【Another Page】イェンス・ミュラー ―名を呼ばれる前に―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、黒騎士イェンス・ミュラーのお話です。
二番隊で荷の番ばかりを任されていた黒騎士が、若い隊長の率いる三番隊に迎えられるまでの一頁です。
「ミュラー。おまえは、いつもどおり馬と荷の番だ」
出立の朝、二番隊の厩舎の前で、コンラート・ヴァイスは、赤い髭をしごきながら言った。
イェンスは、黙って頭を下げた。
いつもどおり、だった。
二番隊の黒騎士になって、もう五年が経つ。そのあいだに、隊長は替わった。イェンスを黒騎士の道へ引きこんだアンゼルムは、古傷の膝で馬に乗れなくなり、三年前に剣を置いた。二番隊を引き継いだのは、長く隊の古株だったコンラートだった。
コンラートは、腕の立つ男だった。部下を生きて連れ帰ることにかけては、誰にも引けを取らないと自負している。イェンスの針の腕も、誰より買っていた。
だからこそ、コンラートは、イェンスを決して前に出さなかった。
医者は、後ろにいてこそ役に立つ。前に出して死なせたら、そのあと誰が仲間の傷を縫うのか。それが、コンラートの口癖だった。おかげでイェンスは、この三年、剣を抜く場所から遠く離れた後ろで、荷と馬と、運ばれてくる怪我人ばかりを待っていた。
「今度の掃討は、三番隊との合同だ」
コンラートは、厩舎の向こうに目をやった。
三番隊の黒騎士たちが、馬の支度をしていた。その中心に、淡い金の髪の若い男が立っている。朝の光の中で、その横顔は、彫りあげたように整っていた。
ジェフリー・ハルセリン。
半年前、二十歳で三番隊の隊長に任じられた男だった。イェンスより、五つも年下になる。黒騎士の中でいちばん若い隊長で、口数が少なく、愛想というものをどこかへ置き忘れてきたような顔をしている。氷の騎士、と陰で呼ぶ者もいた。
「あの若造の隊は、人手が足りんらしい。うちからも、数を出せと言ってきた」
コンラートは、鼻を鳴らした。
「おまえを貸してやる。ただし、後ろにいろ。前には出るな。怪我人が出たら、縫ってやれ」
* * * * * *
賊の隠れ家は、東の尾根の奥にある、打ち捨てられた村のどこかだという。
三番隊は、尾根の手前の峠で、賊の見張りをひとり捕らえた。賊の頭目に近い男だった。目つきの鋭い、顎に古い刀傷のある男で、縄をかけられてからも、黒騎士たちを嘲るように笑っていた。
峠の山小屋の前で、焚き火が焚かれた。
イェンスは、言いつけどおり、小屋の裏で馬の番をしていた。板壁の隙間から、表のやりとりが聞こえてくる。
男は、何を問われても、口を割らなかった。
隠れ家の場所を言わなければ、日が暮れる。日が暮れれば、賊は、捕らえた見張りが戻らないことに気づいて、隠れ家を移すだろう。
焚き火の爆ぜる音の中に、若い声が落ちた。
「白い茶を使う」
小屋の表の空気が、すっと冷えたのが、板壁ごしにも分かった。
「隊長」
三番隊の黒騎士のひとりが、何か言いかけた。くすんだ金の髪の、軽い口ぶりの男だった。
「ヴァレン。湯を沸かせ」
それきり、誰も何も言わなかった。
イェンスは、板壁の隙間に目を寄せた。
ジェフリーが、腰の革袋から、燻した葉を取りだしていた。煮立った鍋の上で、少しのあいだ、手が止まった。葉の量を、思い出そうとしているような間だった。
ジェフリーは、葉を鍋に落とした。
板壁の隙間からでは、鍋の中までは見えなかった。ただ、イェンスの胸の奥が、かすかにざわついた。
鍋の湯が、白く濁っていく。
木の器に注がれた茶を見た瞬間、イェンスの背筋が、ひやりとした。
白すぎる。
濁った湯の色ではなかった。乳をそのまま注いだような、どろりと重たい白だった。湯の量に対して、葉がほとんど倍入っている。
イェンスは、馬の手綱を杭に叩きつけるように結ぶと、小屋の表へ駆けだしていた。
角を曲がったとき、器は、もう男の口に押し当てられていた。顎をつかまれた男の喉が、ごくり、ごくりと、続けざまに動いていた。
「止めてください!」
三番隊の黒騎士たちが、いっせいに振りかえった。見慣れない顔に、何人かが眉を寄せた。器を持っていた黒騎士の手が、止まった。中身は、まだ三分の一ほど残っていた。
イェンスは、まっすぐジェフリーの前へ進みでた。
「二番隊のミュラーです。その茶は、濃すぎます。それ以上飲ませたら、心の臓がもちません」
ジェフリーの青い目が、イェンスを見た。
その目が、器の中の白に移った。
ジェフリーは、器を持つ部下に、手のひらを向けた。黒騎士が、器を地面に置いた。
それでも、男の喉を通った量だけで、効き目は十分すぎた。
男は、しばらくのあいだ、黒騎士たちをにらみつけていた。やがて、その目の焦点が、ゆらりとずれた。
男の口から、言葉があふれ出した。隠れ家のある村の名前。見張りの数。抜け道の場所。黒騎士たちが、それを手早く書きとめていく。
そのあいだにも、男の顔色は、みるみる悪くなっていった。唇が紫に変わり、息が、浅く、速くなっていく。縄で縛られた手足の先が、細かく痙攣を始めた。
「……どうすればいい」
ジェフリーの問いは、短かった。
イェンスは、男のそばに膝をついた。
首筋に指を当てる。脈が、指の下で、狂ったように跳ねていた。丸めた布を男の口に噛ませた。押さえていた黒騎士たちに、肩ではなく、縄の上から腕だけを押さえるように頼む。男を焚き火から遠ざけ、毛布をかけた。
外套の内側から、帳面を取りだした。
革の表紙はすっかり擦りきれて、角が丸くなっている。イェンスは、新しい頁を開いて、刻限を書きつけた。脈の速さ。唇の色。痙攣が始まった刻限。
背後に、人の立つ気配がした。
ジェフリーだった。イェンスの肩越しに、帳面をのぞきこんでいる。
「量が、多かったのか」
イェンスは、脈を数える指を止めずに答えた。
「湯の量に対して、倍ほどでした」
ジェフリーは、しばらく黙っていた。
焚き火のまわりに立つ三番隊の黒騎士たちが、息をひそめて、自分たちの隊長を見ていた。
「俺の間違いだ」
ジェフリーは、そう言った。
部下たちの前で、言い訳ひとつ挟まなかった。
イェンスは、ちらりと、ジェフリーの手を見た。外套の脇に下ろされた右の拳が、白くなるほど握りしめられていた。顔には、何ひとつ浮かんでいない。それなのに、その拳だけが、細かく震えていた。
氷の騎士。
そう呼ばれている男の拳を、イェンスは、少しのあいだ見つめていた。
* * * * * *
夜明け前に、黒騎士たちは、尾根の奥の廃村を襲った。
男の口から聞きだした抜け道は、本物だった。眠りこんでいた賊たちは、ろくに剣を抜く間もなく、次々と取り押さえられていった。
イェンスは、廃村の入り口で、捕らえた男を見張っていた。男は、白い茶の効き目が抜けたあとの痛みの波に、毛布の下で呻いていた。白い茶を飲ませてから、六時間はとうに過ぎている。出立の前に飲ませておいた熱さましの薬草が、ようやく効きはじめたのか、呻き声は、夜半よりいくらか細くなっていた。
廃村の奥で、誰かが叫んだ。
「ケラーがやられた!」
イェンスは、立ちあがっていた。
三番隊の黒騎士がふたり、ひとりの若い黒騎士を両脇から抱えて、廃村の小道を駆けてきた。ケラーと呼ばれた若い黒騎士は、太腿を押さえていた。指のあいだから、血があふれ出ていた。物陰に隠れていた賊に、斬りつけられたのだという。
そのあとから、ジェフリーが走ってきた。
「山を下りれば、半日かかる」
ジェフリーの声は、乾いていた。その半日を、この傷はもたない。誰もが、それを分かっていた。
イェンスは、ケラーを地面に寝かせた。
「押さえていてください」
ジェフリーが、ケラーの肩を押さえた。くすんだ金の髪の黒騎士、ヴァレンが、脚を押さえた。
イェンスは、腰の革の包みを開いた。使いこまれた小刀と、細い針と、糸の束。灰岩の砦を発つ朝に、老軍医から譲られた道具だった。
太腿の付け根を、革紐できつく縛った。傷口を水で洗う。ケラーが、喉の奥で呻いた。
「痛いのは、生きている証です。もう少しだけ、我慢してください」
イェンスは、針に糸を通した。
ひと針、ひと針。
夜明けの薄い光の中で、針が、傷口を閉じていく。ケラーの呻き声が、やがて、荒い息に変わっていった。
最後の糸を切ると、イェンスは、太腿の付け根の革紐に指をかけた。少しずつ、ゆるめていく。
縫い目を、じっと見つめた。
にじみ出てくる血は、もうなかった。
イェンスは、ケラーの首筋に指を当てた。
脈は、弱かった。それでも、途切れずに打っていた。
イェンスは、帳面を開いて、刻限を書いた。ケラーの名前を書いた。傷の場所と、長さと、縫った針の数を書いた。
顔を上げると、ジェフリーが、イェンスの手もとを見ていた。
血に濡れた針を。帳面を。
その青い目が、何を考えているのか、イェンスには分からなかった。
* * * * * *
王都に戻って三日後、イェンスは、コンラートに呼びだされた。
二番隊の隊長室の扉を開けると、コンラートは、机の上の書類に何かを書きつけているところだった。
その向かいに、ジェフリーが立っていた。
コンラートは、ペンを置いて、赤い髭をしごいた。
「ハルセリンが、おまえを三番隊に寄越せと言ってきた」
イェンスは、すぐには言葉が出なかった。
コンラートは、ジェフリーのほうへ顎をしゃくった。苦いものでも噛んだような顔だった。
「医者を前に出して、何になる。剣の鈍いやつが前に出れば、真っ先に死ぬ。死んだら、そのあと誰が仲間を縫う。俺は、そう言ってやった」
ジェフリーは、何も言いかえさなかった。机の向こうで、まっすぐに立ったままだった。
「ところが、この若造は引かん」
コンラートは、忌々しそうに鼻を鳴らすと、机の上の書類をイェンスのほうへ押しやった。
「おまえが決めろ、ミュラー。後ろで待つか。前に出るか」
隊長室が、しんと静まった。
イェンスは、書類に目を落とした。
後ろで待つ。それが医者の仕事だと、灰岩の砦の老軍医も言っていた。正しい言葉だった。コンラートの言うことも、正しかった。
それでも、イェンスの指は、まだ覚えていた。泥の荷台の上で、いつまで待っても来なかった脈のことを。待っているあいだに、間に合わなくなった人たちのことを。
「三番隊へ、行かせてください」
コンラートは、しばらくイェンスの顔を見ていた。
「……好きにしろ」
ペンを取って、書類に名前を書きつける。印を押す手つきが、いつもより少し荒かった。
「剣の鈍いやつが前に出て、早死にしても知らんぞ」
ジェフリーは、コンラートが印を押すのを黙って見届けると、イェンスに向かって、短く言った。
「来い」
* * * * * *
二番隊の隊舎を出て、石畳の回廊を歩きながら、イェンスは、前を行くジェフリーの背中に問いかけた。
「なぜ、私なのですか」
ジェフリーは、足を止めなかった。
「三番隊は、腕の立つ者がいくらでも入りたがると聞いています。私は、剣が鈍い。二番隊の隊長がおっしゃったとおりです」
ジェフリーは、回廊の柱の陰で、ようやく足を止めた。
振りかえった顔は、相変わらず、何を考えているのか分からなかった。
「俺の隊は、五人ずつに分かれて、各地に散る」
ジェフリーは言った。
「行く先は、たいてい山の奥か、国境の外れだ。医者は、どこにもついて来ない」
イェンスは、黙って聞いていた。
いつか、どこかで聞いたような言葉だった。俺たちが行くのは、医者が来ないところですから。灰岩の砦の救護所で、鞍の糸で腕を縫った黒騎士が、笑いながらそう言っていた。
「それに」
ジェフリーは、少しのあいだ、言葉を探すように黙った。
「あの晩、俺は、人をひとり殺しかけた。白い茶を使うと決めたのは俺で、淹れたのも俺だ。おまえが止めなければ、あの男は死んでいた。おまえがいなければ、ケラーも助からなかった」
回廊を、冷たい風が吹きぬけていった。
「使うと決めるのは、これからも俺だ。それは、誰にも任せない」
ジェフリーは、イェンスをまっすぐに見た。
「だが、淹れるのは、おまえに頼みたい」
イェンスは、すぐには答えられなかった。
淹れるのは、おまえがやれ。
ずっと前に、別の隊長から、同じことを言われた。量を知っている者が淹れれば、死なずに済む者もいる、と。
目の前の若い隊長は、そんな言葉を知るはずもなかった。自分の間違いを、自分の口で認めて、その足で、ここまで来たのだ。
「……承知しました、ハルセリン隊長」
イェンスは、深く頭を下げた。
ジェフリーは、小さくうなずいた。踵を返して、また回廊を歩きだす。
その背中を、イェンスは追いかけた。
* * * * * *
三番隊の隊舎の一室で、イェンスは、少ない荷物をほどいていた。
薬草の袋。革の包み。着替えが数枚。そして、外套の内側の帳面。
扉が、軽く叩かれた。
顔を出したのは、くすんだ金の髪の黒騎士だった。廃村で、ケラーの脚を押さえていた男だ。
「よう、新入り。いや、新入りってほど若くもないか」
男は、勝手に部屋に入ってくると、窓辺に腰を引っかけた。
「ヴァレンだ。アルベルト・ヴァレン。隊長の、まあ、世話係みたいなもんだ」
「世話係、ですか」
「あの人、自分のことには、とことん無頓着だからな。誰かが見てないと、飯も抜く」
アルベルトは、窓の外の、三番隊の隊長室のあるほうへ目をやった。
「隊長、あの晩から、ずっと白い茶の本を読んでるよ。薬師の古い書きつけまで、どこからか借りてきてさ。もう二度と、量を間違えないようにって」
イェンスは、荷をほどく手を止めた。
「……そうですか」
「ああ。だから、あんたが来てくれて助かった。これで隊長も、少しは寝られる」
アルベルトは、窓辺から腰を上げると、扉のところで振りかえった。
「ケラーの脚、くっついたってよ。歩けるようになるまで、ひと月だそうだ。あいつ、あんたに礼を言いたいって、うるさいんだ」
扉が閉まった。
イェンスは、しばらく、閉じた扉を見ていた。
それから、外套の内側から帳面を取りだして、新しい頁を開いた。
いちばん上に、こう書いた。
――黒騎士三番隊。
その下に、ケラーの名前を書いた。傷がふさがりかけていること。歩けるようになるまで、ひと月。
書き終えて、イェンスは、ペンを持ったまま、しばらくその頁を眺めていた。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴りはじめた。
あの若い隊長は、まだイェンスを「ミュラー」と呼ぶ。騎士団では、隊長も隊員も、互いを家の名で呼びあうのが習いだった。
その若い隊長に、「イェンス」と呼ばれるようになるのは、もう少し先のことだった。




