第五十三章 秀吉、動く
一五六七年、二月。
三年が過ぎていた。信長が逝ってから、三年。
その三年間、俺は動き続けていた。兵力の回復が、着実に進んでいた。
二十四ヶ国の内政が、少しずつ軌道に乗り始めていた。
信長の旧臣たちが、少しずつ明智に馴染んでいた。
政宗が尾張で丁寧に関係を築いてくれたおかげだ。
家康が関東の奉行制度を完成させた。
昌幸が東北の内政を盤石にした。
安東愛季の海路が、二十四ヶ国を一本の血管のように繋いでいた。
《GAME》で〔データ〕の兵力を確認した。
【明智軍 総兵力 七万三千
三万九千から、七万三千まで回復した。
三年間の積み上げが、数字に出ていた。
秀吉の動向も、三年間で変化していた。
畿内の大半を掌握した。
しかし、近江と伊賀が、まだ完全には従っていなかった。
本願寺が、いまだに石山で抵抗を続けていた。
秀吉は畿内の安定に手こずりながら、しかし着実に勢力を広げていた。
半蔵が毎日報告を持ってきた。
「秀吉の兵力、八万二千と確認しています」
「増えているな」
「はい。西国の大名を次々と従わせています。長宗我部、毛利の一部。勢力が拡大し続けています」
「こちらも増えている」と俺は言った。
「秀吉が八万二千なら、こちらは七万三千だ。差は縮まっている」
「しかしまだ差があります」
「分かっている」
三年間で、俺は一度も秀吉と直接ぶつかっていない。
互いに勢力を拡大しながら、一触即発の状態が続いていた。
俺は内政と兵力の回復に集中した。
全員に「急ぐな、確実に」と言い続けた。
政宗にも、幸村にも、信玄にも。
伊勢の城で、俺は書類と格闘していた。
二月の寒い朝だ。炭が赤く燃えている。
利三が茶を持ってきた。「今日も書類の山ですな」と利三が言った。
「終わりが見えない」と俺は答えた。
「しかし、三年前と比べれば、ずいぶん整ってきました」
「そうだな」俺は茶を一口飲んだ。「内政は地味だが、確実だ」
穏やかな朝だった。しかし、半蔵が走ってきた。
この男が走っているのを見た瞬間、俺の胃が収縮した。
「半蔵」と俺は言った。
「急報です」半蔵が息を整えながら言った。「秀吉が動きました」
「どこに」
「二方向です」半蔵が続けた。「一つ目、近江に秀吉の軍勢が侵攻しています。兵力は三万。二つ目」
「二つ目は」
「伊賀に、別の軍勢が動いています。兵力は二万五千」
俺は《GAME》の〔マップ〕を開き確認した。
近江に、秀吉の赤いマーカーが展開していた。
伊賀に、別の赤いマーカーが動いていた。
【羽柴秀吉 総兵力八万二千 近江・伊賀に同時侵攻】
伊賀。信長が最後に逃れた土地。俺が信長を弔った土地。しかし、今の伊賀の守備兵は、三千しかいない。
内政の優先度を西国より東国に置いていたため、伊賀の守備が薄かった。
「伊賀の守備兵では守れないか」と俺は聞いた。
「三千対二万五千です」半蔵が静かに答えた。「守れません」
「援軍を送れるか」
「伊勢から動かせる兵は二万程度です。しかし、伊賀の地形で迎撃するには、準備が必要です。今すぐ動いても、間に合わない可能性があります」
俺は地図を見た。伊賀の位置を確認した。伊勢の西隣だ。伊賀を取られれば、伊勢が直接の脅威にさらされる。
しかし、伊賀の守備兵三千では、二万五千を止められない。
「決断してください」と利三が静かに言った。
俺は地図を見続けた。三秒考えた。「伊賀を放棄する」と俺は言った。
利三が「御意」と言った。
半蔵が「了解しました」と言った。
「伊賀の守備兵三千に撤退命令を出してくれ。伊勢に退いてもらう」
「御意」
「伊勢に兵力を集める。ここで秀吉を受け止める」
全員への伝令を飛ばした。
尾張の政宗に。「秀吉が近江と伊賀に侵攻した。伊賀は放棄する。尾張を固めてくれ」
「了解。尾張は俺が守る。伊賀は惜しいが、仕方ない」と返事が来た。
信玄への伝令を飛ばした。「美濃を固めてくれ。秀吉の動きに備えてくれ」
「把握している。美濃は動かさない。伊勢の守りを急げ」と返事が来た。
忠勝への伝令。「磐城から動かせる兵を伊勢に向かわせてくれ。しかし、東北の守りを最低限は残してくれ」
「了解。二千を伊勢に送る」と返事が来た。
家康への伝令。「関東の守りはそのまま維持してくれ。秀吉が関東に向かう可能性は低いが、備えておいてくれ」
「分かりました。関東は安定しています。伊勢の方に集中してください」と返事が来た。
幸村への伝令。「信濃で待機してくれ。伊勢が危うくなれば、増援を頼む」
「了解。しかし早く呼んでくれ。遅れると間に合わない」と返事が来た。
昌幸への伝令。「東北を固めてくれ。秀吉が東北に向かうことは今のところないが、念のために」
「御意。東北は磐石です。しかし、十兵衛様、無理をしないでください」と返事が来た。この言葉が、少し刺さった。
伊勢の城に兵力が集まり始めた。各地から集まってくる。三日後、伊勢の兵力を確認した。
【伊勢集結兵力 二万八千】
各地の守備を残した上で、二万八千が集まった。
秀吉の伊賀侵攻部隊二万五千に対して、数は上回っている。
しかし、秀吉の近江侵攻部隊三万が合流すれば、話が変わる。
半蔵が報告を続けていた。
「伊賀の守備兵三千、無事に伊勢に退きました」
「よかった」と俺は息を吐いた。「一人も失うな、と言っておいたが、無事か」
「全員、無事です」
「よかった」俺は繰り返した。「伊賀を取られたことより、兵が無事の方が大事だ」
「伊賀の状況は」
「秀吉の軍勢が伊賀に入っています。主要城を占拠しています」半蔵が続けた。「しかし、秀吉は伊賀で止まっています。伊勢への即座の侵攻はしていません」
「なぜ止まっている」
「近江の戦況を確認しているのかもしれません。あるいは、明智殿の反応を見ているのかもしれません」
「秀吉は俺の出方を見ている」と俺は呟いた。
「可能性があります」半蔵が静かに言った。
「伊賀を放棄した。秀吉は次に伊勢を狙う。俺がどう守るかを、見ている」
「おそらく」
半蔵は地図を広げた。伊勢の地形を俺は確認した。伊賀と伊勢の間に、山地がある。
その山地を活かせれば、秀吉の大軍の展開を制限できる。
「信玄殿を呼んでくれ」と俺は言った。
「御意」
信玄が美濃から来た。
二日後、信玄が伊勢の本陣に入った。
「伊賀を取られたか」信玄が地図を見ながら言った。
「放棄した。守れなかった」
「正しい判断だ」信玄が静かに言った。
「三千で二万五千は守れない。兵を失わずに退いたのは正解だ」
「伊勢の守りを、信玄殿に設計してほしい」
「任せろ」信玄が地図を広げた。「伊賀と伊勢の間の山地を使う。信長の伊賀決戦と同じ発想だ。山地で秀吉の大軍を削る」
信玄が地形を分析し始めた。「ここに第一防衛線を引く。川を前に置いて、山を背にする。秀吉が山地を越えようとすれば、側面を突ける」信玄が続けた。「ここに第二防衛線。ここに退路。秀吉が突破しても、消耗させながら後退できる」
「完璧だ」と俺は言った。
「完璧ではない」信玄が静かに言った。
「秀吉の兵力次第だ。しかし、二万八千で守れる配置にはなる」
夜、俺は一人で伊勢の城の高台に立った。
《GAME》の〔マップ〕で西の方角を見た。
伊賀の方向に、秀吉のマーカーが光っている。
信長のときと同じ位置関係だ。敵が、西から来る。
「秀吉」と俺は呟いた。この男とは、長い因縁がある。本能寺の変の後、秀吉が山崎で俺を討った。
前世の記憶では、しかし、この時代では、俺はまだ生きている。
そして今、秀吉と最後の戦いが近づいている。
利三が来た。「十兵衛様、今夜は休んでください」
「眠れるかな」
「信長公との戦いの前も、同じことを言っていました」利三が静かに言った。「あのときも眠れました」
「そうだったな」俺は少し笑った。
「今夜も眠れます」利三が静かに続けた。
「伊賀を放棄した。しかし、兵は全員無事です。伊勢に二万八千が集まっています。信玄殿が防衛線を設計してくれました。全てが整っています」
「お前に言われると、安心するな」
「それが私の仕事です」利三が静かに言った。
俺は城に戻った。床に入った。目を閉じた。頭の中で、《GAME》の〔マップ〕と〔データ〕が浮かんだ。
伊勢に二万八千。
美濃に信玄。尾張に政宗。信濃に幸村。
東北に昌幸。関東に家康。全員が持ち場にいる。
秀吉のマーカーが、伊賀で光っている。
近江でも光っている。どこから動くか。いつ動くか。しかし、今夜は、考えるのをやめた。
利三が言った通り、全てが整っている。
整えられることは、整えた。あとは、来たときに対応するだけだ。
東北の星が、遠い北で輝いていた。雪が降っているだろうか。昌幸が守ってくれている。民が、平和に暮らしている。
俺は眠った。夢を見なかった。深い眠りだった。
翌朝、伊勢の空が明るかった。
半蔵が来た。「秀吉の動きを報告します」
「聞かせてくれ」
「伊賀で止まっています。近江の軍勢も、一時停止しています」
「秀吉はまだ動かないか」
「はい。しかし、準備は続けています。近日中に動く可能性があります」
「分かった」俺は言った。「こちらも準備を続ける」
《GAME》の〔マップ〕を開いた。伊勢の二万八千が、静かに光っている。秀吉の八万二千が、西で光っている。
秀吉との戦いが、近づいていた。




