第二部 君が村人になった日(前編)
三ヶ月前。
久世蓮司がまだコンビニ店長として平和に暮らしていたころ。
店のバックヤードで、彼は一枚の書類を持っていた。
「直人」
「ん?」
たまたま遊びに来ていた友人、朝倉直人が振り返る。
「ちょっとここ、サインして」
「何これ?」
「書類」
「それは見れば分かるよ」
直人は紙を受け取った。
眉をひそめる。
「……読めないんだけど」
「だろうな」
「外国語?」
「まあ、そんな感じ」
「いや、じゃあサインできないでしょ」
直人は真面目に文章を読もうとした。
だが一行目から分からない。
見たことのない文字まで混じっている。
「これ何の書類?」
「大丈夫、大丈夫」
「何が?」
「いいからここ」
「いや怖いって」
「お前なら平気」
「その説明が一番怖いよ」
蓮司はペンを渡した。
直人はしばらく悩んだ。
彼は昔からこういう男だった。
優しい。
人を疑わない。
押しに弱い。
知らないうちに連帯保証人になっていても、周囲から「お前ならやりかねない」と言われるタイプだ。
けれど、ただ弱いわけではない。
一度これと決めれば、妙なところで頑固だった。
蓮司はそれを知っていた。
だから。
たまたま近くにいた彼を選んだ。
「……変な借金とかじゃないよね?」
「違う違う」
「本当に?」
「俺を信用しろ」
「そのセリフ、昔悪かった人が言うと説得力ないんだけど」
それでも直人は、最後にはサインした。
蓮司は満足そうに書類を畳んだ。
「ありがとな」
「ちゃんと説明してよ?」
「そのうちな」
直人はため息をついた。
それから三ヶ月。
蓮司が龍堂との一件を終えた数日後。
二人は久しぶりに顔を合わせた。
別れ際。
蓮司がふと思い出したように言った。
「そういや直人」
「何?」
「まあ……よっぽど酷い扱いはされねぇと思うから」
「何の話?」
「頑張れ」
「だから何の話!?」
蓮司は答えなかった。
そして数日後。
直人の家を、黒服の男たちが訪ねてきた。
「朝倉直人様ですね」
「はい」
「国家異能管理局です」
「……はい?」
「召集命令が出ています」
直人は扉を閉めようとした。
男が足を挟む。
「お待ちください」
「いや、知らないです。人違いです」
「こちらに署名が」
見せられた紙。
見覚えのある筆跡。
朝倉直人。
「あいつぅぅぅ……!」
久世蓮司の顔が浮かんだ。
電話をかける。
三回目で出た。
『おー』
「おー、じゃない!」
『来た?』
「来たよ! 何これ!?」
『まあ頑張れ』
「説明しろ!」
『大丈夫だって』
「何が!」
電話の向こうで蓮司が少し黙った。
それから珍しく、真面目な声になった。
『直人』
「……何」
『お前なら折れねぇと思った』
「は?」
『だから頼んだ』
「意味分かんないよ!」
『帰ってきたら飯奢る』
「そういう問題じゃ――」
電話が切れた。
直人は携帯電話を握りしめた。
目の前には黒服。
その後ろには黒塗りの車。
「……行かなきゃダメですか?」
「署名されていますので」
「ですよね……」
こうして朝倉直人は。
自分がどこへ行くのかすら知らないまま、国家の任務へ連れていかれた。
そのころ。
蓮司は銀の騎士に命じていた。
「悪いけど、あいつについてってやって」
『護衛ですか』
「そこまでしなくていい。見ててやれ」
『危険があれば』
「助けろ」
『承知しました』
「ただし、手ぇ出しすぎんなよ」
蓮司は煙草の代わりに飴を口へ放り込んだ。
「たぶんあいつには、あいつ自身でやらなきゃいけねぇことがある」
村の名は、エルデ。
山々に囲まれた小さな集落だった。
畑はある。
だが何も育っていない。
土は乾き、作物は枯れ、家畜すら痩せている。
村人たちもまた痩せていた。
異様なほどに。
「……ここで何をすればいいんですか」
直人が尋ねても、同行してきた役人は答えなかった。
「滞在してください」
「どれくらい?」
「必要なだけ」
「何が必要なの?」
「いずれ分かります」
それだけだった。
幸い、直人は一人ではなかった。
恋人の美月が同行していた。
「すごいところね」
村を見渡しながら、美月は言った。
直人とは正反対の女だった。
気が強い。
負けず嫌い。
納得できないことには、相手が誰であろうと食ってかかる。
直人が悩んで立ち止まると、美月は先に歩いてしまう。
けれど、不思議と置いてはいかなかった。
十歩進めば振り返り、
「何してるの。行くよ」
と言う。
直人は、そんな彼女が好きだった。
村人たちは直人を歓迎した。
異様なほどに。
「お待ちしておりました」
「あなたが来てくださった」
「これで……」
老人たちが頭を下げる。
直人には理由が分からない。
彼自身に特別な力がある自覚などなかった。
けれど村人たちは、彼をまるで救世主のように扱った。
一方。
美月への態度は露骨だった。
「その女は何だ」
「僕の恋人です」
「よそ者だろう」
「僕だってよそ者ですよ」
「あなたは違う」
何が違うのか。
誰も説明しない。
美月は鼻で笑った。
「別にいいわよ。好かれに来たわけじゃないし」
そう言って、荒れた家の掃除を始めた。
翌日は庭を耕した。
「何してるの?」
「トマト植える」
「育つの?」
「育てるの」
「何も育ってないじゃん」
「だから?」
美月は笑った。
「他の人ができなかったら、私もできないって決まりでもある?」
直人は、その横顔を見ていた。
やっぱり好きだと思った。
最初の異変は、美月への嫌がらせだった。
井戸を使わせない。
食事を渡さない。
陰口を叩く。
畑を荒らす。
美月は耐えた。
というより、相手にしていなかった。
だが直人は違った。
「もうやめてください」
穏やかに言った。
村人は笑った。
「よそ者に何をしようと我々の勝手だ」
「彼女は僕と一緒に来たんです」
「あなたとは違う」
その言葉を何度聞いたか分からない。
ある日。
ようやく芽を出したトマトの苗が踏み荒らされた。
美月はしゃがみ込み、折れた茎を拾った。
何も言わなかった。
ただ少しだけ、悲しそうだった。
その顔を見た瞬間。
直人の中で、何かが切れた。
「……もういい」
村人たちが振り返る。
「あなたたちなんか、知らない」
直人自身が驚くほど冷たい声だった。
「僕らに関わらないでください」
「朝倉様?」
「あなたたちがどうなろうと知りません」
それは初めてだった。
直人が、この村を拒絶した瞬間だった。
翌朝。
村人たちは立てなくなっていた。
痩せていた身体が、さらに細くなっている。
頬は落ち窪み。
腕は枝のようになり。
ある者は両足で立つことすらできなかった。
「何……これ……」
直人は青ざめた。
老人が地面を這いながら手を伸ばす。
「お許しを……」
「僕、何も……」
「お許しください……!」
そのとき。
誰にも見えない銀の騎士が、直人の背後に立った。
『これは呪いです』
直人が振り返る。
「……あなた」
以前、蓮司のそばで何度か見たことがある。
直人にも、彼の姿だけは見えていた。
「なんでここに?」
『我が主の命です』
「あいつ……」
『あなたを見守れと』
「だったらもっと早く教えてよ!」
『あなた自身が知る必要がありました』
直人は怒鳴り返そうとして、やめた。
目の前で人が苦しんでいる。
「僕が拒絶したから?」
『その可能性が高い』
「じゃあ……どうすれば」
直人は村人を見る。
そして拳を握った。
「……分かりました」
村人たちへ向き直る。
「昨日言ったこと、取り消します」
変化はすぐには起きなかった。
だが数時間後。
一人の老人が立ち上がった。
そのころ。
美月のトマトが実った。
赤く。
丸く。
信じられないほど瑞々しく。
この村で、何年ぶりかに実った作物だった。
村人たちは遠巻きに見ていた。
美月は一つも渡さなかった。
直人は何も言わなかった。
当然だと思った。
彼らは美月を散々傷つけた。
畑まで荒らした。
その実を欲しがる資格などない。
だがある日。
美月は籠いっぱいのトマトを持って家を出た。
「どこ行くの?」
「配ってくる」
「……誰に?」
「村の人」
直人は呆然とした。
「なんで?」
「余ったから」
「嘘だ」
「何が」
「昨日、保存方法調べてたじゃん」
美月は黙った。
「無理して優しくしなくていいよ」
「無理してない」
「でも」
「直人」
美月はトマトを一つ、彼に投げた。
慌てて受け取る。
「私はあの人たちが嫌い」
「うん」
「でも、腹減ってる人間の前で食べ物腐らせるほど嫌いじゃない」
それだけ言って歩いていく。
直人は手の中のトマトを見た。
赤かった。
ひどく、赤かった。
それから村は少しずつ変わった。
美月を「よそ者」と呼ぶ者が減った。
畑仕事を手伝う者が現れた。
料理を教える老婆がいた。
子どもたちは美月の後ろをついて歩くようになった。
初めて名前で呼ばれた日。
美月は家に帰ってから少しだけ泣いた。
「嬉しい?」
直人が聞く。
「別に」
「泣いてるけど」
「うるさい」
「よかったね」
「うるさい!」
直人は笑った。
その夜。
美月はいつもより長く眠った。




