第9話 魔法少女と、姉
今にも消えてしまいそうなほど小さな声だった。
ただ、その一言だけで、彼女がどれほど切実な願いを抱いて≪妖精の雫≫に手を伸ばしたのかは、すぐに理解できた。
「うちの家は……私が三歳の頃に、両親が交通事故で亡くなったの。おねえちゃんは、その時からずっと私を支えて、守ってくれていた……」
冬花は、繋いだ手を見下ろしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「でも……私が中学にあがった頃、おねえちゃんは職場で倒れたの」
その声は静かだった。
けれど、指先はかすかに震えていた。
「すごく重い病気で、聞いたこともない病名だった。お医者さんは、おねえちゃんの身体にはずっと前から、痛みや吐き気みたいな強い症状が出ていたはずだって言った。でも、おねえちゃんは私を育てるために、病院にも行かないで、ずっと一人で無理をしていたの……」
おれは何も言えなかった。
冬花がどれほど自分を責めたのか、想像するだけで胸が詰まる。
「おねえちゃんの病気には、まだ治療法がないって言われた。もう少し早く入院していれば、症状を緩和させることはできたかもしれない。でも、もうそれも難しいって……」
冬花は唇を噛みしめた。
「なんで気づいてあげられなかったんだろうって思った。私がもっとしっかりしていれば……私が頼りないから、おねえちゃんは一人で無理をしていたんだって思ったら、情けなくて、みじめで……どうしようもなかった」
繋いだ手に、かすかに力がこもる。
「私が病院の屋上で泣いていた時――空から、妖精がやってきたの。……あなたの膝の上にいる子とは、違う妖精が」
おれの膝の上で、ティトがぴくりと耳を動かした。
いつもなら何かしら口を挟みそうなものだが、今は静かに冬花の言葉に耳を傾けている。
「妖精は私に言ったわ。『どんなことでも一つだけお願いを叶えてあげる。その代わりに、魔法少女になって、人々を襲う冥獣と戦ってほしい』って」
「……それに応じたのか」
「うん」
冬花は小さく頷いた。
「だから私は、こう答えたの」
その青い瞳が、かすかに揺れる。
「『私はどうなってもいいから、おねえちゃんの病気を治してほしい』って」
そう言うと、冬花は、おれの指先を握る手にぎゅっと力を込めた。
「……願いは、すぐに叶ったわ。病室に戻ると、おねえちゃんは目を覚まして、ベッドから起き上がっていた。お医者さんは、奇跡が起きたって言っていた」
「……」
「そこから、私の魔法少女としての戦いが始まった。でも……つらくはなかった。だって、おねえちゃんが生きていてくれるから」
そこで、冬花の声は、ほんの少しだけやわらいだ。
きっと強がりでもなんでもなく、それは彼女にとって本当に救いだったのだろう。
どれほど危険な戦いが待っていたとしても、愛する家族が生きてくれている。
ただそれだけで、戦う理由には十分だったに違いない。
しかしすぐに、冬花の表情は曇りを帯びて目を伏せた。
「でも、魔法少女として冥獣と戦う日々が続いて、少し経ったころ……私のまわりがおかしくなり始めたの」
「おかしくなった?」
「友達に声をかけても、返事をされないことが増えたの。最初は、からかわれているだけだと思った。でも、その回数が少しずつ増えていって……しまいには、先生や周囲の大人たちまで、私の声や姿に気づかないことが増え始めた」
冬花の喉が、小さく震えた。
「おかしいと思って、私は妖精を呼び出して尋ねたわ」
「妖精は、なんて?」
「……謝られたわ」
冬花は目を伏せ、震える声で言葉を継いだ。
「妖精は、何度も私に謝ったわ。≪妖精の雫≫で叶えた願いは、本来なら変えられなかったはずの運命を、無理やり捻じ曲げるものなんだって。だから、変えた運命が大きければ大きいほど、その反動が≪妖精の雫≫を通して、私に代償として返ってきたんだって……」
「反動……?」
「ええ。私が願ったのは、『私はどうなってもいいから、おねえちゃんを助けてほしい』だった。だから、その言葉どおりに……代償として、私自身の存在が少しずつ人に認識されなくなり始めたんだって……」
「それ、最初の契約時に言われなかったのか!?」
あまりにもひどい話に、思わず語気が強くなった。
しかし冬花は、静かに首を横に振る。
「妖精も知らなかったって言っていた。もともと、≪妖精の雫≫を人間に埋め込むのは、初めての試みだったからって……」
「いや、だからって……!」
「妖精は言っていたわ。魔法少女が人間界に入り込んでくる冥獣を倒してくれれば、冥獣界の力はだんだん弱まる。そうして妖精女王を解放できれば、妖精女王が≪妖精の雫≫を魔法少女たちから取り出せるはずだって。そうすれば代償も消えるはずだから、それまで辛抱してほしいって……」
「でも、そんなのって……」
知らなかったで済む問題じゃないだろう。
そう言葉を続けようとした。
だが、冬花がひどく静かな顔で首を横に振るのを見て、おれは口を閉ざした。
「でも私……きっと初めにそれを聞いていても、魔法少女になっていたわ」
「冬花……」
「あのとき、おねえちゃんを助けられるのは、それしか方法がなかったから……」
その言葉は、強がりには聞こえなかった。
彼女は本当に、心からそう思っているのだ。
自分がどれほどの代償を背負うとしても、姉を救えるならかまわないのだと。
「それに――周囲がどんなふうになっても、おねえちゃんだけは、私のことが見えなくなったり、声が聞こえなくなったりしなかった。だから、私はそれだけでいいと思ったの」
冬花の目に、淡い光が宿る。
「おねえちゃんが私を見てくれるなら、それでいい。おねえちゃんが生きていてくれるなら、これからもずっと戦っていけるって……そう思っていた」
「冬花……」
その時、ふと気づいた。
さっきから冬花は、お姉さんのことをずっと過去形で話している。
まるで……その時間が、すでにもう終わってしまったことのように。
「冬花。その、言いたくなければいいんだけどさ……」
おれは慎重に言葉を選びながら、彼女に尋ねた。
「今、お姉さんはどうしてるんだ?」
冬花はすぐには答えなかった。
繋いでいた手が、かすかに震える。
青い瞳が伏せられ、その端にじわりと涙が滲んだ。
やがて彼女は、喉の奥から絞り出すように、小さく呟いた。
「……殺されたの」
「え……?」
「冥獣界の特級冥獣に……私の目の前で、おねえちゃんは殺されたの」




