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【Another Page】ジェフリー・ハルセリン ―毒見の杯―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、黒騎士ジェフリー・ハルセリンのお話です。

アヤと出会うより、少し前。

「警護」として令嬢たちの茶会へ赴くことになった、三番隊隊長ジェフリー。

けれど、どうやら周囲には、それだけではない思惑もあるようで――。

「ハルセリン。茶は、好きか」


軍団長の執務室で、大きな樫の机の向こうから、白髪まじりの大男がそう訊いた。


ジェフリーは、机の前に立ったまま、少しのあいだ黙っていた。


三番隊の隊長に任じられて、まだ半年もたっていなかった。軍団長の部屋に呼ばれるときは、たいてい、どこかの砦が落ちかけているか、どこかの峠に、言えない仕事があるときだった。


茶の好みを訊かれたことは、一度もなかった。


「……特に、好きでも、嫌いでもありません」


「そうか。それは、よかった」


軍団長は、机の上の書類の山から、一通の手紙を引っぱりだした。


淡い藤色の封筒だった。封蝋に、小さな花の紋が押してあった。騎士団の執務室には、まるで似合わない封筒だった。


「女房の古い友人に、エッカート子爵家の未亡人がおる。三年前に旦那を亡くして、今は、娘とふたりで、王都の東の屋敷に住んどる。……王都でいちばん美しい未亡人だと、うちの女房は言う。俺も、まあ、そう思う。女房の前では言わんがな」


軍団長は、封筒を指先でつまんで、ひらひらと振った。


「その娘が、今度、自分の屋敷の庭で茶会を開く。年頃の令嬢ばかり、五、六人。……そこに、騎士をひとり、置きたいんだそうだ。近ごろ王都も物騒だから、とな」


「警護、ですか」


「警護だ」


軍団長は、ジェフリーの顔を見た。


「で、女房が、おまえを指名した」


ジェフリーは、黙っていた。


軍団長は、深いため息をついた。


「言いたいことは、わかる。令嬢の茶会の警護なんぞ、黒騎士の、それも三番隊の隊長の仕事じゃない。一般騎士を二、三人、門の前に立たせておけば済む話だ。……だがな、ハルセリン。女房が、おまえだと言うんだ。王都いちばんの美しい未亡人の、ひとり娘の、初めての茶会だ。いちばん見栄えのいい騎士を立たせてやりたいと」


軍団長は、封筒を机の上に放りだした。


「俺は、女房には、勝てん」


執務室に、沈黙が落ちた。


窓の外で、訓練場の剣の音が、かんかんと響いていた。


「……承知しました」


ジェフリーは、言った。


「よし」


軍団長は、大きくうなずいた。それから、机の上に身を乗りだした。


「それから、ハルセリン。ひとつだけ、言っておく」


「はい」


「絶対に、礼を欠くな」


軍団長の太い指が、机の上を、こつ、と叩いた。


「あの家は、礼儀にうるさい。昔からだ。未亡人も、娘も、気立てはいいが、もてなしだけは、きっちりやる。……茶が出たら、飲め。菓子が出たら、食え。勧められた椅子があったら、座れ。断るな。突っ立ったまま、ひと口も手をつけずに帰ってきてみろ。あの未亡人が、女房に泣きつく。女房が、俺に、文句を言う」


軍団長は、ジェフリーの目をまっすぐに見た。


「文句を言われるのは、俺だ。わかったな」


ジェフリーは、少しだけ、眉を寄せた。


「警護の者に、茶は出ません」


「出るんだよ。あの家は」


軍団長は、きっぱりと言った。


「門番にも、馬丁にも、出入りの石炭屋にも出す。そういう家だ。……いいか。出されたら、飲め。命令だ」


ジェフリーは、少しのあいだ、軍団長の顔を見ていた。


それから、短く頭を下げた。


「……承知しました」



* * * * * *



「お見合いでしょう、それ」


宿舎の廊下で、アルベルト・ヴァレンが、言った。


ジェフリーは、歩く速さを変えなかった。


「警護だ」


「警護って名目の、お見合いですよ。王都いちばんの美人の未亡人の、ひとり娘の茶会に、王都いちばんの美形の黒騎士を、軍団長の奥方が名指しで寄こす。……誰がどう聞いても、お見合いです」


「警護だ。近ごろ物騒だからと、先方が言っている」


「物騒って、何がです」


「知らない」


「知らないのに、警護ですか」


ジェフリーは、足を止めた。


アルベルトのほうを、振り返った。


「ヴァレン」


「はい」


「当日、おまえも来い。門の外の見張りだ」


アルベルトは、口を開けた。


「……は?」


「二人いれば、門の外と、庭と、両方を見られる」


「待って待って、隊長。俺は、関係ないでしょう。隊長のお見合いなんだから」


「警護だ」


ジェフリーは、それだけ言って、また歩きだした。


アルベルトは、廊下の真ん中に立ちつくしていた。


それから、天を仰いで、ぼやいた。


「……茶会の門番か。俺、一般兵のころ、酒場の門番なら、やったことあるんだけどな」



* * * * * *



エッカート子爵家の屋敷は、王都の東の、静かな通りの奥にあった。


白い石の塀に、蔦が這っていた。鉄の門をくぐると、手入れの行きとどいた庭が広がっていた。秋の薔薇が、まだいくつか咲き残っていた。塀ぎわには、獅子の口から細い水の落ちる、古い石の水盤があった。庭の奥の、大きな菩提樹の下に、白い布をかけた丸い卓が、二つ、並べてあった。


銀の茶器が、秋の陽を受けて光っていた。


ジェフリーは、黒騎士の外套を着て、門の内側に立っていた。


門の外には、アルベルトが立っていた。ときどき、門の格子の隙間から、恨めしそうな目でこちらをのぞきこんでいた。


屋敷の玄関の扉が開いて、ひとりの婦人が庭へ出てきた。


淡い藤色のドレスを着ていた。蜂蜜のような色の髪を、うなじのところで、ゆるくまとめていた。年は、四十に届くかどうか。目尻に、細い笑い皺があった。


なるほど、とジェフリーは思った。


王都でいちばん美しい未亡人、と軍団長の奥方が言うのも、軍団長が女房の前で言わないのも、わかる気がした。


婦人は、ジェフリーの前まで来ると、ドレスの裾をつまんで膝を折った。


「エッカートでございます。ハルセリン様。……本日は、娘のために、ご足労をおかけいたします」


「黒騎士三番隊の、ハルセリンです。本日の警護を、承っております」


婦人は、ジェフリーの顔を見上げて、ほんの少し目を見開いた。


それから、ふわりと、笑った。


「……あの方が、おっしゃっていたとおりですわね」


あの方、というのが、軍団長の奥方のことなのはわかった。何をおっしゃっていたのかは、訊かなかった。


婦人は、振り返って、屋敷のほうへ手招きをした。


「ルイーゼ。いらっしゃい。ご挨拶を」


玄関の扉の陰から、ひとりの令嬢が出てきた。


母親と同じ、蜂蜜のような色の髪を、背中に長く垂らしていた。淡い水色のドレス。社交界に出たばかりの、まだ少女の面影の残る顔。大きな灰色の目が、緊張で少しだけ潤んでいた。


令嬢は、母親の隣まで来て、ジェフリーを見上げた。


それから、ぴたりと、動かなくなった。


口が、少しだけ開いていた。


「……ルイーゼ」


母親が、小声で娘の袖を引いた。


令嬢は、はっとしたように、ドレスの裾をつまんで膝を折った。折りすぎて、少しよろけた。


「ル、ルイーゼ・エッカートでございます。本日は、あの、よろしく、お願いいたします」


「ハルセリンです」


ジェフリーは、短く頭を下げた。


令嬢の頬が、見るまに赤くなっていった。


門の外で、アルベルトが、格子に額を押しつけて肩を震わせていた。



* * * * * *



婦人は、娘を卓のほうへ送りだすと、ジェフリーのほうへ向きなおった。


その手に、白い磁器の杯が、ひとつ、のっていた。


湯気が、立っていた。


「お客様がお見えになる前に。……どうぞ、ハルセリン様。秋は、庭に立っていると、冷えますでしょう」


ジェフリーは、杯を見下ろした。


澄んだ、琥珀色の茶だった。


白い指が、その杯を、まっすぐにこちらへ差しだしていた。


ジェフリーの手が、外套の脇で止まった。


二年前のことが、頭をかすめた。


女の手から差しだされた、一杯の杯。疑いもせずに受けとって、飲みほした。それから、指の先が痺れはじめて、壁が傾いて、自分の体が、自分のものでなくなっていった。雪の夜の、冷たい石畳。


あれ以来、女の手から差しだされた杯を、ジェフリーは一度も受けとっていなかった。


水なら、自分で汲む。


酒なら、断る。


茶会でも、宴でも、そうしてきた。そのせいで、冷たい男だと言われても、氷のようだと言われても、構わなかった。


婦人は、杯を差しだしたまま、首をかしげていた。


その目には、何の企みもなかった。客をもてなす家の主人の穏やかな目だった。


茶が出たら、飲め。命令だ。


文句を言われるのは、俺だ。


ジェフリーは、ゆっくりと手を伸ばした。


杯を、受けとった。


白い磁器は、温かかった。


杯の縁を、口もとへ運んだ。


ひと口、飲んだ。


香りのいい、少し渋みのある、ふつうの茶だった。


舌の先にも、喉の奥にも、何も残らなかった。


ジェフリーは、もうひと口、飲んだ。


それから、杯を婦人に返した。


「……ありがとうございます。温まりました」


婦人は、にっこりと笑った。


「お口に合って、よかったわ」


婦人は、杯を受けとって、卓のほうへ戻っていった。


ジェフリーは、門の内側に立ったまま、自分の右手を見下ろした。


指の先は、痺れていなかった。


ふつうの茶だった。


門の格子の向こうで、アルベルトが、目を丸くしてこちらを見ていた。


ジェフリーは、そちらを見なかった。



* * * * * *



客は、昼過ぎに、ひとり、またひとりと馬車でやってきた。


年頃の令嬢が、五人。それぞれに、付き添いの侍女を、ひとりずつ連れていた。


令嬢たちは、門をくぐるたびに、門の内側に立っている黒い外套の騎士を見て、足を止めた。扇で口もとを隠して、隣の侍女に、何かささやいた。侍女たちは、もっとあからさまに、振り返って、じっと見ていた。


ジェフリーは、ひとりひとりの顔と、手と、足もとを、見ていた。


令嬢の顔を見ていたのではなかった。


誰が、何を持っているか。誰が、どこを見ているか。誰の侍女が、主人から離れて、どこへ行くか。


四人目の客が、門をくぐった。


栗色の髪を、きっちりと結いあげた令嬢だった。深い緑色のドレス。白い手袋。ルイーゼよりも、いくつか年上に見えた。


令嬢は、ほかの客のように、ジェフリーの前で足を止めなかった。


ちらりとも、見なかった。


まっすぐに、菩提樹の下の卓のほうへ歩いていった。


ルイーゼが、卓の向こうから立ちあがって、両手を広げた。


「ウルリケ!来てくれたのね」


「……ええ。招いてくれて、ありがとう、ルイーゼ」


二人は、軽く抱きあった。


婦人が、その二人を見て、ジェフリーのほうへ小さく言った。


「亡くなった主人の、弟の娘ですの。ルイーゼの従姉で。……昔から、姉妹のように仲がよくて」


ジェフリーは、黙ってうなずいた。


緑のドレスの令嬢の、白い手袋を見ていた。


左手の手袋の、人差し指の先に、ほんのわずかに、白い粉のようなものがついていた。


菓子の粉砂糖かもしれなかった。


まだ、菓子は、卓に出ていなかった。



* * * * * *



茶会は、穏やかに進んでいった。


菩提樹の葉が、ときおり、卓の上に、はらはらと落ちた。令嬢たちは、笑い、扇を動かし、焼き菓子をつまんだ。秋の陽が、銀の茶器の上で揺れていた。


ジェフリーは、門の内側から、少しだけ、卓に近い場所へ移っていた。


庭の薔薇の茂みの脇。卓の全部と、屋敷の玄関と、門と、裏庭へ続く小道が、ひと目で見わたせる場所だった。


ルイーゼが、ときどき、こちらを見た。


見ては、頬を赤くして、あわてて目を逸らした。


ほかの令嬢たちも、ときどき、こちらを見た。


ジェフリーは、緑のドレスの令嬢を、見ていた。


ウルリケは、ほとんど、しゃべらなかった。


ほかの令嬢たちが笑うと、少し遅れて、口もとだけで笑った。焼き菓子にはひとつも、手をつけなかった。


茶にも、口をつけなかった。


侍女が注いだ杯は、最初に注がれたときのまま、卓の上で冷めていった。


そして、左手を、ずっと膝の上に置いていた。


膝の上で、手袋の指先が、ときどき、ドレスの布を、握ったり、離したりしていた。


ジェフリーは、薔薇の茂みの脇で、身じろぎもしなかった。


卓の上の茶器を、見ていた。


銀の茶器のほかに、もうひとつ、別の茶器があった。小ぶりの、白い磁器のポット。それと、揃いの杯がひとつ。杯の縁に、青い勿忘草の花が描かれていた。


その杯は、ルイーゼの前にだけ置かれていた。


ルイーゼは、ときどき、その杯に、白いポットから茶を注ぎたしていた。ほかの令嬢の杯には、銀の茶器から侍女が注いでいた。


婦人が、先ほど、ジェフリーのそばを通りがかったときに、言っていた。


あの勿忘草の茶器は、亡くなった主人が、ルイーゼの小さい頃に贈ったものなのだと。あの子は、あれでなければ、お茶を飲まないのだと。


白いポットの茶が、少なくなっていた。


ルイーゼが、侍女を呼ぼうとして顔を上げた。


そのとき、ウルリケが立ちあがった。


「わたくしが、淹れてくるわ。ルイーゼ。……厨房の場所なら、わかるもの」


ルイーゼは、ぱっと笑った。


「ありがとう、ウルリケ。いつもの葉よ。棚の、いちばん上の」


「ええ。知っているわ」


ウルリケは、白いポットを、両手で持った。


屋敷のほうへ、歩いていった。


ジェフリーは、その背中を見ていた。


白いポットを持つ手袋の、左の人差し指が、ポットの蓋の縁にかかっていた。


しばらくして、ウルリケは、湯気の立つ白いポットを持って戻ってきた。


卓の、ルイーゼの隣に立った。


ルイーゼの、勿忘草の杯に、茶を注いだ。


注ぐ手が、震えていた。


杯の縁から、ひとしずく、茶がこぼれて、白い卓布に茶色い染みをつくった。


「あら、ウルリケ。大丈夫?」


「……ごめんなさい。少し、熱くて」


ウルリケは、ポットを卓の上に置いた。


置くとき、ポットの底が、卓に当たって、かちり、と小さな音を立てた。


ウルリケは、自分の椅子に戻った。


腰を下ろした。


膝の上で、両手を、きつく握りあわせた。


ジェフリーは、ルイーゼの杯を見ていた。


瞬きを、していなかった。


ルイーゼが、勿忘草の杯に手を伸ばした。


白い指が、杯の取っ手に、かかった。


ジェフリーは、薔薇の茂みの脇から、歩きだしていた。



* * * * * *



足音を、立てなかった。


令嬢たちの誰も、黒い外套の騎士が、いつ、卓のそばまで来ていたのか、わからなかった。


気がついたときには、ジェフリーは、ルイーゼの椅子の、すぐうしろに立っていた。


ルイーゼが、杯を持ちあげかけた手を止めて、振り返った。


すぐ近くに、淡い金の髪と、青い目があった。


ルイーゼの顔が、真っ赤になった。


「ハ、ハルセリン様?」


「その杯を」


ジェフリーは、言った。


「私に、いただけますか」


卓のまわりが、しんと静かになった。


令嬢たちが、扇を動かす手を止めていた。


ルイーゼは、目を瞬いた。


それから、何かに思いあたったように、ぱっと、顔を輝かせた。


「まあ。お茶を、召しあがりたかったのですね。わたくしったら、気がつかなくて。……あの、でも、これは、わたくしの杯で。すぐに、新しい杯を」


「それが、いい」


ジェフリーは、手を差しだした。


ルイーゼは、首まで赤くなりながら、勿忘草の杯を、ジェフリーの手にそっとのせた。


卓の向こうで、ウルリケが、椅子から、腰を浮かせかけていた。


顔が、紙のように白かった。


ジェフリーは、杯を口もとへ運んだ。


茶を、ほんのひと口だけ、口に含んだ。


飲みこまなかった。


舌の上で、ゆっくりと、転がした。


香りのいい、少し渋みのある茶だった。さっき、門の内側で、婦人の手から受けとった茶と、同じ葉だった。


その奥に、別の味があった。


かすかな、苦み。


それから、舌の先が、ちり、と、痺れた。


黒騎士になったとき、最初の一年で、教えこまれる味だった。どの草の根を干して砕くと、こういう味になるのか。どれくらいで、指の先から、息が止まっていくのか。


ジェフリーは、杯を卓の上に置いた。


外套の内側からハンカチを取りだして、口もとに当てた。含んでいた茶を、その中へ静かに移した。


ハンカチをたたんで、外套のポケットに入れた。


卓のまわりの誰も、声を出さなかった。


ジェフリーは、顔を上げた。


卓の向こうの、緑のドレスの令嬢を見た。


何の色もない、冷たい青い目で。


「ウルリケ嬢」


ウルリケの肩が、跳ねた。


「左の手袋を、外していただけますか」


ウルリケは、動かなかった。


椅子から腰を浮かせかけた格好のまま、凍りついたように、ジェフリーを見ていた。


唇が、かすかに震えていた。


ジェフリーは、もう一度、言った。


「外していただけないなら、私が外します」


ウルリケの膝の上で、握りしめた両手がほどけた。


ほどけた左手の手袋の中から、何かがすべり落ちた。


小さな、硝子の瓶だった。


指の先ほどの、薄い緑色の瓶。


それが、ウルリケの膝から、ドレスの裾を伝って、芝生の上に、ころりと転がった。


瓶の口から、白い粉が、ほんの少しだけこぼれた。


令嬢のひとりが、悲鳴を上げた。


ルイーゼが、勿忘草の杯を見た。


それから、ウルリケを見た。


「……ウルリケ?」


ウルリケは、答えなかった。


椅子の上に、崩れるように腰を落とした。


両手で、顔を覆った。


指のあいだから、細い、かすれた声がもれた。


「……ごめんなさい。ごめんなさい、ルイーゼ。……父が。父が、そうしなければ、家が、なくなるって」


ルイーゼは、何も言えずに、従姉を見ていた。


門の外から、格子を押しあけて、アルベルトが駆けこんできた。


ジェフリーは、振り返らずに言った。


「ヴァレン。門を閉めろ。誰も出すな。……それから、この令嬢の侍女を押さえろ。逃がすな」


アルベルトが、一瞬だけ、目を見開いた。


それから、黙ってうなずいた。


卓の脇で、緑のドレスの令嬢の侍女が、庭の裏手の小道のほうへ、じりじりと下がりかけていた。アルベルトは、三歩でその前に回りこんでいた。



* * * * * *



婦人が、屋敷の玄関から駆けだしてきた。


卓のまわりの様子を見て、足を止めた。


芝生の上の、小さな硝子の瓶を見た。


顔を覆って泣いている姪を見た。


勿忘草の杯を見た。


それから、その杯のそばに立っている、黒い外套の騎士を見た。


「ハルセリン様。……いったい」


「ご令嬢は、無事です」


ジェフリーは、言った。


声は、いつもと何も変わらなかった。


「杯には、口をつけておられません。……すぐに、医者を。それから、王都の警備隊に、使いを」


婦人は、その場に立ちつくした。


それから、はっとしたように、ジェフリーの顔を見た。


「あなたは。……ハルセリン様、あなたは、それを、お飲みに」


「口に含んだだけです。飲んではいません」


婦人の顔から、血の気が引いていった。


ルイーゼが、椅子から立ちあがった。


ジェフリーのほうへ、よろめくように、一歩、踏みだした。


「ハルセリン様。わたくしの、身代わりに」


ジェフリーは、ルイーゼのほうを見た。


その顔を見て、少しだけ、困ったような顔をした。


「身代わりではありません。……確かめただけです。警護の仕事です」


それだけ言って、ジェフリーは、卓に背を向けた。


アルベルトが、緑のドレスの令嬢の侍女の腕をつかんだまま、こちらを見ていた。


ジェフリーは、アルベルトの横を通りすぎた。


通りすぎながら、ほとんど唇を動かさずに、言った。


「ヴァレン。……あとを、頼む。少し、外す」


アルベルトは、ジェフリーの横顔を見た。


額に、汗が浮いていた。秋の、涼しい午後なのに。


唇の色が、いつもより、少しだけ薄かった。


アルベルトは、何も訊かなかった。


「……行ってください、隊長。ここは、俺が」


ジェフリーは、塀ぎわの石の水盤のほうへ、歩いていった。


獅子の口から、細い水がひと筋、絶え間なく落ちていた。菩提樹の卓からは、少し離れた場所だった。


水盤の縁に、片手をついた。


口の中に、まだ、苦みが残っていた。舌の先の痺れが、唇のほうへ、ゆっくりと広がりかけていた。


ハンカチに移したつもりだった。


それでも、ほんの少しは、舌の奥に、残っていたのだろう。


ジェフリーは、獅子の口から落ちる水を、手のひらに受けた。


口に含み、すすいで、水盤の脇の溝へ、静かに流した。


もう一度。もう一度。


冷たい水が、舌の上の苦みを、少しずつ洗っていった。何度目かで、口の中には、水の味しかしなくなった。


それでも、あと二度、同じことをくり返した。


それから、水盤の縁に手をついたまま、しばらく、水の落ちる音を聞いていた。


唇の痺れは、もうそれ以上、広がらなかった。


ジェフリーは、濡れた口もとを、指の背でそっとぬぐった。


顔を上げて、庭のほうを見た。


菩提樹の下で、婦人が、娘を抱きしめていた。ルイーゼは、母親の肩ごしに、こちらをじっと見ていた。


塀ぎわの、水盤のほうを。


ジェフリーは、外套の襟を立てた。


何事もなかったような顔で、門の内側のもとの場所に戻った。



* * * * * *



その夜、ジェフリーは、宿舎の自分の部屋の寝台に、横になっていた。


騎士団の医者が、ジェフリーの舌を見て、脈をとって、まぶたをめくって、それから、長いため息をついた。


「ほんのわずかですね。すぐに口から出して、水でよくすすいだのが、よかった。……それでも、二、三日は、寝ていてください。手足の先が、しばらく、少し痺れるかもしれません。それも、じきに消えます」


医者は、苦い煎じ薬を一杯、置いていった。


医者が出ていってしばらくすると、扉が、ノックもなしに開いた。


軍団長だった。


大きな体で、狭い部屋の戸口をふさいでいた。


ジェフリーが、寝台から身を起こそうとすると、軍団長は、片手を上げてそれを止めた。


「寝とれ」


軍団長は、部屋の隅の椅子を引っぱってきて、寝台の脇にどさりと腰を下ろした。


しばらく、黙って、ジェフリーの顔を見ていた。


それから、言った。


「茶を飲めとは、言った」


「……はい」


「毒まで飲めとは、言っとらん」


ジェフリーは、天井を見上げた。


「飲んではいません。口に含んだだけです」


「医者は、そうは言っとらんかったぞ」


ジェフリーは、黙った。


軍団長は、太い腕を組んだ。


「エッカートの弟が、賭けごとで、首が回らなくなっとった。兄貴が死んで、子爵家の財産は、未亡人と娘のものになった。娘が嫁に行く前に死ねば、家の財産は、弟の家に戻る。……そういう取り決めだったらしい。くだらん話だ」


軍団長は、鼻を鳴らした。


「弟は、今夜のうちに、警備隊が押さえた。近ごろ、エッカートの屋敷の馬車の車輪が外れかけたり、娘の飼っとった小鳥が死んだりしとったそうだ。未亡人は、気味が悪くて女房に相談した。それで、女房が、騎士をひとり置けと言った。……物騒だから、というのは、本当だったわけだ」


「……娘のほうは」


ジェフリーが、天井を見たまま、訊いた。


軍団長は、少しのあいだ、黙っていた。


「従姉の娘か。泣きどおしだそうだ。父親に、やらなければ家がなくなる、母親も弟妹も路頭に迷う、と、毎晩のように言われとったらしい。……瓶を渡されてから、ひと月、ずっと持ち歩いて、ずっと使えずにおったんだと」


ジェフリーは、目を閉じた。


白いポットを持って、屋敷のほうへ歩いていった背中を思い出した。


戻ってきて、勿忘草の杯に茶を注いだ、震える手を。


「それでも、注ぎました」


ジェフリーは、言った。


静かな声だった。


「ひと月、使えずにいても。……最後には、注ぎました」


軍団長は、何も言わなかった。


しばらくして、組んでいた腕をほどいた。


「女房がな」


軍団長は、言った。


「おまえに、礼を言えと、うるさい。……それから、未亡人が、明日にでも、ここへ見舞いに来ると言っとる。娘を連れて」


ジェフリーは、目を開けた。


「宿舎は、ご婦人のお見えになるところでは」


「わかっとる。門の前で、追い返していいかと訊いたら、女房に、ものすごい目でにらまれた」


軍団長は、立ちあがった。


椅子を、部屋の隅に戻した。


扉の前で、振り返った。


「ハルセリン」


「はい」


「よくやった」


それだけ言って、軍団長は部屋を出ていった。


扉が、閉まった。


ジェフリーは、天井を見上げていた。


枕もとの卓の上で、医者の置いていった煎じ薬が、冷めかけていた。


ジェフリーは、手を伸ばして、その杯を取った。


指の先が、まだ、少しだけ、痺れていた。


苦い薬を、ひと息に飲みほした。


自分で選んだ杯は、苦くても、飲める。


そう思った。



* * * * * *



次の日の昼、宿舎の門の前に一台の馬車が止まった。


扉に、小さな花の紋が描かれていた。


門番の騎士が、慌てて、三番隊の隊長室へ走ってきた。ちょうど、マティアス・ローデンが、隊長の代わりに、書類の山と格闘しているところだった。


マティアスは、門番の話を聞いて書類から顔を上げた。


「子爵家の、未亡人と、お嬢さんが?……隊長は、今日は、寝ておられる。医者の言いつけだ」


「それが、副隊長。お嬢さんのほうが、門の前から動こうとしないんです。お顔だけでも、と」


マティアスは、少しのあいだ、考えていた。


それから、ため息をついて、立ちあがった。


ジェフリーの部屋の扉を叩くと、中から返事があった。


扉を開けると、ジェフリーは、もう、寝台の脇に立って、黒騎士の上着の袖に腕を通しているところだった。


「隊長。医者は、寝ていろと」


「門の前に、ご婦人を立たせておくわけにはいかない」


ジェフリーは、上着の留め具を、上から順に留めていった。


指が、ひとつだけ、留め具をかけそこねた。


もう一度、かけなおした。


マティアスは、それを見ていた。


何も言わなかった。



* * * * * *



門の前に、ルイーゼが立っていた。


淡い桃色のドレスを着ていた。両手で、布をかけた籠を、胸に抱えていた。母親は、少し離れたところで、馬車のそばに立っていた。


ジェフリーが門のところへ出ていくと、ルイーゼは、ぱっと顔を上げた。


それから、ジェフリーの顔を見て、目を潤ませた。


「ハルセリン様。……お加減は」


「問題ありません」


「お顔の色が」


「問題ありません」


ルイーゼは、唇を噛んだ。


それから、籠をジェフリーのほうへ差しだした。


「蜂蜜の、焼き菓子です。わたくしが、焼きました。……お口に合うか、わかりませんけれど」


ジェフリーは、籠を見下ろした。


甘い匂いがした。


少しのあいだ、黙っていた。


それから、籠を受けとった。


「……ありがとうございます。隊の者と、いただきます」


ルイーゼは、少しだけ、何か言いたそうな顔をした。


それから、籠から手を離して、胸の前で、両手を握りあわせた。


「ハルセリン様」


「はい」


「わたくし。……昨日の夜、ずっと、眠れませんでした」


ジェフリーは、黙って聞いていた。


「勿忘草の杯を、ハルセリン様が、口もとへ運ばれたとき。わたくし、何も知らずに、お茶を召しあがりたいのだと思って、喜んで、お渡ししてしまって。……あとで、全部、わかって。それから、塀ぎわの水盤のほうへ歩いていかれる背中を、見て」


ルイーゼの灰色の目から、涙が、ひとつぶ、こぼれた。


「わたくしの、代わりに、あの毒を。……それなのに、何事もなかったようなお顔で、また、門のところに、立っていらして」


ルイーゼは、涙をぬぐいもせずに、ジェフリーを見上げた。


「あのときから、ずっと。……胸が、痛いのです。ハルセリン様のことを、考えると」


門の前に、秋の風が、きぬけた。


門番の騎士が、門の脇で、石のように固まっていた。


隊長室の窓から、マティアスが、こちらを見下ろしていた。その隣の窓から、アルベルトの顔がのぞいていた。


ジェフリーは、ルイーゼの顔を見下ろしていた。


しばらく、何も言わなかった。


それから、言った。


穏やかな声だった。


「ルイーゼ嬢」


「……はい」


「それは、怖い思いをなさったからです」


ルイーゼが、目を瞬いた。


ジェフリーは、まっすぐにルイーゼを見ていた。


心から、この令嬢を気づかう目だった。


「命を狙われて、それを、目の前で、誰かに防いでもらった。……そういうとき、人は、防いだ者に、特別な気持ちを抱くものです。恩を感じて、それを、別の気持ちと取りちがえる。戦場でも、よくあることです」


「取り、ちがえる?」


「あのとき、あなたの後ろに立っていたのが、私でなくても。ローデンでも、ヴァレンでも、ほかの黒騎士の誰でも。……あなたは、同じように、感じたはずです」


ルイーゼは、ぽかんと口を開けて、ジェフリーを見上げていた。


隊長室の窓で、マティアスが、額に手を当てた。


その隣の窓で、アルベルトが、窓枠に突っ伏した。


ジェフリーは、続けた。


「ですから、ご心配はいりません。少し時間がたてば、落ち着きます。……怖いことは、もう、終わりました。叔父上は、捕らえられました。あなたは、もう、安全です」


ルイーゼは、しばらく、何も言わなかった。


それから、小さな声で訊いた。


「……では、ハルセリン様は。もし、昨日、わたくしの後ろに立っていらしたのが、あのお部屋の窓の、銀色の髪の大きな方だったとしても。わたくしの胸は、同じように痛くなったと、お思いになるのですか」


ジェフリーは、少しだけ、考えた。


それから、うなずいた。


「なります」


迷いのない声だった。


隊長室の窓で、マティアスが、ゆっくりと窓から離れていった。


ルイーゼは、ジェフリーの顔をじっと見ていた。


灰色の目に、涙が、まだ残っていた。


それなのに、その目の奥に、何か、別のものが灯りはじめていた。


ルイーゼは、ドレスの裾を両手で、ぎゅっとつまんだ。


「……わかりました」


それから、きっぱりと膝を折った。


今度は、よろけなかった。


「では、落ち着くかどうか。……確かめに、また、まいります」


ルイーゼは、くるりと背中を向けた。


蜂蜜のような色の髪を揺らして、馬車のほうへ、まっすぐに歩いていった。


馬車のそばで、母親が娘を迎えた。それから、門のところに立っているジェフリーのほうを見て、何とも言えない顔で、小さく頭を下げた。


馬車が、走りだした。


ジェフリーは、門の前に、籠を抱えて立っていた。


また、まいります。


怖い思いのあとでは、誰でも、少しのあいだ、そうなる。


ジェフリーは、そう思った。



* * * * * *



「隊長」


その夜、隊長室の長椅子で、アルベルトが、蜂蜜の焼き菓子をひとつつまみながら言った。


ジェフリーは、寝ていろという医者の言いつけを無視して、机の前で報告書を書いていた。


「なんだ」


「隊長の、その、取りちがえる、ってやつ。……本気で言ったんですか」


「本気だ」


ジェフリーは、ペンを止めなかった。


「身を挺して守られると、人は、それを恋だと思いこみやすい。とくに、ご婦人は。……守った者が誰でも、同じだ。黒騎士なら、なおさらだ。外套が黒いだけで、何か特別なものに見えるんだろう」


アルベルトは、焼き菓子をかじる手を止めた。


しばらく、ジェフリーの横顔を、眺めていた。


「……じゃあ、聞きますけどね」


「なんだ」


「俺だって、一般兵のころから数えりゃ、ご婦人のひとりやふたり、身を挺して守ったことはありますよ。酒場で絡まれてた娘とか、川に落ちかけた子どもの母親とか。……でも、そのあと、誰からも、胸が痛いなんて言われたことないですよ」


ジェフリーのペンが、止まった。


少しのあいだ、何か考えているようだった。


それから、また、ペンを動かしはじめた。


「……おまえの守り方が、うまかったんだろう」


アルベルトが、目を瞬いた。


「怖い思いをさせずに済めば、取りちがえることもない。……そのほうが、いい」


アルベルトは、長椅子の上で、天井を見上げた。


長い、長いため息をついた。


それから、手の中の焼き菓子を、黙ってかじった。


部屋の隅で、書類を整理していたマティアスが、ぼそりと言った。


「隊長」


「なんだ、ローデン」


「さきほど、あのお嬢さんが、窓の銀色の髪の大きな方でも同じだと思うかと、訊いておられましたが」


「訊かれた。それが、どうかしたか」


「私は、三十を過ぎております。顔も、この通りです。……あのお嬢さんの胸が、私のために痛むとは、とても思えませんが」


ジェフリーは、ペンを止めて、マティアスを見た。


マティアスの、銀灰色の短い髪と、大きな肩と、穏やかな顔を、見た。


少し、考えた。


「おまえは、頼りになる顔をしている」


マティアスは、口を開けた。


何か言いかけて、そのまま、閉じた。手もとの書類の束を、なぜか、もう一度、最初から揃えなおしはじめた。


アルベルトが、長椅子の上で、笑いをこらえそこねて、激しくむせた。



* * * * * *



それから、季節がひとつ、過ぎた。


三番隊の隊長室の机の引き出しには、淡い藤色の封筒が、少しずつ、たまっていった。


小さな花の紋の、封蝋。几帳面に行のそろった、丸みのある字。


週に一度、決まって、届いた。


中身は、短かった。庭の薔薇が終わったこと。母親が、風邪をひいたこと。勿忘草の茶器を、一度だけ、もう一度使ってみたこと。従姉のウルリケが、北の修道院へ入ったこと。一度、会いにいったこと。


そして、どの手紙も、最後の一行は同じだった。


――まだ、落ち着きません。


ジェフリーは、手紙が届くたびに、一度だけ読んで引き出しにしまった。


返事は、一度だけ書いた。


――寒くなりましたので、どうぞ、お体を大切に。


それだけだった。


次の週の手紙は、いつもより、少しだけ長かった。最後の一行は、やはり同じだった。


ある日、軍団長が、執務室にジェフリーを呼んだ。


用件は、北の峠の補給の話だった。それが済むと、軍団長は椅子の背にもたれて、天井を見上げた。


「ハルセリン」


「はい」


「女房がな。おまえは、女心というものが、ひとつも、わかっとらんと言っておる」


ジェフリーは、少しだけ、眉を寄せた。


「警護の仕事に、女心は要りません」


軍団長は、天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。


それから、腹の底から笑いだした。


執務室の窓硝子が、びりびりと震えるほどの、大きな笑い声だった。


「……そうか。そうだな。要らんな」


軍団長は、笑いすぎて滲んだ目尻を、太い指でぬぐった。


「女心は、ひとつもわからん。そのくせ、杯の毒には、誰より先に気づきおる。……まったく、妙な男だよ、おまえは」


ジェフリーは、褒められたのか、そうでないのか、わからなかった。


わからないまま、頭を下げて、執務室を出た。


回廊を歩きながら、外套のポケットに手を入れた。


今朝、届いたばかりの、淡い藤色の封筒が指の先に触れた。


まだ、開けていなかった。


最後の一行は、たぶん、今度も同じなのだろう。


怖い思いのあとでは、誰でも、しばらくは、そうなる。


ジェフリーは、そう思っていた。


回廊の窓の外を、冷たい北の風が、枯れ葉を一枚、くるくると運んでいった。

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