第6話 魔法少女
夜のグラウンドで縦横無尽に暴れ回る獣を見て、おれは思わず大声をあげた。
「なんだあれ、モンスターか!? なんでこの世界にモンスターがいるんだよ!?」
月明かりの下に浮かび上がるその姿は、どう見ても普通の生き物ではなかった。
黒く濁った体毛は泥と血を吸ったようにまだらに光り、異様に膨れあがった四肢が地面を踏みしめるたび、乾いたグラウンドの土が爆ぜるように舞い上がる。
裂けた口元からは粘ついた涎のようなものが糸を引いて垂れ、低く喉を鳴らすたび、獣の全身が不気味に震えた。
おれは慌ててグラウンドの隅へ走り、植え込みの陰に身を潜めた。心臓がうるさい。呼吸を殺しながら、木の幹に身体を押しつける。
そうして様子をうかがっているうちに、ふと妙なことに気づいた。
その獣はときおり、まるで見えない刃に切り裂かれたかのように、身体のあちこちへ不意に傷を負っていたのだ。
ばちん、と肉の裂ける音が響く。
黒い毛の隙間から肉が弾け、血とも泥ともつかないどろりとしたものが飛び散った。
けれど獣は怯んで逃げるどころか、何もない空間へ牙を剥き、狂ったようにその場で身をのたうたせている。
まるで――そこに確かに“敵”がいると分かっているみたいに。
「……誰かが戦ってるのか?」
目を凝らす。
だが、そこに見えるのは獣だけだ。
それでも――確かになにかがいる。
あの獣は、明らかに“誰か”の攻撃を受けている。
夜の学校のグラウンド。
見えない敵と戦う怪物。
平行世界の日本、魔力反応、そしてこの異様な光景。
どうやらこの世界――思っていたよりずっとやばいらしい。
「――“隠蔽看破”!」
小さく呟いて魔術を発動する。
視界の表層を覆っていた魔力の膜を剥がすような感覚が走る――が、それでも見えない。
「あれ、これでも見えないのか!?」
思わず息を呑む。
となると、かなり高度な隠蔽術式だ。どうやら一回や二回の看破では届かない。
「重ね掛け――“隠蔽看破”“隠蔽看破”“隠蔽看破”……!」
立て続けに術を重ねる。
一回、二回、三回。それでもまだ何も見えない。
さらに魔力を絞り出し、なかば意地になって術式を重ねていく。
「……っ、“隠蔽看破”!」
――十回目。
その瞬間、まるで曇ったガラスを一気に拭い去ったみたいに、何もなかった空間にひとつの人影が浮かび上がった。
「見えた……!」
そこにいたのは、青と白を基調にした衣装をまとった少女だった。
夜風にひるがえる短いスカート。
月光をうけて淡く光る銀色の髪。
袖や胸元には繊細な意匠が散りばめられ、肩から背にかけては羽根のような装飾が揺れている。戦うための装いとは思えないほど華奢なのに、月光を受けてきらめくその姿は、息を呑むほど現実味がなかった。
まるで、おとぎ話から迷い出てきた冬の夜の妖精のようだ。
「なんだあの子……まるで……」
まるで、おれが元の世界でよくアニメで見ていたような魔法少女みたいな服装だ。
するとおれの肩の上にのったティトが、きょろきょろと辺りを見回しながら言う。
「マスター、誰かいるんですか? ボクにはちっとも見えません……」
「精霊獣であるお前にさえ見えないなんて、すごい隠蔽魔術の使い手だな。えっと……使い魔に“視覚共有”と“聴覚共有”。どうだ、これで見えるようになったか?」
術式を繋ぐと、ティトがぱちぱちと瞬きをした。
「あ、ようやく見えました! でも、なんだかずいぶんとヒラヒラした格好ですねぇ。あの恰好が、マスターの世界での戦闘衣装なのですか?」
「そんなわけないだろ。というか、おれにも何が起きているかさっぱりで……」
だが、ティトとおしゃべりを続けている余裕はなかった。
獣が大きく身をひねる。嫌な予感が走った直後、太い尾が凄まじい勢いで空間を薙いだ。
まずい――と思ったときにはもう遅かった。
唸りを上げた尾は、見えざる魔法少女の身体をまともに捉えていた。
どごっ、と鈍く重い衝撃音が響く。
そして、少女の華奢な身体があっけなく宙へ弾き飛ばされ、土煙を巻き上げながらグラウンドの上を何度も転がった。
受け身を取れたようには見えなかった。
いや、そもそも地面に叩きつけられ、少女の華奢な身体が、あんな一撃に耐えられるとは到底思えない。
「う……っ」
苦しげな呻きが聞こえた瞬間、彼女がまだ生きていたことに、おれはほんの一瞬だけ安堵した。
だが、ほっとしたのも束の間だった。土煙が晴れきる前に、獣が動いたからだ。
獣は少女のいる場所を見定めたらしく、一直線にその場へ突っ込んでいく。
「まずい、逃げろ!」
叫ぶのとほとんど同時に、獣の両腕が土煙の中へ突っ込まれた。
次の瞬間、少女の身体が乱暴に掴み上げられる。
「っ、ぁ……ぅ、あっ……!」
細い身体が宙に浮く。
抵抗しようとしているのか、必死に手足が動く。
けれど、怪物の握力の前ではあまりにも無力だった。
月明かりの下、少女の身体が頭上高く掲げられる。
獣は裂けた口元をぐにゃりと歪めると、その掌にゆっくりと力を込めはじめた。
「いっ、ぅ……ぁ、ああァッ!」
悲鳴が夜気を引き裂く。
次いで、みし、みし、と耳障りな音が響いた。
骨の軋みと、肉の潰れる鈍い音だった。
その瞬間、おれは肩に乗った相棒へ向かって叫んでいた。
「話はあとだ、ティト! 今はあの子を助けるぞ!」
おれはインベントリから魔弓を引き抜いた。
黒と銀の弓身に魔力の筋が奔り、指先から流し込んだ力が弦の上で凝縮され、光の矢となって立ち現れる。
「魔力補填――斉射!」
引き絞った瞬間、放たれた一矢が空中で二つ、四つと分かれ、光の群れとなって獣へ殺到した。
額、眼窩、こめかみ、喉元。急所を立て続けに穿たれ、黒い巨体が大きくのけぞる。
だが――
「まだです、マスター!」
「ちっ……しぶといな!」
おれは舌打ちし、さらに踏み込んだ。
最後の一矢へ、ありったけの魔力をねじ込む。圧縮された閃光は一直線に走り、獣の眉間を正確に撃ち抜いた。
次の瞬間、鈍い破裂音とともに怪物の頭部が内側から吹き飛ぶ。
黒い血飛沫と肉片が月明かりの下に散り、巨体は糸の切れた人形みたいにぐらりと傾いだ。
やがて膝から崩れ落ち――その両腕から、小さな少女の身体が地面へ向かって落下していく。
「しまった!」
おれは反射的に駆け出した。
倒れ込む獣の脇をすり抜け、地面を蹴る。
そして、落ちてくる少女へ両腕を伸ばし、寸前のところでどうにか抱きとめた。
「うわっ、と……!」
少女の身体はひどく軽かった。
腕の中に収まるその身体はあまりにも細く、手足も花の茎のように頼りなくて、少し力を入れただけで折れてしまいそうだった。
くわえて、その少女はかなりぼろぼろだった。衣装のあちこちは裂け、白と青の布地には土と血がこびりついている。肩口には深い裂傷があり、膝や腕にも擦り傷が無数に走っていた。長い睫毛は汗で濡れ、青白い顔には苦痛の色がにじんでいる。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」
問いかけると、少女はかすかに目を開けた。
湖のように澄んだ青い瞳が、揺れながらまっすぐおれを見つめる。
桜色の唇が震えた。
その表情は、まるでありえないものを目の当たりにしたかのようだった。
「あなた……どうして私に触れられるの?」
「え?」
思わず間抜けな声が出た。
どうして触れられるのって……
いや、普通に受け止めただけなんだが。
きょとんとするおれを見つめていた少女の目から、ふっと力が抜ける。
そのまま彼女は、糸が切れたように意識を失った。
「どうして触れられるのって……いったいどういうことだ? それに、このモンスターはいったい……?」
「マスター、見てください!」
ティトの焦った声に顔を上げる。
見れば、学校の敷地全体を覆っていた白い結界がほどけ始めていた。
薄い光の膜が夜空へ溶けていく。
それはまるで、巨大なガラス細工が静かに崩れていくような光景だった。
さらに驚くべきことに、結界が解けるのと同時に、さっきまで獣が暴れ回ってめちゃくちゃになっていたグラウンドが、みるみる元に戻っていった。
抉れた地面が埋まり、砕けた土が巻き戻るように整い、飛び散っていた砂や血痕までもが、何事もなかったみたいに消えていく。
同時に、先ほどのモンスターの身体も光の粒子となって崩れ始めた。
黒い巨体がさらさらと夜気に溶け、やがて完全に消える。
だが、その場にはひとつだけ、奇妙なものが残っていた。
握りこぶしほどもある、大きな結晶だった。
夜のグラウンドに転がったそれは、内側に濁った光を抱え込んでいるように、ぼんやりと瞬いている。
「これは……?」
おれが眉をひそめるより早く、ティトがぴょんと地面へ飛び降りた。
結晶のまわりをくるりと一周し、鼻先を近づけてすんすんと匂いを嗅ぐ。
「ふむふむ……触っても問題なさそうです」
「本当か? 無理はするなよ」
「大丈夫ですっ!」
ティトは前足で結晶を抱え上げると、感心したように目を輝かせた。
「これは、かなり純度の高い魔力の塊ですね……! これはいったんボクが保管しておきますねっ!」
そう言って、ティトは器用に収納魔法で結晶をしまい込む。
「にしても……この少女が倒れた途端に結界魔法が消えたということは、おそらく、この結界を維持していたのは彼女なのでしょうね」
「そうみたいだな。しかも、これはただの結界魔法じゃない」
おれは何事もなかったかのように修復されたグラウンドを見回し、呟いた。
「結界魔法で、空間の位相を固定していたのか? もしかして、戦いが終わったあとに、周囲の建物や地形が元に戻るように……?」
「どうやら見た目に反して、彼女はかなり高度な魔術師のようですね。しかも今この時点でも、マスターの視覚共有がなければ、ボクには彼女の姿が見えていませんし……」
おれは腕の中の少女を見下ろした。
身体は傷だらけで、顔色も悪い。何がどうなっているのかはさっぱり分からない。だが、状況を見るかぎり、この子は必死になってあの獣から学校を守ろうとしていたのだろう。
少なくとも、このまま放ってはおけない。
「よし。ひとまず、この子を連れて安全な場所まで行くぞ。ここでぐずぐずしていたら、またさっきみたいなのが襲ってこないとも限らないしな」
「分かりました、マスター! では、あのホテルの部屋に戻りましょう!」
ティトの言葉に、おれはぴたりと固まった。
「……ホテルの部屋?」
「? ほかに、この子を連れて行ける場所のあてがあるんですか?」
きょとんとしたティトを見てから、腕の中の気絶した少女へ視線を落とす。
改めて見ると、どう見ても彼女は中高生くらいだ。
しかもフリフリの魔法少女衣装。
そして、おれは男。時刻は深夜。行き先はホテル。
――はい。どう見ても通報案件です。
「ま、まあ、これは不可抗力。不可抗力だから……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、おれは気絶した少女を抱え直す。
そうしておれは、どうか誰かに見つかって通報されませんようにと心の底から祈りつつ、夜の学校をあとにしたのだった。




