【Another Page】アルベルト・ヴァレン ―縁談と真鍮の鍵―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するアルベルト・ヴァレンのお話です。
ある秋の日、アルベルトのもとへ、思いがけない縁談が持ち込まれます。
家族と、仕事と、自分で選んだ場所。
真鍮の鍵とともに、アルベルトがもう一度、自分の生き方を見つめる日の物語です。
兄のルドルフが宿舎を訪ねてきたのは、秋の終わりの、冷たい雨の日だった。
門番に呼ばれて表へ出たアルベルトは、門の脇の軒下に立つ兄を見て、思わず足を止めた。
兄が、時計屋を離れることなど、めったにない。店を継いでからはなおさらだった。朝いちばんに店を開け、夜遅くまで作業台の前に座り、壊れた時計の音にじっと耳を澄ませている。それが兄だった。
「……兄貴。どうした。親父に何かあったのか」
「いや。親父は元気だ。元気すぎて困ってる」
兄は、濡れた外套の肩を払いもせずに言った。
「お前に、縁談が来た」
アルベルトは、しばらく黙って兄の顔を見ていた。
それから、吹き出した。
「縁談?俺に?兄貴、それを言うために、わざわざ店を閉めてきたのか」
「店は、昼まで閉めてきた」
兄は、少しも笑っていなかった。
* * * * * *
宿舎の食堂の隅で、兄は、温めた葡萄酒の杯を両手で包みながら、ぽつりぽつりと話した。
相手は、王都の東の市場に店を構える、ブラウエル商会の娘だという。真鍮や銅の板を扱う商家で、親父の代から、時計の歯車やばねの材料を仕入れてきた、昔からの取引相手だった。
「娘さんは、ナレッサという。今年で二十だそうだ。……あちらの主人のほうから、親父に話があった。黒騎士の婿なら、商会の箔もつく、と」
アルベルトは、杯を口に運びかけて、手を止めた。
「箔、ね」
「あちらの言い方は、そうだった」
兄は、杯の縁を指でなぞった。
「親父は、乗り気だ。……いや、乗り気というのとは、少し違う」
兄は、言葉を探すように、しばらく黙った。
「去年の冬、高熱の病で、お袋の従兄弟が死んだろう。あれから親父は、人が急に死ぬってことを、妙に気にするようになった。黒騎士の訃報が載った一枚刷りを見るたびに、それを握りつぶす。……お前が身を固めれば、少しは危ない仕事から離れるかもしれない。そう思ってるんだ」
アルベルトは、杯をテーブルに置いた。
父の顔が浮かんだ。
作業台の前で、懐中時計を耳に当てて、黙って目を閉じていた顔。十五の冬、店を継がないと言ったとき、真っ赤になって怒鳴った顔。
あれから、ずいぶん経つ。
「お袋は」
「お袋は、何も言わない。お前が決めることだって、それだけだ。……ただ、夜中に、台所で泣いてたことがある」
雨が、食堂の窓を叩いていた。
アルベルトは、笑おうとした。いつものように、軽く、何でもないことのように。
うまく、笑えなかった。
「……一度、会ってみるよ」
兄は、ほっとしたように、小さく頷いた。
「それで、いい。会って、それでも嫌なら、断ればいい。親父には、俺から話す」
「兄貴は、どう思ってんだ」
兄は、杯の中の葡萄酒を見つめたまま、しばらく答えなかった。
「……お前が、ちゃんと自分で決めたことなら、それでいい」
十五の冬、井戸端で真鍮の鍵を押しつけてきたときと、同じ声だった。
* * * * * *
「隊長」
その夜、アルベルトは、執務室の扉を叩いた。
ジェフリーは、机に積まれた書類の山の向こうから、顔を上げた。蝋燭の明かりの中で、書きかけの報告書の上に、羽根ペンが止まっている。
「なんだ」
「ちょっと、相談がありまして」
アルベルトは、勝手に椅子を引いて腰を下ろした。
「実は、縁談が来まして」
ジェフリーの羽根ペンが、紙の上で、ぽたりとインクを落とした。
「……縁談」
「はい」
「俺に、縁談の相談をするのか」
ジェフリーの顔が、あまりにも真剣に困っていたので、アルベルトは思わず吹き出した。
「いや、隊長が縁談から逃げ回ってるのは知ってますよ。だから参考にはならないって、わかってて来ました」
「なら、なぜ来た」
「隊長なら、どうするのかなと思いまして」
ジェフリーは、インクの染みた紙を脇へ寄せた。
それから、しばらく黙ってアルベルトの顔を見ていた。
「お前は、どうしたいんだ」
「それがわからないから、来たんですよ」
「わからないのか」
「……わからないって、ことにしておきたいんです」
ジェフリーの青い目が、少しだけ細くなった。
「なら、会ってこい。会えば、わかる」
「……そうします」
「いつだ、その縁談」
「明後日です」
それから、ジェフリーは羽根ペンを取り上げて、新しい紙を一枚、引き寄せた。
「なら、明後日は休め」
「俺、明後日は夜番ですよ」
「知っている。マティアスには、俺から言っておく」
「副隊長、俺の夜番をほかの奴に振って、そのぶん勤務の組み合わせまで変えなきゃならないじゃないですか。……あとで絶対、俺が文句言われますよ、それ」
ジェフリーは、もう書類に目を落としていた。
口元が、ほんのわずかに緩んでいるように見えたのは、蝋燭の揺らぎのせいかもしれなかった。
* * * * * *
ブラウエル商会の屋敷は、東の市場を見下ろす坂の上にあった。
応接間には、銅の燭台と真鍮の置き時計が、これ見よがしに並んでいた。アルベルトは、置き時計の音が少しだけ遅れていることに気づいて、思わず手を伸ばしかけ、慌てて引っこめた。
商会の主人ブラウエルは、恰幅のいい、よく笑う男だった。
「いやあ、さすがは黒騎士殿。背が高い。立派な体格だ。うちの娘には、もったいないくらいですな」
主人は、アルベルトの腕や肩を、品定めするように眺めまわした。それから、あれこれと話しはじめた。商会の取引先のこと。最近の真鍮の値のこと。黒騎士の婿がいると、取引先への聞こえがどれほどよくなるか。
アルベルトは、いつもの笑顔で、それを聞いていた。
聞きながら、隣に座っている娘を見ていた。
ナレッサは、栗色の髪をきちんと結い上げ、淡い緑のドレスを着ていた。膝の上で両手を重ね、背筋を伸ばして、父親の話に時々小さく頷いている。
礼儀正しく、穏やかで、申し分のない娘だった。
ただ、一度も、アルベルトの顔を見なかった。
正確には、見ようとしていた。父親に促されるたびに、顔を上げて、アルベルトに微笑みかけようとする。そのたびに、その目は、ほんの一瞬だけ、別の場所へ逃げていった。
応接間の扉の脇。
そこに、若い帳簿係が、帳簿を抱えて控えていた。
痩せた青年だった。袖口の擦り切れた上着を着て、ずっとうつむいている。主人が取引の話をするたびに、帳簿をめくって数字を確かめ、小声で主人に耳打ちしていた。
ナレッサの目が、そこへ逃げていく。
青年の手が、帳簿の端を、白くなるほど握りしめている。
アルベルトは、そのどちらも、見ていた。
人の中は、覗けない。時計と違って、どこが狂っているのかを確かめることはできない。
それでも、ずっと人の顔色を読んで生きてきた。どの輪にも入れて、どの輪からも嫌われない男になるために。誰が何を欲しがっているのか、誰が誰を見ているのか。それを読むのは、たぶん、時計を直すより得意だった。
この娘は、自分を見ていない。
そして、それを、必死に隠そうとしている。
父親のために。
家のために。
* * * * * *
主人が商談の手紙を書くために席を外すと、応接間に、アルベルトとナレッサと、帳簿係の青年だけが残った。
置き時計の音だけが、こち、こち、と響いた。
ナレッサは、膝の上の両手を見つめていた。青年は、帳簿を胸に抱えて、扉の脇に立ったままだった。
アルベルトは、置き時計のほうへ歩いていった。
背面の蓋を開け、懐から真鍮のネジ巻き鍵を取り出した。
内部を確かめてから、遅れを直すための調整ねじを、ほんの少しだけ回す。
置き時計は、変わらず、こち、こち、と音を刻んでいた。
「……あの」
ナレッサが、驚いたように顔を上げた。
「ああ、すみません。どうも、狂った時計を見ると放っておけなくて」
アルベルトは、時計の蓋を閉めて、振り返った。
「ナレッサさん。ひとつ、聞いてもいいですか」
ナレッサは、身を固くした。
「はい」
「あの人のことが、好きなんですね」
アルベルトは、扉の脇の青年のほうへ、顎をわずかに向けた。
ナレッサの顔から、さっと血の気が引いた。
扉の脇で、帳簿が床に落ちる音がした。
青年は、慌てて帳簿を拾い上げると、その場に膝をついた。
「ち、違います。お嬢様は、何も。俺が、勝手に――」
「トビアス、やめて」
ナレッサの声が、震えていた。
アルベルトは、二人の顔を交互に見た。
それから、いつもの軽い調子で、肩をすくめた。
「いや、責めてるわけじゃないんです。むしろ、ほっとしました」
ナレッサが、目を見開いた。
「ほっと……?」
「俺も、正直に言うとね」
アルベルトは、置き時計に寄りかかった。
「黒騎士ってのは、明日帰ってこられるかどうか、わからない仕事なんです。いつ、どこで、何に巻きこまれるかわからない。俺の親父は、それが心配で、俺に身を固めさせたがってる。……でもね、俺は、そういう男の帰りを、毎晩眠れずに待つ女の人を、ひとり増やしたくない」
アルベルトは、扉の脇の青年を見た。
「あの人は、毎晩、家へ帰れる人ですか?」
ナレッサは、しばらく何も言えなかった。
それから、小さく、はっきりと頷いた。
「……はい。毎晩、帳簿をつけ終えてから帰ります。誰よりも遅くまで。誰よりも、ていねいに仕事をして。それでも、朝にはまた店に来るんです」
「なら、そっちのほうがいい」
アルベルトは、笑った。
「毎晩帰ってくる男のほうが、ずっといい」
* * * * * *
主人が戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
アルベルトは、立ち上がって、深く頭を下げた。
「ブラウエルさん。せっかくのお話ですが、お断りさせてください」
主人の顔から、笑みが消えた。
「……何か、うちの娘に、不足でも」
「いいえ。お嬢さんは、俺にはもったいない人です」
アルベルトは、顔を上げた。
「ただ、俺は黒騎士で、隊長の下で働くと決めた男なんです。あの人の背中を守るのが、今の俺の仕事です。正直に言うと、明日どこで死ぬかもわからない。……お嬢さんを、そういう男の帰りを待つ人にはしたくないんですよ」
主人は、渋い顔をした。
アルベルトは、扉の脇の青年をちらりと見た。
「それに、ブラウエルさん。黒騎士の婿で箔をつけるより、商会の帳簿を一番わかってる男を身内にしたほうが、商売にはよっぽど効くと思いますよ。この商会の数字を、あなたの次に知ってるのは、たぶん、あの人だ」
主人が、振り返った。
扉の脇で、トビアスが、真っ赤になって固まっていた。
その隣で、ナレッサが、両手で口元を押さえていた。
主人は、娘と帳簿係の顔を、交互に見た。
長い沈黙があった。
置き時計の音だけが、さっきより正しい速さで、こち、こち、と鳴っていた。
やがて、主人が深いため息をついた。
「……とんだ黒騎士を、呼んでしまったもんだ」
その声に、怒りは混じっていなかった。
* * * * * *
時計屋の扉を開けると、店の中は、いつものように音で満ちていた。
壁一面の振り子時計。棚の置き時計。硝子の箱の中の懐中時計。それぞれが少しずつ違う速さで、こち、こち、と時を刻んでいる。
作業台の前に、父が座っていた。
眼鏡を額に上げて、壊れた懐中時計を耳に当てている。アルベルトが入ってきても、顔を上げなかった。
兄は、奥の棚の前で、置き時計の埃を払っていた。目が合うと、黙って小さく頷いた。
アルベルトは、作業台の前に立った。
「親父。縁談、断ってきた」
父は、懐中時計を耳に当てたまま、目を閉じていた。
「……そうか」
「ナレッサさんには、好きな人がいたんだ。商会の帳簿係で、毎晩、誰よりも遅くまで帳簿をつけてる男だ。あの家の主人も、たぶん、そのうち認めると思う」
「そうか」
父は、それしか言わなかった。
アルベルトは、作業台の端に手をついた。
いつもなら、ここで冗談を言う。
俺に縁談なんて百年早いだろ、とか。
黒騎士の給料じゃ嫁さんに逃げられる、とか。
笑って、何でもないことにして、それで終わりにする。
今日は、そうしなかった。
「親父」
父が、ようやく目を開けた。
「俺は、隊長の下にいたいんだ」
父の目が、アルベルトを見た。
「あの人は、驚くほど不器用で、驚くほど真面目で、自分のことになると、まるで勘定に入れない。誰かが後ろで見てないと、どこまでも一人で行っちまう。……俺は、あの人の背中を守るって、自分で決めた」
アルベルトは、懐から、真鍮のネジ巻き鍵を取り出した。
柄のところが、手の脂で飴色に光っている。十五の冬、兄が押しつけてきたものだった。もとは、父が若いころに使っていたものだ。
「店を継がないって言ったときは、ちゃんと説明しなかった。だから、今度は、ちゃんと言っておく」
アルベルトは、鍵を作業台の上に置いた。
「心配かけて、ごめん。……それでも、俺は、帰ってくるよ。必ず」
父は、作業台の上の鍵を、長いこと見つめていた。
それから、太い指で、鍵をつまみ上げた。
柄を、ゆっくりと撫でた。
何も言わずに、その鍵をアルベルトの手に押し戻した。
「……持っていけ」
十五の冬、兄が言ったのと、同じ言葉だった。
父は、また懐中時計を耳に当てた。目を閉じた。
「その代わり、ちゃんと、ねじを巻きに帰ってこい。この店の時計は、ほっとくとすぐ狂う」
アルベルトは、手の中の鍵を握りしめた。
「……ああ」
奥の棚の前で、兄が、黙って置き時計の埃を払い続けていた。
その背中が、少しだけ笑っているように見えた。
* * * * * *
翌朝、宿舎の食堂で、アルベルトは副隊長に、背中を思いきり叩かれた。
「急に休みを取るとは、いいご身分だな、アルベルト」
「すみません、副隊長。隊長の気まぐれでして」
「その気まぐれの尻拭いを、誰がしたと思ってる」
マティアスは、もう一度アルベルトの背中を叩いた。それから、声を落とした。
「……で、どうなった」
「断りましたよ」
マティアスは、片眉を上げた。
「そうか。もったいない話だ」
「でしょう?」
アルベルトは、笑った。
いつもの、軽い笑顔だった。
食堂の入口に、隊長が姿を見せた。アルベルトと目が合うと、ほんの一瞬だけ、何かを問うような顔をした。
アルベルトは、懐の上から、真鍮の鍵に軽く手を当ててみせた。
隊長は、何も言わなかった。
小さく頷いて、いつものように、一番奥の席へ歩いていった。
アルベルトは、パンをちぎりながら、その背中を見ていた。
驚くほど不器用で、驚くほど真面目な背中だった。
後ろで見ている者がいないと、どこまでも一人で行ってしまう背中だった。
当分、身を固めている暇はなさそうだ、とアルベルトは思った。




