第五十六章 無理矢理の山城攻略と、信玄の文
伊賀の本陣で、俺は夜通し《GAME》の〔マップ〕を見ていた。
秀吉のマーカーが山城と摂津と丹波で光っている。
六万三千。こちら八万三千。差は二万だ。兵力差では勝ってる。理性では分かっている。
もう少し待てば、大和の兵力がさらに回復する。信玄が「もう一ヶ月くれれば六万以上まで戻せる」と言っていた。焦る必要はない。
しかし、秀吉が怖かった。正直に言う。怖かった。信長とは違う種類の怖さだ。
信長は天才だった。圧倒的な才能で俺を追い詰めた。その怖さは分かりやすかった。
秀吉の怖さは、別物だ。この男は生き残りの天才だ。追い詰められても、逃げて、立て直して、また来る。何度削っても、何度押し返しても、消えない。
本能寺の変の後、俺を山崎で討ったのは秀吉だ。前世の記憶がそう言っている。
この時代では違う結果になっているが、それでも秀吉という男への恐怖が、骨の髄まで染み込んでいる。
もし秀吉が先に動いたら。こちらが回復を待っている間に、秀吉が兵力を増やしたら。
西国の大名をさらに従えて、十万を超えてきたら。その可能性が、頭から離れなかった。
夜明け前、俺は決断した。
「山城を攻める。今すぐ動く」
朝の軍議で告げると、信繁が静かに聞いた。「今の兵力で動くのですか」
「そうだ」
「大和の回復を待てば」
「待てない」と俺は言った。「秀吉が先に動くかもしれない。待てば待つほど、秀吉が強くなる可能性がある。今動く」
信繁が少し間を置いた。
「分かりました。信繁、従います」
昌景が静かに頷いた。「山県昌景、前線に出ます」
義重が言った。「鬼義重、先頭に立つ」
大和の信玄への伝令を飛ばした。
「山城を攻める。大和から動ける兵を全て送ってくれ。一人でも多く」
返事が来るより先に、俺は動き始めた。
伊賀の兵力を集めた。二万一千。大和から送られてきた兵、一万八千。
合計三万九千。
秀吉の山城の守備兵は二万五千と半蔵が報告していた。
数では上回っている。しかし、余裕はない。薄氷の上を歩くような兵力差だ。
出発の朝、義重が俺の隣に立った。
「明智殿、焦っているな」
俺は少し驚いた。「分かるか」
「分かる」義重が静かに言った。「三年前の明智殿とは目が違う」
「秀吉が怖い」と俺は正直に言った。「待っていれば待っているほど、怖くなる。だから動く」
義重が短く頷いた。
「正直に言える主君は、信頼できる」義重が続けた。「俺も一緒に怖がってやる。怖いまま、前に進む。それだけだ」
三万九千が伊賀を出発した。
山城に向かって、西に進む。
山城への道は、信玄が設計した山道ルートを使った。
半蔵の忍びが前を走って、秀吉の物見を排除し続けた。
行軍しながら、俺は何度もマップを確認した。
秀吉の山城守備部隊が、こちらに気づいて陣を固め始めていた。
二日後、山城の国境に達した。
秀吉の守備隊が、待ち構えていた。
二万五千。整然とした陣形だ。
指揮しているのは、秀吉の側近の将だ。秀吉本人は摂津にいるという半蔵の報告があった。
義重が前に出た。「俺が先頭に立つ」
「頼む」
義重の鬼義重スキルが展開した。
恐怖を感じない男が、三万九千の先頭に立った。
その姿だけで、秀吉の守備隊に動揺が走った。
昌景が補給路を断った。
信繁が側面に回り込んだ。
俺が《欺瞞》を使った。
「秀吉本人が摂津から丹波に撤退している」という偽情報を守備隊に流した。
本拠の大将が逃げているという情報が、兵の士気を一気に下げた。
守備隊が崩れ始めた。
三日間の戦いで、山城の主要城が次々と落ちた。
消耗が大きかった。
三万九千が三万一千まで削れた。
しかし、山城を制圧した。
【山城 明智軍制圧】
そして、俺は、京に入った。
京の街並みが見えたとき、俺は馬の上で動けなくなった。
京。この国の都。
織田信長が夢を見た場所。
羽柴秀吉が掌握しようとした場所。
明智光秀が、本能寺で主君を討った場所。
前世の記憶の中で、俺はこの街を知っていた。
歴史の教科書の中で、何度も見た街だ。
しかし、実際に目で見るのは、この体になって初めてだ。
瓦屋根が続く街並み。鴨川の流れ。遠くに見える山。
美しかった。
利三が隣に来た。「十兵衛様、京に戻りましたな」
「ああ」と俺は言った。声が掠れていた。
「本能寺の変の後、信長様を討って逃げた。あのときから、長い旅でした」
「長かった」俺は繰り返した。
長かった。本当に長かった。
京から東北まで逃げて、東北を統一して、関東を取って、越後を取って、西に向かって、信長を倒して。
そしてついに、京に来た。
感無量だった。
この言葉しか出てこなかった。
義重が静かに言った。「泣いているか、明智殿」
「泣いていない」と俺は言った。
しかし、目が熱かった。
「泣いていないことにしておこう」義重が短く笑った。
その夜、京の山城に本陣を構えた。
俺は一人で執務室に残った。
書類が積み上がっている。
しかし、今夜は書類より先にやることがあった。
窓を開けた。
京の夜景が広がっていた。
灯りが、街のあちこちで揺れている。
民が、この街で生きている。
「ここまで来た」と俺は呟いた。
誰にも聞こえない声で。
信長への「死ね」の返事を思い出した。
「死ねと言われたが、死ななかった。京に来た」
翌朝、信玄からの文が届いた。大和から急使が持ってきた。俺は文を開いた。信玄の文は、長かった。信玄にしては珍しく、長い文だった。
「明智殿へ。山城を取ったことは評価する。しかし、儂は怒っている。以下に理由を述べる。
第一。儂が三ヶ月待ってくれと言った。一ヶ月で勝手に動いた。約束を守れ。
第二。伝令より先に動き始めていた。儂への連絡が後手になっていた。主君が前線に出るなら、事前に全員に知らせよ。
第三。三万九千で二万五千と戦った。確かに数は上回っていた。しかし余裕がなさすぎる。薄氷の上を走るような兵力差だ。もし秀吉本人が山城にいたら、どうなっていた。
第四。焦っていただろう。秀吉が怖くなって、待てなくなっただろう。儂には分かる。儂も長年、謙信への恐怖と戦い続けた。しかし、恐怖から動いた戦いは、必ず無理が出る。今回は勝ったが次は負けるかもしれない。
以上四点が、儂が怒っている理由だ。
しかし、一つだけ認める。山城を取ったことで、秀吉への圧力が生まれた。京を取ったことで、明智殿の士気が上がった。それは事実だ。結果として正しかった部分もある。
だから怒りながらも、認める。
しかし、次からは相談しろ。儂は主君の暴走を止めるために大和にいるわけではない。しかし止める必要があるなら、止める。それが忠誠というものだ。
武田信玄」
俺は文を読み終えた。
もう一度、読んだ。
そして静かに、文を机に置いた。
利三が入ってきた。「十兵衛様、信玄殿からの文ですか」
「そうだ」
「内容は」
「説教だ」俺は正直に言った。「四項目にわたる、丁寧な説教だ」
利三が少し目を丸くした。「信玄殿が説教を」
「正しいことが四つ書いてある。全部、正しい」
俺は窓の外を見た。
京の朝が始まっていた。
街の人々が動き始めている。
市が開き、子どもたちの声が聞こえる。
「信玄殿は怒りながら認めてくれた」と俺は言った。
「そうですか」利三が静かに言った。
「忠義の高い男が、俺を怒ってくれた。それが嬉しい。変な話だが、本当に嬉しい」
利三が静かに笑った。「それは変な話ではありません。怒ってくれる人は、本当に心配してくれている人です」
俺は返事を書いた。
信玄への返事だ。
「信玄殿へ。説教を受け取りました。四点とも、正しい。反省します。特に第四点、恐怖から動いたという指摘は、核心を突いています。秀吉が怖かった。正直に認めます。次からは相談します。必ず。しかし一つだけ言わせてください。信玄殿の文が届いて、俺は京で一人笑いました。忠義の高い男に怒ってもらえることが、これほど心強いとは思いませんでした。ありがとうございます。明智光秀」
文を封じた。
使者に渡した。
夕方、信玄からの返事が来た。
今度は短かった。
「分かった。次は相談しろ。東北の雪を見るまでは、死ぬな。信玄」
俺は文を読んで、小さく笑った。
利三が「また笑っておられますな」と言った。
「信玄殿は最後に必ず東北の雪の話をする」俺は言った。
「約束を大切にしている証拠です」
「そうだな」
その夜、俺は《GAME》の〔マップ〕を開いた。
山城が明智の色に染まっている。
京が、明智の色に染まっている。
秀吉のマーカーが摂津と丹波で光っている。
残り二国だ。
摂津と丹波を取れば、秀吉の畿内の拠点が消える。
しかし、今夜は、焦らないと決めた。
信玄の説教が、まだ胸に残っていた。
恐怖から動くな。相談しろ。待てるときは待て。
俺は書類を開いた。京の内政を始めた。
街道の確認。市の再開。民への布告。
やることは山積みだ。しかし、今夜は、それが嬉しかった。この街を守るための仕事だ。京の民が、俺を見ている。
東北の星が、遠い北で輝いていた。
信玄が大和にいる。忠勝が大和にいる。幸村が大和にいる。全員が動いている。
秀吉との最後の戦いが、近づいていた。




