、逃がしても、終わりにはしない」
ディーターは、その小さな刃から、目が離せなかった。
自分は、あの日、逃げきれなかった。印をつけられるまでもなく、捕まった。
捕まって、よかったのかもしれない。
そう思ったのは、そのときが初めてだった。
「……それの使いかたを、教えてほしい」
気がつくと、口が勝手に動いていた。
ハインリヒは、ナイフを鞘におさめて、首を横に振った。
「これは、黒騎士の技だ。剣の振りかたや馬の扱いなら、誰にでも教えてやれる。これだけは、黒い外套を着た者にしか教えられん」
ハインリヒは、革袋の口を閉じた。
「知りたければ、ここまで来い」
ディーターは、閉じられた革袋を、じっと見ていた。
その夜、藁の上で、ディーターは眠れなかった。目を閉じると、陽にかざされた小さな刃が浮かんだ。逃がした者を、終わりにしないための刃。黒い外套を着た者だけが、それを持つことを許される。
賊の焚き火のそばで、あれほど恐ろしいと聞かされていた黒い外套が、そのとき初めて、ディーターの中で、違う色を帯びはじめた。
* * * * * *
年が過ぎた。
ディーターの背は、思ったほどは伸びなかった。厩の若い者たちの中でも、肩ひとつぶん低い。かわりに、足は誰よりも速く、山道を駆けあがっても息を切らさなかった。耳がやっと隠れるくらいの黒い髪は、櫛を入れても、すぐに風に乱れる。前髪だけが、いつも額に落ちて、目もとにかかっていた。その前髪の下で、細い顎と、こけた頬の線だけが、少年のころより鋭くなった。
鳶色の目は、相変わらず、何かを見るときに、まず横目で周りをうかがった。人の顔を正面からまっすぐ見るより先に、その人の足もとと、背後と、逃げ道を確かめてしまう。賊のもとで身についた癖は、なかなか抜けなかった。
成人を迎えた春、ディーターは、一般兵に志願した。
配属された隊に、フーゴがいた。
あの日より、ずっと逞しくなっていた。顔つきも、もう少年のものではなかった。今では隊の古参として、若い兵たちの当番を割り振る役を任されていた。
フーゴは、ディーターの顔を見た瞬間に、誰なのかを分かったようだった。何も言わなかった。ただ、その目が、あの街道の朝と同じ色に変わった。
それからのフーゴは、ディーターに、いちばん嫌な役ばかりを回した。
雨の夜の見張り。厠の始末。いちばん重い荷運び。隊の誰もがやりたがらないことを、フーゴは、決まってディーターに押しつけた。
「盗賊の子には、似あいの仕事だろう」
聞こえよがしに、そう言うこともあった。
ディーターは、何も言いかえさなかった。
言いかえす言葉を、持っていなかった。フーゴが、誰を失ったのか、知っていたからだった。黙って見張りに立ち、黙って荷を運んだ。
その年の秋、隊は、山奥に逃げこんだ賊の残党を追うことになった。
霧の深い朝だった。
山道の分かれ目で、フーゴが先頭に立って、谷へ下りる道を選んだ。地面には、賊の馬のものらしい蹄の跡が、谷の奥へ続いていた。
ディーターは、隊の最後尾から、その跡を見ていた。
足が、止まった。
跡が、きれいすぎる。
追われて逃げる馬の跡は、乱れる。足を取られ、石を蹴り、どこかで必ず歩幅が狂う。この跡には、それがひとつもなかった。まるで、わざと歩かせたように、行儀よく谷の奥へと並んでいる。
谷の上から、風が吹きおりてきた。
その風に、かすかに、馬の汗の匂いが混じっていた。谷の奥からではない。谷を見下ろす、両側の崖の上から。
ディーターは、列を駆けぬけた。
先頭のフーゴの腕を、うしろからつかんで、力いっぱい引き戻した。
「下りるな」
フーゴが、振りかえった。顔が、怒りで赤くなった。
「何を――」
その言葉が終わる前に、谷の両側の崖の上から、岩が落ちてきた。
ついさっきまでフーゴが足を踏みだそうとしていた谷の道に、岩が次々と叩きつけられた。土煙が上がり、崖の上で、賊たちの怒号が響いた。
隊は、ディーターの指さした尾根道へ回りこみ、崖の上の賊たちを、うしろから取り押さえた。
* * * * * *
その夜、野営の焚き火の前で、フーゴがディーターの隣に腰を下ろした。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
薪がはぜる音だけが、ふたりのあいだを埋めていた。
「……ラースは、俺と同じ村の生まれだった」
フーゴが、焚き火を見つめたまま、口を開いた。
「ガキのころから、ずっと一緒だった。一緒に兵になって、一緒に、あの街道の荷を守ってた」
ディーターは、黙って聞いていた。
「あの朝、お前を斬ろうとしたとき、俺は、お前を見てなかった。ラースを殺したやつらを、見てた」
フーゴは、手の中の木の枝を、焚き火の中へ放りこんだ。
「縄をかけてから、ずっと、恥ずかしかった。子どもに剣を振りあげた自分が。……それを認めたくなくて、お前に当たった」
炎が、フーゴの横顔を、赤く照らしていた。
「今日、お前に引き戻されなかったら、俺は、あの谷で死んでた」
フーゴは、ようやく、ディーターのほうを向いた。
「助かった。……ディーター」
フーゴに名前を呼ばれたのは、それが初めてだった。
ディーターは、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
かわりに、自分の分の干し肉を半分に裂いて、フーゴの手に押しつけた。フーゴは、少しのあいだそれを見つめていたが、やがて、黙って口に運んだ。
* * * * * *
ディーターが黒騎士の選抜に通ったのは、それから二年後の春だった。
そのころ、ハインリヒは、もう騎士団にいなかった。古い傷が悪くなり、馬に長く乗れなくなって、隊長を退いていた。今は、北の生まれの村で、小さな畑を耕して暮らしているという。
黒い外套が渡されたその日のうちに、ディーターは馬を走らせた。
北の村は、山のふもとの、雪解け水の流れる小さな村だった。教えられた家の前で、ディーターは馬を降りた。
戸口に、ハインリヒが立っていた。
髪は、ほとんど白くなっていた。杖をついていた。日に焼けた顔の皺は、あのころよりずっと深くなっていた。
ディーターは、黒い外套の裾を握りしめたまま、何も言えなかった。
言いたいことは、山ほどあった。名前のこと。パンのこと。蹄の跡のこと。陽にかざされた、小さな刃のこと。どれも、喉の奥で絡まって、ひとつも出てこなかった。
ハインリヒは、杖をついたまま、ゆっくりとディーターの前まで歩いてきた。
外套の裾を、指でつまんで、軽く引っぱった。
「似合わんな」
目尻の皺が、深くなった。
ディーターは、うつむいた。うつむいたまま、腰の革袋から、小さなナイフを取りだした。
黒い外套と一緒に、その朝、渡されたばかりのものだった。指ほどの長さの、小さな刃。使いかたも、手入れのしかたも、これから黒騎士として教わることになる。
鞘から抜いて、刃を見せた。
あの日、陽にかざされて見せられたのと、同じ形の刃だった。
ハインリヒは、その刃を、長いあいだ見ていた。
何も言わなかった。
ただ、ディーターの肩に手を置いて、一度だけ、強く叩いた。
その手の重さで、ディーターには、十分だった。
* * * * * *
帰り道、ディーターは、北の村から南へ下る街道で、馬を止めた。
ぬかるんだ土の上に、蹄の跡が残っていた。
二頭。片方は荷を引いている。もう片方は、子どもを乗せているのだろう、ときどき道の端の花のほうへ寄り道をしている。乗り手は、それを急かさずに待っている。
考えるより先に、目が読んでいた。
あのころは、この目で、奪う相手を探していた。
ディーターは、跡から目を上げた。
借りものの名前は、まだ返せそうになかった。利子どころか、元の分さえ、払いきれていない。
それでいい、と思った。
一生かけて、返していけばいい。
ディーターは、黒い外套の襟を立てると、王都へ続く街道へ、馬を進めた。




