第六十二章 撫で斬り、という選択
一五六八年、八月。
京の夏の暑さは、まだ続いていた。軍議が終わってから三日後、俺は丹後への侵攻を命じた。
その前夜。
俺は一人で執務室に座っていた。地図を広げていた。丹後の一色氏。因幡の山名氏。二つの名前を、じっと見ていた。
悩んでいた。
どう戦うか、ではない。戦った後、どうするか、だ。
一色氏の兵力は七千。山名氏は一万二千。
こちらの兵力は圧倒的に上回っている。
戦えば勝てる。それは分かっている。
問題は、勝った後だ。
降伏させて従えるか。
それとも。
利三が入ってきた。「十兵衛様、お顔が優れませんな」
「考えている」と俺は言った。
「何を」
「一色と山名をどう処理するか」
利三が静かに座った。
「撫で斬りですか」利三が静かに言った。
俺は利三を見た。
「そこまで俺の考えが分かるのか」
「十兵衛様の顔を見れば分かります」
撫で斬り。
敵を根絶やしにする。
一族も家臣も、残さず討つ。
信長様がやった方法だ。
俺が最も嫌いな方法だ。
「やりたくない」と俺は正直に言った。
「しかし」利三が静かに続けた。「憂いを残さないためには、必要かもしれません」
「分かっている。だから悩んでいる」
一色氏と山名氏。この二つを生かしておけば、後で毛利と連携する可能性がある。
降伏させて従えても、毛利が動いたとき、内側から裏切るかもしれない。
北条がそうだった。謙信が手切れをした。
同盟も降伏も、永遠には続かない。
俺は信長の最期を思い出した。
「やるなキンカン」と言った信長の顔を思い出した。
信長様は、俺が撫で斬りをすることを望んでいなかったと思う。
少なくとも俺には、そう聞こえた。だが現実は現実だ。
毛利という四万の大軍が西に控えている。
一色と山名を生かしておけば、毛利との連携が生まれる。
そのリスクを、俺は抱えられるか。
信玄を呼んだ。
「信玄殿、一つ相談したい」
「一色と山名の処理の件か」信玄が静かに言った。
「分かるか」
「明智殿の顔を見れば分かる。難しい顔をしていた」
「撫で斬りにすべきか」俺は直接聞いた。
信玄が少し間を置いた。
「儂の考えを言う」信玄が静かに続けた。「一色と山名を生かしておけば、毛利と繋がる。それは確かだ。撫で斬りにすれば、他の豪族が明智を恐れる。恐れは一時的な服従を生む。恨みも生む」
「どちらを取るべきだと思う」
「明智殿が決めることだ」信玄が静かに言った。「儂は主君の判断に従う。……一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「信長公のやり方と、同じ道を歩みたいか」
俺は固まった。
信長様の道。
撫で斬りは、信長様のやり方だ。
比叡山の焼き討ち。一向一揆への容赦のない鎮圧。
俺はずっと、信長様とは違う道を歩いてきた。
民を大切にしてきた。
降伏した敵を生かしてきた。
それが俺の道だったはずだ。
「信長様と同じ道は歩みたくない」と俺は言った。
「ならば撫で斬りはするな」信玄が静かに言った。
「毛利と繋がれば」
「その時は、その時に対応する」信玄が続けた。「明智殿の強さは、仲間の多さだ。信長に勝ったのも、謙信に勝ったのも、秀吉を倒したのも、全部仲間のおかげだ。一色と山名を根絶やしにしても、恨みが増えるだけで仲間は増えない」
俺は長い間、地図を見た。
信玄の言葉が正しい。
半蔵の情報がある。
一色と山名が毛利と繋がれば、京が三方向から攻められる。
その現実も消えない。
「幸村を呼んでくれ」と俺は言った。
幸村が来た。
「一色と山名、撫で斬りにすべきか」俺は直接聞いた。
幸村が少し間を置いた。「明智殿、俺に正直に答えていいか」
「言ってくれ」
「撫で斬りにすべきだと思う」幸村が静かに言った。「感情的にはやりたくない。戦略的には、憂いを残さない方が正しい。毛利という四万の脅威がある今、背後の不安を消すべきだ」
「信玄殿は反対した」
「信玄殿の言葉も正しい」幸村が続けた。「どちらも正しい。だから難しい。最終的には明智殿が決めるしかない」
俺はその夜、眠れなかった。
信玄の言葉と、幸村の言葉が頭の中で繰り返された。
どちらも正しい。
どちらを選んでも、代償がある。
夜明け前、俺は決断した。
出発の朝、全員に告げた。
「一色氏と山名氏、撫で斬りにする」
広間が静まり返った。
「感情的にはやりたくない」俺は続けた。「毛利という四万の脅威がある今、背後に不安を残せない。憂いを残さないために、やる」
信玄が静かに言った。「……明智殿が決めた。従う」
信玄の目が、少し揺れていた。
俺はそれを見た。
「信玄殿、反対か」
「反対だ」信玄が正直に言った。「しかし、主君が決めたなら従う。それが忠誠だ」
「ありがとう、信玄殿。正直に言ってくれて」
幸村が静かに言った。「俺は賛成した側だ。嬉しくはない」
「そうだな」俺は頷いた。「俺も嬉しくない。嫌々やる。それは正直に言っておく」
丹後への侵攻は、三日で終わった。
一色氏の七千は、明智の圧倒的な兵力の前に崩れた。
一色義道が最後まで抵抗した。だが数が違いすぎた。
攻略が終わった後、俺は命令を出した。
「撫で斬りにする」
嫌々だった。本当に、嫌々だった。命令を出した。一色氏が、滅んだ。
俺はその夜、飯が喉を通らなかった。
利三が心配して何度も食事を勧めたが、食えなかった。
「十兵衛様」利三が静かに言った。
「分かっている」俺は答えた。「自分で決めた。後悔はしない。」
「そうですな」利三が静かに言った。「十兵衛様が嫌々やったということを、私は覚えておきます」
「何の意味がある」
「人間らしいということです」利三が静かに続けた。「喜んでやる主君と、嫌々やる主君では、意味が違います」
丹後から一週間後、因幡に向かった。
山名氏の一万二千が待っていた。
戦は五日かかった。
一色より時間がかかった。
山名の兵は粘り強かった。
攻略が終わった後、俺はまた命令を出した。「撫で斬りにする」
嫌々だった。前回より、もっと嫌々だった。山名氏が、滅んだ。
俺は因幡の城に入った。城の広間に座って、しばらく動けなかった。
信玄が入ってきた。
何も言わなかった。
隣に座った。
幸村が入ってきた。
何も言わなかった。
反対側に座った。
三人で、しばらく黙っていた。
俺が口を開いた。「信玄殿、やはり間違っていたか」
「分からない」信玄が静かに言った。「戦略的には正しかったかもしれないが儂には、正しかったとは言い切れない」
「幸村、お前はどう思う」
「俺が賛成した側だ」幸村が静かに言った。「今は、信玄殿と同じ気持ちだ。戦略的には正しかったかもしれない。しかし、正しかったとは言い切れない」
俺は頷いた。
「東北に帰ったら、一色と山名の民を丁寧に弔う。寺を建てる。それだけはする」
「それが明智殿らしい」信玄が静かに言った。
利三が入ってきた。「十兵衛様、報告があります」
「何だ」
「毛利からの使者が来ました」
俺は顔を上げた。
「毛利が使者を」
「はい。一色と山名が滅んだことを受けて、明智殿と交渉したいと言っています」
信玄が静かに言った。
「一色と山名を撫で斬りにした効果が、早速出たな」
「そういうことか」俺は呟いた。
「毛利は賢い家だ。明智が本気だと分かれば、先に交渉に来る」信玄が続けた。「撫で斬りの効果は、確かにあった」
俺は天井を見た。「嫌々やって、効果が出た」
「戦略的には正しかった、ということだ」信玄が静かに言った。「儂はまだ、手放しには喜べない」
「俺も喜べない」
幸村が静かに言った。「明智殿、毛利の使者に会うか」
「会う」俺は立ち上がった。「会って話す。毛利と戦わなくて済む方法があるなら、そちらを選ぶ。もう撫で斬りはしたくない」
「それが明智殿らしい」幸村が静かに言った。
俺は窓から外を見た。
因幡の夏の空が広がっていた。
同じ空の下に、東北がある。
民が待っている。
「帰りたい」と俺は呟いた。誰にも聞こえない声で。「本当に、帰りたい」
《GAME》の〔マップ〕を開いた。丹後と因幡が、明智の色に染まっていた。
西に、毛利のマーカーが光っている。
使者が来た。
まだ終わっていない。
もう、撫で斬りはしたくなかった。




