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第一部 普通の男になりたかった

コンビニエンスストアの店長、久世蓮司には、三つの秘密がある。


一つ。


十代のころ、彼はこの街一帯の不良たちを束ねていた。


二つ。


彼の背後には、人ならざる三体の《従者》がいる。


そして三つ。


その力があまりに危険であるため、彼はいまも国家の監視対象だった。


もっとも、そんなことを知る者は、現在の彼の周囲にはほとんどいない。


「店長ー、五番レジ、千円札なくなりそうです」


「補充しとく。あと肉まん蒸しすぎんなよ。昨日三個廃棄しただろ」


「はーい」


午前十一時。


白い蛍光灯に照らされた店内で、蓮司は発注端末を片手にため息をついた。


十代の頃より、身体はずいぶん丸くなった。


かつて細身の特攻服を着ていたころの面影は薄い。腹も出た。髪も黒くした。煙草もやめた。


夜中に意味もなくバイクを走らせることもないし、目が合っただの肩がぶつかっただので喧嘩を売られることもなくなった。


いまの悩みといえば、深夜シフトの人手不足と、揚げ物の廃棄率と、来月から最低賃金が上がることくらいだ。


それでよかった。


むしろ、それがよかった。


普通に働いて。


普通に飯を食って。


普通に年を取る。


昔の仲間とは、もう何年もまともに会っていない。


向こうから連絡が来ても、仕事だの予定があるだの、適当な理由をつけて断った。


あのころの自分を嫌っているわけではない。


楽しかったことだって、確かにあった。


ただ――戻りたくなかった。


「……平和だな」


呟いた蓮司の背後で、銀色の甲冑がわずかに鳴った。


銀の騎士。


顔のない巨人。


黒き獣。


久世蓮司に付き従う、三体の《従者》。


今ここにいるのは、そのうちの一体だけだった。


店員たちはもう慣れたもので、品出しの邪魔にならない場所に佇む騎士を気にする者はいない。


「お前も暇だろ」


『…………』


返事はない。


蓮司は発注端末を操作しながら、口元だけで笑った。


「俺は暇なくらいがちょうどいいんだよ」


銀の騎士は何も言わなかった。


ただ静かに、蓮司の背後に立っていた。


それが、いつもの光景だった。


その日の午後。


彼のささやかな平穏に、小さな傷がついた。


     ◇


最初は、落書きだった。


仕事から帰った蓮司が見つけたのは、自宅の塀に赤いスプレーで書かれた意味のない文字だった。


意味のない――というより、意味を持たせるほどのものですらない。


ただ汚したかった。


そんな悪意だけが分かる。


「……ガキかよ」


翌朝、出勤前に消せばいい。


その程度に考えた。


実際、翌朝にはホームセンターで買った洗剤を使って、できる限り落とした。


その日の夜。


今度は郵便受けから、ひどい臭いがした。


蓋を開ける。


腐りかけた生ゴミが、ぎっしり詰め込まれていた。


「…………」


蓮司はしばらくそれを見つめ、ため息をついた。


翌日には、家の前に若者が三人座り込んでいた。


酒を飲み、大声で笑い、空き缶を道路へ投げ捨てる。


蓮司が帰宅しても退く気配はない。


「そこ、うちの前なんだけど」


「あ?」


一人が立ち上がった。


蓮司を睨みつける。


一瞬だけ、昔の癖で相手の立ち方を見た。


重心。


拳。


間合い。


――弱い。


その判断が無意識に出た自分が嫌になって、蓮司は小さく息を吐いた。


「退かねぇなら警察呼ぶぞ」


「呼べば?」


「じゃあ呼ぶわ」


本当に呼んだ。


十分ほどしてパトカーの音が聞こえると、若者たちは悪態をつきながら散っていった。


それで終わると思った。


翌日には、別の連中が来た。


その次の日も。


顔ぶれは毎回違った。


警察が来れば逃げる。


捕まっても大したことはしていない。


だが、また別の誰かが来る。


まるで、尽きることがない。


「……店長」


ある日の夕方。


バックヤードで商品の検品をしていた蓮司に、アルバイトの青年が声をかけた。


「なんだ」


「最近、店の前にいる人たち……店長の知り合いですか?」


蓮司の手が止まった。


「なんで」


「いや……なんか」


青年は言いにくそうに視線を泳がせる。


「ずっと店の中、見てるんで」


蓮司はバックヤードの小窓から売り場を見た。


ガラス越し。


道路の向こう側。


男が一人、立っている。


目が合った。


男は笑った。


蓮司は、その笑顔を知らない。


けれど。


その目を知っていた。


自分で何かを選ぶことを、とうにやめてしまった人間の目。


背後で、甲冑の擦れる音がした。


振り返らなくても分かった。


銀の騎士がいる。


『……主』


「まだだ」


『しかし』


「まだ、何もされてねぇ」


蓮司は男から視線を逸らした。


「仕事戻れ」


「……はい」


青年を売り場へ返してから、蓮司はもう一度外を見る。


男はもういなかった。


代わりに、ひどく懐かしい名前が頭をよぎった。


榊原龍堂。


「……まさかな」


口ではそう言った。


だが、胸の奥ではもう分かっていた。


     ◇


榊原龍堂。


かつて蓮司とは別の地域を仕切っていた男。


そして蓮司と同じく、《異能》を持つ者。


龍堂の能力は単純だった。


人を従わせる。


ただし、命令した人間を操り人形にするような便利な能力ではない。


相手の中にある恐怖。


憧れ。


依存。


嫉妬。


劣等感。


人間なら誰しもが持つ感情のどこかへ入り込み、それを少しずつ増幅していく。


やがてその人間にとって、


榊原龍堂に従わない。


その選択肢自体がなくなる。


昔は数十人だった。


最近では、数百人規模の人間が彼の周囲にいるという噂を、蓮司も耳にしていた。


だからこそ、関わらなかった。


もう自分には関係のない人間だと思っていた。


いや。


そう思いたかった。


「懐かしがってんのかねぇ」


休日。


蓮司は自宅の塀に再び書かれた赤いスプレーを、雑巾で擦っていた。


落ちない。


何度擦っても、赤い染みが薄く残る。


背後に銀の騎士が現れた。


『排除しますか』


「しない」


『しかし、このままでは――』


「俺はもう、そっちの人間じゃねぇんだよ」


騎士は黙った。


蓮司は赤く染まった雑巾をバケツへ放り込んだ。


「警察に任せる。普通の人間はそうするだろ」


『…………』


「なんだよ」


『いえ』


「言いたいことあるなら言え」


『……主が、そう望まれるのであれば』


「そう望んでんだよ」


蓮司は立ち上がった。


塀を見る。


赤い染みは、結局完全には消えなかった。


「ずっとな」


     ◇


それから一週間。


嫌がらせは止まらなかった。


むしろ、少しずつ境界線を越え始めた。


店の前で客に絡む者が現れた。


ゴミ箱を蹴り倒す者がいた。


アルバイトの帰り道を、数人の男がついて歩いた。


「店長、大丈夫なんですか」


「大丈夫」


「でも――」


「警察には話してる。お前らは一人で帰んな。シフト終わったら誰かと一緒に帰れ」


自分の生活だけなら、まだ我慢できた。


自宅の壁なら洗えばいい。


生ゴミなら捨てればいい。


家の前で騒がれれば警察を呼べばいい。


だが、自分とは関係のない人間へ手を伸ばし始めた。


それでも蓮司は動かなかった。


動けば、戻る。


そんな気がした。


自分が長い時間をかけて遠ざかってきた場所へ。


たった一歩で。


だから警察へ行った。


監視を増やしてもらった。


管理局にも報告だけはした。


店員のシフトを変えた。


自分で送れる者は駅まで送った。


できる限りのことをした。


普通の人間として。


普通のやり方で。


それでも。


ある夜。


仕事を終えて帰宅した蓮司は、家の前で足を止めた。


玄関のガラスが割れていた。


細かな破片が、街灯の光を反射している。


家の中から、怯えた家族の声が聞こえた。


怪我はない。


その言葉を聞いて、まず安堵した。


そして。


ゆっくりと、何かが冷えていった。


怒りではなかった。


むしろ、逆だった。


頭の中から余計なものが一つずつ消えていく。


背後で、空気が震えた。


最初に現れたのは銀の騎士。


続いて、巨大な人影が夜の闇を押し退けるように立ち上がる。


顔のない巨人。


最後に、地面へ染み出した影から黒き獣が姿を現した。


低い唸り声。


三体。


一人の人間が複数の《従者》を保有すること自体、極めて稀だった。


まして、この三体はそれぞれが独立した力を持つ。


だから国は、久世蓮司という男を放置していない。


彼が能力を不用意に使わないという約束を守っているからこそ、普通の人間として暮らすことを許している。


普通の人間。


蓮司は割れたガラスを見つめた。


「…………」


長い時間をかけて手に入れたものだった。


携帯電話を取り出す。


登録されている番号から、一つを選んだ。


数度の呼び出し音。


『はい』


「久世です」


電話の向こうで、男が息を呑んだ。


『……何かありましたか』


「能力使用許可が欲しい」


沈黙。


『対象は』


「榊原龍堂と、その支配下にある連中」


『規模は』


「分からねぇ。百はいると思っといてくれ」


『目的は』


蓮司は割れた玄関を見る。


その向こうに家族がいる。


頭に浮かんだのは、それだけではなかった。


怯えていたアルバイト。


店の前で絡まれた客。


駅まで送った店員。


塀に残った、消えない赤。


「俺の生活を守る」


長い沈黙のあと。


『……条件付きで許可します』


「十分だ」


電話を切った。


これで終わりにする。


そう思った。


次に蓮司は、もう何年も自分から開くことのなかった連絡先を表示した。


指が止まる。


名前を見るだけで、声が蘇る。


笑い声。


怒号。


馬鹿な話。


喧嘩。


夜の街。


――もう戻らないと決めた場所。


一人目。


二人目。


三人目。


短い文章を送った。


――久しぶり。


少し考えて、もう一文。


――ちょっと手ぇ貸せ。


返信は、十秒も待たずに来た。


     ◇


その夜。


数年ぶりに、懐かしいエンジン音が街へ響いた。


一台。


二台。


さらに一台。


車から降りてくる者。


バイクのヘルメットを脱ぐ者。


顔を見るたび、時間が巻き戻っていくようだった。


「蓮司ぃ!」


一人が両手を広げる。


「太ったなぁ、お前!」


「うるせぇ」


「マジじゃん! 腹出てんじゃん!」


「帰れ」


「店長やってんだって?」


「だったらなんだよ」


「似合わねぇ!」


「帰れっつってんだろ」


笑い声が上がった。


その笑い方まで覚えていた。


昔と同じだった。


何年も会っていなかったのが嘘みたいに、誰も距離を測ろうとしない。


「で?」


一人が煙草を咥えながら尋ねる。


「誰を潰しゃいい?」


「潰すんじゃねぇよ」


「あ?」


「俺は喧嘩しに行くわけじゃねぇ」


「じゃあ何すんだよ」


「終わらせる」


短く答えた。


その背後。


銀の騎士が剣を携えて立つ。


顔のない巨人が、街灯よりも高い位置から男たちを見下ろしている。


黒き獣が大きく欠伸をした。


男たちはそれを見て、懐かしそうに笑った。


「うっわ、まだいるじゃん!」


「当たり前だろ」


「犬もいる!」


黒き獣が低く唸った。


「ほら怒った!」


「昔から犬って言うと怒るんだよな、そいつ!」


「やっぱ蓮司はこれだよな!」


誰かが言った。


笑い声が続く。


蓮司だけが笑わなかった。


――違う。


俺はもう、これじゃない。


その言葉は、口から出なかった。


なぜか。


ほんの一瞬だけ。


そこにいる全員を見ても、何かが足りないような気がした。


誰かがいない。


そんな馬鹿な感覚。


呼んだ連中は、ちゃんと来ている。


それなのに。


昔なら自分のすぐ横に、もう一人――。


「蓮司?」


呼ばれて我に返る。


「……なんでもねぇ」


気のせいだ。


そう思うことにした。


「行くぞ」


     ◇


榊原龍堂は、廃業した物流倉庫を根城にしていた。


海からそう遠くない場所だった。


錆びたシャッター。


割れた窓。


潮の匂いに混じって、煙草と酒の臭いが漂っている。


倉庫の前には、人がいた。


十人ではない。


数十人。


その奥にも、さらにいる。


蓮司たちが近づくと、一斉に視線が向けられた。


誰も喋らない。


誰も逃げない。


ただ、立っている。


異様だった。


「……趣味悪ぃな」


蓮司が呟く。


その人垣の向こうから、拍手が聞こえた。


ぱち。


ぱち。


ぱち。


ゆっくりと。


「久しぶりだなぁ、久世」


人が左右へ割れる。


その奥から男が歩いてきた。


榊原龍堂。


記憶にある顔より少し老けた。


だが、その笑い方だけは変わっていなかった。


「随分待ったぞ」


「俺は待ってねぇよ」


「つれねぇな。昔馴染みだろ?」


「いつからだ」


「何が?」


「うちに手ぇ出したのは」


龍堂は笑った。


「さあな」


その返事だけで十分だった。


「お前さぁ」


龍堂は蓮司の身体を上から下まで眺める。


「随分つまんねぇ男になったな」


「よく言われる」


「コンビニ店長?」


鼻で笑う。


「レジ打って、頭下げて、廃棄弁当数えて。お前が?」


「悪いかよ」


「悪かねぇよ。笑えるだけだ」


蓮司は何も返さなかった。


龍堂の視線が、その背後へ移る。


巨人。


獣。


そして。


銀の騎士。


そこで初めて、龍堂の笑みが消えた。


ほんの一瞬だった。


「…………」


銀の騎士が、静かに龍堂を見ている。


龍堂の眉が動いた。


「まだ……そいつを連れてんのか」


蓮司の目が細くなる。


「何が言いてぇ」


「別に」


龍堂は再び笑った。


「相変わらず、気味の悪ぃ力だと思っただけだ」


銀の騎士の指が、剣の柄に触れた。


蓮司はそれを制するように片手を上げる。


「榊原」


「あ?」


「これで最後だ」


「何が」


「俺に関わるな」


龍堂はしばらく黙っていた。


やがて、堪えきれないように笑い出した。


「はは」


笑いは次第に大きくなる。


「ははははは!」


周囲の人間まで、つられるように笑った。


「お前、本気で普通の人間になったつもりなのか?」


蓮司は答えない。


「だったら――」


龍堂が片手を上げた。


その瞬間。


周囲にいた人間が一斉に動いた。


「証明してみろよ」


     ◇


最初に飛び出したのは、黒き獣だった。


影のような身体が夜を切り裂く。


真正面から人へ襲いかかる――寸前で、その軌道が変わった。


牙は人間へ向かわない。


足元。


壁。


頭上。


低い咆哮とともに人垣の間を駆け抜け、集団を散らしていく。


「追うな!」


蓮司が叫ぶ。


昔の仲間たちが足を止めた。


「こいつらは榊原に使われてるだけだ! 必要以上にやんな!」


「了解!」


返事だけは昔から妙にいい。


右から人が押し寄せる。


顔のない巨人が動いた。


巨大な腕が地面へ下ろされる。


轟音。


拳ではない。


掌。


巨人は人間を潰すのではなく、巨大な手そのもので道を塞いだ。


「でっけぇ壁だな相変わらず!」


誰かが笑う。


別方向から数人が抜ける。


黒き獣が回り込む。


その隙を抜けて、蓮司は進んだ。


目指すのは一人。


榊原龍堂。


だが。


「蓮司!」


声に振り返る。


仲間の一人が、別の仲間へ殴りかかっていた。


「何してんだお前!」


「邪魔すんな!」


目がおかしい。


さっきまで笑っていた男だった。


龍堂の声が響く。


「懐かしいだろ?」


蓮司が龍堂を見る。


「お前の仲間だって、俺の一言でこうなる」


「……っ」


「人間なんてそんなもんだ。仲間? 絆? 笑わせんな」


銀の騎士が動いた。


一閃。


剣が人を斬る――ことはなかった。


刃が断ったのは、人と龍堂を結ぶ見えない何か。


殴りかかっていた男の身体から力が抜ける。


「……あ?」


男は、自分の拳を見た。


「俺、何して……」


龍堂の顔が歪んだ。


「それだ」


銀の騎士を見る。


「昔から、てめぇのその力だけは――!」


その声に。


蓮司の胸の奥で、何かがざわついた。


昔から。


その言葉に、ひどく嫌なものを感じた。


だが、考える暇はない。


龍堂が次々と人を支配する。


騎士が断つ。


一人。


また一人。


切られるたび、支配されていた人間たちは夢から覚めたようにその場へ座り込んだ。


銀の騎士の剣は、血を流さない。


人ではなく。


支配を斬る。


それを繰り返すたび、龍堂の周囲から人が減っていく。


「やめろ……!」


初めて、龍堂の声に焦りが混じった。


「やめろ!」


銀の騎士は止まらない。


やがて。


最後の一人から、支配が断ち切られた。


倉庫の前に残ったのは。


榊原龍堂。


ただ一人だった。


     ◇


「……久世……!」


地面に膝をついた龍堂が、憎々しげに蓮司を睨んだ。


支配する人間を失った龍堂は、驚くほど小さく見えた。


「てめぇだって俺と同じだろうが!」


蓮司は何も言わない。


「何普通の人間みてぇな顔してやがる!」


「……そうだな」


「何が違う!」


龍堂は立ち上がろうとして、ふらついた。


「三体も化け物連れて! 国に監視されて! 昔はあれだけの人数従えて!」


蓮司の眉がわずかに動く。


「お前はこっち側だ!」


蓮司はしばらく龍堂を見つめていた。


昔。


自分も似たようなことを思っていた時期があった。


力がある。


負けない。


自分ならどうにかできる。


誰かに頼らなくても。


自分が一番強ければ。


――それでいい。


そう思っていた。


蓮司は背を向けた。


「だから嫌だったんだよ」


「……あ?」


「そういうの、全部」


それ以上は言わなかった。


     ◇


すべてが終わったころには、空が白み始めていた。


支配を解かれた人間たちは管理局へ引き渡されることになった。


警察の車両。


管理局の人間。


慌ただしく動く人影。


その少し離れた場所で。


昔の仲間たちは、すっかり昔の顔に戻っていた。


龍堂の手下だった一人を捕まえ、誰かが大きなバケツを持ってきた。


水がたっぷり入っている。


「お前さぁ、蓮司んちに石投げたんだって?」


「ち、違……!」


「聞こえねぇなぁ!」


男の頭が水へ沈む。


周囲から笑い声が上がった。


「ぎゃはははは!」


「おいおい死なすなよ!」


「分かってるって!」


「もう一回いっとく?」


「やめろっつってんだろ!」


水が跳ねる。


高笑い。


怒号。


懐かしい光景だった。


かつての蓮司なら、その輪の中心にいた。


誰より大きな声で笑って。


馬鹿をやって。


止める側ではなく、むしろ煽る側だったかもしれない。


あのころは、それが楽しかった。


確かに。


楽しかったのだ。


だからこそ。


戻れない。


蓮司は少し離れた場所で、ただ立っていた。


朝の潮風が頬を撫でる。


黒き獣は地面に伏せている。


顔のない巨人は、朝焼けの中に立っている。


そして。


銀の騎士だけが、蓮司のすぐ横にいた。


昔からそうだったように。


――昔から?


蓮司は、ふと騎士を見る。


銀の甲冑。


表情の見えない兜。


何も言わず、ただ隣に立つ姿。


胸の奥に、一瞬だけ。


名前のない空白が生まれた。


だが、それが何なのか。


蓮司にはもう、分からなかった。


「蓮司!」


仲間が呼ぶ。


「こいつどうする!?」


「知らねぇよ。管理局に渡せ」


「つまんねぇなぁ!」


また笑い声が上がる。


蓮司は笑わなかった。


怒りもしなかった。


ただ。


目から光を失ったような顔で、朝焼けを見た。


夜が終わる。


また一日が始まる。


店に戻れば、発注がある。


シフトを確認して。


揚げ物を仕込んで。


千円札がなくなれば補充する。


そんな毎日に。


帰りたかった。


蓮司は小さく息を吐いた。


そして呟いた。


「……普通に生きたかったんだけどなぁ」


朝日が昇り始めていた。


――第一部・完――



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― 新着の感想 ―
読ませていただきました! コンビニ店長として普通に暮らしたい蓮司と、国家に監視されるほど危険な《従者》を三体も持つ過去との落差がかなり印象に残りました。 特に銀の騎士が「人ではなく支配を斬る」という…
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