第九話 満ちる
祭りの中心で、直人は空を見上げた。
「お願いします」
銀の騎士が長剣を抜く。
『御意』
剣が振るわれた。
空を覆う異能へ、銀色の亀裂が走る。
何百年も一つに絡みついていた思念の結びつきが、一瞬だけ緩んだ。
そこへ直人が意識を重ねる。
見える。
今度は、はっきりと。
巨大な一つの異能ではない。
何百年もの間に絡み合い、誰のものかさえ分からなくなった無数の思念。
怖かった。
見えてはいけないものを見るのは、今でも怖い。
自分がおかしいのではないかと思う癖も、なくなったわけではない。
それでも。
直人は目を逸らさなかった。
「――《解》」
結び目を、一つずつ解いていく。
空がほどけた。
一つの巨大な黒い塊だったものが、無数の人影へと分かれていく。
一人。
また一人。
腹を空かせた子ども。
畑を失った男。
子を抱いた母親。
老人。
若者。
数えきれないほどの人々。
怪物など、どこにもいなかった。
ただ。
生きたかった人たちがいた。
直人は最初の一人へ、カボチャのスープを差し出した。
湯気が立っている。
「食べましょう」
影が直人を見る。
「今日は、全員分あります」
◇
祭りは長く続いた。
生きている者と、とうに死んだ者。
村人と、よそ者。
そんな境界すら、その日だけは意味を持たなかった。
カボチャのスープが振る舞われた。
焼いたカボチャが並んだ。
美月のトマトは煮込み料理になり、赤い湯気を立てていた。
最初は戸惑っていた村人たちも、やがて死者の影へ料理を差し出すようになった。
「足りるか?」
「もっといる?」
「今日はあるぞ」
長い間。
この村で食べ物を分けるということは、自分の取り分が減ることだった。
誰かに与えるということは、自分か家族が飢えるかもしれないということだった。
けれど今日だけは違う。
なくなれば、また作ればいい。
来年も育てればいい。
外から運んだっていい。
この村だけですべてを抱え込む必要など、もうない。
その中に、一人の小さな影がいた。
何度も何度も、カボチャを食べている。
一つ。
二つ。
三つ。
『お腹いっぱいにならない』
影が呟いた。
「もっと食べる?」
美月が尋ねる。
『うん』
「じゃあ食べなよ」
『なくならない?』
美月は笑った。
「なくなったら、また作る」
影はまた食べた。
けれど、いくら食べても満腹にはならない。
当然だった。
その子にはもう、満たすべき身体がないのだから。
それでも影は食べ続けた。
やがて、ふと顔を上げる。
村人たちが笑っていた。
子どもたちが走っている。
誰かが歌い始め、それに別の誰かが手を叩く。
鍋からは絶えず湯気が立ち、食べ物の匂いが村中に広がっていた。
明日の食事を心配する者はいない。
自分の分がなくなると怯える者もいない。
影が、小さく笑った。
『……楽しい』
「うん」
『こんなの、初めて』
その身体が、淡い光へ変わっていく。
腹が満ちたからではない。
飢えが消えたからでもない。
もう怖がらなくていい。
明日を奪い合わなくていい。
一人で飢えなくていい。
それを初めて知ったのだ。
影は最後まで笑っていた。
やがて光は空へ昇り、消えた。
それを見ていた別の影も。
また別の影も。
一人ずつ。
一人ずつ。
誰一人取り残されることなく、空へ昇っていった。
そして最後の光が消えた瞬間。
村を覆っていたものが、完全に砕けた。




