【Another Page】エミール・レーンとテオ・ヴァルト ―二番隊の新人―
これは、『醜いあひるのお姫様~誰にも選ばれない私を、氷の騎士だけが見つけてくれました~』に登場する、黒騎士エミール・レーンとテオ・ヴァルトのお話です。
まだ二人が、黒騎士二番隊に入って間もない頃。
エステリアへ向かう旅が始まる少し前の、サルヴィア王都での出来事です。
本編では描かれていない、まだサルヴィアにいた頃の二人の一頁をお楽しみください。
二番隊の訓練場で、赤い髭の隊長が、木剣を肩に担いで仁王立ちしていた。
「次!」
呼ばれた騎士が、木剣を構えて踏みこんだ。
三度も打ち合わないうちに、コンラートの木剣が相手の剣を巻きこむように払い上げ、がら空きになった胴をぴたりと打った。
騎士は、腹を押さえてうずくまった。
「踏みこみが浅い。次!」
次の騎士も、同じだった。
その次も。
黒騎士二番隊隊長、コンラート・ヴァイス。
口は悪い。好き嫌いも激しい。三番隊の若い隊長を目の敵にしているともっぱらの噂だったが、剣の腕に異を唱える者はいなかった。長年、黒騎士の一隊を預かる隊長を務めているのも、その腕と実績があってこそだった。
訓練場の隅では、二人の新人が木剣を振っていた。
エミール・レーンと、テオ・ヴァルト。
どちらも十七歳。黒騎士に上がって、まだ一年も経っていない。今年、二番隊を希望して入ってきた、数少ない新人だった。
エミールは、一心不乱に木剣を振っていた。
赤みがかった栗色の髪が、汗で額に張りついている。
もう三百を超えたはずだった。
誰に命じられたわけでもない。休めと言われても、なかなかやめない。
一方、テオは、素振りの合間に何度も手を止めていた。
木剣を下ろして、訓練場の向こうを眺める。
思い出したように、また振る。
しばらくすると、また向こうを見る。
「テオ!」
コンラートの怒鳴り声が、訓練場に響いた。
「何をぼさっとしとる。素振りひとつ、まともにできんのか」
「……すみません」
テオは黒い髪をかき、木剣を構え直した。
それでも、目はまた訓練場の向こうへ向いた。
コンラートは舌打ちした。
まったく、今年の新人はろくなのがいない。
片方は、言われてもいない素振りを延々と続けて、加減というものを知らない。
もう片方は、気が散ってばかりで、少しも身が入らない。
おまけに、二人そろってよくしゃべる。宿舎では、三番隊の隊長がどうの、エステリアの王女がどうのと、くだらない噂話ばかりしているらしい。
三番隊を希望しなかったことだけは、褒めてやってもいい。
それ以外に、褒めるところは見当たらなかった。
* * * * * *
テオが訓練場の向こうで見ていたのは、厩舎だった。
正確には、厩舎の脇にある飼い葉の倉だった。
昨日の夕方から、倉の扉の閂が、少しだけ斜めにかかっている。
誰かが一度外して、慌ててかけ直したような角度だった。
そのうえ、倉の前の土には、見慣れない靴跡が残っていた。
黒騎士の軍靴ではない。
踵のすり減った、平たい底の靴。
荷運びの人足が履くようなものだった。
飼い葉の倉へ出入りする人足は決まっている。毎朝、決まった時刻に、いつもの二人が荷車で飼い葉を運んでくる。
その二人の靴跡とは、違って見えた。
テオは素振りをしながら、そのことを考えていた。
考えているうちに、コンラートに怒鳴られた。
* * * * * *
その夜。
宿舎の寝台で、テオは隣のエミールに小声で話しかけた。
「なあ、エミール。飼い葉の倉の閂、気づいたか」
「閂?」
エミールは、毎晩、寝る前に欠かさずやっている腕立て伏せの途中だった。
「斜めになってる。昨日から。それに、倉の前に知らない靴の跡がある」
「……それが、どうした」
「たぶん、誰か、夜のうちに倉に入ってる」
エミールの腕が止まった。
床に手をついたまま、テオを見る。
「隊長に言えよ」
「言ったって、聞くかよ。今日、素振りに身が入ってないって、怒鳴られたばっかりだ」
エミールは、少し考えた。
そのまま起き上がる。
「……今夜、見に行くか」
「夜番でもないのに?」
「だから見に行くんだろ」
もう、寝台の下から軍靴を引っぱり出していた。
* * * * * *
夜更けの厩舎の脇は、真っ暗だった。
二人は飼い葉の山の陰に身を伏せ、倉の扉を見張っていた。
春先とはいえ、サルヴィアの夜は冷える。
吐く息が白かった。
エミールは、寒さなど気にしていない様子で、じっと扉を睨んでいる。
テオは扉だけではなく、厩舎の裏や塀のあたりへ、しきりに目をやっていた。
「……おい。扉を見てろよ」
「見てるよ」
「見てないだろ」
「扉だけ見てても、どっちから来るかわかんないだろ」
テオは声を落とした。
「厩舎の裏の塀。あそこ、一か所だけ石が欠けて、低くなってるところがある。昼間、見た」
エミールも、そちらを見る。
暗くて、塀の形さえよく見えなかった。
「外から入るなら、あそこが一番楽だと思う」
「……よくそんなところ見てるな」
「見えたから」
テオは、それだけ言った。
しばらくして、塀の向こうで、ごそりと音がした。
テオが言っていた場所だった。
黒い影が、低くなった塀を乗り越え、地面へ降りる。
荷車を引く人足のような、粗末な身なりの男だった。
肩に空の麻袋を担いでいる。
男はあたりを見回してから倉へ近づき、斜めになった閂を慣れた手つきで外した。
扉の向こうへ消える。
二人は動かなかった。
やがて男が出てきた。
肩に担いだ麻袋は、来たときとは違い、ぱんぱんに膨らんでいる。
袋の口から、燕麦の粒が、ぱらぱらと地面へ落ちた。
黒騎士の馬のために、遠い穀倉地帯から運ばせているものだった。
「……あいつ」
エミールが身を起こしかけた。
テオが、すぐに腕をつかむ。
「待て」
「なんでだよ」
「ここで出たら、塀を越えて逃げられる」
「追えばいいだろ」
「向こうは軽い平底の靴だ。こっちは走るための靴じゃない。重い軍靴で路地まで追ったら、振り切られる」
エミールは舌打ちした。
「じゃあ、どうする」
テオは、塀の向こうを見るように目を細めた。
「外の路地は、先で二つに分かれてる。右は大通りに出る。あんな袋を担いで、わざわざ人の多いほうには行かないと思う」
「左は?」
「川沿いの倉庫街。途中に古い井戸がある。あそこだけ道が狭い」
エミールは、テオの顔を見た。
「先回りできるか?」
「走れば」
それを聞くなり、エミールは立ち上がった。
「行くぞ」
今度は、エミールが先に駆けだした。
* * * * * *
古い井戸の脇にある、狭い路地。
麻袋を担いだ男が、息を切らして走ってきた。
その先に、エミールが立っていた。
男は、ぎょっとして足を止めた。
黒騎士の外套。
その下にあるのが、まだ少年らしさの残る顔だとわかると、口元に笑みが浮かんだ。
「なんだ、ガキか。どけ」
肩に担いでいた麻袋を、エミールへ投げつける。
重い袋が胸にまともにぶつかった。
エミールの身体がよろめいた。
その脇を、男が駆け抜けようとする。
エミールの手が、その腕をつかんだ。
男が振りほどこうとする。
離れない。
「離せ!」
拳が飛んできた。
頬を殴られた。
もう一度。
唇が切れ、血の味が口の中に広がる。
それでも、エミールは腕をつかんでいた。
男が三度目の拳を振り上げた。
その腕を、後ろからテオがつかんだ。
「エミール!」
男の膝裏へ蹴りを入れる。
体勢が崩れた。
エミールが腕を引き、テオが背中へ体重をかける。
三人まとめて、石畳へ倒れこんだ。
男はしばらく暴れていたが、二人がかりで押さえつけられ、やがて動けなくなった。
エミールは、切れた唇を手の甲で拭った。
テオは男の背中に膝を乗せたまま、肩で息をしている。
二人は顔を見合わせた。
エミールの頬は腫れはじめていた。
テオの髪には、路地の泥がついていた。
どちらからともなく、吹き出した。
* * * * * *
翌朝。
二番隊の執務室で、コンラートは、机の前に並んだ二人の新人を睨んでいた。
燕麦を盗んでいた男は、王都の警備兵へ引き渡された。
調べてみれば、この冬のあいだ、何度も倉へ忍びこんでは燕麦を盗み、市場へ流していたらしい。
倉の燕麦の減りが妙に早いことには、厩番も首をかしげていたという。
それを、二人の新人が捕まえた。
「……誰の許しを得て、夜中に宿舎を抜け出した」
コンラートの声が、執務室に響いた。
エミールとテオは、背筋を伸ばしたまま黙っていた。
「夜番でもない新人が勝手に宿舎を抜けて、勝手に盗っ人を追いかけて、挙げ句に路地で殴り合いだと?」
二人とも、何も言えない。
「相手が刃物でも持っていたら、どうするつもりだった。二人そろって川に浮かんでいたかもしれんのだぞ」
「……申し訳ありません」
テオが、小さな声で言った。
エミールは、切れた唇を結んだまま頭を下げた。
「黒騎士は命令で動く。勝手な判断で動く者がひとりいれば、いずれ隊全体を危うくする」
コンラートは、机を指先で二度叩いた。
「二人とも、三日間、厩舎の掃除。それから訓練後に素振り五百回。いいな」
「はい」
二人の声がそろった。
「行け」
二人は頭を下げ、執務室を出ていった。
扉が閉まる。
コンラートは、赤い髭を撫でながら息を吐いた。
まったく。
何かあれば、こういう新人の後始末をするのは隊長なのだ。
執務室の隅で帳簿をつけていた古株が、ちらりと顔を上げた。
「……隊長」
「なんだ」
「あの二人、どうやって盗っ人を待ち伏せたのか、聞かなくてよかったんですか」
コンラートが顔を向ける。
「待ち伏せ?」
「引き渡すときに聞いたんですが、テオのやつ、何日か前から倉の閂が斜めになってるだの、見慣れない靴跡があるだのって、気にしてたらしいですよ」
「だから?」
「いや。だから、盗っ人の逃げる道まで――」
コンラートは、手をひらひらと振った。
「捕まえたんだろう。なら、それで終わりだ」
古株は、何か言いたそうに口を開いた。
結局、何も言わずに帳簿へ目を戻した。
* * * * * *
その数日後。
三番隊の副隊長が、二番隊の執務室を訪れた。
エステリアへ向かう遠征隊の名簿を、コンラートの机に置いていく。
ジェフリーが不在のあいだ、王都に残る三番隊の十五名は、コンラートが預かることになっていた。
その夜。
コンラートは、ひとりで名簿を眺めていた。
並んでいるのは、三番隊の騎士たちの名前だった。
その中に、古株二人の名がある。
どちらも経験が長い。
コンラートは、しばらく二つの名前を見ていた。
「……こいつらまで連れていくのか」
赤い髭を撫でた。
羽根ペンを取る。
二つの名前の上に、すっと線を引いた。
かわりに書き加えたのは、二番隊の名簿の下のほうにあった二人だった。
エミール・レーン。
テオ・ヴァルト。
加減を知らない素振り馬鹿と、気の散ってばかりいる見物人。
勝手に夜中に抜け出し、盗っ人と殴り合いまでした、手のかかる新人二人。
三番隊の留守まで預かるというのに、こんなのまで手元に置いておくことはない。
向こうへ行けば、少しはましになるかもしれん。
ならなくても。
そのとき困るのは、ハルセリンだ。
コンラートは、少し機嫌を直して名簿を閉じた。
* * * * * *
エステリアへの遠征に加わるよう命じられた夜。
二人の新人は、宿舎の寝台に横になったまま、しばらく天井を見ていた。
「……なあ、テオ」
「ん」
「なんで、俺たちなんだろうな」
テオは、少し考えた。
「盗っ人を捕まえたからじゃないか」
「厩舎の掃除、三日もさせられたのに?」
「それは、それ。これは、これだろ」
テオは枕の上で、エミールのほうを向いた。
「隊長、口ではああ言ってたけど、ちゃんと見てたんだよ。たぶん」
エミールは黙った。
やがて、ゆっくり拳を握る。
「……龍の涙を探す旅だぞ。伝説の」
「わかってるって」
「黒騎士の、選ばれた隊員だぞ」
「だから、わかってるって」
「わかってないだろ。俺たち、新人なのに選ばれたんだぞ」
いつもより、少し早口になっていた。
エミールの頭には、故郷の村の人たちの顔が浮かんでいた。
腹をすかせた子どもに、黙ってパンを分けてくれた人。
寒い夜、自分の毛布をかけてくれた人。
いつか、誰にも負けない黒騎士になって、胸を張って村へ帰る。
ずっと、そう思ってきた。
「……すげえな」
エミールが、小さく言った。
「俺たち、選ばれたんだな」
「そうだって」
テオも笑った。
「明日、宿舎のやつらに自慢してやろうぜ。新人で入ったの、俺たちだけだって」
「ああ」
エミールは笑った。
しばらくして、寝台から降りた。
そのまま床へ両手をつく。
テオが顔をしかめた。
「おい。何してんだ」
「腕立て」
「もう寝ろよ」
「寝る前に、あと百回」
「向こうに着く前に腕が折れるぞ」
「折れない」
テオは呆れたように笑い、毛布を頭までかぶった。
暗くなった視界の中で、エステリアの地図を思い浮かべる。
宿舎の図書室で、何度か眺めた地図だった。
南へ延びる街道。
川。
国境の橋。
まだ見たことのない土地。
どんなところなのだろう。
どんな人たちがいるのだろう。
考えているうちに、隣から、規則正しく床を押す音が聞こえてきた。
* * * * * *
出立の前の晩。
厩舎の前に立った三番隊の副隊長は、遠征の支度をしている二人の新人を見て、しばらく何も言わなかった。
やがて、天を仰いだ。
そのころ二番隊の執務室では、赤い髭の隊長が、窓の向こうに見えるエルヴェラ館の金色の屋根を眺めながら、葡萄酒を傾けていた。
加減を知らない素振り馬鹿。
気の散ってばかりいる見物人。
コンラートにとって、そのときの二人は、まだそんな新人だった。
けれど、二人がそれぞれ持っているものを、きちんと見つける人が南の国にはいた。
二人はまだ、そのことを知らなかった。




