第六十一章 安堵の同盟と、また来た報告
一五六八年、七月。
京の夏は、蒸し暑かった。遠江や東北の夏とは違う。
盆地の熱気が、城の中まで入ってくる。
俺は汗を拭きながら、書類と格闘していた。
長宗我部への使者を送ってから、五ヶ月が過ぎていた。
家康が四国に渡ってから、交渉が続いていた。
一度、報告が来た。
「元親殿は金銀を受け取りました。文も読みました。まだ判断を保留しています」
家康が粘り強く交渉を続けていた。
七月に入ったある朝。
家康が戻ってきた。
顔を見た瞬間、俺には分かった。
うまくいった顔だ。
「明智殿」家康が静かに言った。
「どうだった」
「長宗我部元親殿、和睦と同盟を受け入れました」
俺は息を吐いた。
長い息だった。
五ヶ月分の緊張が、一気に抜けた気がした。
「本当か」
「本当です」家康が静かに続けた。「元親殿は最後にこう言いました。『明智殿は正直な男だ。播磨を返さなかったことは面白くないが、正直に謝罪して正直に理由を述べた。その誠意は受け取る』と」
「正直さが伝わったか」
「信玄殿の言っていた通りでした」
家康が文を取り出した。
長宗我部元親からの文だ。
「明智殿の誠意、受け取った。播磨の件は面白くないが、認める。四国は俺が守る。畿内は明智殿が守る。互いに干渉せず、共通の敵には共に動く。その約束を守れ。長宗我部元親」
俺は文を読んだ。
短い。明確だ。
元親の心情が読める文だ。
「ありがとう、家康」俺は言った。「五ヶ月間、よく粘ってくれた」
「元親殿は頑固な方でした」家康が静かに言った。「実直な方でもありました。明智殿の文が、最終的に効いたと思います」
全員に告げた。
「長宗我部との和睦と同盟が成立した」
広間に安堵の空気が流れた。
信玄が静かに言った。「よかった。播磨を持ったままで和睦できたのは、上出来だ」
幸村が続いた。「家康殿の交渉が見事だった」
政宗が短く言った。「播磨を返すべきだったとは今も思っている。結果が出たなら、それでいい」
昌幸が穏やかに笑った。「面白い結末でしたな。播磨を返さずに和睦とは」
俺は少し笑った。
「全員の反対を押し切って、うまくいったか」
「今回はな」信玄が静かに言った。「次からは相談しろ。相談してから決めろ。何度言えば分かる」
「分かっている」俺は素直に頷いた。
「本当に分かっているか」信玄が続けた。
「今度こそ、本当に」
その夜、俺は窓から北の空を見た。
長宗我部との同盟が成立した。
西国の一角が安定した。
東北に帰れる日が、また少し近づいた。
信玄が来た。「明智殿、東北の雪はいつ見られる」
「もう少しだ」俺は言った。「畿内が落ち着けば、帰れる。信玄殿との約束を果たせる」
「もう少し、という言葉を何度聞いたか」信玄が静かに、笑いながら言った。「数えているか」
「数えている。今回で七回目だ」俺は苦笑いした。
「八回目は言わせない。必ず連れて行く」
「信じる」信玄が短く言った。「主君の言葉を信じる」
翌朝。
俺は久しぶりに穏やかな気持ちで目を覚ました。
長宗我部との同盟が成立した。
これで西国の大きな脅威が一つ消えた。
畿内の安定が進めば、東北に帰れる。
書類を開いた。
今日は気持ちよく仕事ができそうだ、と思った。だが、昼前に、半蔵が来た。
走っていた。
また、走っていた。
俺は書類から顔を上げた。
「何だ」
「急報があります」半蔵が息を整えた。
「また何かあったか」
「三方向から、動きがあります」
三方向。
俺の胃が、じわじわと痛み始めた。
「一つずつ言ってくれ」
「一つ目。丹後の一色氏が、京を狙う動きをしています」
「二つ目は」
「因幡の山名氏が、山陰から東に動き始めています。京方面への関心を持っているようです」
「三つ目は」
「毛利氏が、播磨と但馬方面に勢力を拡大しようとしています。最終的には京を狙う可能性があります」
俺は半蔵の報告を聞き終えた。
しばらく、何も言わなかった。
利三が静かに入ってきた。
俺の顔を見て、察したらしく、何も言わなかった。
「……一色氏と山名氏と毛利氏か」
俺は静かに言った。
非常に静かに言った。
「三つ同時に、か」
「はい」半蔵が静かに答えた。
俺は天井を見た。
しばらく、天井を見続けた。
いい加減にしてほしかった。
本当に、心の底から、いい加減にしてほしかった。
長宗我部との和睦が成立して、今日で何時間経った。
半日も経っていない。
安堵したのが、つい今朝のことだ。
東北に帰れると思ったのが、今朝のことだ。
利三が静かに言った。「十兵衛様、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」俺は正直に言った。「全然大丈夫じゃない」
「そうですね」利三が静かに同意した。
「いい加減にしてほしい」俺は言った。「本当に、いい加減にしてほしい」
「ごもっともです」
「東北に帰りたい。雪が見たい。信玄殿との約束を果たしたい。民に会いたい」
「ごもっともです」利三が繰り返した。
「帰れない」
「……ごもっともです」
半蔵が静かに続けた。「詳細を申し上げます。一色氏の兵力は七千。山名氏は一万二千。毛利氏は四万以上と見られます」
俺は半蔵を見た。
「毛利が四万か」
「はい。秀吉が滅んだことで、毛利が西国での動きを活発化させています。勢力の拡大を図っています」
「四万が京を狙うということか」
「可能性があります。今すぐではありませんが、将来的には」
俺は《GAME》の〔マップ〕を開いた。丹後、因幡、播磨の方角を確認した。
一色氏は北から来る。
山名氏は西北から来る。
毛利氏は西から来る。
三方向が、京を囲むように光っている。
信玄が部屋に入ってきた。
半蔵の報告を廊下で聞いていたらしい。
「聞いていたか」と俺は言った。
「聞いた」信玄が静かに言った。
「どう思う」
「いい加減にしてほしいな」信玄が静かに言った。
俺は少し目を丸くした。「信玄殿もそう思うか」
「思う。儂も東北の雪を早く見たい」信玄が続けた。「だが、現実は現実だ。対応しなければならない」
幸村が入ってきた。「報告を聞いた」
「どう思う」と俺は聞いた。
「いい加減にしてほしい」幸村が静かに言った。
俺は苦笑いした。「全員同じことを言うな」
「本音だ」幸村が続けた。「来るなら来い。受けて立つ」
政宗が入ってきた。「報告を聞いた。いい加減にしてほしいな」
「お前もか」
「本音だ」政宗が続けた。「一色、山名、毛利を同時に相手にするのは、現実的ではない。優先順位を決める必要がある」
昌幸が入ってきた。「面白くなってきましたな」
全員が昌幸を見た。
「昌幸殿だけが違うことを言う」俺は言った。
「いい加減にしてほしい気持ちは同じです」昌幸が穏やかに笑った。「ですが困難な状況ほど、面白いとも思います。信玄公の下で長年戦ってきた儂には、まだ余裕があります」
「羨ましい余裕だ」と俺は言った。
全員が揃った。
軍議を始めた。
「優先順位を決める」と俺は言った。「三つを同時には対応できない。どこから手をつけるか」
「毛利が最大の脅威です」と家康が静かに言った。「四万の兵力は、他の二つとは格が違います。今すぐ京を攻めてくる状況ではありません」
「一色と山名はどうだ」
「一色の七千は、単独では京を攻められない」政宗が続けた。「山名の一万二千も同様です。二つが合流して、毛利と連携すれば話が変わる」
「つまり三つが繋がる前に、各個撃破が必要だということか」
「そうだ」政宗が語り終える。
信玄が静かに言った。「明智殿、一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「今の総兵力はいくらだ」
俺は確認した。
長宗我部との交渉中に回復を続けた結果、総兵力は六万二千まで戻っていた。
「六万二千だ」
「一色を一手で叩く。山名を一手で叩く。毛利への備えを残す」信玄が地図を指さした。「三つに分ければ、それぞれ対応できる。毛利への備えを厚くしなければならない。あの家は本物だ」
「また兵力を分散させるのか」と幸村が言った。
「そうなる」俺は頷いた。「前回と違うのは、長宗我部との同盟がある。西国の一角が安定している。毛利への対応で、長宗我部が後ろを守ってくれる可能性がある」
「なるほど」幸村が静かに言った。「播磨を持ち続けた理由が、ここで効いてくるわけか」
「そう思いたい」俺は答えた。
「長宗我部に連絡を取る」と俺は決めた。「毛利への対応で、四国から牽制してもらえるか打診する」
「同盟を締結した当日に、早速頼むのですか」家康が静かに苦笑いした。
「そうだ。悪いとは思っている。しかし頼む」
家康が「分かりました」と言った。
軍議が終わった後、俺は一人で残った。
利三が湯呑を持ってきた。
「一色、山名、毛利か」俺は言った。「また戦が続く」
「そうですな」
「東北に帰れるのはいつだ」
「分かりません」利三が静かに答えた。「ですが必ず帰れます。十兵衛様がここまで積み上げてきたものは、本物です」
「信玄殿との約束が、また遠くなった」
「遠くなっただけで、消えてはいません」
俺は窓から北の空を見た。
東北の空が、その遥か先にある。
夏の空が、高く青い。
東北にも同じ空が広がっているだろう。
「いい加減にしてほしい」と俺はもう一度呟いた。誰にも聞こえない声で。「来るなら受ける。それしかない」
《GAME》の〔マップ〕を開いた。
丹後に一色のマーカーが光っている。
因幡に山名のマーカーが光っている。
西国に毛利のマーカーが光っている。
全部を見た。
全部を受け止める覚悟をした。
東北の星が、遠い北で輝いていた。




