【Another Page】カスパー・ヴェント ―雪の夜の背負子―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、カスパー・ヴェントのお話です。
北の山の炭焼きの村で育った明るい少年が、黒い外套をまとう道を選ぶまでの一頁です。
サルヴィアの北の山では、冬になると、尾根のあちこちから細い煙が立ちのぼる。
炭焼きの窯の煙だった。秋に切りだした木を窯に詰め、土で口をふさいで、何日もかけてじっくりと焼く。焼きあがった炭は俵に詰めて、ふもとの町まで背負って下ろす。山の暮らしは、その繰りかえしでできていた。
「カスパーにいちゃん、また乗せて!」
窯の前で、子どもが三人、カスパー・ヴェントの脚にしがみついていた。
十四になったカスパーは、村のどの大人よりも背が高かった。日に焼けた丸い顔に、鼻の頭から頬にかけて、そばかすがいっぱいに散っている。見てくれのいい顔ではないことは、本人がいちばんよく知っていた。
「乗せてもいいけどな、条件がある」
カスパーは、空の背負子を地面に下ろしてしゃがみこむと、窯のそばに落ちていた炭のかけらを拾いあげて、平たい石の上に、何かを描きはじめた。
「俺がこれから描くもんが何か、当てたやつから乗せてやる。当てたら、干し芋もつけてやる」
子どもたちは、歓声を上げて石のまわりに群がった。
カスパーの太い指が、炭で、ぐいぐいと線を引いていく。丸がひとつ。その下に、もうひとつ。四本の棒。てっぺんに、とがった耳のようなもの。
「猫!」
「ちがう」
「豚だ!」
「ちがう」
「わかった、炭俵!」
「炭俵に耳はねえだろ。熊だよ、熊」
子どもたちは、石の上の熊をしげしげと見て、いっせいに笑いころげた。どこから見ても、熊には見えなかった。
カスパーも、一緒になって笑った。
「なんだよ、今日の熊は、けっこう上手く描けたと思ったんだけどなあ。しょうがない、全員、乗れ」
子どもたちは、我先にと背負子によじのぼった。
窯の番をしていた大人たちまで、つられて笑った。
カスパーは、気のきいたことを言える男ではなかった。人をほめるのも、相手の顔色を見て話を合わせるのも、得意ではなかった。腹が減れば「腹が減った」と言い、疲れれば「ああ、疲れた」と言い、うれしければ、顔じゅうで笑う。思ったことが、そのまま顔と口に出る。
それなのに、カスパーのまわりには、いつも人がいた。
気むずかしい窯の親方も、カスパーが「親方、今日の煙、いい色っすね」と言うと、口の端をほんの少しゆるめた。喧嘩をしていた大人どうしも、カスパーが間に入って「まあまあ、それより腹減りません?」と言うと、なぜか毒気を抜かれて、ふたりして笑いだした。
裏も表もない。この男の言うことは、言ったとおりの意味しかない。村の誰もが、それを知っていた。だから、カスパーの前では、誰もが少しだけ、肩の力を抜くことができた。
* * * * * *
ルッツがこの村に来たのは、その年の秋だった。
隣の尾根で窯を焼いている、ホルガーという炭焼きのところへ、ふもとの町から奉公に出されてきたのだ。八つになったばかりだという。親はいない、と、村の女たちが小声で話しているのを、カスパーは聞いた。
ルッツは、笑わない子どもだった。
細い腕で、自分の背丈ほどもある薪を引きずって運んでいた。窯の灰をかき出し、水を汲み、ホルガーが怒鳴るたびに、肩をびくりと跳ねさせた。ほかの子どもたちが窯のまわりで遊んでいても、近づいてこなかった。
ある日、カスパーは、尾根の道でルッツとすれちがった。
ルッツは、カスパーの大きな身体を見るなり、両腕を顔の前で交差させて、身を縮めた。
殴られると思ったのだ。
カスパーは、その場に立ちつくした。
少しして、ゆっくりとしゃがみこんで、ルッツと目の高さを合わせた。懐から、母親が持たせてくれた黒麦のパンを取りだして、半分にちぎった。
「腹、減ってないか」
ルッツは、腕の隙間から、パンとカスパーの顔を交互に見ていた。
「俺は、減ってる。ひとりで食うと、なんかうまくないんだよな。半分、食ってくれよ」
ルッツは、しばらく動かなかった。
カスパーが、自分のぶんのパンを大口でかじって、「うまい!」と言うと、ルッツはようやく、そろそろと手を伸ばした。
その日から、カスパーは、尾根の道でルッツを見かけるたびに、パンを半分ちぎって渡した。干し芋の日もあった。焼いた栗の日もあった。
ルッツは、何も言わずに受けとって、その場でがつがつと食べた。食べ終わると、ぺこりと頭を下げて、すぐに隣の尾根へ駆け戻っていった。
ある日、カスパーは、尾根の道の脇の平たい石に、炭のかけらで絵を描いてみせた。
「ほら、これ、何だと思う。当てたら、明日は栗を倍にしてやる」
ルッツは、石の上の絵を、じっと見下ろした。丸い胴に、とげとげした線が、ぐるりと生えている。
しばらく考えてから、ルッツは、ぽつりと言った。
「……はりねずみ」
「栗だよ」
ルッツは、もう一度、石の上の絵を見た。カスパーの顔を見た。また、絵を見た。
「……下手すぎる」
カスパーは、腹をかかえて笑った。
ルッツの口の端が、ほんのわずかに、持ちあがった。
ルッツが笑ったのを見たのは、それがはじめてだった。
ルッツの腕や首すじに、青い痣があることに、カスパーは気づいていた。
痣は、日によって増えたり、色が変わったりした。袖をまくると、手首に、縄の跡のような赤い筋が見えることもあった。
カスパーは、そのことを、父親に話した。
窯の前で煙を見ていた父親は、しばらく黙っていた。
「よその窯のことに、口を出すな」
父親は、煙から目を離さずに言った。
「炭焼きは、窯ごとにやり方がある。ホルガーの窯の小僧は、ホルガーのもんだ。俺たちが口を出せば、炭問屋への顔も、尾根の水場の取りきめも、ぜんぶ面倒なことになる」
カスパーは、それ以上何も言えなかった。
父親の言うことは、山の決まりだった。子どもが逆らえるものではなかった。
だから、パンを半分にちぎりつづけた。それが、自分にできるいちばんのことだと思った。
思うことに、した。
* * * * * *
その冬は、雪が多かった。
年が明けてからも降りやまず、尾根の道はどこも腰まで埋まった。
夜明け前、カスパーは、窯の煙の具合を見に出た。焼いている途中の窯は、夜のうちに一度、空気の穴を確かめなければならない。それは、カスパーの仕事だった。
隣の尾根に、灯りがひとつ揺れているのが見えた。
ホルガーの窯だった。
この吹雪の中で、誰が窯の番をしているのだろう。目をこらすと、灯りは窯の前で、ちっとも動かなかった。
胸が、いやな音を立てた。
カスパーは、腰まで雪に埋まりながら、隣の尾根へ向かった。
窯の前の雪の上に、ルッツが倒れていた。
ランタンは、ルッツの手から転がって、雪に半分埋もれたまま、まだ灯っていた。薄い上着一枚だった。手も足も、雪と同じ色をしていた。小さな身体に、雪がうっすらと積もりはじめていた。
ひと晩、窯の番をさせられていたのだ。この吹雪の夜に、ひとりで。
ホルガーの小屋の戸は、固く閉ざされていた。中から、いびきが聞こえた。
カスパーは、ルッツを抱えあげた。
軽かった。炭俵ひとつより、ずっと軽かった。その軽さが、カスパーの胸を締めつけた。
自分の外套の前を開いて、ルッツをくるみこむ。背負子に縄でくくりつけ、背中に負った。冷えきった小さな身体が、背中に張りついた。
ふもとの町の医者のところまで、いつもなら半日の道だった。この雪では、どれだけかかるか分からなかった。
カスパーは、歩きだした。
雪は、やまなかった。
一歩踏みだすたびに、膝まで沈んだ。沈んだ脚を引き抜いて、また一歩。炭俵を背負って、何百回と下りた道だった。雪の下のどこに石があり、どこに窪みがあるのか、足が覚えていた。
背中のルッツは、ときどき、かすかに身じろぎをした。
「ルッツ」
カスパーは、歩きながら呼んだ。
「寝るなよ。寝たら、顔に炭塗るぞ。真っ黒にしてやる。炭俵より黒くしてやる」
返事はなかった。それでも、背中の身体が、ほんの少しだけ動いた気がした。
「そういや、まだ、栗の絵、当ててもらってなかったよな。町に着いたら、今度こそ、ちゃんと栗に見える栗を描いてやる。当てたら、栗を倍だ。いや、三倍だ」
息が切れた。それでも、しゃべりつづけた。黙ってしまったら、背中の小さな身体まで、黙りこんでしまう気がした。
「ルッツ。おまえ、栗、好きだろ。焼いたやつ。皮をむくとき、指が熱いって、いつも怒ってたよな」
雪の坂で、足がすべった。
カスパーは、背中から倒れそうになるのを、膝と両手で受けとめた。凍った石に打ちつけた膝が、じんと痺れた。背中のルッツは、雪につけなかった。
カスパーは、もう一度立ちあがった。
「……大丈夫だ。俺、荷は落とさねえんだ。炭俵だって、六年、一度も割ったことねえんだぞ」
声が、震えた。寒さのせいではなかった。
知っていたのだ。
秋から、ずっと、痣を見ていた。手首の縄の跡を見ていた。腕を交差させて身を縮める姿を見ていた。それなのに、パンを半分ちぎっただけで、何もしなかった。
口を出すな、と言われて、口を出さなかった。
それで、いいと思うことにしたのだ。
町に着いたのは、日がとっぷりと暮れてからだった。
医者の家の戸を叩くと、寝間着のままの老医者が出てきた。カスパーの背中のルッツを見るなり、顔色を変えて、中へ招きいれた。
カスパーは、炉のそばの床に座りこんだまま、動けなかった。
奥の部屋で、医者がルッツの手足を湯で温めていた。何度も湯を替える音がした。
夜が明けるころ、医者が奥から出てきた。
「命は、助かる」
カスパーは、床に手をついた。
「ただ、足の指が、二本だめだ。凍えすぎた。……もう少し遅かったら、指どころでは済まなかった」
医者は、カスパーの顔を見た。
「おまえさん、あの雪の中を、背負ってきたのか。ひと晩、休まずに」
カスパーは、うなずくことしかできなかった。
二本。
もっと早く、口を出していれば。秋のうちに、誰かに言っていれば。父親が何と言おうと、ホルガーの小屋の戸を叩いていれば。
ルッツの足の指は、二本、なくならずに済んだのかもしれなかった。
* * * * * *
その日の昼すぎ、医者の家に、黒い外套の男が訪ねてきた。
四十をいくつか過ぎたくらいの男だった。灰色のまじった短い髭に、雪が白くこびりついていた。北の国境の砦へ向かう途中、大雪でこの町に足止めされている黒騎士なのだと、医者が教えてくれた。
宿で、炭焼きの小僧が子どもを背負って雪の山を下りてきたと聞いて、ようすを見にきたのだという。
男は、ゲルト・ハーゲンと名乗った。黒騎士の兵長だった。
ゲルトは、奥の部屋で眠っているルッツを、戸口からしばらく見ていた。手首の縄の跡と、首すじの痣にも、目をとめていた。
それから、炉のそばに座りこんでいるカスパーの前に、膝をついた。
「おまえが、背負ってきたのか」
カスパーは、うなずいた。
「この子の主人は」
カスパーは、ホルガーの名を言った。言ってしまってから、はっとした。よその窯のことに、口を出すな。父親の声が、耳の奥で鳴った。
それでも、口は止まらなかった。
秋から見ていた痣のこと。縄の跡のこと。吹雪の夜に、ひとりで窯の前に立たされていたこと。小屋の中から、いびきが聞こえていたこと。
全部、話した。
話しながら、涙が出た。止められなかった。
「俺、知ってたんです。ずっと、見てたんです。なのに、パンをやってただけで、何もしなかった。口を出すなって言われて、黙ってた。……黙ってたから、指が二本、なくなったんです」
ゲルトは、何も言わずに聞いていた。
カスパーが話し終えると、ゲルトは、ゆっくりと立ちあがった。
「この子のことは、町の役人に話をつける。主人のもとへは、もう戻さない」
カスパーは、顔を上げた。
「……そんなこと、できるんですか」
「できる」
ゲルトは、黒い外套の襟に手をやった。
「この外套は、そのためにある」
カスパーは、その黒い外套を見つめた。
炭焼きの息子には、どうにもできなかったことだった。よその窯のこと、山の決まり、炭問屋への顔。カスパーを黙らせてきたものが、この外套の前では、何の重さも持たないのだ。
「おまえは、黙っていたと言ったな」
ゲルトが言った。
「だが、あの雪の夜に、窯の前の灯りに気づいたのは、おまえだけだ。この子を背負って、ひと晩じゅう雪の山を下りてきたのも、おまえだけだ。……見ていなければ、気づけなかった」
カスパーは、唇を噛んだ。
「見てるだけじゃ、だめなんです」
「そうだ」
ゲルトは、うなずいた。
「見ているだけでは、足りない。だから、見たら、動けるようになれ」
ゲルトは、医者の家の戸口に立って、振りかえった。
「騎士団に来る気があるなら、春に、王都の兵舎を訪ねてこい。剣も馬も、一から教えてやる。……おまえの背中は、もう、教えなくても十分だ」
* * * * * *
ルッツは、町の役人の手で、ふもとの町の老夫婦のもとへ引きとられることになった。子のいない、粉ひきの夫婦だった。
町を出る前の日、カスパーは、医者の家の寝台のそばに座った。
ルッツの足には、白い布が巻かれていた。
「痛いか」
ルッツは、首を横に振った。そうして、カスパーの顔をじっと見た。
「にいちゃん」
「なんだ」
「絵、描いてもいい?」
カスパーは、炉の脇から、燃えさしの炭を一本拾ってきた。医者に頼んで、反故紙を一枚もらう。
ルッツは、寝台の上で身体を起こして、紙に炭を走らせた。
細い指が、ゆっくりと線を引いていく。大きな人の形。その背中に、小さな人の形。大きな人の足もとには、ぎざぎざの線がいくつも重なっていた。雪の坂なのだと、カスパーには分かった。
ルッツは、炭を置いて、紙をカスパーのほうへ向けた。
「にいちゃん」
カスパーは、紙を受けとった。
背中に小さな子を負って、雪の坂をのぼっていく、大きな人。顔は、丸く描いてあった。
「……俺より、上手いじゃねえか」
カスパーは、笑った。笑いながら、目の前がにじんだ。
ルッツも、笑った。今度は、ちゃんと、顔じゅうで笑っていた。
春になって、カスパーは、父親にゲルトのことを話した。
窯の前の父親は、カスパーの話を、最後まで、煙から目を離さずに聞いていた。
「おまえが行ったら、炭は誰が運ぶ」
「……だから、迷ってる」
父親は、しばらく何も言わなかった。
窯の煙が、まっすぐに空へのぼっていった。
「ホルガーの窯のことは」
父親が、ぽつりと言った。
「俺も、知っていた」
カスパーは、父親の横顔を見た。
父親は、煙を見たまま、言葉を続けた。
「知っていて、黙っていた。おまえにも、黙らせた」
父親は、立ちあがって、膝の土を払った。そこで、はじめてカスパーのほうを振りむいた。
「炭は、俺が運ぶ。往き来の数を増やせばいい。それだけのことだ」
父親の目は、少しだけ赤かった。
「行け」
* * * * * *
騎士団の兵舎での最初の一年は、さんざんだった。
剣を握れば、力まかせに振りまわして、木剣を三本折った。馬に乗れば、山の驢馬とはまるで違う背の高さと速さに振りまわされて、十日のうちに七度、落とされた。
落ちるたびに、カスパーは、地面に寝ころんだまま空を見上げて言った。
「あー、今のは、馬のほうが正しかった」
まわりで見ていた同期の者たちが、噴きだした。最初は笑われていたのが、いつのまにか、一緒に笑われるようになっていた。厳しい訓練でみなが黙りこむ日も、カスパーが「腹減ったなあ」とつぶやくと、どこからともなく笑いがもれた。
四年目の冬に、黒騎士の選抜を受けた。
剣は、まだ隊の中で一番にはなれなかった。馬も、速さでは誰にも勝てなかった。それでも、選抜の最後の日、カスパーの名は呼ばれた。
黒い外套は、その冬で騎士団を退くことになっていたゲルトの手から渡された。
「重いぞ」
ゲルトが言った。
カスパーは、両手で外套を受けとった。
見た目よりも、ずっと重かった。この外套を着て、見て見ぬふりをせずに、誰かのために動いてきた人たちの重さなのだと思った。
カスパーは、外套を肩にかけた。
「軽かったら、困ります」
ゲルトは、ふっと笑って、カスパーの肩を、一度だけ強く叩いた。
* * * * * *
白猫の月亭の二階の廊下を、カスパーは、階段のほうへ歩いていた。
前を行くアルベルトの背中も、うしろのセドリックの足音も、いつもより少しだけ硬かった。さっき、あの部屋で聞いた言葉が、まだ耳に残っているのだろう。
助けを盗むために、貧しいままにされていた。
カスパーは、膝の上で握りしめていた拳を、まだほどけずにいた。
階段の手前で、カスパーは一度だけ振りかえった。
奥の部屋の扉の前に、女将が立っていた。その手は、あの小さな給仕の娘の肩に置かれたままだった。
女将の手が肩に触れたとき、あの子の肩は、びくりと跳ねた。
カスパーは、それを見ていた。
大人の手が肩に置かれただけで、身体が勝手に縮こまる。そういう跳ね方を、カスパーは、昔、一度だけ見たことがあった。雪の尾根で、両腕を顔の前で交差させていた、小さな子どもの姿で。
女将は、奥様の食事をあの子に運ばせると言った。隊長は、それを止めなかった。隊長が何を考えているのか、カスパーには分からなかった。
カスパーは、前を向いた。
階段を下りながら、鼻の頭のそばかすを、指先で掻いた。外套の内側で、何度も折りたたんだ古い紙が、かさりと鳴った。
見ているだけで、終わらせるつもりはなかった。
あの冬から、ずっと、そう決めていた。




