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【Another Page】黒騎士ステファン・ベック ―馬番のひとり言―

これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する黒騎士ステファン・ベックのお話しです。

本編の旅立ちからダリアでの出来事を、いつも馬のそばにいた彼の視点から描いています。

本編と一部同じ場面が登場しますが、そのとき彼が何を見て、何を思っていたのか。

誰にも言わなかったことを、ほんの少しだけ。

エステリアの王妃が持ち込んだ荷を、ようやく荷台へ押し上げ終えたところで、ステファン・ベックは隊長の「全部、降ろせ」を聞いた。


夜明け前の厩舎の前は、干し草と馬の匂いでいっぱいだった。

腕の中には、ずしりと重い木箱がある。中で何かが触れ合って、かちゃりと上品な音を立てた。


銀の茶器だろう、と思った。


今からですか、と喉まで出かかった。

隊長の顔を見て、飲みこんだ。


ステファンは小さく息を吐き、ようやく荷台に収めた箱を、もう一度抱え直した。


サルヴィアの北の森で、猟師の家に生まれた。

言葉より先に馬の機嫌を覚えたような男で、隊ではたいてい馬の世話を受け持っている。重い荷を運ぶのも嫌いではない。


ただ、運んだものをすぐに降ろすのは、さすがに少しこたえた。


石畳の上へ箱を戻していると、王妃が目元を押さえているのが見えた。

隊長が、珍しく途方に暮れた顔で立っている。


ステファンは、黙って次の箱に手をかけた。


少し離れたところから若い笑い声が聞こえてきたのは、そのときだった。


新しく入ったエミールとテオが、木箱を運びながら、あひるの姫だの、馬が一頭余計に疲れるだのと笑い合っていた。


その笑い声は、長くは続かなかった。


いつのまにか二人の前に、隊長が立っていたからだ。


声を荒らげたわけでもないのに、二人の顔からみるみる血の気が引いていくのが、ここからでも分かった。

話が終わるころには、二人はそろって王女の護衛に回されていた。


気の毒に、とステファンは思った。


笑い話にした相手のそばに、これから張りつくことになるのだ。

さぞ居心地が悪いだろう。


あひるの姫。


エステリアに来てから、その呼び名は何度も耳にしていた。

夜会で誰にも相手にされない、太った第一王女。

王宮の厩番でさえ、そんなふうに噂していた。


「皆さま、お待たせいたしました」


薄明かりの中から、声がした。


ステファンは、降ろしかけた箱を抱えたまま、顔を上げた。


白い上衣に、青と白の長い旅装。

裾には小さな花の刺繍が散っていて、歩くたびに静かに揺れた。腰には幅の広い革帯と、学術道具の鞄。長い黒髪は左右から編まれ、背中で青いリボンにまとめられている。


噂の王女は、黒騎士たちの前で足を止めると、膝を深く折る礼ではなく、学者がするような簡素な会釈をした。


「本日より、エステリア王立学術評議院の学者として、ご一緒いたします。どうぞよろしくお願いいたします」


その声は、厩舎の隅までよく通った。


背筋が、まっすぐだった。


たった今降ろされていくドレスや茶器のほうを、その人は一度も振り返らなかった。


ステファンは、自分がまだ木箱を抱えたままでいることに気づいて、慌てて石畳へ下ろした。


こんな人だとは、誰も言っていなかった。



* * * * * *



最初の野営は、小川のそばの草地だった。


雨の気配もなく、風も弱い。

今夜は天幕なしでいけるだろう、と誰かが言った。空はまだ明るさを残していて、どこまでも高かった。


ステファンは、ほかの三人と手分けして馬の世話にかかった。


鞍を外し、汗に濡れた背を拭い、水を飲ませる。

騎乗の馬も、幌馬車を引いてきた馬も区別はしない。一頭ずつ蹄を持ち上げて、石や泥が挟まっていないか確かめていく。


小川のほとりで水を飲ませていたとき、ステファンは、水辺の草むらに屈みこんでいる人影に気づいた。


青と白の旅装だった。


王女が、草をかき分けている。


何かを探しているようだった。

やがて指先で何かをつまみ上げた。夕陽を受けて、それが小さく琥珀色に光った。


虫だった。


王女が、素手で、虫を。


ステファンが馬の首越しに見ているうちに、王女は虫をのせた葉を手に、野営地のあちこちに残る古い焚き火の跡を回りはじめた。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。

よっつ。


夕暮れの草地に、小さな火がぽつり、ぽつりと灯っていった。


王女はそれから、ひとつだけ火のつかない石の輪の前で、火打ち石と格闘していたテオのそばへ戻った。


身を寄せて、何か小声で話している。


テオがもう一度火打ち石を打つと、ぱっと火が立った。


テオは目を丸くして、それから、耳まで赤くなった。


ステファンは、馬の首を撫でながら、それを見ていた。


あとで火の番を任されたのは、テオだった。


新人が思ったより早く火を起こした。

たぶん、皆はそう思っていた。


自分だけが、見ていた。


胸の奥が、なぜかくすぐったかった。



* * * * * *



王女が突然、龍の涙を手にするまで髭を生やしてはならない、と言い出したのは、その少しあとのことだった。


焚き火のまわりが、しんとなった。


王女は、医療に携わる者がなぜ髭を剃るのかを、ひとつずつ説明していった。

細かなものまで通しにくくした布を、顔へ密着させるためだと。髭があれば、そこに隙間ができるのだと。


隊長が、炭鉱では髭のある者でも布を巻いて通ってきたと言い、副隊長は、布の縁に触れるところだけ剃るのでは駄目かと尋ねた。


王女は少し考える顔をしてから、隊長に顔を屈めさせ、その頬に指先で触れた。


隊長は、身じろぎひとつしなかった。


剣の稽古でも、あれほど固まった隊長は見たことがない、とステファンは思った。


王女はいたって真剣な顔で、すこしありますね、と言うと、幌馬車へ走っていった。

戻ってきた手には、防護の布と小さな瓶があった。


布を着けさせられた隊長の顔の前で、王女が瓶を振った。


しゃっ、しゃっ、しゃっ。


隊長は顔を背けて咳き込み、くしゃみが止まらなくなった。

副隊長が口元を腕で覆って、素早く後ろへ下がった。


誰も、笑わなかった。


笑えなかった。


これが胡椒ではなく、毒霧や瘴気だったら。


王女はそう言って、隊長をまっすぐに見た。


それきり、髭について口を開く者はいなかった。


ステファンは、自分の顎にそっと手をやった。


朝に剃ったはずの髭が、もう指先にざらりと引っかかった。



* * * * * *



夕餉の支度が進むあいだに、ステファンは馬たちに飼い葉を配った。


いつもの飼い葉に、亜麻の種と塩、海のものを干して砕いた粉を混ぜる。

馬の様子を見ながら、干し草を多めにしたり、豆の粉を足したりもする。


サルヴィアの騎士団で、長い遠征のたびに受け継がれてきたやり方だった。


餌桶をかき混ぜていると、背後で草を踏む足音がした。


「あの……少し、よろしいでしょうか」


振り返って、ステファンは固まった。


王女が立っていた。


「馬の餌桶から、嗅ぎなれない匂いがしたものですから。これは、何が入っているのですか?」


黒い瞳が、まっすぐ餌桶を覗きこんでいる。


ステファンは、手にしていた木の杓子を、意味もなく握り直した。


「……亜麻の種と、塩と、海藻を干して砕いたものです。馬の具合を見て、干し草や豆の粉を足すこともあります」


自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出た。


馬のことなら、話せる。


「長く歩かせると、馬も汗で塩が抜けますから。亜麻の種は、毛艶と腹の調子に。海のものは、骨を丈夫にすると聞いています」


王女は、感心したように何度も頷いた。


「皆さまのお食事だけでなく、馬のことまで、こんなに考えていらっしゃるのですね」


「馬も、俺たちと同じだけ大事な仲間ですから」


当たり前のことを、当たり前に言っただけだった。


王女はほんの少しだけ目を見開いた。


それから、ふわりと笑った。


「素敵な考え方ですね。……あの、お名前を伺ってもよろしいですか」


「ステファン・ベックです」


「ステファン様。教えてくださって、ありがとうございます」


王女は会釈をして、焚き火のほうへ戻っていった。


ステファンは、餌桶の前に立ちつくしていた。


黒騎士を様付けで呼ぶ王女など、聞いたことがなかった。


隣で別の馬に飼い葉をやっていた仲間が、肘でステファンの脇腹をつついた。


「おい。杓子から、こぼれてるぞ」


見下ろすと、傾いた杓子から飼い葉がぱらぱらと足もとに落ちていた。


馬が首を伸ばして、地面の分まで嬉しそうに食べていた。



* * * * * *



野営地が静まると、王女は湯桶と布と薬壺を用意して、騎士をひとりずつ呼びはじめた。


今夜塗るのは、今ある髭の根を弱らせる薬だという。

眉や髪の生え際についてしまえば、そちらまで抜けやすくなる。だから今夜は、自分が塗るのだと。


騎士たちは最初こそ戸惑っていた。


それでも、王女が真剣な顔で布を絞っているのを見ると、皆、大人しく顎を差し出した。


ステファンの番が来た。


王女が、目の前に座った。


「ステファン様。お顔を、少しだけ上へ」


名前を、覚えていた。


さっき一度、餌桶の前で名乗っただけの名前を。


温かい布が頬に触れた。

湯気の匂いがした。


布が、頬から顎へ、ゆっくりと下りていく。

冷えかけていた肌に、じんわりと温かさが広がった。


ステファンは、息の仕方を忘れていた。


布が離れると、今度はひやりとした指先が、顎の線に沿って薬を伸ばしていった。


唇のきわで止まり、耳の下で止まり、境目を確かめるように、慎重に、ていねいに。


すぐ目の前に、伏せた睫毛があった。


焚き火の明かりが、その頬の輪郭だけを淡く照らしていた。


「朝までは、お顔を洗わないでください。もし薬を落としてしまったら、わたくしのところへ来てください。もう一度塗りますから」


もう一度。


その言葉が、耳の奥に残った。


うっかり顔を洗ってしまえば、また――。


そこまで考えて、ステファンは自分の頭を殴りたくなった。


黒騎士が、何を考えているのか。


「ありがとう、ございます」


立ち上がるとき、膝が少しだけもつれた。


自分の寝床の毛布に戻ってからも、顎のあたりがいつまでも温かかった。


最後に残ったのは、隊長だった。


隊長は、ほかの者から少し離れた小さな焚き火のそばに、ひとりで座っていた。


王女がその正面に腰を下ろすと、隊長の顔がわずかに横へ逃げた。

王女が何か言い、その手が隊長の後頭部へそっと添えられた。


隊長は、それきり動かなくなった。


ステファンは、毛布の中からそれを見ていた。


見るつもりはなかった。

寝つけなかっただけだった。


何を話しているのかは聞こえない。


ただ、途中で王女が、小さく笑ったのが見えた。


さっき自分に向けられたのとは、少し違う笑い方だった。


どこがどう違うのかは、うまく言えなかった。


ステファンは寝返りを打って、星のほうへ顔を向けた。


あの焚き火のそばを、これ以上覗いていてはいけない気がした。


隊長が薬を塗り終えてもらうところまでは、見なかった。


天幕のない夜空は、王宮のどんな天井よりも広かった。


なかなか、眠れなかった。



* * * * * *



翌朝、小川で顔を洗うと、髭がぽろぽろと抜け落ちた。


あちこちで小さな騒ぎが起きた。


手のひらに落ちた髭を見て青ざめる者。

面白がって、隣の男の顎を撫でる者。


ステファンも、自分の顎に触れた。


つるりとしていた。


騎士たちにはひとりずつ、髭の伸びを遅くする薬の小さな壺と、昨夜王女が見せた防護の布が配られた。


ステファンは、受け取った布を広げてみた。


薄い布の縁に、指で曲げられる細い金属が縫いこまれている。


洗えば何度でも使えますから、必要なときには必ず身につけてください。


昨夜、王女はそう言っていた。


ステファンは布をていねいに畳んで、外套の内側の、胸のポケットへしまった。


水場のほうでは、王女が隊長に薬壺を差し出していた。


そこへエミールが駆けてきた。

副隊長が呼んでいるらしい。


隊長が行きかけると、その袖口を、王女が指先でつまんで引き止めた。


ほんの少しだけ。


つまむだけ。


王女は何も言わず、隊長の手の中の薬壺を指さした。


忘れないでくださいね、とでも言うように。


それだけの光景だった。


ステファンは、鞍を持ち上げかけた手を止めて、それを見ていた。


胸のポケットの布が、急に薄っぺらく感じられた。


その朝、隊は賊が出たという街道を避けて、西へ大きく遠回りすることになった。


行き先には、ダリアという町の名があった。


ステファンは、いつもより念入りに、王女の馬の蹄を確かめた。



* * * * * *



ダリアの一日手前、川のほとりで野営を張った夕方だった。


ステファンは少し下流の浅瀬で、馬に水を飲ませていた。


川は思っていたより幅が広く、流れも速い。

馬が足を取られないよう、岸の近くで一頭ずつ順番に。


葦の向こうから、かすかに声が聞こえた気がした。


誰か、と叫んでいる。


水音にかき消されそうなほど、細い声だった。


ステファンは手綱を近くの柳の枝に引っかけて、葦をかき分けた。


上流の岸辺に、二つの影が見えた。


ずぶ濡れで、石の上に倒れこんでいる。


一人は咳き込んでいる若い騎士。

もう一人は――青と白の旅装だった。


その腰のあたりから、一本の縄が、岸の柳の幹までぴんと張って伸びていた。


何が起きたのかは、わからなかった。


わかる前に、ステファンは野営地へ向かって走り出していた。


「アヤ様っ!隊長、こちらです!」


焚き火のそばにいた隊長と副隊長が、弾かれたように立ち上がった。


ステファンは二人の先を走り、葦の手前まで戻った。


そこで、足が止まった。


隊長がステファンを追い越していった。


岸辺へ着いた隊長は、ほんの一瞬、完全に動きを止めた。


それから無言で自分の上着を脱ぎ、王女の頭から肩へ、ふわりと被せた。


ステファンは、自分の外套の留め金に手をかけていた。


その手を、ゆっくりと下ろした。


それから、くるりと背を向けた。


見てはいけないものがあるような気がした。

岸辺のことは、隊長と副隊長に任せればいい。


馬のところへ戻る途中、ステファンは野営地に寄って、ありったけの毛布を抱えた。


湯も沸かしておかなければならない。


二人とも、ひどく冷えているはずだった。


鍋を火にかけながら、ステファンは、さっき留め金にかけた自分の指を見下ろした。


一歩、遅かった。


遅くてよかったのだ、と思った。


思おうとした。



* * * * * *



その夜、エミールは、馬の夜番と野営の片付けをひとりで命じられた。


焚き火の前で、エミールはすべて自分がやったのだと言い張った。


王女が何度言いかけても、そのたびに遮った。

唇はまだ青いのに、目だけはひどく静かだった。


夜が更けて、ステファンは自分の寝床へ向かう途中で、馬の列のほうを振り返った。


エミールが、一頭ずつ脚元を確かめて回っていた。


本当なら、ステファンの持ち場だった。


手伝ってやろうか、と一歩踏み出しかけて、やめた。


あれは、あいつの仕事だ。


今夜だけは。


そこへ、王女が近づいていくのが見えた。


手伝おうとしているのだろう。

その横からアルベルトが割りこんで、何か言いながら王女を連れていった。


ステファンは、小さく息を吐いた。


アルベルトのほうが、こういうときはずっとうまい。


しばらくして、焚き火のそばに、王女がひとりで座っているのが見えた。


膝の上に、黒い上着が畳んで置かれていた。


隊長のものだった。


王女は膝を抱えるように背を丸めて、熾火をじっと見ていた。


やがて、上着を着ていない隊長がやってきて、焚き火の反対側に腰を下ろした。


何を話していたのかは、わからない。


ただ、途中で王女が顔を伏せたのは見えた。

肩が、小さく震えていた。


隊長は、手を伸ばすことも、慰めるように肩を抱くこともしなかった。


ただ、まっすぐに王女を見て、何かを言った。


王女が、顔を上げた。


その顔を、ステファンは遠くから見ていた。


さっきまで丸まっていた背中が、ほんの少しだけ伸びていた。


自分なら、きっと何も言えなかった。


せいぜい湯を沸かして、黙って差し出すくらいだ。


あの人に、あんなふうに顔を上げさせる言葉を、自分はひとつも持っていない。


それが、少しだけ悔しかった。


悔しいと思った自分に、驚いた。


その夜遅く、ステファンは習い性のように、馬の様子を見に起き出した。


今夜はエミールの番だとわかっていても、目が覚めてしまうのだ。


小さな火のそばに、王女がひとりでしゃがみ、湯を沸かしていた。


花のような甘い匂いがした。

蜂蜜の匂いも混じっていた。


王女はカップを両手で包むようにして、足音を忍ばせ、エミールとテオの天幕のほうへ歩いていった。


ステファンは、何も見なかったことにした。


誰にも気づかれずに、誰かのために何かをする。


この人は、最初の夕方の焚き火から、ずっとそうだった。



* * * * * *



ダリアの町には、入らなかった。


窓の奥から向けられるいくつもの目に気づいた隊長が、一行を止めたのだ。


王女は幌馬車へ移され、アルベルトと四人の騎士が二台の幌馬車を囲んだ。

ステファンも、その四人のうちの一人だった。


幌の布一枚を隔てた向こうに、王女がいる。


ステファンは馬上で、閉ざされた窓をひとつずつ睨みながら、来た道を引き返した。


ダリア領へ入る手前の川辺に野営を移すと、王女は水汲みを手伝おうとして、エミールに止められていた。


それから、まっすぐ隊長のところへ向かった。


ステファンは馬の鞍を外しながら、少し離れたところでそれを聞いていた。


ダリアの民は飢えているのだと。


農具しか持たない民が、黒騎士にとって何の脅威になるのかと。


王女の声が、あんなふうに高くなるのを初めて聞いた。


副隊長が、飢えた者が自分の弱さにつけ込むやり方を、低い声で話した。


王女は、言い返す言葉を失ったように黙りこんだ。


その直後、川辺でエミールの鋭い声が上がった。


水桶を持ち去ろうとしていたのは、痩せた子どもだった。


ノアという名のその子は、捕まっても口だけは減らなかった。


黒騎士だと知ると目を輝かせ、自分も黒騎士に入れろと胸を張った。


ステファンは鞍を抱えたまま、思わず口元が緩んだ。


その子の腹や背には、子どもの身体には似つかわしくない古い傷があった。


食べ物を差し出されると、怯えた。


王女は麦粥に香草を揉んで散らし、ほんの少しの砂糖を落とした。


それから、ノアの背中にそっと手を添えて、温かいうちに食べましょう、と言った。


細い身体には、触れすぎないように。


ステファンはその夜も馬に飼い葉を配りながら、ノアが泣きながら麦粥を口へ運ぶのを見ていた。


焚き火のそばで語られる話は、ところどころしか耳に届かなかった。


届いた分だけで、杓子を握る手に力がこもった。


この旅のあいだに、自分は何度、この人を見てきただろう。


素手で虫をつまんでいた人。


馬の餌桶を覗きこんで、名前を尋ねてくれた人。


隊長の顔に胡椒を振りかけた人。


騎士ひとりひとりの顔を、温かい布で拭ってくれた人。


縄を腰に結んで、冷たい川から仲間を引き上げた人。


名前を書かずに、甘い花茶を置いていった人。


自分の国の、知らなかった姿を突きつけられて、黙りこんだ人。


それでも、泣いている子どもの背中から、手を離さなかった人。


あひるの姫、と呼ばれていた人だった。



* * * * * *



翌朝、副隊長が若い雄鹿を担いで見回りから戻り、エミールとテオがそれをさばくことになった。


そのあいだをノアがはしゃいで跳ねまわり、テオに邪魔だと追い払われていた。


日がすっかり昇ったころ、偵察に出ていたセドリックが戻ってきた。


隊長と副隊長は、セドリックの話を聞きながら、長いこと地図を囲んでいた。


やがて、組み分けが告げられた。


アルベルトとディーターは、断崖にあるという砦を確かめに。


隊長と副隊長は、セドリックとテオを連れて、ノアの言う騎士たちを押さえに。


残る者は、グスタフのもとで野営地を守る。


ステファンは、残る組だった。


「今日は、片付ける。……腹を重くするな」


隊長の一言で、皆が手にしていたパンを半分に割り、麦粥を半分だけ鍋に返した。


ステファンも、自分の器の半分を鍋に戻した。


残る組でも、同じことだった。


王女は、その様子を黙って見ていた。


胸の前で重ねた両手に、きゅっと力がこもっていた。


少し離れたところで、エミールが肩を落としていた。


討伐に向かう名前の中に、自分の名がなかったのだ。


そこへ副隊長がしゃがみこんで、何か話しかけていた。

しばらくして、エミールが小さく、はっきりと頷くのが見えた。


出立の前、隊長はグスタフに言い置いた。


アヤ様とノアを、川に近づけるな。

幌馬車のそばから離さずに守れ。


ステファンは、その言葉を、自分にも向けられたものとして聞いた。


黒い馬の列が、麦畑の向こうへ小さくなっていった。


王女はしばらく、そちらを見ていた。


ステファンは、野営地の外れの、馬をつないだあたりに立った。


この想いを、口にすることはないだろう。


あの人の目が、どこへ戻っていくのか。

自分はもう知っている。


焚き火の向こうで、あの人が顔を上げた夜から。


袖口をつまんだ、あの指先を見たときから。


そこに割って入るような男にはなりたくなかったし、そもそも、なれるとも思えなかった。


ただ、守ることはできる。


あの人の馬の蹄に異変があれば、誰より先に気づく。


冷えた夜には、湯を沸かして待つ。


隊長たちが戻るまで、この野営地には誰も近づけない。


誰にも気づかれなくていい。


気づかれないほうがいい。


ステファンは、外套の上から、胸のポケットに手を当てた。


畳んだ防護の布の、かすかな手触りがあった。


必要なときには、必ず身につけてください。


あの人の声が、耳の奥でよみがえった。


必要なときは、たぶん、この先の旅でいくらでも来る。


そのときには、言われたとおりに、きちんと身につけよう。


髭も、毎朝剃ろう。


あの人が、皆の命のことを考えて決めたことだ。


それくらいなら、自分にもできる。


振り返ると、王女が麦粥の鍋のそばから、こちらを見ていた。


目が合うと、王女は、あの最初の夕方と同じように、少しだけ首を傾げて微笑んだ。


ステファンは、ぎこちなく会釈を返した。


心臓が、また勝手に跳ね上がった。


情けない話だ、と思った。


それでも、もう少しだけ、このままでいいと思った。



* * * * * *



昼を過ぎて、日差しが川面をまぶしく照らしはじめたころだった。


幌馬車の幕は風を通すために高く巻き上げられ、その中で王女が小さな革の手帳に何か書きつけていた。


川べりでは、鹿をさばき終えたエミールのまわりを、ノアが相変わらず跳ねまわっている。


ステファンは、馬の脚を一頭ずつ確かめていた。


そこへ、野太い声が野営地じゅうに響いた。


「――この中に、責任者はおるか!」


ステファンは、馬の脚を持ち上げたまま顔を上げた。


野営地の入り口に、揃いの鎧の男が四人、立っていた。


腕に提げた盾の真ん中に、白金の花と王冠の紋が描かれている。


エステリアの紋章だった。


ダリアの村で人が殴られた。その下手人に心当たりはないか。


先頭の髭の濃い男は、そうがなり立てた。


エミールがノアの腕をつかみ、王女ごと幌馬車の中へ押しこんで、幕を下ろしていた。


グスタフが、ゆっくりと男たちの前へ歩み出ていった。


ステファンは、馬の脚をそっと下ろした。


鎧と盾は、それらしく見えた。


見えるだけに、妙だった。


名乗りもせず、礼もなく、遠い国から来た騎士に頭ごなしに物を言う。


サルヴィアの兵でも、もう少しましな口をきく。


そのときだった。


幌馬車の幕が内側から上がり、青と白の旅装が、グスタフの脇をすり抜けていった。


エミールの押し殺した声が、ここまで聞こえた。


王女は、四人の男の前にまっすぐ立った。


「あなた方は、エステリアの兵で、間違いございませんか」


よく通る声だった。


張り上げたわけでもないのに、川べりの風の中で少しも揺らがなかった。


男は、王女を上から下まで無遠慮に眺めまわした。


女が偉そうに、と吐き捨て、名を名乗れと言った。


王女は、ひと呼吸置いた。


「わたくしは、アヤ・ソヴェールです」


ステファンの手から、蹄を掻く鉤が落ちた。


アヤ・ラセル。


旅のあいだ、王女はずっとその名で通してきた。

隊の誰もが、その名を守ってきた。


それを今、自分の口で外した。


あなた方がよくご存じの名前のはずです、と王女は続けた。


男たちは顔を見合わせて、げらげらと笑った。


ステファンは、その笑い声を聞きながら、拳を握っていた。


笑われたことが腹立たしかったのではない。


いや、それもある。


それ以上に、その笑い声で、王女が何をしたのかがわかったからだ。


エステリアの兵なら、ソヴェールの名を聞いて笑えるはずがない。


あの人は、身分が露見する危うさを承知のうえで、自分の名前そのものを差し出して、この男たちを試したのだ。


誰にも頼まれていないのに。


グスタフが大きな一歩で前へ出て、その背中で王女の姿を隠した。


「……おまえたち。エステリアの兵じゃないな」


男の手が剣にかかった。


抜いた。


その音に重なるように、野営地じゅうで鞘走りの音がした。


ステファンも、気づけば剣を抜いていた。


川べりの葦がざわりと揺れ、木立の陰から、土手の向こうから、手に手に武器を握った男たちが姿を現した。


十人はいた。


「隊長からの命令は、全員、生け捕りだ。殺すなよ」


グスタフの声が、野営地の隅々まで届いた。


賊たちが喊声を上げて、なだれこんできた。


ステファンは、馬のそばを離れなかった。


ここには、隊の脚がある。


馬をやられれば、この先の旅は終わる。

それに、馬が暴れて綱を引きちぎれば、幌馬車のほうまで巻きこまれる。


案の定、賊のひとりが乱戦の輪を抜けて、馬をつないだ綱へ刃物を当てようとしていた。


ステファンは横合いから、その手首を剣の腹で打ちすえた。


「馬に触るな。蹴られるぞ」


言うそばから、ステファンの黒い馬が耳を伏せ、後ろ脚を跳ね上げた。


蹄が賊の腿をかすめ、男がよろめく。


その腕を取って、ステファンは男を地面へ伏せさせた。


押さえこんだまま、顔だけを上げた。


幌馬車の前で、エミールが剣を構えていた。


鎧の男が三人がかりで、エミールを囲んでいる。


エミールは肩で大きく息をしながら、一歩も幌馬車の前から退こうとしなかった。


ステファンの足が、そちらへ向きかけた。


足もとの賊が身をよじった。


ステファンは膝に力をこめて、それを押さえこみ直した。


今ここを離れれば、この男が綱を切る。


その一瞬のうちに、幌馬車の裏手へ、別の賊が回りこんでいくのが見えた。


エミールの背中へ向かって、剣が振り上げられる。


声を上げるより早く、横から黒い影が踏みこんだ。


振り上げられた剣が弾かれて、くるくると宙を舞う。


午後の日差しを一度だけ返して、川べりの土に突き立った。


淡い金の髪が、風に揺れていた。


隊長だった。


そこから先は、本当にあっという間だった。


三人の鎧の男が、ひとりずつ地面へ転がっていった。


隊長は、一度も刃を相手の身体へ入れなかった。


野営地が静かになると、隊長は剣を収めて、まっすぐ幌馬車へ向かった。


幕が上がった。


ステファンのいるところからは、中の様子は見えなかった。


ただ、幌馬車から降りてきた王女が、隊長の前に立って、その腕や肩を急いで目でたどっていくのが見えた。


それから、王女の肩から、ふっと力が抜けたのが見えた。


ステファンは、縄をかけ終えた賊を地面に座らせ、黒い馬の首を叩いた。


「よく蹴った」


馬が、ぶるると鼻を鳴らした。


自分の場所は、ここだ。


ステファンは、もう一度、馬の首を叩いた。



* * * * * *



捕らえた賊が野営地の隅に並べられ、倒れた天幕が張りなおされていくなかで、ステファンは馬の脚を一頭ずつ確かめていた。


乱戦のあいだに石を踏んでいないか。


綱で擦れたところはないか。


隊長の声が、自分の名前を呼んだ。


「ステファン」


顔を上げると、隊長の隣に王女が立っていた。


「アヤ様の手紙を、エステリアの王宮へ届けてくれ。……届けたら、必ず近衛とともに、ダリアへ戻ってこい」


ステファンは、自分の黒い馬の首を一度だけ叩いた。


「承知しました」


王女が幌馬車の中で羊皮紙にペンを走らせるあいだに、ステファンは旅の支度を整えた。


鞍を置き、腹帯を締める。


水と干し肉と、替えの蹄鉄を袋に詰める。


いつもの飼い葉も、小さな袋にひとつ。


亜麻の種と、塩と、海のもの。


道のりは長い。


隊の馬の中から、脚のいちばん確かな一頭を選び、替え馬として手綱につないだ。


途中で乗り換えれば、一頭に無理をさせずに距離を稼げる。


鼻面を撫でてやると、替え馬は大人しく目を細めた。


「少し、遠くまで走るぞ」


支度を終えたところへ、王女が幌馬車から降りてきた。


封をした手紙が三通、両手の上に重ねられていた。


「ステファン様。お願いいたします」


ステファンは、両手でそれを受け取った。


紙は、まだ少しだけ、王女の手のぬくもりを残していた。


三通とも、ていねいな字で宛名が書かれている。


そのうちの一通が誰に宛てたものなのかを見て、ステファンは小さく息をのんだ。


この人は、あの城から来たのだ。


夜明け前の厩舎の前で、降ろされていくドレスや茶器を一度も振り返らなかった人。


その城へ、この人の言葉を、自分が運ぶ。


「長い道のりになります。どうか、お気をつけて」


王女はそう言ってから、ふと、ステファンの顎のあたりに目をやった。


「それから……道中でも、軟膏は毎朝、お忘れなく」


いたって真剣な顔だった。


ステファンは、思わず自分の顎に手をやりかけて、やめた。


「……毎朝、剃ります」


王女が、くすりと笑った。


あの最初の夕方と同じように、少しだけ首を傾げて。


ステファンは手紙を油紙で包み、外套の内側の、胸のポケットへしまった。


畳んだ防護の布の隣に、三通の手紙が収まった。


ステファンは馬上の人になった。


黒い馬が、ぶるると鼻を鳴らした。


手綱を引く前に、一度だけ、野営地を振り返った。


隊長が、グスタフに見張りの指示を出していた。


アルベルトとディーターは、まだ戻っていない。


川べりではノアが、エミールの裂けた袖を引っぱって、何か夢中でまくしたてている。


王女は、幌馬車のそばで、隊長のほうへ向き直るところだった。


それでいい、とステファンは思った。


馬の腹を軽く蹴った。


蹄の音が、川沿いの道を王都の方角へ遠ざかっていく。


替え馬の蹄の音が、すぐ後ろで同じ調子を刻んでいた。


胸のポケットで、油紙がかすかに鳴った。


届けたら、必ず戻ってくる。


近衛を連れて、ダリアへ。


あの人のいる野営地へ。


傾きはじめた日の中を、風が川面を渡っていった。


ステファンは前を向いたまま、黒い馬の首を、もう一度だけ軽く叩いた。

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