【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―二度目の一番―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場するジェフリー・ハルセリンが、三番隊の隊長になった後のお話しです。
ある武闘会で、一人の騎士から「名指しの一番」を申し込まれたジェフリー。
ひとりの騎士の覚悟に向き合った日の物語です。
二十歳の初夏、ジェフリー・ハルセリンの机には、望んでもいない手紙が積もっていた。
騎士団の宿舎の、窓の小さな部屋である。机の端に置いた木箱には、薔薇色、薄紫、若草色と、色とりどりの封蝋が並んでいた。どれも紙にうっすらと香水が染みていて、箱の蓋を開けるたびに、部屋の空気が少しだけ甘くなる。
開けなくても、中身はわかった。
舞踏会へのお誘い。お茶会へのお招き。父君を通しての、縁談のご相談。差出人の名がなく、ただ「あなたを想う者より」とだけ記されたものもあった。
ジェフリーは今朝届いた分を一通ずつ手に取り、宛名を確かめては箱へ移していった。
読まずに捨てられるほど、冷たくはなれない。
かといって返事を書けば、その一行がどこでどう膨らむかわからない。十六のときに、それは嫌というほど思い知った。
――女を弄ぶ冷酷な男。
あの噂は、四年が過ぎた今も消えていなかった。
消えないどころか、どういうわけか、それに惹かれる女性まで現れる始末だった。氷のような男を自分の手で溶かしてみたいのだと、どこかの令嬢が茶会で言ったらしい。それを教えてくれたアルベルトは、話しながら腹を抱えて笑っていた。
「また増えましたね」
そのアルベルトが戸口にもたれて、箱を覗き込んでいた。夜番明けらしく、金色の髪があちこちに跳ねている。
「今朝は門の前に馬車が二台止まってましたよ。どっちも、出てくるのを待ってたみたいです。裏から回ったのは正解でしたね」
「頼んだ覚えはない」
「頼まなくても来るんですよ、ああいうのは。一人くらい会ってみたらどうです? 羨ましがってる奴が団に何人いると思ってるんですか」
「なら、その何人かに回してくれ」
アルベルトは肩をすくめただけで、それ以上は言わなかった。
ジェフリーが本気でそう言っているのを、この男はよく知っている。
黒騎士の仕事は、外から見えるほど華やかなものではない。
夜明け前に馬を出し、日が暮れても戻らない日がある。剣を抜けば、相手の息が止まるまで終わらないこともある。
そういう男の隣に、花のような人を立たせて何になるのか。
それに、手紙の主たちが見ているのは、結局、この顔だけだった。
ジェフリーは箱の蓋を閉めた。
香水の匂いが、ようやく少し薄れた。
* * * * * *
その男が訪ねてきたのは、王家に捧ぐ武闘会まで一月を切った頃だった。
夕方の訓練場は人影もまばらで、踏み固められた土に、長い影が何本も伸びていた。
ジェフリーが隅の木箱に腰を下ろして剣の手入れをしていると、その影のひとつが手元にかかった。
顔を上げると、自分より二つ三つ年上に見える男が、背筋を板のように固くして立っていた。
栗色の髪を短く刈り、一般騎士の制服を、慣れない晴れ着のようにきっちりと着込んでいる。
「ハルセリン卿。少し、お時間をいただけますか」
ニコラス・ファーレンと、男は名乗った。
男爵家の次男で、城下の警護についている一般騎士だという。名前に聞き覚えはなかった。
「今度の武闘会で、私と一番、立ち合っていただきたいのです」
ジェフリーは、布を動かす手を止めた。
王家に捧ぐ武闘会には、古くから「名指しの一番」という慣わしがある。
出場する者が、闘いたい相手をひとり名指しできるのだ。名指しされた側は、受けても断ってもいい。たいていは腕に覚えのある者同士が、互いの面子をかけて使う慣わしだった。
「なぜ、私を」
「チェリス・ロウエル嬢を、ご存じですか」
ジェフリーは少し考えた。
思い出せなかった。
それが顔に出たのか、ニコラスの口元がかすかにゆがんだ。
「あなたに、三度、手紙を出した方です。桃色の封蝋で」
言われてみれば、木箱の中にそういう色があった気がする。
開けてはいない。
「あの人とは、幼い頃から家が近くて……私は、ずっとあの人を想っています。ですが、あの人が見ているのはあなたです。去年の秋の式典で、あなたが馬上から通り過ぎるのを見てから、ずっと」
ニコラスは一度、言葉を切った。
両手の拳が、腿の横で白くなっていた。
「武闘会であなたに勝って、その足で、あの人に結婚を申し込みます。あなたに勝った男としてでなければ、私はあの人の前に立てない」
夕風が、訓練場の土を薄く巻き上げた。
ジェフリーは剣を膝に置いたまま、その真っ直ぐな目を見返した。
くだらない、とは思わなかった。
ただ、自分が関わる話だとも思えなかった。
「ファーレン殿。私のことは、どうか放っておいてください。申し込みたいのなら、今日にでも申し込めばいい。あなたがどんな男かは、私に勝ったかどうかで決まるものではないでしょう」
「それでは駄目なのです」
「それに、私は武闘会に出るつもりがありません。黒騎士になってから一度も出ていない。今年も同じです」
そう言って、ジェフリーは再び布を動かし始めた。
話は終わりだという合図のつもりだった。
ニコラスはしばらくその場に立っていた。やがて深く頭を下げ、去っていった。
それで終わったと、ジェフリーは思っていた。
* * * * * *
翌朝、宿舎の門を出ると、ニコラスがいた。
「おはようございます、ハルセリン卿。昨日のお話ですが」
「お断りしたはずです」
その翌日は、任務帰りの夕暮れに馬屋の前で待っていた。
その次の日は雨で、ニコラスは外套の肩を濡らしながら、門の脇の石壁にもたれていた。
何度断っても、彼は声を荒げることも、食い下がって腕をつかむこともしなかった。
ただ毎日、同じ場所に立ち、同じ願いを口にし、断られると頭を下げて帰っていく。
「あいつ、今日もいましたよ」
五日目の夜、アルベルトが食堂の長机で、パンをちぎりながら言った。
「俺が通りかかったら、『ハルセリン卿はお戻りですか』って。まあ、礼儀正しいのなんの。手紙の山より、よっぽど熱心じゃないですか」
「笑いごとじゃない」
「笑ってませんよ。……いや、少しは笑ってますけど」
アルベルトはパンを口に放り込み、それから少しだけ真顔になった。
「あいつ、毎晩遅くまで訓練場に残ってるらしいですよ。城下の警護が終わってから。一般騎士の連中が言ってました。手の皮がめくれても、布を巻いてまだ振ってるって」
ジェフリーは、スープの匙を止めた。
六日目の朝。
門の前に立つニコラスの右手には、本当に白い布が巻かれていた。布の端に、薄く血がにじんでいる。
「ハルセリン卿」
いつもと同じように、彼は頭を下げた。
「あなたが出てくださらないのなら、私は一生、あの人に何も言えないまま終わります。それだけは、どうしても嫌なのです」
ジェフリーは長いこと、その布の巻かれた手を見ていた。
剣を握る手だった。
才に恵まれた手ではない。それでも、毎晩、皮がめくれるまで剣を振り続けた手だった。
「……わかりました」
ニコラスが顔を上げた。
「名指しをお受けします。ただし、一番だけです」
「ありがとうございます」
声が少し裏返っていた。
ニコラスは慌てたように咳払いをして、もう一度、今度はさっきよりも深く頭を下げた。
その背中を見送りながら、ジェフリーはすでに決めていた。
負けてやればいい。
誰にも気づかれないように。
それで彼が前に進めるなら、自分の名に少しくらい泥がついても構わない。
もともと、きれいな名ではないのだから。
* * * * * *
武闘会の日は、よく晴れた。
王城の東にある闘技場は、すり鉢のような形をしていて、石の観覧席が幾重にも重なっている。その一番上に、王家の席が設けられていた。
色とりどりの旗が初夏の風にはためき、焼き菓子や果実水を売る声が、ざわめきの間を縫って響いていた。
名指しの一番の相手がハルセリン卿だと知れ渡ると、観覧席の一角が、目に見えて華やいだ。
扇が揺れ、ささやきが波のように広がる。
それが自分に向けられたものだと、ジェフリーにもわかった。
わかったところで、どうすることもできない。
白い砂の敷かれた闘いの場に下りると、反対側からニコラスが歩いてきた。
刃を潰した試合用の剣を握る手に、もう布は巻かれていなかった。
礼を交わすとき、ニコラスの目が一瞬、観覧席のある一点に流れた。
ジェフリーは、その先を追わなかった。
桃色のリボンがちらりと見えた気がしたが、それだけだった。
合図の鐘が鳴った。
ニコラスの剣は、正直な剣だった。
構えにも、踏み込みにも、嘘がない。
重く、真っ直ぐで、少しだけ遅い。
毎晩、同じ型を何千回と繰り返してきた者の剣だった。打ち込まれるたびに、受ける腕に確かな重みが残る。
ジェフリーは三合、四合と受け、五合目で、わずかに足を滑らせた。
砂に足をとられたように見えるよう、ほんの指一本分だけ重心を崩す。
受けが半拍遅れ、その隙にニコラスの剣が肩口に届いた。
鈍い音がした。
「一本!」
審判の声が響き、闘技場が一瞬、静まりかえった。
それから、どよめきが起きた。
あのハルセリン卿が。
まさか、一般騎士に。
観覧席のあちこちで人が立ち上がり、口々に何か言っている。
やがてそのどよめきは、ひとつの大きな拍手に変わっていった。
勝ちは勝ちだった。
無名の騎士が、氷の騎士から一本を奪ったのだ。
ジェフリーは肩を軽く払い、一礼して下がろうとした。
これでいい。
あとは彼が、あの桃色のリボンのもとへ行けばいい。
「お待ちください」
拍手の中で、その声ははっきりと聞こえた。
振り返ると、ニコラスが剣を下げたまま立っていた。
勝った者の顔ではなかった。
頬は上気しているのに、目だけが、ひどく静かだった。
彼はジェフリーに背を向けると、まっすぐ王家の席の下まで歩いていき、砂の上に片膝をついた。
「陛下に申し上げます。異例であることは承知しております。どうか、今の一番を、もう一度やり直させていただけないでしょうか」
闘技場が、またどよめいた。
勝った側が、やり直しを願い出たのだ。
そんな話は、誰も聞いたことがなかった。
王家の席で、国王が身を乗り出すのが見えた。
しばらく黙ってニコラスを見下ろしていたが、やがて片手を軽く上げた。
「勝った者が、自ら勝ちを返すと申すか。よかろう。好きにせよ。――ただし、二度目の一番だ。今度は一本では終わらぬ。どちらかが敗北を認めるまで、続けよ」
国王は、一度目の勝ちを自ら返した以上、中途半端に止めさせるより、二人が納得するまで剣を交えさせたほうがよいと判断したのだ。
ニコラスは深く頭を下げ、立ち上がって、ジェフリーの前に戻ってきた。
間近で見ると、彼の唇はかすかに震えていた。
「今のは、あなたが勝ちを譲ってくださっただけです。……足を滑らせたように見えましたが、あなたの目は、少しも揺れていなかった」
ジェフリーは何も言わなかった。
「お心遣いには感謝します。ですが、この勝ちを持ってあの人の前に立ったら、私は一生、あの人の顔をまっすぐ見られません。この大会で、本当の意味で勝たなければならないのです。……どうか、本気でお願いします」
ジェフリーはしばらく、その目を見ていた。
怖いのだろう、と思った。
今さっき、自分がどれほど手加減されていたかに気づいた男が、それでも本気を望んでいる。
剣を握る手が、かすかに白くなっていた。
侮ったのは、自分のほうだった。
「――わかりました」
ジェフリーは剣を構え直した。
「その覚悟に、礼を尽くします」
* * * * * *
二度目の鐘が鳴った。
その瞬間、闘技場の空気が変わったのが、観覧席の誰にもわかった。
ジェフリーは動かなかった。
ただ立っているだけだった。
それなのに、さっきまでとは、まるで別人のように見えた。
淡い金の髪が風に揺れ、青い瞳は相手の剣先ひとつを見据えたまま、まばたきもしない。
扇を揺らしていた令嬢たちの手が止まり、果実水売りの声が途切れた。
ニコラスが踏み込んだ。
次の瞬間、彼の剣は宙を舞っていた。
何が起きたのか、見えた者はほとんどいなかった。
乾いた音がひとつ鳴り、ニコラスの手から剣が消え、気づけばジェフリーの剣の先が、彼の鼻先で静かに止まっていた。
「一本」
審判の声が、ひどく小さく聞こえた。
だが今度は、それで終わりではない。
ニコラスは、砂の上に落ちた自分の剣を見た。
それから、ゆっくりとそれを拾い上げ、もう一度構えた。
二度目も同じだった。
打ち込んだ剣が払われ、手から離れ、剣先が顔の前に突きつけられる。
三度目は、踏み込む前に足を払われて砂に倒れた。
四度目は、受けた衝撃で腕が痺れ、剣を取り落とした。
それでも、ニコラスは立ち上がった。
五度。
六度。
砂にまみれた膝で立ち、震える手で剣を拾い、また構える。
唇が切れて、顎に赤い筋が伝っていた。息は荒く、構えはもう最初の形をとどめていなかった。
ジェフリーは手を緩めなかった。
一度でも緩めれば、それは彼の覚悟を踏みにじることになる。
だから、払い、倒し、突きつけた。
何度でも。
彼が立ち上がるたびに、何度でも。
観覧席は、いつのまにか静まりかえっていた。
最初のうち、あちこちで漏れていた失笑も、いつのまにか消えていた。
七度目に、ニコラスが立ち上がったとき。
どこかで、誰かが手を叩いた。
それが合図になったかのように、拍手が広がった。
ハルセリン卿へのものではなかった。
砂まみれで、血を流しながら、それでも剣を構える男に向けた拍手だった。
観覧席の一角で、桃色のリボンをつけた娘が立ち上がっていた。
両手を胸の前で固く組み、身じろぎもせずに、闘いの場を見下ろしていた。
八度目。
九度目。
十度目に剣を払われたとき、ニコラスは膝から崩れ落ちた。
砂に手をついて、立ち上がろうとした。
剣を杖にして、体を起こそうとした。
腕が震え、肘が折れ、また砂に突っ伏した。
もう一度、手をついた。
立てなかった。
闘技場には、彼の荒い息の音だけが響いていた。
ジェフリーは剣を下ろした。
審判が何か言いかけたのを目で制し、ゆっくりとニコラスの前まで歩いていった。
そして、手を差し出した。
ニコラスは顔を上げた。
汗と砂と血で汚れた顔が、差し出された手を、信じられないものを見るように見つめていた。
やがて、その手が、ジェフリーの手をつかんだ。
ジェフリーは彼を引き上げた。
ふらつく体を肩で支え、倒れないように立たせた。
「ファーレン殿」
歓声に紛れないよう、ジェフリーは彼の耳元で言った。
「これまで私が剣を交えてきたどんな敵より、あなたは勇敢でした」
ニコラスの肩が、小さく揺れた。
「何度倒れても、あなたは立ち上がった。剣を握る者として、騎士として、私はあなたに心から敬意を表します」
ジェフリーは一度、言葉を切った。
観覧席の、あの桃色のリボンのほうへ、ほんの少しだけ視線を向けた。
「愛する人を守るものを、あなたはもう持っています。……私に勝つ必要など、最初からなかった」
ニコラスは何か言おうとして、言えなかった。
唇が震え、かわりに、つかんだ手に力がこもった。
ジェフリーは、その手を一度だけ強く握り返した。
審判が、ジェフリーの勝ちを告げた。
闘技場が揺れるほどの歓声が湧き起こった。
それが勝者に向けられたものなのか、立ち上がり続けた男に向けられたものなのか。
もう、誰にも区別がつかなかった。
* * * * * *
控えの通路に戻ると、薄暗がりの中でアルベルトが待っていた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。
「負けてやるんじゃなかったんですか」
「負けた。一度は」
「ええ、見てましたよ。足を滑らせたやつでしょう。あれ、俺にも分かりませんでした」
アルベルトは鼻を鳴らした。
それからジェフリーの顔を、珍しくまじまじと覗き込んだ。
「……そういう顔もするんですね」
「どういう顔だ」
「いや。なんでもないです」
アルベルトは壁から背を離し、先に立って歩き出した。
通路の向こうから、まだ歓声が聞こえていた。
* * * * * *
その夏の終わり、ジェフリーの机の木箱から、桃色の封蝋が消えた。
新しく届く手紙の中に、その色がひとつもなくなったのだ。
気づいたのは、箱の底に残っていた三通を見つけたときだった。
結局、一度も開けなかった手紙だった。
ニコラス・ファーレンがロウエル家の令嬢と結婚したという話が届いたのは、それから間もなくのことだった。
教えてくれたのは、やはりアルベルトだった。
城下の酒場で、一般騎士たちが噂していたらしい。
式は小さな教会で挙げられ、花婿は式の間じゅう、ずっと泣いていたという。
「花嫁じゃなくて、花婿が泣いてたそうですよ。あいつらしいですよね」
アルベルトは笑い、ジェフリーは何も言わなかった。
その夜、ジェフリーは箱の底から、桃色の封蝋の三通を取り出した。
開けずに、そのまま紐で束ねた。
読むべき手紙ではなかった。
宛てられた男は、もうこの手紙の中にはいない。
束ねた手紙を引き出しの奥にしまってから、ジェフリーは窓の外を見た。
夏の終わりの夜は、北の国ではもう少し冷える。
遠くの空に、星がいくつか滲んでいた。
何度倒れても立ち上がった、あの男の顔を思い出した。あの男がつかんだ手の熱さだけが、しばらく掌に残っていた。
木箱の中の手紙は、翌朝もまた、少し増えていた。




