第5話 人生詰んでる
おれはホテルのベッドに仰向けに寝転がった。
「はぁ……明日からどうすりゃいいんだよ……」
天井を見上げたまま、思わずため息が漏れる。
帰ってきたと思った日本は、おれの知っている日本じゃなかった。
家もない。友人もいない。地名も路線も、見慣れているようでいて知らないものばかりだ。
どうやらここは、おれの元いた世界によく似た平行世界の日本らしい。
頭では理解しても、気持ちはまるで追いつかない。
すると、おれの頭の横にちょこんと座ったティトが、しょんぼりした声で言った。
「理由は、はっきりとは分かりません。ただ……王様が仕込んだ“向こうの世界のことを口にできなくなる”制限魔法の術式が、帰還魔法に干渉した可能性はあります。そのせいで、帰還先の座標がずれてしまった……のかもしれません」
「……ひとまず、原因は不明ってことか」
片腕を額に乗せる。
元の世界に帰るためには、もう一度、世界をまたぐ転移魔法陣を作らなきゃならない。
だが、あれは簡単な術じゃない。
前の世界で使った帰還魔法陣も、仲間たちに手伝ってもらい、膨大な素材と大量の魔力を使ってようやく完成したものだった。しかも核になったのは、魔王級の存在から得た莫大な魔力だ。
つまり、もう一度あのレベルの転移魔法を作るなら――
「前に倒した魔王みたいな化け物を、また探してぶっ倒さないと駄目ってことか……」
我ながら、口にしていて頭が痛くなる。
なお、現在のおれは駅前の貴金属買取店でゴールドを換金し、こうしてホテルを取っていた。
部屋は、駅前にある少し古めのビジネスホテルだ。壁際にシングルベッドがひとつ、窓の下には小さなデスクと椅子、壁には薄型テレビ。部屋の奥には、狭いながらもベランダへ続く掃き出し窓がある。
入口近くにはトイレと浴室があり、珍しくそれぞれ別になっていた。浴室の前には小さな脱衣スペースと洗面台もある。
この世界の水準ではそこそこなのだろうが、個室に風呂とトイレが備わっているだけでも、異世界帰りの身には十分すぎるほど豪華だった。
ひとまず雨風をしのげる場所を確保できたのは幸いだ。
とはいえ、このまま一生ホテル暮らしというわけにもいかない。
……いや、理屈の上ではできなくもないか。
おれには幻術魔法がある。身分証の確認や受付の目をごまかすくらいなら、たぶんどうにでもなる。
現にゴールドを換金するときにも身分証明書を求められたが、そこは魔法でなんとかごまかした。
そう。さっき身体強化の魔法を使ったあとで、ようやく気づいたのだが……どうやらこの世界でも、向こうで身につけた魔法は普通に使えるらしい。
先ほどはあまりに焦っていて、前の世界にいた時と同じように、ほとんど無意識で魔法を使っていた。
もともと、おれは魔法なんて使えなかった。
魔法を使えるようになったのは、向こうの世界に召喚されたあと、《聖光の核》というものを身体に埋め込まれたからだ。
《聖光の核》は、かつて魔王と一騎打ちをした天使族の力を受け継ぐことのできる、特殊な魔力の塊らしい。これのおかげで、おれは膨大な魔力を得て、魔法や各種スキルを使いこなせるようになった。
元の世界に戻ったら、この力はどうなるのかと思っていたが……どうやら核そのものは、今もおれの中に残って働いているようだ。
ちなみに、王様は最初から異世界の人間を呼ぶつもりだったわけじゃない。
「《聖光の核》の力をもっとも増大させ、魔王を倒せる人間」を召喚しようとした結果、なんと世界の垣根を越えて、おれが呼び出されてしまったのである。
王様もまさか異世界人が召喚されるとは思っていなかったらしく、しきりに謝られたものだ。
召喚魔法、ガバガバ検索すぎないか?
まあ、そのおかげでインベントリには、魔王討伐の際に得たゴールドや宝石が残っていた。
それを換金できたから、少なくとも当面は宿に困らない。
……困らないけど。
知人は誰一人いない。
住む場所もない。
そもそも戸籍もない。
となると――就職活動すらまともにできない。
「どう考えても、おれの人生詰んでるんだが!?」
ベッドの上で起き上がって頭を抱えると、ティトが慌てておろおろし始めた。
「マ、マスター、大丈夫ですか……?」
ふわふわの小さな体を揺らしながら、ティトが心配そうにこちらを見上げてくる。
その黒いつぶらな目が不安そうに揺れているのを見て、おれははっと思い直した。
……そうだ。
不安なのは、おれよりむしろティトのほうだよな。
おれがうろたえてばかりいたら、こいつまで余計に動揺してしまう。
「悪い悪い。ま、くよくよしてもしょうがねぇよな」
そう言って、ティトの頭を指先でくしゃりと撫でる。
「幸い、おれの元いた世界と微妙に違うだけみたいだし、金もあるし」
「マスター……」
「なにより、おれは一人じゃないしな。こんなに頼れる相棒がそばにいるんだ。二人なら、なんとかなるだろ」
すると、いきなりティトがおれの顔にべしゃっと覆いかぶさってきた。
「マスタ~~~! ラブです! こうなったら、ボクと結婚しましょう!」
「なんでだよ」
もふっ、と鼻先に毛が当たる。
あまりにふわふわでくすぐったくて、おれは思わず吹き出した。
「ははっ……ったく、近いって」
ふわふわの身体を引きはがし、そのままお腹をわしゃわしゃ撫でる。ティトはきゃっきゃっと笑ながら、幸せそうにしっぽを揺らした。
……そうだよな。
平行世界だろうが何だろうが、おれは一人じゃないんだ!
おれは頷くと、ベッドから下りて立ち上がった。
「よーし! ちょっと違うけど、せっかく日本に帰ってきたんだ。帰還祝いにラーメンでも食いに行こうぜ!」
「おお、夜食のラーメン! 前にマスターが言ってたやつですねっ!」
ティトがベッドの上でぱたぱたとしっぽを振りながら、おれの右肩の上によじ登ってくる。
そのときだった。
ぴたり、とティトの動きが止まった。
「……またです!」
「さっきの魔力反応か?」
「ええ。しかも今のはかなりでかいです――これ、たぶん誰かが戦ってますよ、マスター!」
ティトの耳がぴんと立ち、目つきが一気に真剣なものへ変わる。
おれもごくりと唾を飲み込み、彼に頷いた。
「よし、行ってみるぞ!」
この世界は、おれのいた世界とは違う。
元の世界には魔力も魔法も存在しなかった。
けれど、もしこの世界に現代日本とよく似ていながら、そういう“異質な力”があるのだとしたら――そこに、おれがもう一度元の世界へ戻るための手がかりがあるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が期待に熱を帯びた。
おれはさっそくインベントリを開き、向こうの世界で使っていた装備を引っ張り出した。
物理耐性と魔法耐性のある黒いコート。手首まで覆う籠手。腰のベルトには、必要になればすぐ呼び出せるよう短剣と魔石。さらに折りたたみ式の短弓も背負う。
この世界の人間が見たら、コスプレか何かとしか思わないだろう。
だが、おれにとっては十年間使い慣れた、れっきとした実戦装備だ。
「マスター、窓から行くんですか?」
「ああ。人に見られたくないからな」
窓を開けると、夜気が一気に部屋へ流れ込んできた。
下を見れば、かなりの高さだ。普通の人間なら足がすくむところだが――
「――身体強化」
小さく呟いた瞬間、全身に魔力が駆け巡った。
筋肉が軽くなり、視界に映るものすべての輪郭が、一段くっきりしたように感じられる。
おれは窓枠を蹴り、夜の街へ飛び出した。
ビルの外壁をかすめるように跳び、隣の建物の屋上へ着地する。
さらにもう一跳び。夜風が耳元で鳴り、眼下のネオンが流れていく。
「マスター、あちらです!」
やがて、おれは学校近くの電信柱の上へ降り立った。
だが、そこには奇妙なものがあった。
「……これは、結界魔法!?」
学校の敷地を囲むように、半円状の白い結界が張られている。
それはまるで、校舎もグラウンドも、その周囲一帯まるごと現実から切り離してしまうかのようだった。
白い膜の表面には、淡い光の筋が水面のさざ波みたいに走っている。
空気がぴんと張りつめ、近づくだけで肌の産毛が逆立つような感覚があった。
おれは電信柱から静かに地面へ飛び降り、警戒しながらその結界へ近づく。
「マスター、気をつけてください。かなり強い術式です」
「ああ、わかってる」
おそるおそる結界に手を伸ばす。
次の瞬間――ばちんっ、と火花が散り、おれの手は結界に弾かれた。
「っ!」
反射的に一歩下がる。
だが、籠手の魔法耐性のおかげで傷はない。焼けるような痛みも、ほんの一瞬で引いた。
「なるほどな……正面突破は拒否、ってわけか」
結界の表面をにらみながら低く呟く。
この手の結界は、術者の意志で出入りを制限するタイプが多い。外からの侵入を弾くのは当然だ。
だが、弾かれた拍子にわかったこともある。
この結界は、魔力の流れに、ほんのわずかな継ぎ目――縫い目のような箇所がある。
「ティト。結界の魔力の薄い場所、探れるか?」
「やってみます!」
ティトが肩の上で耳をぴんと立て、鼻をひくつかせる。
しばらくして、結界の左端を前足で示した。
「マスター、あちらです! 完全に破るのは無理でも、薄いところをこじ開けるならいけるかもです!」
「よし。だったら――」
おれはその位置へ移動し、結界に手をかざした。
籠手の下で魔力を練り上げる。力任せにぶち抜くんじゃない。表面の継ぎ目に、自分の魔力を少しずつ、ゆっくりと流し込むような想像をする。
「魔力干渉……解錠術式、展開」
掌の前に淡い銀光が走る。
結界の表面がびり、と震えた。
「っ、硬ぇな……!」
「マスター、もう少しです!」
歯を食いしばって魔力を押し込む。
白い膜の一部がきしみ、針の先ほどの裂け目が生まれた。そこから、濃い血の匂いと、獣じみた唸り声が漏れ出してくる。
――向こう側で、何かが暴れている。
「よし――開いた!」
裂け目が人ひとり通れる程度まで広がった、その瞬間。
おれはティトを肩に乗せたまま、ためらわず結界の内側へ身を滑り込ませた。
そして――白い膜をくぐった途端、空気が一変した。
夜の学校だったはずの場所は、まるで別世界みたいな張りつめた気配に満ちている。
そしてグラウンドの中央では――巨大な獣のような異形が、激しく暴れまわっていた。




