第14話 魔法少女と、ふたりの約束
そうしておれと冬花は、二人で脱衣所に入ることになった。
もちろん、おれは冬花に背を向けて、扉のほうを向いている。
脱衣所に入って少しすると、背後から「んっ……」という小さな声が聞こえた。続いて、衣擦れの音が響く。
しゅるり、という布の滑る音。
視界の端に、洗面台の鏡が映っていた。
見ないようにしているのに、そこには冬花の指先だけがちらりと映る。彼女は着ていたワンピースをつまむと、洗面台の空きスペースに、そっと丁寧に折りたたんで置いた。
つまり、冬花は今、おれのすぐ背後で下着姿になっているわけだ。
続いて、さらに衣擦れの音が響いた時、おれはただひたすら目の前の扉を一転凝視しながら、頭の中で素数をかぞえることにした。
素数、素数を数えて落ち着くんだ。素数は一と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字。素数はすばらしい。
「アキトくん……あの、私、服……ぜんぶ脱いだよ……?」
頭の中で数えていた素数が、一瞬でぜんぶ吹っ飛んだ。
なんでそれ報告した!?
「今から浴室に入って扉閉めるけど……あの、ずっとお話しててね?」
「あ、ああ。もちろん」
あ、そういうことか。
それでわざわざ服を脱いだことを報告してくれたわけだ。
やがて扉が閉まり、冬花が浴室へ入る。
おれは洗面台に背中を預け、ちらりと浴室のほうを見た。
浴室の扉はすりガラスになっていて、中の様子までは見えない。けれど、冬花のぼんやりとした肌色の影だけが、淡く映っていた。
やがて、浴室の向こうから、ざあざあとシャワーの音が響き始める。
その音を聞きながら、おれはふと、気になっていたことを思い出した。
「そういえば、冬花は他人に認識されないって言っていたよな。でも、それで学校は不都合はないのか?」
「うん。私が認識されないのは、人の意識だけみたいだから。電子記録には、ちゃんと残ってるの」
んん?
それは、どういうことだ?
「えっと……昔だったら、きっと無理だったと思う。でも今は、学校の出欠も、手の甲に埋め込まれているライフタグで記録されるから。お知らせの回覧とか、テストとかも、全部タブレット端末に届くし……だから、出席登録も、テストの成績も、ライフタグの記録にはちゃんと残ってるの。今のところは、卒業も大丈夫みたい」
「悪い。ライフタグってなんだ?」
浴室の向こうで、冬花が驚いたように息を呑む気配がした。
「……アキトくん、ライフタグも知らないの?」
「知らないな」
「ほ、本当に……?」
「ああ」
え、そんなに驚くほどなのか?
「そうなのね……。この国の人は、六歳になると手の甲に個人識別用のチップを入れるの。戸籍、学校の出欠、病院の記録、本人確認、買い物の決済……そういったものをまとめて管理するために。それがライフタグって名前なの」
「そ、そうなのか。おれの手の甲には、そんなものはないみたいだ」
もとからそんなものはないけれどな。
あ。そういえば、駅前の買取所でゴールドを換えた時や、ホテルで現金払いをしたとき、受付の人が少し驚いた顔をしていたな。
あれはもしかして、ライフタグを使った電子決済ではなく、現金でやり取りをしたから驚かれたのか?
となると、この世界はおれがいた日本よりも、個人情報や決済を電子管理する仕組みが、かなり進んでいるらしいな。
……って、あれ?
この世界がライフタグによって個人情報を管理しているなら、おれ、ますます詰んでないか?
おれ、買い物ひとつままならないのでは?
あれ?
シャワーの音を背中で聞きながら愕然としていると、浴室の向こうから冬花の声が聞こえてきた。
「そんな……ライフタグまで消失しているなんて……! アキトくんの代償は、やっぱりとても大きいのね……」
「そ、そうなのかな」
「もしかして、アキトくんがこのホテルにいるのも、ライフタグがないから? そういえば、帰る家も知人もいないって言っていたものね……?」
「じ、実はそうなんだ。おれはその、気づいたらティトと二人で公園に倒れていて……今までのことや、この世界での具体的な知識が抜けてるところがあって」
すると、シャワーが止まる音がした。
一拍置いて、浴室の向こうから冬花の声が聞こえてくる。
「なら……あの、アキトくんさえよかったら。あなたの使い魔と一緒に、私の家に来ない……?」
「え? 冬花の家に?」
「あの、私の家、隣駅のマンションなの。今は私ひとりで住んでいるんだけれど……もともとは、お姉ちゃんが私と一緒に暮らすために買ってくれた部屋で、まだ空き部屋がひとつあるの」
浴室の向こうから聞こえる冬花の声は、少し早口になっていた。
「その部屋、本当はお姉ちゃんが仕事部屋にする予定だったの。でも、会社の方針でリモート勤務がなくなっちゃって……だから、今は使っていないの。もちろん、家賃なんかいらない。ご飯だって、私が頑張って作るから。だから、その……」
「ありがとう。じゃあ、こちらからお願いしてもいいか?」
「本当!?」
「ああ、住む場所に困ってたから助かるよ。でも、家賃は払わせてくれ。金自体はあるから」
この冬花の精神状態で、一人にしておくわけにはいかないからな。
あと、冬花の話では、魔法少女の精神が大きく揺らぐと、代償の進行が速くなるらしい。
今の提案を断れば、冬花の不安を煽ってしまう可能性が高い。
それに、こちらとしても住む場所を確保できるのはありがたかった。
ライフタグなし、身分証なし、戸籍なし。
改めて並べると、我ながら詰み具合がひどい。
ここは素直に、冬花の厚意に甘えさせてもらおう。
そう冷静に考えていたところで、浴室の扉が開く音がした。
はっと顔を上げると、白い湯気をまとった冬花が立っていた。
細かな雫の残る肌は、うっすらと桃色に染まっている。濡れた髪が頬に張りつき、上気した顔で、おれだけを見つめていた。
慌てて視線を逸らそうとしたが、それより早く、石鹸の匂いをまとった冬花が胸元へ飛び込んできた。
そのまま、唇を重ねられた。
「んっ……」
触れ合うだけの、短いキスだった。
それなのに、冬花の唇はしっとりと濡れていて、驚くほど柔らかかった。
胸元に縋りつく彼女の身体は湯上がりの熱を帯びていて、服越しにも、そのやわらかさがはっきりと伝わってくる。
「冬花? いったいなにを……」
「お金なんかいらないの」
冬花は、おれの首筋に縋るように抱きついてきた。
「ご飯だって、私が頑張って作るし、冥獣との戦いだって私が頑張る。アキトくんが欲しいものがあるなら、私がぜんぶ用意する」
「冬花……」
「だから、私のそばにいてほしいの。あなたに見放されたら、私、今度こそ本当にひとりぼっちになっちゃう……あなたがそばにいてくれるなら、私、どんなことだって……」
もう一度キスしようとしてくる冬花の唇を、おれは指先でそっと押さえた。
一瞬、迷う。
ここで拒めば……冬花の心を大きく揺らしてしまうかもしれない。
そうなれば、代償の進行が速くなる可能性だってある。
でも、だからといって、このまま流されるわけにはいかなかった。
「これ以上は駄目だ、冬花。こんなことしなくても、おれは君のそばにいるよ」
そう告げた途端、冬花の青い瞳が、泣きそうに揺れた。
「……私のことがきらい?」
おれは冬花の頭を、できるだけ優しく撫でる。
「きらいなわけじゃないよ。でも、冬花だって別に、おれのことを恋愛的な意味で好きなわけじゃないだろ?」
冬花はうつむいた。
「……わからない。でも、こうしてアキトくんと直に触れていると、どんなときよりも安心するの。こういう気持ちじゃ、だめなの……?」
「駄目だ」
できるだけ穏やかに、けれどはっきりと言う。
「曖昧な気持ちのまま、軽はずみにこういうことをするべきじゃない。お姉さんだって、きっとそう言うはずだ。それは、冬花が一番わかってるだろ?」
「っ……!」
冬花の顔が、くしゃりと歪んだ。
けれど、涙がこぼれる寸前で、彼女はぐっと唇を噛みしめて、かすかに頷いた。
「……うん、わかった」
「よかった」
ほっと息をついたところで、冬花の手が伸びてきた。
濡れた指先が、おれの頬にそっと触れる。
「じゃあ……」
冬花は頬を桃色に上気させたまま、おれの頬に触れる指先に力を込めた。
熱を帯びた吐息が、唇の隙間からかすかに漏れる。
「この気持ちがただの勘違いじゃないって分かって、もう一度、こうしてあなたにキスしたいって思ったら……今度は、拒まないって約束してくれる?」




