第四部 普通を知らなかった僕らへ
久世蓮司が初めて《異能》という言葉を知ったのは、自分がそれを持っていると知るよりも、ずっと後のことだった。
物心がついた頃には、すでに二体の異形がそばにいた。
一体は、顔のない巨人。
人間の何倍もある身体を持ちながら、その顔には目も鼻も口もない。言葉を発することもなく、ただ蓮司のそばに立ち、何かから守るようにそこにいた。
もう一体は、黒き獣。
四本の脚で歩く姿は犬や狼に似ていたが、そのどちらとも言い切れない。輪郭は時折、黒い煙のように揺らぎ、暗がりへ入れば影そのものに溶け込んでしまう。
蓮司にとって、二体は特別な存在ではなかった。
朝起きればいる。外へ出ればついてくる。眠れない夜には巨人の足元へ座り、黒き獣へ話しかけた。
返事はない。
それでも、そこにいることが当たり前だった。
だから幼い蓮司には、最初は分からなかった。
「蓮司、今……誰と話してたの?」
「こいつ」
蓮司が黒き獣を指差しても、母親の視線はその身体を通り抜け、その向こうの壁へ落ちる。
「……何もいないじゃない」
「いるよ」
「どこに?」
「ここ」
何度指差しても、母親には見えなかった。
父親はもっと分かりやすかった。
何もない場所を見て笑う子ども。
誰もいないところへ話しかける子ども。
蓮司が階段から転びそうになれば、何かに抱き止められたように身体が宙で止まる。感情が大きく乱れれば、触れてもいない家具が動くこともあった。
誰も蓮司へ「気味が悪い」とは言わなかった。
けれど子どもは、大人が口にしなかった感情にも意外なほど敏感だった。
自分が二体のことを話すたび、母親の顔が強張る。
何かが勝手に動くたび、父親が黙り込む。
だから蓮司は、少しずつ二体について口にしなくなった。
いなくなったわけではない。
見えなくなったわけでもない。
ただ、自分に見えているものは他人には見えないらしい。そして、それを口にすると周囲の人間は困るらしい。
幼いなりに、それだけを覚えた。
やがて蓮司は、親元を離れることになった。
彼を保護したのは、国家異能管理局だった。
そこで初めて、自分の隣にいる二体を見ても驚かない大人たちに出会った。
「従者型ですね」
「二体同時か」
「幼少期から安定して維持している例は珍しい」
彼らは蓮司を怖がらなかった。
代わりに、観察した。
顔のない巨人はどこまで蓮司から離れられるのか。黒き獣は何に反応するのか。蓮司の感情によって二体の力に変化があるのか。
怖がられるのと観察されるのと、どちらがましなのか。
幼い蓮司には分からなかった。
ただ、ここでは二体について話しても、大人たちは困った顔をしなかった。それだけは少し楽だった。
蓮司は、自分の人生を不幸だと嘆くことはなかった。
食べるものはある。眠る場所もある。学校にも通える。
顔のない巨人も、黒き獣も、変わらずそばにいる。
それで十分なのだと思っていた。
それでも時折、学校からの帰り道で明かりのついた家の前を通ると、胸の真ん中を風が抜けていくような感覚があった。
窓の向こうに食卓が見える。
母親らしい人が料理を運び、父親らしい人が何かを話し、子どもが笑っている。
蓮司は立ち止まらない。
ただ歩きながら、ぼんやりと思う。
普通に父親がいて。
普通に母親がいて。
帰れば誰かが「おかえり」と言う。
――ああいう家って、どんな感じなんだろう。
胸を吹き抜けていくその感覚が何なのか。
当時の蓮司は、まだ知らなかった。
その感情に名前があることさえ、知らなかった。
更新を楽しみにしてくださっていた皆さま、お待たせいたしました。
本日より、第四部「普通を知らなかった僕らへ」を開始いたします。
第四部は毎日更新を予定しております。
基本的には朝・夜の1日2話更新となりますが、各話の分量や物語の区切りに合わせて、更新回数・時間が変則的になる場合があります。
少し長い第四部となりますが、気長にお付き合いいただけましたら幸いです╰(´︶`)╯♡
今後とも『僕らは一度、救われてしまった』をよろしくお願いいたします。




