第五十二章 止まれ、という声
織田信長が逝って、五日が過ぎた。
弔いを終えて、俺は伊賀の本陣で地図を広げていた。
信長の色が消えた地図を見ながら、次の手を考えていた。
秀吉。
その名前が、頭から離れない。信長が消えた今、畿内で最大の勢力を持つのは秀吉だ。
信長との戦いで俺たちは消耗した。秀吉も信長との戦いで消耗しているはずだ。
今が機会ではないか。
今、動けば秀吉を倒せるのではないか。
俺は《GAME》の〔データ〕を確認した。
【羽柴秀吉 畿内 兵力六万八千】
六万八千。
こちらの現在兵力は。
【明智軍 現在兵力 三万九千】
伊賀の決戦で大きく消耗していた。四万九千が、三万九千になっていた。しかし、今なら、秀吉も消耗している。動けるかもしれない。
俺は軍議を開いた。
「秀吉と決着をつけたい」と俺は言った。
広間が静まり返った。
最初に口を開いたのは、家康だった。
「明智殿」家康が静かに、しかしはっきりと言った。「やめてください」
次に信玄が言った。「やめろ」
忠勝が言った。「無理だ」
幸村が言った。「待て」
政宗が言った。「難しい」
昌幸が穏やかに、しかし真剣に言った。
「お待ちください」
利三が言った。「なりません」
半蔵が無言で首を横に振った。
安東愛季が静かに言った。「今は動かない方がいいと思います」
佐竹義重が短く言った。「無理だ」
今川義元が静かに言った。「賛成できません」
全員が反対した。一人の例外もなく、全員が「やめろ」と言った。
俺は全員を見た。
「理由を聞かせてくれ」
家康が最初に答えた。「三万九千で六万八千と戦えば、勝てません」家康が静かに続けた。「信長公との決戦で消耗しています。兵の疲労が極限に達しています。この状態で秀吉と戦えば、全滅する可能性があります」
「秀吉も消耗しているはずだ」
「消耗しています」家康が頷いた。「しかし、秀吉は信長公との戦いで明智殿ほど消耗していない。畿内で補充を続けています。今の兵力差は縮まっていない」
信玄が続けた。「明智殿、儂から言わせてくれ」
「頼む」
「伊賀の決戦は凄まじい消耗戦だった。三万九千の兵が今どんな状態か、明智殿は見ているか」
「見ている」
「傷ついている。疲れている。信長公という巨大な敵を倒して、今は呆然としている」信玄が静かに続けた。「この状態の兵で戦えば、士気が上がらない。数の不利に加えて、士気の不利まで重なれば、勝ちようがない」
幸村が続いた。「明智殿、俺から一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「今すぐ秀吉と戦わなければならない理由は何だ」
俺は少し間を置いた。
「今が機会だと思ったからだ」
「機会かどうかは分からない」幸村が静かに言った。「しかし、確実に言えることがある。今の俺たちは、戦える状態ではない。それだけだ」
政宗が続いた。「明智殿、一つ確認させてくれ」政宗が地図を指さした。「現在の領地は何ヶ国だ」
俺は《GAME》の〔マップ〕を確認した。
数えた。
「二十四ヶ国だ」と俺は答えた。
東北五ヶ国、磐城、常陸、下野、下総、武蔵、相模、安房、甲斐、駿河、遠江、三河、信濃、越後、上野、岩代、美濃、尾張、伊勢、飛騨。
「二十四ヶ国」政宗が静かに繰り返した。「それだけの領地を、三万九千で守れるか」
俺は答えられなかった。
政宗が続けた。
「一ヶ国あたり、平均して千六百二十五人だ。千六百二十五人で一ヶ国を守れるか。敵が攻めてきたとき、間に合うか。秀吉が六万八千を一点集中させたら、どこが崩れる」
昌幸が穏やかに続けた。「十兵衛様、申し上げます」
「言ってくれ」
「二十四ヶ国は、素晴らしい成果です。しかし広さと強さは別物です」昌幸が静かに続けた。「信玄公の時代、武田は甲斐、信濃、駿河など限られた国を持ちながら、強大な力を持っていました。なぜか。内政が充実していたからです。兵の練度が高かったからです。補給が整っていたからです」
「つまり」
「二十四ヶ国の全てが、今その状態にあるか、ということです」昌幸が穏やかに言った。「東北は安定しています。しかし美濃、尾張、伊勢、飛騨は取ったばかりです。民が明智殿に従っているか、まだ不安定な状態です。その状態で秀吉と戦えば、後ろから足を引っ張られる可能性があります」
利三が続けた。「十兵衛様、数字を申し上げます」
「頼む」
「現在の総兵力、三万九千。二十四ヶ国の守備に最低限必要な兵力、二万五千。残りの機動兵力、一万四千」利三が静かに続けた。「一万四千で秀吉の六万八千と戦うことになります。勝てる数字ではありません」
俺は全員の言葉を聞いた。
一人一人の言葉が、正しかった。
全部、正しかった。
「分かった」と俺は言った。
全員が俺を見た。
「止まる。今は動かない」
全員が、ほっとした顔をした。
「ただし止まるだけじゃない」俺は続けた。「兵力を回復させる。内政を整える。二十四ヶ国を本当の意味で俺の領地にする。そのための時間に使う」
「それが正解です」家康が静かに言った。
「もう一つ確認したい」俺は言った。「秀吉の畿内攻略はどうなっている」
半蔵が答えた。「実は、思うように進んでいません」
「どういうことだ」忠勝が問う。
「信長公が滅んだことで、畿内の各大名が動き始めています。秀吉に従う者、従わない者、様子を見る者。畿内の情勢が不安定になっています」半蔵が続けた。「本願寺も引き続き抵抗しています。秀吉は畿内の掌握に手こずっています」
「それが決め手だ」俺は言った。
「どういう意味ですか」と家康が聞いた。
「秀吉が畿内で手こずっている間、俺たちは力を蓄える。秀吉が畿内を固めるより先に、俺たちが二十四ヶ国を固めれば、最終的に有利になる」
「時間の勝負ということですか」
「そうだ。秀吉は今、畿内の安定に集中しなければならない。その間に俺たちが強くなれば、次の戦いで勝てる」
信玄が静かに頷いた。「正しい判断だ。儂も同じ考えだ」
「信玄殿は最初からそう思っていたか」
「そうだ」信玄が短く言った。「しかし明智殿が自分で気づくまで、待っていた」
幸村が静かに言った。
「今回は珍しく、俺たちの意見を素直に聞いた」
「珍しいか」俺は苦笑いした。
「珍しい」幸村が静かに笑った。「大概、一度は強行しようとする」
「今日は全員が反対したからな」俺は言った。「流石に全員に反対されると、聞かざるを得ない」
軍議が終わった後、昌幸が俺のところに来た。「十兵衛様、一つよろしいですか」
「何だ」
「二十四ヶ国の内政を、どこから整えますか。優先順位を決めないと、全部が中途半端になります」
「どこから始めるべきだと思う」
「まず新しく取った国から始めるべきです」昌幸が静かに言った。「美濃、尾張、伊勢、飛騨は取ったばかりで不安定です。この四ヶ国を先に固める。東北は昌幸が担当します。関東は家康殿に任せる。西国は明智殿が直接見る。三つに分けて並行して進める」
「分かった。その方針で頼む」
家康が俺のところに来た。
「関東の内政は私が担います。奉行制度をさらに拡充します」
「頼む、家康」
「一つだけお願いがあります」
「何だ」
「明智殿が関東に顔を出してください。時々でいいですから。民は主君の顔を見たがっています」
「分かった。時々来る」
政宗が来た。「尾張の守りは俺が担う。信長公の旧臣たちとの関係も、俺が整える」
「尾張は複雑だ。信長様の旧臣が多い」
「知っている」政宗が静かに言った。「だからこそ俺が適任だ。信長公に降伏した俺が、信長公の旧臣を説得する方が、説得力がある」
「頼む、政宗」
全員が持ち場を確認して、動き始めた。
信玄が甲斐に戻って、西国の安定を図る。
忠勝が磐城に戻って、東北の守りを固める。
幸村が信濃に戻って、北の守りを担う。
昌幸が東北全体の内政を指揮する。
家康が関東の内政を整える。
政宗が尾張を守る。
安東愛季が海路で各国を繋ぐ。
半蔵が情報網を拡充する。
俺は伊勢の本陣で、一人で地図を見た。
二十四ヶ国が広がっている。
秀吉のマーカーが畿内で光っている。しかし、今日は、そこを見なかった。
代わりに、東北を見た。遠くの北で、東北五ヶ国が静かに輝いている。
「戻りたい」と俺は呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「東北に戻りたい。あの民の顔を見たい」
利三が静かに入ってきた。「十兵衛様、今夜は休んでください」
「眠れるかな」
「信長公との戦いが終わりました。少しは眠れるはずです」と利三が静かに言った。
「そうだな」俺は頷いた。
その夜、俺は珍しく、早く眠れた。夢を見た。東北の雪が、降っていた。白い雪が、音もなく降っていた。
誰かが隣にいた。信玄だった。二人で、雪を見ていた。信玄が静かに言った。
「きれいだ」
俺も言った。
「きれいだ」
目が覚めたとき、伊勢の朝が来ていた。
窓から光が差し込んでいた。
俺は深呼吸をした。
「まだ終わっていない」と俺は言った。「しかし、今日は、少しだけ前に進んだ」
GAMEの〔マップ〕と〔データ〕を開いた。
【明智軍 支配領域 二十四ヶ国】
【現在兵力 三万九千】
【秀吉 畿内 兵力六万八千】
差はある。しかし、秀吉は畿内で手こずっている。
時間がある。使える時間が、ある。
俺は書類を開いた。二十四ヶ国の内政計画を、一から書き始めた。
優先順位を決めながら。着実に積み上げながら。焦らず、しかし止まらず。
東北の民が、待っている。信玄との雪の約束が、待っている。
秀吉との最後の戦いが、待っている。
全部、待っている。だから俺は、今日も動き続ける。




