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第三部 もう一度、君と





「直人。起きないの?」




 聞き覚えのある声だった。


 あまりにも聞き慣れていて。


 だからこそ、もう二度と聞けないと思っていた声。


 直人はゆっくりと目を開けた。


 見慣れた天井。


 カーテンの隙間から差し込む、朝の光。


 そして、その光の中に彼女がいた。


「……美月?」


「何?」


 ベッドの横で、美月が怪訝そうに直人を見ている。


 直人は息をすることさえ忘れた。


 いる。


 生きている。


 髪が揺れている。


 瞬きをしている。


 頬に朝の光が当たっている。


 その胸が、呼吸に合わせてわずかに上下している。


「……直人?」


 美月が眉をひそめた。


 直人は手を伸ばしかけた。


 触れたい。


 抱きしめたい。


 腕の中に閉じ込めて、二度と離したくない。


 けれど、寸前で止めた。


 美月にとっては、いつもの朝なのだ。


 突然泣きながら抱きつけば、驚かせるに決まっている。


「……いや」


「何?」


「なんでもない」


「寝ぼけてる?」


「……うん」


「変なの」


 美月が笑った。


 その笑顔を見た瞬間、直人は顔を背けた。


 涙が出そうだった。


 泣くな。


 普通にしろ。


 何も起きていない。


 美月は生きている。


 今度こそ、このまま生きてもらう。


 直人は枕元の端末を手に取り、日付を確認した。


 表示された数字を見て、胸が大きく鳴る。


 あの日だ。


 直人はそう確信した。


 蓮司から、あの書類を渡された日。


 なら、やることは簡単だった。


 今日は蓮司に会わない。


 電話にも出ない。


 外へも出ない。


 あの書類さえ見なければいい。


 サインさえしなければいい。


 たったそれだけで、美月は死なない。


「今日、出かけないの?」


 美月が尋ねる。


「……うん」


「何か予定あったんじゃなかった?」


「ちょっと体調悪いかも」


「大丈夫?」


「寝てれば治るよ」


 嘘だった。


 直人はその日、本当に一歩も外へ出なかった。


 朝が過ぎた。


 蓮司は来ない。


 電話も鳴らない。


 昼になった。


 美月が何か食べるかと聞いてくる。


 直人は適当に頷いた。


 味はほとんど分からなかった。


 ただ、美月が目の前にいることだけを何度も確かめた。


 夕方になった。


 何も起きない。


 外が暗くなる。


 直人は何度も時計を見る。


 十九時。


 二十時。


 二十一時。


 蓮司から連絡はない。


 書類も見ていない。


 名前も書いていない。


 美月はテレビを見ながら笑っている。


 その笑い声が、部屋の中に普通に響いている。


 それだけでいい。


 もう、それだけで充分だった。


 二十二時を過ぎる。


 二十三時。


 直人はようやく、長く息を吐いた。


「……変えられた」


 小さな声だった。


 美月には聞こえなかったらしい。


 あの村へは行かない。


 美月は生きている。


 もう何も起きない。


 直人は初めて、身体の力を抜いた。


 終わった。


 これでいい。




 これで――。




 ――ピンポーン。





 身体が固まった。


「こんな時間に誰?」


 美月がソファから立ち上がる。


「俺が出る!」


 直人は反射的に叫んだ。


 美月が驚いて振り返る。


「……何?」


「いや……俺が出るから」


「別にいいけど」


 玄関へ向かう。



 一歩。



 また一歩。



 嫌な予感がした。


 けれど、そんなはずはない。


 サインしていない。


 今回は何もしていない。


 蓮司にも会っていない。


 何も始まっていない。


 インターホンの画面には、黒いスーツを着た男女が立っていた。


『夜分遅くに申し訳ありません』


 直人の喉が鳴る。


『朝倉直人様でお間違いありませんか』


「……はい」


 男は一枚の身分証をカメラへ向けた。






『国家異能管理局の者です』






 その瞬間。


 直人の顔から、血の気が引いた。


 頭の中が真っ白になる。


 ありえない。


 どうして。


 自分は今日、何もしていない。


 何も選んでいない。


 なのに。


 扉の向こうで、男は淡々と続けた。


『以前ご署名いただきました要請書について、お迎えに上がりました』


「…………以前?」


 直人は、震える声で聞き返した。


 その言葉だけが妙に大きく、耳の奥に残った。


 以前。


 署名済み。


 つまり。


 自分が戻ってきたのは――。



「……違う」



 直人は小さく呟いた。





 《運命》は。


 自分を、あの日には戻していない。





――第三部 開幕。




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