【Another Page】イェンス・ミュラー ―白い茶を淹れる手―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、黒騎士イェンス・ミュラーのお話です。
砦の天幕で負傷兵を待つばかりだった、軍医を務める若い兵が、黒い外套をまとう道を選ぶまでの一頁です。
サルヴィアの春は、泥から始まる。
長い冬のあいだ山を覆っていた雪が、ある朝を境に、いっせいに溶けはじめる。尾根から流れ落ちた水は、道という道をぬかるみに変えた。荷馬車の車輪は泥に呑まれて、半日進んでも、隣の村にさえ着かないことがあった。
灰岩の砦は、そんな山のふもとにあった。
砦の中庭の隅に、白い帆布の天幕が三つ並んでいる。砦の救護所だった。中には、粗末な寝台が十ほど。薬草の匂いと、煮沸した布の湿った匂いと、それでも消しきれない血の匂いが、いつも天幕の中にこもっていた。
イェンス・ミュラーは、十九歳だった。
兵として志願し、この砦に配属されて、二年目の春になる。生まれは、砦から峠をひとつ越えた、ブナの谷の村だった。父はその村でただひとりの薬師で、イェンスは子どものころから、父の薬箱を馬に積んで、山に散らばる家を一軒ずつ回って育った。
その薬の心得を買われて、イェンスは、兵の身でありながら、砦の救護所で軍医の務めを任されていた。剣を握っている日より、針と薬草を握っている日のほうが、ずっと多かった。
外套の内側には、いつも、一冊の帳面が入っている。
革の表紙の角が、もうすっかり丸くなっていた。砦へ発つ朝に、村の羊飼いの娘がくれたものだった。
エルナという名前だった。
「イェンスは、何でも書いておきたがるでしょう。だから、これ」
そう言って、エルナは、自分で羊の毛を売って買ったという帳面を、イェンスの胸に押しつけた。冬のあいだに、何度も文をやりとりした。イェンスの字は堅苦しくて、まるで薬の処方を読んでいるみたいだと、エルナはいつも文句を書いてよこした。そういうエルナの字は、くせが強くて、イェンスは読み解くのにいつも苦労した。
この夏、休暇をもらって村に帰ったら、エルナを妻に迎えたいと、エルナの父親に願い出るつもりだった。
* * * * * *
その日の昼過ぎ、物見の塔から鐘が鳴った。
イェンスは、薬草を刻んでいた手を止めて、天幕の外へ飛びだした。
砦の門が開いて、荷馬車が二台、泥をはね上げながら入ってきた。荷台には、毛布をかけられた兵たちが、折り重なるように横たわっていた。峠の向こうの村々を荒らしていた賊を追って、三日前に砦を出ていった隊だった。
「怪我人だ! 軍医殿を!」
御者台の兵が叫んだ。
イェンスは、まだ止まりきらない荷馬車の車輪に足をかけて、荷台へ這いあがった。
いちばん手前に、若い兵が仰向けに寝かされていた。
パウルという兵だった。去年の冬、見張りの塔で耳を凍えさせて、救護所に運びこまれてきた。イェンスが耳に軟膏を塗ってやると、くすぐったいと言って、子どものように身をよじっていた。
その顔が、今は、蝋のように白かった。
脇腹に巻かれた布は、どす黒く濡れて、重たく垂れさがっていた。布の巻き方がゆるすぎる。これでは、血は止まらない。
イェンスは、パウルの首筋に指を当てた。
指の下で、脈がひとつ、弱く打った。
次の脈を、イェンスは待った。
いつまで待っても、それは来なかった。
背中のほうで、しわがれた声がした。
「間に合わなかったか」
救護所をあずかる老軍医、ベルトルトだった。白くなった眉の下の目で、荷台の上をひととおり見わたしている。
「道がこのありさまだ。運んでくるだけで、半日はかかる。こればかりは、どうにもならん」
ベルトルトは、生きている者から順に下ろせと、兵たちに指図を始めた。
荷馬車を下りた兵のひとりが、泥だらけの顔で、ベルトルトに報告していた。その声が、イェンスの耳に飛びこんできた。
「賊のやつら、俺たちが着く前に、ブナの谷を襲っていきやがった。家が三軒焼かれて、女と子どもが何人か、連れていかれたそうです」
イェンスの手から、帳面が落ちた。
荷台の板の上で、帳面の頁が、春の生ぬるい風にめくれていった。
* * * * * *
その晩、イェンスは、救護所を飛びだそうとした。
ベルトルトに、腕をつかまれた。
「峠を越えてどうする。賊の隠れ家がどこにあるかも分からんのに。おまえひとりが行って、何ができる」
「でも」
「隊が戻ってきたということは、追いきれなかったということだ」
ベルトルトの指は、老人とは思えないほど強かった。
「黒騎士に、知らせが行っている。待て」
イェンスは、その場に立ちつくした。
待つことしかできなかった。救護所の寝台で呻く兵たちの傷を縫い、薬を煎じ、包帯を巻きながら、その手が、ときどき勝手に止まった。帳面を開いても、ペンが動かなかった。
黒騎士が砦に来たのは、それから二日後の夜だった。
五騎だった。黒い外套は泥にまみれて、どれが黒で、どれが泥の色なのか、見分けがつかないほどだった。うちの一騎は、縄で縛った男をひとり、鞍の前に荷物のように積んでいた。
賊の一味だという。山のどこかに隠れ家があって、そこに、さらわれた女と子どもたちが閉じこめられている。その場所を、この男は知っている。
黒騎士を率いていたのは、アンゼルムという男だった。黒騎士二番隊の隊長だという。
四十に手が届くかという年格好の、痩せた男だった。頬がこけて、口数が少ない。中庭の篝火の明かりの中で、その目だけが、妙に静かに光っていた。
アンゼルムは、救護所の天幕に入ってくると、真っ先にイェンスに言った。
「部下の腕を診てくれ」
ひとりの黒騎士が、袖をまくって腕を差しだした。前腕に、長い切り傷が走っていた。その傷が、太い糸で、ざくざくと縫いあわされていた。
鞍を繕うための糸だった。
「馬の上で縫ったにしちゃ、上出来でしょう」
腕の持ち主が、けろりと言った。
イェンスは、黙って糸を切った。傷を洗い、薬を塗り、細い糸で、ひと針ずつ縫いなおした。縫い終えるまで、黒騎士は、ひと言も痛いとは言わなかった。
「医者ってのは、すごいもんですね。山の中じゃ、自分で縫うしかないんで」
「山の中には、医者はいないのですか」
「いるわけがないでしょう。俺たちが行くのは、医者が来ないところですから」
黒騎士は、笑いながら言った。
イェンスの手が、薬瓶の蓋を閉めたところで、止まった。
* * * * * *
中庭で、鍋が火にかけられていた。
篝火のそばに、捕らえた男が座らされている。両手を後ろで縛られ、黒騎士がふたり、両脇から肩を押さえていた。
もうひとりの黒騎士が、革袋から、黒ずんだ葉をつかみだした。燻したような、乾いた匂いのする葉だった。それを、煮立った鍋の中へ、ひとつかみ、無造作に放りこんだ。
鍋の湯が、みるみる白く濁っていく。
「あれは、何ですか」
天幕の入り口で、イェンスは、隣に立つアンゼルムに尋ねた。
「白い茶だ」
アンゼルムは、鍋から目を離さずに答えた。
「飲めば、口が軽くなる。隠しごとができなくなる。代わりに、身体が、何もかもを痛みとして拾うようになる」
白く濁った茶が、木の器に注がれた。男は顔をそむけて抵抗したが、顎をつかまれ、口の中へ流しこまれた。
しばらくは、何も起きなかった。
男は、地面に唾を吐いて、黒騎士たちをにらみつけていた。
やがて、その目の焦点が、ゆらりとずれた。額に、玉のような汗が噴きだした。肩を押さえていた黒騎士の手が、ほんの少し動いただけで、男は獣のような声を上げて、身体を跳ねあげた。
男の口から、言葉があふれ出した。
隠れ家のある谷の名前。見張りの数。さらってきた女たちを閉じこめている洞穴。問われるより先に、問われてもいないことまで、男は喉を引きつらせながら吐きだしていった。
「……羊飼いの娘が、いちばん手こずらせやがった。ガキどもを逃がそうとして、噛みつきやがって……」
イェンスの全身から、血の気が引いた。
男の顔色は、どんどん悪くなっていった。唇が紫に変わりはじめた。息が、浅く、速くなっていく。手足の先が、引きつけを起こしたように、細かく痙攣を始めた。
イェンスは、天幕の入り口から駆けだしていた。
「止めてください!」
黒騎士たちが、振りかえった。
イェンスは、男のそばに膝をついた。首筋に指を当てる。脈が、指の下で、狂ったように跳ねていた。
「これ以上は、心の臓がもちません。この男は、死にます」
アンゼルムが、イェンスを見下ろした。
「死なせるつもりはない。まだ、聞くことがある」
「なら、私に任せてください」
イェンスは、男の口に、丸めた布を噛ませた。舌を噛まないように。押さえていた黒騎士たちに、肩ではなく、縄の上から腕だけを押さえるように頼んだ。人の手が肌に触れるたびに、男の身体が跳ねるのが分かったからだ。篝火から男を少し遠ざけ、汗で冷えないように、毛布を一枚かけた。
脈を数えた。息を数えた。
帳面を開いて、刻限を書きつけた。飲ませた量。脈の速さ。唇の色。痙攣が始まった刻限。男が口走った言葉のひとつひとつ。
ペンを握る指に、力が入りすぎていた。紙が、ところどころ破れかけた。
この男が、エルナを連れていった。
この男を、今、自分が生かしている。
男が死ねば、隠れ家の場所は、もう誰にも分からなくなる。洞穴の中にいるエルナに、誰も辿りつけなくなる。
だから、イェンスは、男の脈を数えつづけた。
アンゼルムが、その手もとを、じっと見ていた。
「何を書いている」
「飲ませた量と、刻限と、身体に起きたことです」
イェンスは、ペンを止めずに答えた。
「次にこれを誰かに飲ませるとき、死なせずに済むように」
夜が更けるにつれて、男の脈は、少しずつ落ちついていった。口を割らせる効き目が薄れると、今度は、全身を焼かれるような痛みが、波のように男を襲った。
イェンスは、救護所の薬棚から、熱さましの薬草を持ちだした。煎じて飲ませた。
何も変わらなかった。
一刻待って、もう一度飲ませた。
やはり、変わらなかった。
イェンスは、そのたびに帳面に書いた。何も効かなかったことも、すべて。
明け方近くになって、三度目の煎じ薬を飲ませたとき、ようやく、男の顔から苦しみがわずかに引いていった。呻き声が細くなり、男は、浅い眠りに落ちていった。
イェンスは、帳面の頁をさかのぼって、指でなぞった。
白い茶を飲ませた刻限から、六時間。
それより前に飲ませた薬草は、何ひとつ効いていなかった。
イェンスは、その数字の横に、線を一本引いた。
* * * * * *
夜が明けると、黒騎士たちは、出立の支度を始めた。
イェンスは、馬に鞍をつけているアンゼルムの前に立った。
「私も、連れていってください」
アンゼルムは、腹帯を締める手を止めなかった。
「軍医が来るところではない」
「さらわれた者の中に、ブナの谷の娘がいます。羊飼いの娘です」
イェンスの声が、途中でかすれた。
「……私の、許嫁になるはずの人です」
アンゼルムの手が、腹帯の上で止まった。
しばらく、アンゼルムは何も言わなかった。それから、ゆっくりとイェンスに向きなおった。
「馬には乗れるのか」
「父の薬箱を積んで、子どものころから、山の家を一軒ずつ回っていました」
「剣は」
イェンスは、答えにつまった。
砦に来てから、剣の稽古は、兵として最低限のことしかしていなかった。
アンゼルムは、イェンスの沈黙から、答えを読みとった。
「剣の届かない者をひとり連れていけば、そいつを守るために、誰かの手がひとつふさがる。そのぶん、助けられる者が減る」
アンゼルムは、馬にまたがった。
鞍の上から、イェンスを見下ろす。
「その娘は、俺たちが連れて帰る。おまえは、ここで薬を煎じて待っていろ」
五騎の黒騎士が、泥をはね上げて、砦の門を出ていった。
イェンスは、その背中が見えなくなるまで、中庭の泥の中に立っていた。
* * * * * *
黒騎士たちが戻ってきたのは、二日後の夕暮れだった。
馬の背には、さらわれていた女たちと子どもたちが、ふたりずつ乗せられていた。どの顔も、泥と煤で真っ黒だった。
イェンスは、救護所の天幕から飛びだした。
一頭目の馬。二頭目の馬。下ろされる女たちの顔を、ひとりずつ確かめていった。知っている顔があった。村の粉屋の女房だった。その腕に抱かれた子どもも、知っている顔だった。
エルナの顔は、なかった。
最後の馬が、門をくぐってきた。
アンゼルムの馬だった。
アンゼルムは、黒い外套にくるんだものを、両腕に抱いて、ゆっくりと馬から下りてきた。
外套の端から、栗色の髪がこぼれていた。
細い腕が、だらりと垂れさがっていた。その手首には、イェンスが去年の秋に贈った、木の実を連ねた素朴な腕輪が、まだ巻きついていた。
イェンスの足が、泥に縫いとめられたように動かなくなった。
「洞穴で、子どもたちを先に逃がそうとして、見張りに斬られた」
アンゼルムが、イェンスの前で足を止めた。
「谷を出るまでは、息があった」
アンゼルムは、外套ごと、エルナを救護所の寝台に横たえた。
イェンスは、震える指で、エルナの脇腹に巻かれた布をほどいた。
傷は、深くはなかった。
少なくとも、命を落とすほどの深さではなかった。血の止め方さえ間違えなければ。もう半日早く、ちゃんとした手当てができていれば。
布の巻き方は、パウルのときと、同じだった。
イェンスは、エルナの頬に触れた。
冷たかった。春の泥よりも、ずっと冷たかった。
「谷を出るまで、名前を呼んでいた」
アンゼルムが、寝台の向こうで言った。
「イェンス、と」
イェンスの喉の奥から、声にならない音がもれた。
寝台の縁をつかんだ指が、白くなった。立っていられなくなって、寝台のそばに膝をついた。エルナの冷たい手を、両手で包んだ。
帳面を、取りだそうとした。
名前を書かなければ。刻限を書かなければ。傷の場所を。布の巻き方を。書いておけば、次の誰かが助かる。父に、そう教えられた。
外套の内側から引きだした帳面は、エルナがくれた帳面だった。
イェンスは、ペンを握った。
エルナの名前を書こうとして、ペン先を紙に下ろしたところで、手が止まった。
何度書こうとしても、ペンは動かなかった。ペン先にたまったインクが、紙の上に、黒くにじんで広がっていった。
アンゼルムは、長いあいだ、黙ってそこに立っていた。
篝火の爆ぜる音が、天幕の帆布ごしに聞こえた。
「おまえがいれば、助かったか」
イェンスは、エルナの手を握ったまま、顔を上げなかった。
「……助けられました」
答えた声は、ひどくかすれていた。
「半日早ければ。私が、そこにいれば」
アンゼルムは、しばらく黙っていた。
「なら、剣を覚えろ」
それだけ言って、アンゼルムは天幕を出ていった。
* * * * * *
エルナは、ブナの谷の、村を見下ろす丘の上に葬られた。
羊たちが草をはむ斜面の、いちばん日当たりのいい場所だった。エルナが、昔からいちばん好きだと言っていた場所だった。
その夜から、イェンスは、剣を振りはじめた。
昼のあいだは救護所で働き、夜、怪我人がみな眠ったあとで、中庭の隅に出る。兵舎から借りてきた刃引きの剣を、泥に足を取られながら、何百回と振った。
はじめのうちは、十回も振らないうちに腕が上がらなくなった。手のひらの皮がむけて、翌朝、薬草を刻む包丁を握るのにも苦労した。
ベルトルトは、何も言わなかった。
その代わり、中庭の隅の杭に、いつのまにかランタンがひとつ、吊るされるようになった。
夏が過ぎ、秋が来た。
黒騎士たちは、ときどき砦に立ち寄った。そのたびに、アンゼルムは、中庭の隅で剣を振るイェンスの前で足を止めた。何も言わずに、自分の剣を抜いて、イェンスの前に立つ。
イェンスは、一度も勝てなかった。
剣を弾き飛ばされ、泥の中に転がされた。そのたびに起きあがって、剣を拾った。アンゼルムは、イェンスが自分から剣を下ろすまで、相手をやめなかった。
冬が来て、また春が来た。
泥の季節がめぐってきたころ、イェンスは、黒騎士の選抜を受けた。剣の腕は、ぎりぎりで水準に届いた、というところだった。馬の扱いと、薬の知識が、それを補った。
砦を発つ朝、ベルトルトが、救護所の天幕の前で待っていた。
古い革の包みを、イェンスの胸に押しつける。開いてみると、使いこまれた小刀と、細い針と、糸の束が入っていた。ベルトルトが、若いころから使ってきた道具だった。
「おまえは、待てない医者だな」
ベルトルトは、眉の下の目を細めた。
「待てない医者は、早死にする。……せいぜい、長生きしろ」
イェンスは、包みを抱えて、深く頭を下げた。
* * * * * *
黒騎士になり、アンゼルムの率いる二番隊に加わって、はじめての任務の夜だった。
捕らえた男を前に、アンゼルムは、革袋をイェンスに渡した。白い茶の葉が入った袋だった。
「淹れるのは、おまえがやれ」
イェンスは、袋を手にしたまま、アンゼルムを見た。
「量を知っている者が淹れれば、死なずに済む者もいる」
イェンスは、袋の口を開いた。燻した葉の、乾いた匂いがした。
あの夜の匂いだった。
エルナを連れていった男の首筋で、狂ったように跳ねていた脈を、指先が覚えていた。あの男を憎みながら、それでも、生かさなければならなかった夜のことを。
イェンスは、帳面を開いた。葉の重さを量り、湯の量を量り、その数字を書きつけた。そのあとで、鍋を火にかけた。
白い茶を淹れる手が、毒の重さを知らなければ、人が死ぬ。
相手が誰であっても。
だから、自分が淹れる。
そう決めた夜から、イェンスの帳面には、名前と、刻限と、数字が、行をそろえて増えていった。
* * * * * *
それから、何度めかの春が来た。
峠の道は、今年も泥に沈んでいた。
山あいの岩陰で、イェンスは、若い黒騎士の腕を縫っていた。賊との小競りあいで、剣を受けそこねた傷だった。焚き火の明かりの中で、ベルトルトから譲られた細い針が、ひと針ずつ、傷口を閉じていく。
若い黒騎士は、歯を食いしばって、縫い目を見つめていた。
縫い終えて糸を切ると、若い黒騎士は、ようやく息を吐いた。腕を曲げ伸ばしして、目をまるくする。
「すごいもんですね。こんな山の中で、医者に縫ってもらえるなんて思わなかった」
イェンスは、針を革の包みにしまいながら、少しだけ口もとをゆるめた。
「医者が来ないところへ行くのが、黒騎士だからな」
その帰り道、イェンスは、ひとりで隊を離れた。
峠をひとつ越えれば、ブナの谷だった。
丘の上の斜面では、今年も羊たちが草をはんでいた。誰かが手入れをしているのだろう。小さな墓石のまわりには、春の花が、ささやかに咲いていた。
イェンスは、墓石の前に膝をついた。
外套の内側から、帳面を取りだした。表紙の革は、もう擦りきれて、ところどころ白くなっていた。中の頁も、残りわずかだった。
イェンスは、あの日の頁を開いた。
名前を書くはずだったところに、インクの黒いしみが、ひとつ広がっているだけだった。
あの日から、その頁の続きは、一度も書いていない。
頁をめくった。
次の頁にも、その次の頁にも、名前と、刻限と、数字が、行をそろえて並んでいた。白い茶を飲ませた男たちの名前。手当てをした仲間の名前。間に合わなかった者の名前。
そして、間に合った者の名前。
イェンスは、いちばん新しい頁に、さっき腕を縫った若い黒騎士の名前を書いた。傷の場所と、長さと、縫った針の数を書いた。その横に、小さく書き添えた。
――間に合った。
春の風が、丘の斜面を吹きのぼってきた。帳面の頁が、ぱらぱらとめくれていった。
くせの強い字で文句ばかり書いてよこした娘が、この帳面をくれたのだった。何でも書いておきたがるでしょう、と笑いながら。
イェンスは、帳面を閉じて、墓石にそっと手を当てた。
「まだ、書いている」
返事は、なかった。羊が一頭、遠くで鳴いただけだった。
イェンスは立ちあがった。帳面を外套の内側にしまい、丘を下りていった。
峠の向こうで、仲間たちが待っている。




