第五章 岩代攻略、そして俺が見たくなかったもの
上野を制してから十日後。
兵の補充と食糧の確保を終えた俺は、マップを北に向けてスクロールしていた。
越後の上杉謙信は相変わらず三万で睨みを利かせている。甲斐の武田信玄も同様だ。この二つの巨大マーカーを避けながら東北に抜けるルートを探すと、自然と東寄りのルートになる。
そして、そのルート上に一つの国が引っかかった。
【岩代 蘆名盛氏 兵力五千】
俺は首を傾げた。
「……蘆名盛氏?」
前世の記憶を掘り起こす。蘆名氏。会津を中心に勢力を持つ東北の大名。蘆名盛氏は確か、蘆名氏の最盛期を築いた当主だったはずだ。
しかし、正直に言えば、信長や信玄や謙信ほどの知名度はない。
俺の中の戦国知識では、中堅どころの印象だ。
そしてマップのパラメータを見ると。
【蘆名盛氏 武力70 統率72 知略48】
悪くない数値だが、飛び抜けてもいない。
そして、兵力五千。
俺の現在の兵力は、上野攻略後の補充を含めて一万三千。
倍以上だ。
思わず鼻歌が出た。
「岩代に向かう」と俺は軍議で言った。
いつもより声が軽かったと思う。
利三が少し心配そうな顔をした。「油断は禁物にございますが」
「分かってる。でも五千だぞ。上野の長野業正ですら七千だった。それより少ない」
「業正殿には手こずりましたが」
「《欺瞞》があれば大丈夫だ」
幸村が黙って俺を見ていた。何か言いたそうだったが、口を閉じた。
昌幸がにこやかに言った。「まあ、慢心さえしなければ。五千は五千ですからな」
忠勝は何も言わなかった。ただ槍を手入れしていた。
俺は鼻歌混じりに、進軍ルートを指でなぞった。
これは行けると、本当に思っていた。
岩代への侵攻は、拍子抜けするほど順調だった。
《欺瞞》を使う前に、忠勝と幸村の二枚看板を前に出しただけで、蘆名の前衛部隊が次々と崩れていく。兵力差が明確すぎた。五千対一万三千では、士気の面でも最初から勝負になっていない。
マップ上の敵マーカーが減っていく。
気持ちいいくらい、減っていく。
午前中に始まった戦は、日が傾く前にほぼ決していた。
「楽勝だ」と俺は思った。
その言葉を、口に出さなくて良かったと後で思う。
問題は、蘆名盛氏の本陣に迫ったときだった。
マップ上で、盛氏のマーカーが突然移動し始めた。
北へ。素早く、迷いなく、北へ向かっている。
「逃げた」と俺は呟いた。
伝令が確認して戻ってきた。「蘆名盛氏、少数の手勢を連れて北方へ脱出されました。追跡は困難かと」
また、逃げられた。
長野業正といい、どうも俺は当主に逃げられる。マップを見ると、盛氏のマーカーが岩代の北の山中に消えていくのが見えた。捕まえられない。地の利がある。
「……まあいい」と俺は言った。「岩代は取れた。先を急ごう」
そのときはまだ、気楽に思っていた。
本陣として接収した岩代の城に入ったのは、日が暮れてからだった。
城の中を確認して回っていた利三が、俺のところに来たのはそれからさらに一刻後だ。
利三の顔色が、普通ではなかった。
「十兵衛様」
声が、いつもと違う。
「何があった」
「……少し、来ていただけますか」
城の裏手だった。
松明の光が照らし出したものを見た瞬間、俺の足が止まった。
人が、いた。
複数の人間が、斬られていた。首を落とされた者、胴を断たれた者。整然と並べられているわけでも、乱雑に転がっているわけでもない。ただそこに、死体があった。
「何人だ」と俺は聞いた。声が出たのが不思議だった。
「今のところ、十二人と確認しております」利三が静かに答えた。「城内の者に聞いたところ……蘆名盛氏の命によって処刑された者たちだと」
「何故」
「内政の能力が低い、と判断された者たちだそうです」
俺は利三を見た。利三が静かに続けた。
「盛氏様は非常に有能な方でした。それゆえ、能力の低い者を極めて厳しく裁かれた。政務に不手際があった者、計算を誤った者、報告が遅れた者……そういった者たちが、処刑されていたようです」
俺は松明の光の中に照らされた顔を見た。
若い顔があった。
十代に見える顔が、あった。
胃の底から何かが込み上げてきた。俺は城の石壁に手をついて、その場で吐いた。
どのくらいそうしていたか分からない。
利三が背中に手を当てていた。何も言わずに、ただそこにいた。
ようやく顔を上げると、夜空に星が出ていた。
「ゲームだったら」と俺は言った。「こういうのは見えない。処刑のグラフィックなんてない。能力値が低い武将は、ただ登用できないだけだ」
利三が黙って聞いていた。
「現実は違う。当たり前だけど、違う」
俺は壁から手を離して、ゆっくり立ち上がった。
「あの人たちを、ちゃんと弔ってくれ」
「御意」
「名前を調べろ。家族がいるなら、伝えてやれ。できる限りでいい」
「……はい」
利三の声が、少し違う色を持った気がした。
翌朝、俺は城の広間に主要な家臣を集めた。
いつもの軍議と違う空気を、全員が感じ取っていた。
「昨夜のことは聞いていると思う」と俺は言った。「能力が低いという理由で、人が殺されていた」
誰も口を開かない。
「俺はああいうことはしない」
俺はゆっくり全員を見回した。「戦で敵を殺すのは仕方ない。しかし自分の配下を、能力が足りないからという理由で殺すことは、俺にはできない。する気もない」
また、沈黙。
そして、幸村が静かに言った。「……それを言葉にしてくれる主君は、少ない」
忠勝が槍の石突きを床に当てた。音が広間に響いた。この男なりの、同意の表し方だと俺は受け取った。
家康が目を細めて俺を見ていた。何を考えているか読めない。しかしその目は、昨日より少し違う光を持っていた気がした。
その夜、俺は一人でマップを見た。
蘆名盛氏のマーカーは、山の向こうに消えたままだ。
有能な人間だったのだろう。戦も政も、並外れた力を持っていたはずだ。だからこそ、能力の低い者を許せなかった。
俺には理解できない価値観だが、この時代においては珍しくないのかもしれない。
でも俺は、あの若い顔を忘れられない。
ゲームマップの上に数字で表示される兵力の一人一人に、顔がある。名前がある。家族がある。
それを、本能寺の翌朝から何度も忘れかけて、そのたびに現実に引き戻される。
「東北に行って、何を作りたいんだ、俺は」
自分に問いかけた。
答えは、まだはっきりしない。
でも少なくとも、昨夜見たものとは違う何かを作りたいと、それだけは分かった。
マップの北が、静かに光っている。
東北は、もうすぐそこだ。




